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2009年3月22日 (日)

田野大輔『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』

田野大輔『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年)

 現代史を振り返ってみたとき、ナチスの存在感は独特だ。ホロコーストのような第三帝国という政治体制が引き起こした残酷な禍々しさに戦慄しつつも、むしろそうであればこそ、この帝国の過剰なまでの演出に我々の眼差しがひきつけられる強烈な印象は否定できない。なぜあれだけ広範な大衆を巻き込むことができたのか、本書はその“魅力”のメカニズムを解明しようとする。“魅力”と表現することには抵抗を感じるかもしれない。無論、ナチスの政治体制は否定されるべきものだが、その“美学”を低俗なものとして一方的な断罪をするだけでは客観的な評価は望めないというスタンスを著者はとっている。斬新な視点でとても面白い研究書だと思う。

 ナチスは恐怖政治だけでドイツを支配したのではない。リベラルな個人主義による混沌を克服しようという志向性をナチスは持っており、普遍的な美の基準をもとに、近代を特徴付ける技術的進歩という手段によって、民族共同体の“美しい”秩序を作り出そうと目論んでいた。そこに大衆自身の欲望が動員されることになる。支配の手段として“美”的なものを利用したというのではなく、国民も巻き込んで政治と芸術の一体化した“国家芸術”を目指していたのだと本書は指摘する。

 “美”の基準とは? ローゼンベルクのようなイデオローグはゲルマン民族にこだわるフェルキッシュな反近代への志向性があったが、ヒトラーやゲッベルスはそれを軽視し、むしろナショナルな近代への志向性があったという。ヒトラーは古典期ギリシアを超歴史的なシンボルとして具体的な“美”の基準とみなした。それは帝国の力強さのシンボルであって、そこに向けて動員される技術信仰と矛盾するものではなかった。技術=近代性という点で、簡素な機能美を重視するバウハウスの美意識とナチズムのそれとは共通しているという指摘が興味深い。国民車(フォルクスワーゲン)や国民受信機(ラジオ)の大量生産は国民の画一化を促し、歓喜力行団での娯楽は労働者であっても同じ楽しみを得られるという点で社会的平等の感覚を植えつけた。ヒトラーは(ムッソリーニとは異なり)いかにも独裁者らしい傲慢な態度はとらず、むしろ謙虚さを演出し、メディアを通して国民との距離感を解消、ヒトラーを通して大衆の自己意識を映し出させた。つまり、ヒトラーという“祭祀”を媒介として、大衆一人ひとりが“民族共同体”の幻想に一体化させていく情緒的基盤をつくりあげたのである。

 ナチスの時代、ドイツ国民の消費生活水準はそれなりに豊かだった。ヒトラーを模したキッチュな小物が出回ったというのが面白い。ヒトラー人気にあやかって商品化する人がいたわけだ。そのキッチュさは権威を損なうものだとナチスは神経をとがらせたが、動機は好意だから対応に困っていたようだ。歓喜力行団もただの享楽に堕して政治性は失われた。そうした市民の脱政治化傾向もナチスは国民統合の手段として容認していた。

 ナチス時代の建築については井上章一『夢と魅惑の全体主義』(文春新書、2006年)でも取り上げられていた。最近読んだナチスものでは、飯田道子『ナチスと映画』(中公新書、2008年)がナチスのプロパガンダ映画と戦後におけるナチス=“悪役”イメージの両方をテーマとして取り上げていて興味深く読んだ。

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