ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学』
ロジェ・カイヨワ(内藤莞爾訳)『聖なるものの社会学』(ちくま学芸文庫、2000年)から気になった箇所を抜書き。
「戦争は、すぐれて聖の本質的な性格を帯びている。…それは、いわゆる批判的精神といったものを麻痺させてしまう。戦争は恐ろしいものだが、また印象的でもある。人はこれを呪うけれども、またたたえることも忘れない。」「聖は魅了と畏怖との根源だと見られている。戦争もそれが魅了的・畏怖的な存在として示されるかぎり、聖なるものとして受けとられる。」(129~131ページ)
「戦争はこれまで、宣告された暴力、命令された暴力、あるいは賞揚された暴力として、人類の基本的な本能に満足を与えてきた。もっともこうした本能に対して、文明は少なからず、─危なっかしいやり方ではあったが─その規制に努力してきた。それから戦争は、それが組織的な破壊だという点で、社会的な生産過剰に対して、一時的ではあるけれども、手取り早いまた抜本的な解決策をもたらすことになった。ところで戦争は、これが周期的に生起する。そしてその間、個人も社会も、まるで自分が完成したかのような気持になる。つまり真理への到達と人間存在の絶頂への接近、こうした喜びにひたることができる。となると、戦争が機械化された社会で果たしている機能も、そう特異なものではない。祭が未開社会で果たしているそれと同じである。事実、戦争は、人間を祭のときと同じような熱狂へと誘っていく。戦争はこんにちの世界が生んだ《聖》である。そして以上は、その唯一の表示ということができる。戦争はおびただしい生産手段と資源とが生んだ、こんにち的な《聖》である。」(222~223ページ)
「戦争と祭とは、どちらも動揺と喧騒、そして大いなる会合の時期である。そしてその間、貯蓄経済は濫費経済によって代わられる。そこでは交易や生産によって蓄積され、営々として手に入れられたものが、惜気もなく消費され、破壊される。それから近代戦と原始的な祭礼とは、どちらも激しい情動の期間だといえる。そこでは暗い静かな日々の単調さが破られて、あかるく騒々しい危機がもたらされる。集合的な偏執観念が、個人や家庭への関心にとって代わる。だから個人の独立は、一時ストップされて、一人ひとりは組織化し、一体化した多数者のうちに没する。またそこでは、肉体的・感情的、さては知的な自律性さえ消えてなくなる。個人はもう、おのれに頼ることができない。既存のあらゆる差別も、新しい位階によって霧消する。慣れた労働技術、私生活の細々した義務、日常生活の規則的なリズム、それらが厳格で熱狂的な世界によって代わられる。つまり横溢と規律、苦悩と喜悦、規則と放埓という奇妙な組合わせから成る世界によって代わられる。そこでは断食や儀式の粛静さ、あらゆる禁止が喧騒と叫喚と並んで存在する。そしてもっと大きな、もっとひどい蹂躙をおこなうために、もっと細心な組織化がくわだてられる。秩序と打算とが、死の危険と破壊の陶酔とに結びついてくる。(246~247ページ)
「…戦争は、国家にとってひとつの熱狂となり、ひとつの絶対となっている。平和がなんだろうと、それは大したことではない。平和が戦争を犠牲にすることはない。平和は戦争を準備し、戦争を懸念するだけのものにすぎない。」(263~264ページ)
消費経済における貯蓄の濫費としての戦争→言語を絶した破壊の陶酔→善悪という次元を超えた“聖”なるもの。カイヨワのお仲間だったジョルジュ・バタイユも、『呪われた部分』などでこうした視点から、余剰→蕩尽を地球規模で把握する“普遍経済学”なる議論を展開していた。バタイユは、原爆投下も“蕩尽”の具体化だと平気で言ってのけてしまう…。そうしたインモラルでありつつも不思議な説得力を持ってしまうところに異様な魅力を感じてしまうのだが。
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