悲劇のアルメニア人音楽家、コミタス
Rita Soulahian Kuyumjian, Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Icon, Gomidas Institute, 2001
詳細は省くが、江文也と伊福部昭の二人への関心からアレクサンドル・チェレプニンという音楽家のことを調べ始め、Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer(Indiana University Press, 2008)という本を取り寄せた(読んでいる途中でほったらかしのままだが)。青年期のチェレプニンがグルジアのティフリスで過ごしていた時期の記述にほんの数ヶ所だがコミタス(Komitas)という名前を初めて見かけた。気になって調べてみると、アルメニア近代音楽の確立者と位置付けられているらしい。1915年のオスマン帝国によるアルメニア人ジェノサイドの生き残りだということが目を引いた。
コミタスの曲をいくつか聴いてみた(iTune Storeがあると国内で入手できない曲も聴けるから本当に便利だ)。Hommage à Komitasにはアルメニア語とドイツ語の歌曲が集められており、ソプラノ独唱。軽やかで明るい。気軽に聴きやすい。Divine Liturgyはおそらく教会音楽なのだろう。男声合唱のポリフォニックな響きは力強く荘厳、同時に明朗なのびやかさもある。これはなかなか良い。
本書Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Iconの著者の専門は精神医学である。「狂気の考古学」なんて穏やかでないタイトルだが、①コミタスはジェノサイドで精神に変調を来してしまった、②彼の音楽とアルメニア文化の探究には孤児としての生い立ちによる“父性”“母性”への渇求が動機として働いていたのではないか、以上の問題意識を持ちながらコミタスの生涯をたどっていくという内容である。なお、版元名にあるGomidasとはKomitasのフランス語表記らしい。
コミタスは1869年9月26日、アナトリア西部のキュターヒャ(Kütahya)という町のアルメニア人家庭に生まれた。もともとの名前はソゴモン・ソゴモニアン(Soghomon Soghomonian)という。生後6ヶ月で母は亡くなり、父もアルコール中毒となって早くに死ぬ。孤児となった彼だが音楽的才能、とりわけ美しい歌声は人々の耳を引付け、アルメニアの聖地エチミアジン(Echmiadzin)の神学校に入る。アルメニア正教の大主教(カトリコス:Catholicos)ケヴォルク四世(Kevork Ⅳ)は彼の才能を認め、コミタスもカトリコスを父のように慕ったが、間もなく死んでしまった。
教会には世俗とは違った名前を与える慣習があり、音楽家としても知られた7世紀のカトリコス、コミタス・アガイェツィ(Komitas Aghayetsi)にちなんで彼はコミタス・ヴァルタベッド(Vartabedとは司祭のこと)と呼ばれた。彼の母語はトルコ語でアルメニア語はあまり上手でなく、神学校入学当初は深刻に悩んだらしい。孤児としての出自からアルメニア教会に“家庭”を求め、さらには教会に代表されるアルメニア文化に自らをアイデンティファイする気持ちを強く持った。教会で音楽に取り組みながら、アルメニア音楽にはトルコ・ペルシア・ロシアなど周辺文化の影響が強いことを意識した。純粋な“アルメニアらしさ”を求めて教会音楽ばかりでなく労働歌や婚礼歌などの民謡採集にも努め(バルトークたちと同時代であることに当時の時代的雰囲気も感じられる)、それを踏まえて作曲活動にも取り組む。
コミタスは合唱団を組織し、音楽教育者として後進の指導にあたった。しかし、彼のつくった恋愛歌や教会の外で演奏したことなど、さらには嫉妬もあって、教会内の保守派から風当たりが強くなった。ケヴォルク四世のような庇護者はもういない。同時に、音楽技法をきちんと学びたいという思いも強く、コミタスはエチミアジンを離れてドイツに留学する。パリのアルメニア人歌手マーガレット・ババイアン(Margaret Babaian)と親密な関係になったが、聖職者として一線を越えないよう距離は取ったらしい。コミタスの音楽はヨーロッパでも高く評価されたが、残念ながら職は得られなかった。また、アルメニアで音楽学校をつくりたいという夢もあったが、アルメニア教会内保守派からの風当たりには居心地の悪さも感じていた。そのため、アルメニア人人口の多いグルジアのティフリスやオスマン帝国のコンスタンティノープルに行って教育、演奏、作曲を行なう。
第一次世界大戦が勃発。1915年4月、タラート内相の命令でコンスタンティノープル在住の指導的アルメニア知識人200人以上が一斉検挙された。政治活動の有無は関係なく、中には「統一と進歩委員会」へ資金援助していた人物すら含まれていた(1908年の青年トルコ革命で彼らは民族の平等も掲げたため、アルメニア人にも支持者がいた)。コミタスも例外ではなく、アナトリア中部のチャンキリ(Chankiri)へ移送される。自分たちに待ち受ける運命に怯えきった人をコミタスは「何かの間違いだ」となだめていたという。ところが、ある事件がおこる。移送の途中、歩きつかれてバケツに汲んだ水をがぶ飲みしていたとき、粗暴なトルコ兵からそのバケツを取り上げられ、水を浴びせられた。些細な事件だが、そのトルコ兵の態度を目の当たりにした瞬間、彼は顔面蒼白となって凍りついてしまったという。彼自身は虐殺現場を直接目撃したわけではないが、感受性の鋭敏な人だから、どんなことが進行中なのか、何かにハッと気付いてしまったようだ。平衡を保っていた精神が完全に崩れてしまった。周囲のすべてを恐怖と疑惑の眼差しでしか見られなくなった。これ以降、彼の表情や振舞いがおかしくなる。
チャンキリへ送られたアルメニア人291人のうち40人だけが生き残った。コミタスも奇跡的にその中に含まれていた。彼の知人がメジド皇子(Prince Mejid→ひょっとして、大戦後にオスマン帝国最後のスルタンとなり、教養人として知られたアブデュル・メジド二世のことか?)を通して嘆願したり、アメリカのヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)大使の働きかけもあったためだと言われている。だが、“死のキャンプ”から生き残っても、精神に変調を来したコミタスはもはや音楽活動などできなくなっていた。現在の用語で言うとPTSDだったと著者は指摘する。彼は知人の尽力でコンスタンティノープルの病院の精神科に入院した。
この病院で彼はトルコ人、アルメニア人、ギリシア人と三人の主治医にかかった。トルコ人医師はコンスタンティノープルでも第一の権威ある名医だったが、そのトルコ人であるという一点だけでコミタスはもはや猜疑心しか持てなくなっていた。共に生き残った友人のアルメニア人医師なら良さそうだが、共感度が強すぎて互いに感情面での抑制がきかず、かえって難しかったらしい。ギリシア人医師は、アルメニア人と同様にオスマン帝国から抑圧されていたが、ただし虐殺されたわけではない。そのため、コミタスに同情しつつ、同時に客観的に距離を置いて対することができたため、彼とはうまくコミュニケーションがとれていたという。だが、そのギリシア人医師も病気で離任してしまう。
コミタスの状況を案じた友人たちが彼をパリの病院に入れようと申し入れたが、彼はもうどこへも行きたくないと拒否した。そこで彼らは音楽協会がコミタスを招聘しているとウソをついてパリへと連れ出した。しかし、ウソだと知ったコミタスはプライドを傷つけられ、ますます感情的に孤立していく。1935年10月20日、パリで逝去。翌年、遺体はアルメニアのエレヴァンへ送られた。彼の苦しむ姿は、アルメニア人ジェノサイドの象徴とみなされたという。
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