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2009年3月24日 (火)

エルンスト・ユンガー『追悼の政治』

エルンスト・ユンガー(川合全弘編訳)『追悼の政治』(月曜社、2005年)

 エルンスト・ユンガー(1895~1998年)は第一次世界大戦に志願兵として従軍、あまりにも多くの人々が命を落とすのを目の当たりにした。その実体験による、彼らの死を無駄にしてはいけないという思いがユンガーのナショナリズム思想を形作ったのだという。第一次世界大戦の戦死者へ捧げられた追悼文集『忘れられぬ人々』(1928年)のまえがきとあとがき、政治評論的なエッセー「総力戦」(1930年)、第二次世界大戦末期に書かれた「平和」(1944年)、以上が“追悼”というテーマで一冊にまとめられている。

 編訳者は橋川文三を念頭に置きながらこの本をまとめたそうだが、私は読みながら吉田満『戦艦大和ノ最期』を思い浮かべた。大和の絶望的な特攻、自分たちの死は無駄死にじゃないかという激論が沸き起こり、自分たちは将来のための捨て石になるという趣旨の臼淵大尉の発言が収拾をつける。そうした光景を目の当たりにして生き残り、戦後、やむにやまれぬ思いで手記に書き上げた吉田満。

 絶望的な不条理の中で耐え難いつらさがあったろうにもかかわらず、それでも自分の持分を守って死んでいった人々。理念的には反戦平和主義を標榜する人であっても、彼らのように不条理な死を受け容れていった人々のことを軽んずることはできないだろう。彼らの死のおかげでいまここに生きている自分たちは、では果たして彼らの払った犠牲に見合うだけの生き方をしているのか? 彼らの犠牲への緊張感をはらんだ想起が、常に自分たちのありようを厳しく戒めていく。そうした意味で時間を超えて切り離せない一体感。それをナショナリズムと言いたいところだが、あまりにも手垢がつきすぎた表現なので使いたくない。この次元において右とか左とかいう皮相な政治論は全く問題にならない。やむをえざる悲痛なひたむきさを「国のため、民族のため」というスローガンに貶めて、胡散臭いルサンチマンを正当化する隠れ蓑として利用してしまうのは間違っている。ユンガーは民族的な保守革命論者と目されつつもナチスとは一線を画し、1944年のヒトラー暗殺未遂事件では関与を疑われて軍から免官されている。ナチズムのはらむ精神的に不純ないびつさを嗅ぎ取っていたのだろう。

 第二次大戦末期に書かれた「平和」は兵士たちの間で秘かに読まれたという。そこには戦後のヨーロッパ連合における民族共存の構想なども記されている。他方で、彼は戦争を全否定しているわけでもなく、戦争における純粋な献身を称揚している。生命保存の動機から平和を求めるというのではなく、戦争も平和もその総体を通してある種の精神性が発露されていく(彼はドイツ精神という言い方をする)ところに人間性を見ており、むしろニヒリズム批判に主眼が置かれている。

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