『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(引用は多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』[岩波現代文庫、2000年]所収の野村修訳)から気になった箇所だけ適当に抜書き。
・芸術作品は一回限りの存在→「オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、その真正性の概念を形成する。そして他方、それが真正であるということにもとづいて、それを現在まで同一のものとして伝えてきたとする、伝統の概念が成り立っている。真正性の全領域は複製技術を─のみならず、むろん複製の可能性そのものを─排除している。」…「ある事物の真正性は、その事物において根源から伝えられうるものの総体であって、それが物質的に存続していること、それが歴史の証人となっていることなどを含む。歴史の証人となっていることは、物質的に存続していることに依拠しているから、この存続という根拠が奪われている複製にあっては、歴史の証人となる能力もあやふやになる。たとえ、あやふやになるのがこの能力だけだとしても、でもこうして揺らぐものこそ、事物の権威、事物に伝えられている重みにほかならない。」「この権威、事物に伝えられた重みを、アウラという概念に総括して、複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは作品のアウラである、ということができる。」「複製技術は複製されたものを、伝統の領域から切り離してしまうのである。」(139~141ページ)
・「いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。」「一回性と耐久性が、絵画や彫刻において密接に絡まり合っているとすれば、複製においては、一時性と反復性が同様に絡まり合っている。対象からその蔽いを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることは、「世界における平等への感覚」を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、この知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを剥ぎ取るのだ。このようにして視覚の領域で起こってきていることは、理論の領域で統計の意義がしだいに顕著になってきていることに、ひとしい。」(144~145ページ)
・「芸術作品の技術的な複製が可能になったことが、世界史上で初めて芸術作品を、儀式への寄生から解放することになる」。「しかし、芸術生産における真正性の尺度がこうして無力になれば、その瞬間に、芸術の社会的機能は総体的に変革される。儀式を根拠とする代わりに、芸術は別の実践を、つまり政治を、根拠とするようになる。」(147ページ)
・「政治の耽美主義をめざすあらゆる努力は、一点において頂点に達する。この一点が戦争である。戦争が、そして戦争だけが、在来の所有関係を保存しつつ、最大規模の大衆運動にひとつの目標を与えることができる。政治の側面からはそうまとめられる。技術の側面からは、つぎのようにまとめられよう。戦争だけが所有関係を維持しながら、現在の技術手段の総体を動員することができる、と。」(185ページ)
・「人類の自己疎外は、自身の絶滅を美的な享楽として体験できるほどにまでなっている。ファシズムの推進する政治の耽美主義は、そういうところにまで来ているのだ。コミュニズムはこれにたいして、芸術の政治化をもって答えるだろう。」(187~188ページ)
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