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2009年3月28日 (土)

ピーター・J・カッツェンスタイン『日本の安全保障再考』

Peter J. Katzenstein, Rethinking Japanese Security: Internal and External Dimensions, Routledge, 2008

 日本の安全保障を中心テーマにまとめられた論文集である。タイトルのrethinkingには、日本の安全保障について独自の視点を示すというだけでなく、国際関係論における分析アプローチのあり方そのものを考え直そうという問題意識も込められている。

 暴力の行使に抑制的な態度を取る日本の安全保障政策は、パワー・バランスで考える国際関係的ロジックとは必ずしも整合的ではなく、従ってリアリズムでは説明のつかない部分が残る。著者は『文化と国防──戦後日本の警察と軍隊』(有賀誠訳、日本経済評論社、2007年→こちらを参照のこと)で、日本の“平和国家”という集団的アイデンティティー(自己イメージと言った方が分かりやすいか)が内政面で一定の規範意識を形成しており、これが対外政策決定における抑制要因の一つとなっていることを示した。この分析において、平和主義という価値観の是非は問題にならない。そうした集団的アイデンティティーや規範意識が現実に作用しているという社会的事実そのものに着目し、それはなぜなのかという問いも分析の視野に入れていく。このような立場をコンストラクティヴィズム(構成主義)という。リアリズムもリベラリズムも国家を一つのまとまりある行動単位とみなしがちだが、これに対して国家の内部的な抑制要因も合わせて議論を進めようというスタンスは本書のInternal and External Dimensionsというサブタイトルに示されている。

 リアリズムやリベラリズムは行動主体を単純化して前提とすることで洗練された一般理論を構築できる。本書はそのことにも一定の意義を認めつつも、アプローチ本位(つまり、理論枠組みの中に分析対象をはめ込む視点)ではなく個別の問題意識本位の迫り方が必要だと強調する。とりわけ方法論について体系的な説明を試みる第10章では、リアリズム、リベラリズム、コンストラクティヴィズムの三つを頂点とするトライアングルを示し、ケースに応じてこれらの組み合わせが有効であることを指摘する。そうした立場を分析的折衷主義(analytical eclecticism)という。もちろん、場当たり的でちぐはぐな議論に堕してしまうおそれもあるが、それでも異なるアプローチ相互の対話を通して分析対象そのものへの理解に奥行きを持たせられる点で有益だと主張する。

 テロ対策というテーマで日本とドイツの比較を試みた第7章Coping with terrorism: norms and internal security in Germany and Japanや第9章Same war─different views: Germany, Japan, and counterterrorismといった論文に興味を持った。ドイツの警察はハイテク化されて機動力が高い(それを法的にバックアップできるよう基本法は頻繁に改正されている)のに対し、日本の警察は一般社会とのインフォーマルな協調関係を保つところに特徴があるという。日本の世論は強硬手段に否定的→地道な活動で日本赤軍をジワジワと追い詰めた→海外へ追い出す→日本赤軍が海外で何をしようと知ったこっちゃない。また、対外的安全保障の面でドイツ軍はNATOに組み込まれているのに対し、周辺国と安全保障上の協力関係のない日本は日米同盟に依存している。国内的安全保障ではドイツはホッブズ的、日本はグロチウス的(国内社会における信頼関係を前提としている点で)であり、対外的安全保障ではドイツはグロチウス的、日本はホッブズ的(周辺諸国から孤立している状況の中で対米同盟を戦略的に選択している点で)だと整理される。分析視角の点で、ホッブズ的というのはリアリズムに適合的であり、グロチウス的というのはリベラリズムに適合的だと言えよう。

 なぜ東アジア共同の安全保障的協力関係がないのか? 第8章Why is there no NATO in Asia? Collective identity, regionalism, and the origin of multilateralismによると、まず西欧におけるNATO成立にはアメリカのイニシアチブが大きかった。半世紀前の時点でのアメリカは西欧には親近感があって積極的にコミットする(=集団的安全保障の枠組み)用意があったのに対し、東アジアに対しては価値観レベルでの違和感→共同の枠組みを作ってその中にアメリカが直接関与するなんて発想すらなかった→個別にアメリカ優位の同盟関係を並立させるという形をとった。つまり、アメリカ自身のアイデンティティー意識(自分たち=西欧)が政策決定上の相違をもたらしたのだと指摘される。

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