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2009年3月

2009年3月31日 (火)

『アンネの日記』

 『アンネの日記 増補新訂版』(深町眞理子訳、文春文庫、2003年)。父オットー・フランクの配慮で削除されていた箇所が追加され、かつてちょっとした話題になったが、今さらながら手に取った。小川洋子『アンネ・フランクの記憶』(角川書店1995年)もあわせて読む。アンネゆかりの場所や人々を訪ねて回った紀行文だ。アンネを匿っていた一人であるミープ・ヒース(深町眞理子訳)『思い出のアンネ・フランク』(文藝春秋、1987年)は貴重な回想録だが、私がこれを読んだのは高校生のときだった。

 アンネ、隠れ家、ノックの音。三題噺のようで恐縮だが、イメージ的にそんな連想が働く。小学生の頃、アンネの隠れ家を復元した模型の写真を何かの本で見た。その頃は、彼女の置かれた絶望的な深刻さを理解していなかったので、忍者屋敷みたいですごい!と単純な興味を持った覚えがある(特に、入口の回転本棚)。ほぼ同じ頃だろうか、海外のテレビドラマを見て、ゲシュタポがドアをドンドンドンと乱暴に叩く不吉な音がいつまでも耳に残った。本当に怖い音だと思った。隠れ家の人々が、呼び鈴やノックの音に過剰に敏感になっていた様子は『アンネの日記』にうかがえる。

 共同生活者の苛立った姿についてアンネの辛辣な筆致は時に意地悪だけど、たとえば削除されていた性の目覚めの記述なども合わせて読むと、彼女の意地悪な視線もひっくるめて奔放な好奇心の表われとしてほほえましい。閉ざされた隠れ家の中で怯えながら暮らす日々、心を自由に飛翔できるのはキティーに語りかける日記帳の中だけ。『アンネの日記』が世界で広く読まれているのは、かわいそうな女の子の話という単純なレベルでないことはもちろんだ。息苦しさに身もだえする孤独で繊細な感受性が、彼女のつづる言葉にいつの時代でも重ねあわされている。そうした感受性の一人、たとえば小川洋子さんが、かつてはアンネと同い年だったのがいつの間にか当時のミープさんの歳になり、アンネのお母さんの歳になり、としみじみ感じながら、年齢に応じてアンネをみつめる眼差しが変わってくるというのが面白い。

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2009年3月30日 (月)

「チェコのキュビズム建築とデザイン 1911─1925 ホホル、ゴチャール、ヤナーク」展

「チェコのキュビズム建築とデザイン 1911─1925 ホホル、ゴチャール、ヤナーク」展

 キュビズムが建築に応用されたのは、世界でも唯一、プラハを中心とした地域だったらしい。ホホル、ゴチャール、ヤナークという三人の若手建築家たちが主導した。第一次世界大戦・チェコスロバキア独立などを挟む1910~20年代、ほんの十数年ばかりの間に花開いたチェコ・キュビズム建築の展覧会(写真は鈴木豊)。

 鋭角的な斜線や結晶形によって幾何学的なフォルムを強調した建築スタイル。変にゴテゴテしたところはなく、簡素な力強さは古びても風格を感じさせる。古い石造建築の多いプラハの街並に溶け込んでおり、中世の教会が背後にそびえているのを意識した建物もあった。写真で撮ると光と影のコントラストがよく映える。展示場で流されている映像資料を見ていたら、一瞬だけど、窓ガラスの光の反射が鋭角的なフォルムとうまくマッチしてなかなか格好良かった。キュビズム建築は光線を意識すると印象深いと思う。

 室内に置かれる家具類もキュビズム的に斜線や三角を強調したデザインを施されている。外装も内装もこんなのばかりだと、ピカソの絵の人物のようにカクカクした感じになってしまいそう、というのは偏見か。発展型として、円形を連続させたロンド・キュビズムとか、チェコスロバキア独立後の高揚したナショナリズムを反映して神話や民族的モチーフを取り入れたものもあった。

(東京・京橋、INAXギャラリー、5月23日まで)

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2009年3月29日 (日)

ピーター・ブロック『戦争報道 メディアの大罪──ユーゴ内戦でジャーナリストは何をしなかったのか』

ピーター・ブロック(田辺希久子訳)『戦争報道 メディアの大罪──ユーゴ内戦でジャーナリストは何をしなかったのか』(ダイヤモンド社、2009年)

 ユーゴ内戦が激化し始めた頃、モスレム人難民のうちひしがれた姿を報道写真で見かけ、セルビア強硬派への芳しからぬ印象を私も持っていた覚えがある。たとえば、多数の死傷者を出したサラエボの市場での爆発事件。ところが、これはボスニア政府の自作自演だった可能性が高く(死傷者にはセルビア人も含まれていたし、そもそもセルビア勢力は協定により撤退しつつあり、砲撃は物理的に無理だった)、そのことは現地の関係者や専門家は気付いていた。しかし、メディアはセルビア勢力の仕業だと断定、国際世論の動向を大きく決めてしまった。その後も、セルビア人側が被害を受けた事件の扱いは極度に小さく、セルビア人犠牲者の写真にモスレム人とキャプションをつけるなどの誤報も相次いだ。本書はそうした一連の偏向報道を一つ一つ具体的に検証する。著者自身、バルカン半島の取材を長年続けてきたが、偏向報道のあり方に異議を唱えたため、マスメディアの主流派からバッシングを受けたという。

 犠牲者はすべてモスレム人やクロアチア人、犯人はセルビア人という単純な二分法がジャーナリストたちの頭を占めていて、そうした“正義感あふれる”思い込みが事実関係の歪曲につながっていた。ユーゴ内戦勃発の当初、セルビアのベオグラードは報道対策に消極的だったのに対し、クロアチアのザグレブはプレスリリースに熱心だった。彼らはバルカンの複雑な歴史的・文化的背景を知らなかったため、ザグレブの情報の裏を取ることもなく鵜呑みにして、セルビア=悪というイメージを自ら作ってしまった。これがボスニア内戦まで尾を引き、そのイメージに反する事実は無視するという自己検閲につながってしまった。

 ボスニア政府が腕の良いPR会社に依頼したのに対し、セルビア側は遅れをとったことが国際的イメージで決定的な差をもたらしてしまったことは高木徹『戦争広告代理店』(→こちらを参照のこと)で取り上げられていた。両書とも、メディア・リテラシーを身につける上で貴重な問題提起が示されている。セルビア人、クロアチア人、モスレム人のどれが良い悪いと決め付けることが出来ない複雑さについては、たとえば、佐原徹哉『ボスニア内戦──グローバリゼーションとカオスの民族化』(→こちらを参照のこと)を以前に取り上げたことがある。

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2009年3月28日 (土)

エドウィン・ブラック『IBMとホロコースト──ナチスと手を結んだ大企業』

エドウィン・ブラック(小川京子訳)『IBMとホロコースト──ナチスと手を結んだ大企業』(柏書房、2001年)

 ナチスによるユダヤ人の大量移送・虐殺はなぜあれほど迅速かつ正確に遂行できたのか? 几帳面なドイツ人という印象論では説明がつかない。パンチカード機の導入による組織活動の効率化がホロコーストを支えていた。機械だけでなく、統計学を駆使して人的資源の効率活用を目的とする経営管理技術によってユダヤ人の選別・動員が行われており、そうしたノウハウを提供したのがIBMであった。本書はその詳細を調べ上げたノンフィクションである。被占領地の中でも、このシステムが行き渡ったオランダではユダヤ人の死亡率が75%に達するのに対し、行き渡っていなかったフランスでは25%にとどまるなど具体的な違いが出ている(フランスの場合、政教分離が前提なので、データの基礎となる過去の国勢調査に宗教に関する項目がなかったことも一因のようだ)。“ソリューション・カンパニー”は、文字通りユダヤ人問題の“ファイナル・ソリューション”(最終的解決)に寄与したわけである。

 IBMの倫理的責任はもちろん免れ得ないにしても、非難するだけではあまり意味はない(社長のトーマス・ワトソンはファシズムに傾倒していたとも言われるが)。効率性の最大化を図ることを至上命題とする近代的組織において、組織人は私見を挟まず与えられた職務を粛々と遂行することが求められる(ヴェーバー的に言うと、“鉄の檻”における“精神なき専門人”といったところか)。目的は何であれ、いったんインプットがあれば自動的に動き出す人的システムが出来上がっていた。それを技術的に補完したのがIBMであった。彼らにとって“ビジネス”が至上目的で、自分たちの提供するものがどんな目的に使われるかは関係ない。そうした考え方を持っていた点で“近代”の不可分な要素としての技術至上的風潮が端的に表われていたと言える。ジーグムント・バウマン『近代とホロコースト』(→こちらを参照のこと)は、近代的組織モデルそのもののはらむ問題がホロコーストという極限状態を通して具体化したのだと指摘。本当に恐ろしいのは殺戮の事実ではなく、このような近代的組織モデルが必要とされている限り(実際、これは不可欠なのだ)、それは別の国でも今の時代でも起こり得ることだと言う。

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ピーター・J・カッツェンスタイン『日本の安全保障再考』

Peter J. Katzenstein, Rethinking Japanese Security: Internal and External Dimensions, Routledge, 2008

 日本の安全保障を中心テーマにまとめられた論文集である。タイトルのrethinkingには、日本の安全保障について独自の視点を示すというだけでなく、国際関係論における分析アプローチのあり方そのものを考え直そうという問題意識も込められている。

 暴力の行使に抑制的な態度を取る日本の安全保障政策は、パワー・バランスで考える国際関係的ロジックとは必ずしも整合的ではなく、従ってリアリズムでは説明のつかない部分が残る。著者は『文化と国防──戦後日本の警察と軍隊』(有賀誠訳、日本経済評論社、2007年→こちらを参照のこと)で、日本の“平和国家”という集団的アイデンティティー(自己イメージと言った方が分かりやすいか)が内政面で一定の規範意識を形成しており、これが対外政策決定における抑制要因の一つとなっていることを示した。この分析において、平和主義という価値観の是非は問題にならない。そうした集団的アイデンティティーや規範意識が現実に作用しているという社会的事実そのものに着目し、それはなぜなのかという問いも分析の視野に入れていく。このような立場をコンストラクティヴィズム(構成主義)という。リアリズムもリベラリズムも国家を一つのまとまりある行動単位とみなしがちだが、これに対して国家の内部的な抑制要因も合わせて議論を進めようというスタンスは本書のInternal and External Dimensionsというサブタイトルに示されている。

 リアリズムやリベラリズムは行動主体を単純化して前提とすることで洗練された一般理論を構築できる。本書はそのことにも一定の意義を認めつつも、アプローチ本位(つまり、理論枠組みの中に分析対象をはめ込む視点)ではなく個別の問題意識本位の迫り方が必要だと強調する。とりわけ方法論について体系的な説明を試みる第10章では、リアリズム、リベラリズム、コンストラクティヴィズムの三つを頂点とするトライアングルを示し、ケースに応じてこれらの組み合わせが有効であることを指摘する。そうした立場を分析的折衷主義(analytical eclecticism)という。もちろん、場当たり的でちぐはぐな議論に堕してしまうおそれもあるが、それでも異なるアプローチ相互の対話を通して分析対象そのものへの理解に奥行きを持たせられる点で有益だと主張する。

 テロ対策というテーマで日本とドイツの比較を試みた第7章Coping with terrorism: norms and internal security in Germany and Japanや第9章Same war─different views: Germany, Japan, and counterterrorismといった論文に興味を持った。ドイツの警察はハイテク化されて機動力が高い(それを法的にバックアップできるよう基本法は頻繁に改正されている)のに対し、日本の警察は一般社会とのインフォーマルな協調関係を保つところに特徴があるという。日本の世論は強硬手段に否定的→地道な活動で日本赤軍をジワジワと追い詰めた→海外へ追い出す→日本赤軍が海外で何をしようと知ったこっちゃない。また、対外的安全保障の面でドイツ軍はNATOに組み込まれているのに対し、周辺国と安全保障上の協力関係のない日本は日米同盟に依存している。国内的安全保障ではドイツはホッブズ的、日本はグロチウス的(国内社会における信頼関係を前提としている点で)であり、対外的安全保障ではドイツはグロチウス的、日本はホッブズ的(周辺諸国から孤立している状況の中で対米同盟を戦略的に選択している点で)だと整理される。分析視角の点で、ホッブズ的というのはリアリズムに適合的であり、グロチウス的というのはリベラリズムに適合的だと言えよう。

 なぜ東アジア共同の安全保障的協力関係がないのか? 第8章Why is there no NATO in Asia? Collective identity, regionalism, and the origin of multilateralismによると、まず西欧におけるNATO成立にはアメリカのイニシアチブが大きかった。半世紀前の時点でのアメリカは西欧には親近感があって積極的にコミットする(=集団的安全保障の枠組み)用意があったのに対し、東アジアに対しては価値観レベルでの違和感→共同の枠組みを作ってその中にアメリカが直接関与するなんて発想すらなかった→個別にアメリカ優位の同盟関係を並立させるという形をとった。つまり、アメリカ自身のアイデンティティー意識(自分たち=西欧)が政策決定上の相違をもたらしたのだと指摘される。

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2009年3月27日 (金)

I・ブルマ&A・マルガリート『反西洋思想』

I・ブルマ&A・マルガリート(横田江理訳)『反西洋思想』(新潮新書、2006年)

 オクシデンタリズムとは、西洋=非人間的な他者(物質主義、エゴイズム、享楽的etc.とネガティヴなイメージが付与される)とみなし、それへの憎悪が攻撃的政治性と結び付いた思想形態を指す。“東”の側の内面において、“西”的なものと“東”的なものとが葛藤を起こしたときに芽生える。日本における“近代の超克”や特攻隊、ナチズムの源流としてのドイツ・ロマン主義、ロシアのスラブ主義、イスラム過激主義など、話題は幅広く網羅される。個々の論点について雑に思われるところもあるかもしれないが、オクシデンタリズムという一つの軸によって大きな枠組みで整理された比較思想的な試論として興味深いと思う。

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ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学』

 ロジェ・カイヨワ(内藤莞爾訳)『聖なるものの社会学』(ちくま学芸文庫、2000年)から気になった箇所を抜書き。

「戦争は、すぐれて聖の本質的な性格を帯びている。…それは、いわゆる批判的精神といったものを麻痺させてしまう。戦争は恐ろしいものだが、また印象的でもある。人はこれを呪うけれども、またたたえることも忘れない。」「聖は魅了と畏怖との根源だと見られている。戦争もそれが魅了的・畏怖的な存在として示されるかぎり、聖なるものとして受けとられる。」(129~131ページ)

「戦争はこれまで、宣告された暴力、命令された暴力、あるいは賞揚された暴力として、人類の基本的な本能に満足を与えてきた。もっともこうした本能に対して、文明は少なからず、─危なっかしいやり方ではあったが─その規制に努力してきた。それから戦争は、それが組織的な破壊だという点で、社会的な生産過剰に対して、一時的ではあるけれども、手取り早いまた抜本的な解決策をもたらすことになった。ところで戦争は、これが周期的に生起する。そしてその間、個人も社会も、まるで自分が完成したかのような気持になる。つまり真理への到達と人間存在の絶頂への接近、こうした喜びにひたることができる。となると、戦争が機械化された社会で果たしている機能も、そう特異なものではない。祭が未開社会で果たしているそれと同じである。事実、戦争は、人間を祭のときと同じような熱狂へと誘っていく。戦争はこんにちの世界が生んだ《聖》である。そして以上は、その唯一の表示ということができる。戦争はおびただしい生産手段と資源とが生んだ、こんにち的な《聖》である。」(222~223ページ)

「戦争と祭とは、どちらも動揺と喧騒、そして大いなる会合の時期である。そしてその間、貯蓄経済は濫費経済によって代わられる。そこでは交易や生産によって蓄積され、営々として手に入れられたものが、惜気もなく消費され、破壊される。それから近代戦と原始的な祭礼とは、どちらも激しい情動の期間だといえる。そこでは暗い静かな日々の単調さが破られて、あかるく騒々しい危機がもたらされる。集合的な偏執観念が、個人や家庭への関心にとって代わる。だから個人の独立は、一時ストップされて、一人ひとりは組織化し、一体化した多数者のうちに没する。またそこでは、肉体的・感情的、さては知的な自律性さえ消えてなくなる。個人はもう、おのれに頼ることができない。既存のあらゆる差別も、新しい位階によって霧消する。慣れた労働技術、私生活の細々した義務、日常生活の規則的なリズム、それらが厳格で熱狂的な世界によって代わられる。つまり横溢と規律、苦悩と喜悦、規則と放埓という奇妙な組合わせから成る世界によって代わられる。そこでは断食や儀式の粛静さ、あらゆる禁止が喧騒と叫喚と並んで存在する。そしてもっと大きな、もっとひどい蹂躙をおこなうために、もっと細心な組織化がくわだてられる。秩序と打算とが、死の危険と破壊の陶酔とに結びついてくる。(246~247ページ)

「…戦争は、国家にとってひとつの熱狂となり、ひとつの絶対となっている。平和がなんだろうと、それは大したことではない。平和が戦争を犠牲にすることはない。平和は戦争を準備し、戦争を懸念するだけのものにすぎない。」(263~264ページ)

 消費経済における貯蓄の濫費としての戦争→言語を絶した破壊の陶酔→善悪という次元を超えた“聖”なるもの。カイヨワのお仲間だったジョルジュ・バタイユも、『呪われた部分』などでこうした視点から、余剰→蕩尽を地球規模で把握する“普遍経済学”なる議論を展開していた。バタイユは、原爆投下も“蕩尽”の具体化だと平気で言ってのけてしまう…。そうしたインモラルでありつつも不思議な説得力を持ってしまうところに異様な魅力を感じてしまうのだが。

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2009年3月25日 (水)

フラント・ディンクのこと

 2007年1月19日、イスタンブール。トルコのアルメニア人ジャーナリスト、フラント・ディンク(Hrant Dink、1955~2007)が17歳の民族主義的な青年によって射殺された。アルメニアとトルコの関係を考える上でディンクの存在を無視することはできないが、遠い国のことなので日本で入手できる文献が乏しい。とりあえず入手できた小冊子Freedom of the Media in Turkey and the Killing of Hrant Dink(London: Kurdish Human Rights Projects, 2007 September)とwikipediaの記事(困ったときのwiki頼み…)を参照。

 ディンクはアルメニア人とトルコ人の相互理解を深めるためにアルメニア語・トルコ語併記の新聞アゴス(Agos)を創刊。世界中の離散アルメニア人、アルメニア共和国、トルコ国内のアルメニア人ばかりでなく、トルコ市民をもその対象に考えていた。彼は、トルコ政府がアルメニア人ジェノサイドの事実を認めないことを批判する一方で、海外のアルメニア人のロビー活動の結果としてフランスでアルメニア人ジェノサイド否認を刑罰化したことにも批判的であった。相互理解を伴わない強制力では和解は達成できないということだろう。

 トルコ国内の言論状況として、トルコ人及びトルコ共和国を侮辱する言動は禁固刑に処すと規定された刑法第301条が問題となる。アルメニア人ジェノサイドに関連した政府批判はこの条文によって脅かされる。ディンクは有罪判決を受けたことがあるし、ノーベル文学賞受賞者オルハン・パムクも起訴されたことがある(その後、取り下げられた)。上記Freedom of the Media in Turkey and the Killing of Hrant Dinkは、刑法第301条によってトルコ民族主義感情が極度に高められており、従ってディンク暗殺の原因は刑法第301条にこそ求められると指摘している。

 犯人の青年は出身地である黒海沿岸の都市トラブゾンでアルメニア教会に殴りこみをかけたり、マクドナルドに爆弾を投げ込んだりといった事件を起こして警察に捕まったことがある(ちょうどイラク戦争で反米感情の高まっていた時期)。同様に捕まった若者たちの中に警察の情報提供者になった者がいた。ディンクの遺族や弁護団は、警察はディンク暗殺計画を事前に知っていたはずなのに黙認していたと主張、警察・軍部・情報機関への調査を求めている。

 ディンクの葬儀には10万人ほども参集し、「我々はみなディンクであり、みなアルメニア人だ」とアルメニア語・トルコ語・クルド語で書かれたプラカードを掲げてデモ行進が行なわれた。葬儀にはトルコ政府閣僚も出席したほか(エルドアン首相は別件で欠席)、ギュル外相の招待により国交のないアルメニアからも外務次官が出席した。トルコ国内でディンク暗殺事件を深刻に受け止める世論が高まった一方、ナショナリズムの動きも根強い。「我々はみなディンクであり、みなアルメニア人だ」というプラカードについて極右勢力が反発するのは予想できるにしても、中道左派の野党・共和人民党(CNP。社会主義インターナショナルに加盟。ケマル・アタチュルク創設の世俗主義政党に源流を持つ)もこれには否定的で、刑法第301条についても擁護している。

 トルコの軍部・司法・世俗主義政党には、立国の基礎とされているケマリズム(政教分離の世俗主義、同化主義的国民国家志向、近代志向の三本柱から成る)の担い手としての自負が強い。イスラム主義に立つとされる(従ってかつては欧米からの受けが悪かった)現エルドアン政権の公正発展党よりも、こうした世俗主義勢力の方が強固なナショナリズム・権威主義的傾向という点でむしろ強硬派に転じているという逆転現象はPhilip H. Gordon and Omer Taspinar, Winning Turkey: How America, Europe, and Turkey Can Revive a Fading Partnership(Brookings Institution Press, 2008→こちらで取り上げた)で指摘されていた。

 政治的イデオロギーによる言論・教育の統制(具体的には刑法第301条の問題)→体制を正当化する形で歴史記述→アルメニア人ジェノサイドの事実すら一般のトルコ人は知らない→海外からの批判は不当だという反発によりナショナリズム感情の強化。一人一人の個人としてのトルコ人には悪意はないからこそ、こうした負の連鎖を何とか断ち切るためにディンクは相互理解を深めようと努力していたわけだが、社会に組み込まれたイデオロギーの壁は高い。

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2009年3月24日 (火)

エルンスト・ユンガー『追悼の政治』

エルンスト・ユンガー(川合全弘編訳)『追悼の政治』(月曜社、2005年)

 エルンスト・ユンガー(1895~1998年)は第一次世界大戦に志願兵として従軍、あまりにも多くの人々が命を落とすのを目の当たりにした。その実体験による、彼らの死を無駄にしてはいけないという思いがユンガーのナショナリズム思想を形作ったのだという。第一次世界大戦の戦死者へ捧げられた追悼文集『忘れられぬ人々』(1928年)のまえがきとあとがき、政治評論的なエッセー「総力戦」(1930年)、第二次世界大戦末期に書かれた「平和」(1944年)、以上が“追悼”というテーマで一冊にまとめられている。

 編訳者は橋川文三を念頭に置きながらこの本をまとめたそうだが、私は読みながら吉田満『戦艦大和ノ最期』を思い浮かべた。大和の絶望的な特攻、自分たちの死は無駄死にじゃないかという激論が沸き起こり、自分たちは将来のための捨て石になるという趣旨の臼淵大尉の発言が収拾をつける。そうした光景を目の当たりにして生き残り、戦後、やむにやまれぬ思いで手記に書き上げた吉田満。

 絶望的な不条理の中で耐え難いつらさがあったろうにもかかわらず、それでも自分の持分を守って死んでいった人々。理念的には反戦平和主義を標榜する人であっても、彼らのように不条理な死を受け容れていった人々のことを軽んずることはできないだろう。彼らの死のおかげでいまここに生きている自分たちは、では果たして彼らの払った犠牲に見合うだけの生き方をしているのか? 彼らの犠牲への緊張感をはらんだ想起が、常に自分たちのありようを厳しく戒めていく。そうした意味で時間を超えて切り離せない一体感。それをナショナリズムと言いたいところだが、あまりにも手垢がつきすぎた表現なので使いたくない。この次元において右とか左とかいう皮相な政治論は全く問題にならない。やむをえざる悲痛なひたむきさを「国のため、民族のため」というスローガンに貶めて、胡散臭いルサンチマンを正当化する隠れ蓑として利用してしまうのは間違っている。ユンガーは民族的な保守革命論者と目されつつもナチスとは一線を画し、1944年のヒトラー暗殺未遂事件では関与を疑われて軍から免官されている。ナチズムのはらむ精神的に不純ないびつさを嗅ぎ取っていたのだろう。

 第二次大戦末期に書かれた「平和」は兵士たちの間で秘かに読まれたという。そこには戦後のヨーロッパ連合における民族共存の構想なども記されている。他方で、彼は戦争を全否定しているわけでもなく、戦争における純粋な献身を称揚している。生命保存の動機から平和を求めるというのではなく、戦争も平和もその総体を通してある種の精神性が発露されていく(彼はドイツ精神という言い方をする)ところに人間性を見ており、むしろニヒリズム批判に主眼が置かれている。

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2009年3月22日 (日)

『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』

 ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(引用は多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』[岩波現代文庫、2000年]所収の野村修訳)から気になった箇所だけ適当に抜書き。

・芸術作品は一回限りの存在→「オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、その真正性の概念を形成する。そして他方、それが真正であるということにもとづいて、それを現在まで同一のものとして伝えてきたとする、伝統の概念が成り立っている。真正性の全領域は複製技術を─のみならず、むろん複製の可能性そのものを─排除している。」…「ある事物の真正性は、その事物において根源から伝えられうるものの総体であって、それが物質的に存続していること、それが歴史の証人となっていることなどを含む。歴史の証人となっていることは、物質的に存続していることに依拠しているから、この存続という根拠が奪われている複製にあっては、歴史の証人となる能力もあやふやになる。たとえ、あやふやになるのがこの能力だけだとしても、でもこうして揺らぐものこそ、事物の権威、事物に伝えられている重みにほかならない。」「この権威、事物に伝えられた重みを、アウラという概念に総括して、複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは作品のアウラである、ということができる。」「複製技術は複製されたものを、伝統の領域から切り離してしまうのである。」(139~141ページ)

・「いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。」「一回性と耐久性が、絵画や彫刻において密接に絡まり合っているとすれば、複製においては、一時性と反復性が同様に絡まり合っている。対象からその蔽いを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることは、「世界における平等への感覚」を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、この知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを剥ぎ取るのだ。このようにして視覚の領域で起こってきていることは、理論の領域で統計の意義がしだいに顕著になってきていることに、ひとしい。」(144~145ページ)

・「芸術作品の技術的な複製が可能になったことが、世界史上で初めて芸術作品を、儀式への寄生から解放することになる」。「しかし、芸術生産における真正性の尺度がこうして無力になれば、その瞬間に、芸術の社会的機能は総体的に変革される。儀式を根拠とする代わりに、芸術は別の実践を、つまり政治を、根拠とするようになる。」(147ページ)

・「政治の耽美主義をめざすあらゆる努力は、一点において頂点に達する。この一点が戦争である。戦争が、そして戦争だけが、在来の所有関係を保存しつつ、最大規模の大衆運動にひとつの目標を与えることができる。政治の側面からはそうまとめられる。技術の側面からは、つぎのようにまとめられよう。戦争だけが所有関係を維持しながら、現在の技術手段の総体を動員することができる、と。」(185ページ)

・「人類の自己疎外は、自身の絶滅を美的な享楽として体験できるほどにまでなっている。ファシズムの推進する政治の耽美主義は、そういうところにまで来ているのだ。コミュニズムはこれにたいして、芸術の政治化をもって答えるだろう。」(187~188ページ)

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P・J・カッツェンスタイン『文化と国防──戦後日本の警察と軍隊』

P・J・カッツェンスタイン(有賀誠訳)『文化と国防──戦後日本の警察と軍隊』(日本経済評論社、2007年)

 戦後日本における警察及び軍隊のあり方を考えてみるとき、暴力的手段の行使には極めて抑制的な態度を取ってきたことが一番の特徴として挙げられるだろう。これはなぜなのか? 文化的規範が安全保障政策に及ぼした影響の分析が本書のテーマである。

 リアリズム(パワー・ポリティクス)は、合理的計算に基づいて振舞う国家がパワーの最大化を図ろうとする点を前提として置き、いかにそのバランスをとるかという視座から国際関係を把握する。リベラリズムは、国際関係の中で定式化された一定の規範に従って国家が協調的に振舞う側面に注目する。いずれにしても国家という政治的アクターを単一のまとまりとみなし、その外的環境への態度の取り方から説明しようとしている。

 対して、本書が踏まえているコンストラクティヴィズム(構成主義・構築主義)では、国家というアクターの中から行動を規制している内部的な規範の形成過程が重視される。つまり、国際システムにおける政治力学への適応というよりも、国内における政治的・社会的・文化的な相互作用を通して制度化された規範に基づいて安全保障政策が形成されたという観点から本書は日本政治を分析している。制度化というのはつまり、当たり前のこととして自明視された規範意識が国民の間に共有されることにより、その枠組みの中で政策決定の選択肢がおのずと絞り込まれてくることを指す。

 具体的には、“平和国家”“通商国家”といった自己イメージ(集団的アイデンティティ)。それは良い悪いという価値判断の問題とは次元が異なり、規範として作用している時点で一つの社会的事実となっていることに着目される。歴史的経緯(敗戦、原爆、日米関係など)、調整型の民主主義(多数派の自民党は野党の意向を無視して政策強行はできず、広い意味でのアイデンティティ規範のあったことがわかる)、社会的規範と法的規範との相互作用(たとえば、警察は市民の視線に敏感なこと、憲法第九条の問題)などの面で、国内的に競合する要因のせめぎ合いを通して規範としてのコンセンサスが形成されていた。

 原書は1996年に刊行されており、時代背景として若干古さを感じさせる点もあるが、コンストラクティヴィズムの分析アプローチによる事例研究として興味深い。

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田野大輔『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』

田野大輔『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年)

 現代史を振り返ってみたとき、ナチスの存在感は独特だ。ホロコーストのような第三帝国という政治体制が引き起こした残酷な禍々しさに戦慄しつつも、むしろそうであればこそ、この帝国の過剰なまでの演出に我々の眼差しがひきつけられる強烈な印象は否定できない。なぜあれだけ広範な大衆を巻き込むことができたのか、本書はその“魅力”のメカニズムを解明しようとする。“魅力”と表現することには抵抗を感じるかもしれない。無論、ナチスの政治体制は否定されるべきものだが、その“美学”を低俗なものとして一方的な断罪をするだけでは客観的な評価は望めないというスタンスを著者はとっている。斬新な視点でとても面白い研究書だと思う。

 ナチスは恐怖政治だけでドイツを支配したのではない。リベラルな個人主義による混沌を克服しようという志向性をナチスは持っており、普遍的な美の基準をもとに、近代を特徴付ける技術的進歩という手段によって、民族共同体の“美しい”秩序を作り出そうと目論んでいた。そこに大衆自身の欲望が動員されることになる。支配の手段として“美”的なものを利用したというのではなく、国民も巻き込んで政治と芸術の一体化した“国家芸術”を目指していたのだと本書は指摘する。

 “美”の基準とは? ローゼンベルクのようなイデオローグはゲルマン民族にこだわるフェルキッシュな反近代への志向性があったが、ヒトラーやゲッベルスはそれを軽視し、むしろナショナルな近代への志向性があったという。ヒトラーは古典期ギリシアを超歴史的なシンボルとして具体的な“美”の基準とみなした。それは帝国の力強さのシンボルであって、そこに向けて動員される技術信仰と矛盾するものではなかった。技術=近代性という点で、簡素な機能美を重視するバウハウスの美意識とナチズムのそれとは共通しているという指摘が興味深い。国民車(フォルクスワーゲン)や国民受信機(ラジオ)の大量生産は国民の画一化を促し、歓喜力行団での娯楽は労働者であっても同じ楽しみを得られるという点で社会的平等の感覚を植えつけた。ヒトラーは(ムッソリーニとは異なり)いかにも独裁者らしい傲慢な態度はとらず、むしろ謙虚さを演出し、メディアを通して国民との距離感を解消、ヒトラーを通して大衆の自己意識を映し出させた。つまり、ヒトラーという“祭祀”を媒介として、大衆一人ひとりが“民族共同体”の幻想に一体化させていく情緒的基盤をつくりあげたのである。

 ナチスの時代、ドイツ国民の消費生活水準はそれなりに豊かだった。ヒトラーを模したキッチュな小物が出回ったというのが面白い。ヒトラー人気にあやかって商品化する人がいたわけだ。そのキッチュさは権威を損なうものだとナチスは神経をとがらせたが、動機は好意だから対応に困っていたようだ。歓喜力行団もただの享楽に堕して政治性は失われた。そうした市民の脱政治化傾向もナチスは国民統合の手段として容認していた。

 ナチス時代の建築については井上章一『夢と魅惑の全体主義』(文春新書、2006年)でも取り上げられていた。最近読んだナチスものでは、飯田道子『ナチスと映画』(中公新書、2008年)がナチスのプロパガンダ映画と戦後におけるナチス=“悪役”イメージの両方をテーマとして取り上げていて興味深く読んだ。

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2009年3月21日 (土)

アンドリュー・J・ベイスヴィッチ『パワーの限界:アメリカ例外主義の終焉』

Andrew J. Bacevich, The Limits of Power: The End of American Exceptionalism, Metropolitan Books, 2008

 ブッシュ政権に巣食ったネオコンが乗り出した世界戦略のせいでアメリカは評判を落とし、その後始末はオバマ政権に委ねられている。アメリカの超大国としての自信過剰が対外政策を歪めているという批判が本書の基本ラインをなす。国家的安全保障(national security)という神話は拡大主義を正当化し、少数の“賢者”たち(wise men)に依存した政策決定はイデオロギー的な思い込みをそのまま具現化してしまった。軍事技術が高度化したといっても戦争につきまとうリスクと不確実性はいつの時代であっても不変で、それを統御すべきリーダーシップの質はハイテクの向上度合に見合っていない。

 アメリカの対外的拡張行動を正当化するロジックは9・11に始まったわけではなく、それこそ19世紀のマニフェスト・デスティニーや米西戦争の頃からたびたび表面化している。少数の“賢者”依存の政策決定はブッシュを動かしたネオコンの専売特許ではなく、ケネディ政権の“ベスト・アンド・ブライティスト”の焼き直しとも言える。従って、政権が変わったからと言ってこうしたアメリカの対外的拡張行動の性格が消える保証はないと指摘される。本書はラインホルド・ニーバーをたびたび引用し、虚傲を抑えるにリアリズムを、偽善を抑えるに謙譲の必要を説く。イスラム過激派に対してはブッシュ政権のような予防攻撃論ではなく、封じ込め政策を提言。冷戦期のものとは違い、イスラム世界と適切な関係を結ぶことで過激派の主張が無効であることを浮び上らせるのが目的。そのためにはアメリカの信頼感を高めることが必要だと主張している(その努力には核廃絶も含まれる)。

 著者はボストン大学教授で歴史学・国際関係論が専攻。ウェストポイント(陸軍士官学校)の出身で湾岸戦争後に大佐で退役したらしい。子息はイラク戦争で戦死しており、本書は彼に捧げられている。本書は純粋にアカデミックというよりも政治評論的な性格が強い。悪いことを言っているわけではないにせよ、どこまで有効かは私には分からない。ノーム・チョムスキーのブッシュ批判、アメリカ批判なんかがお好みの方はどうぞ。

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牧野雅彦『ヴェルサイユ条約──マックス・ウェーバーとドイツの講和』

牧野雅彦『ヴェルサイユ条約──マックス・ウェーバーとドイツの講和』(中公新書、2009年)

 ヴェルサイユ条約、ワイマール共和政確立という政治体制変動期にあたってマックス・ウェーバーはどのような態度をとったのか、彼の関わりを中心に政治史的な動向を描き出す。政治行為への責任の取り方について彼が信念・動機の純粋性を優先させる心情倫理と結果の是非を問う責任倫理とに分類していることはよく知られているが(『職業としての政治』を参照のこと)、これに加えて“戦争責任”の問題を取り上げているところに本書の特色がある。

 戦争の勝敗と道義的な正邪とに本来は関連性がないにもかかわらず、“戦争責任”を一方的にドイツに帰するのはおかしいという立場を彼は示した。勝者の自己正当化という問題もあるが、それ以上に「動機のよくない戦争→負けても仕方なかった」という論理で敗戦国ドイツが受け容れてしまうのは、これもまた敗北というありのままの事実から目を背けようとする裏返しの自己正当化に過ぎず、政治の結果責任を取る態度とは言いがたいと彼は考えた。ニーチェ的なルサンチマンの視点を絡めているところが興味深い(日本の戦争責任の問題について同様の趣旨のことを西尾幹二も論じていたな)。

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バーバラ・タックマン『八月の砲声』『決定的瞬間』

 以前、ケビン・コスナー主演「13デイズ」という映画を観たことがあった。キューバ危機におけるホワイトハウスの葛藤を描いているが、強硬アプローチ(力の論理)と融和アプローチの相克が端的に浮び上っていて国際政治学の入門としても面白いのではないかと思っている。軍部の強硬派が「ミュンヘンを忘れたのか!」と声を荒げるのを後に執務室に戻ったケネディが「バーバラ・タックマンの『八月の砲声』を読んだか?」と側近に声をかけるシーンがあった。

 バーバラ・タックマン(山室まりや訳)『八月の砲声』(上下、ちくま学芸文庫、2004年)は1914年8月、第一次世界大戦が始まった前後における関係各国首脳部の動向を中心に描き出したノンフィクションである。ヨーロッパ各国では同盟・敵対関係が複雑に入り組み、ドイツとフランスは互いに万一に備えて(本気ではないにせよ)戦闘計画を用意していた。張り巡らされた網に火をつけたのがサラエボ事件、錯綜した同盟・敵対関係が連鎖的に作動し始める。どの国も当初は短期・局地戦で済ませるつもりだった。しかし、はったりのかまし合い、見通しの誤り、カイゼルの気まぐれ、軍部の官僚的硬直(ヴィルヘルム2世が気まぐれで出した動員令を慌てて取り消そうとしたら、参謀総長(小)モルトケは「一度発令された動員は解除できません」)などなど、誤算の連続。パリとペテルブルクで宣戦の文書を手交するドイツ大使自身が当惑しており、相手国側と慰めあう始末。ベルリンの帝国宰相ベートマン・ホルヴェーグは「どうしてこんなことになってしまったのか、さっぱり分からない…」。青ざめる政治指導層とは裏腹に国民は熱狂している。

 バーバラ・タックマン(町野武訳)『決定的瞬間──暗号が世界を変えた』(ちくま学芸文庫、2008年)は、イギリス情報部によって解読されたドイツ外相ツィンメルマンの電報が結果としてアメリカの参戦を促し、大戦の流れを大きく変えることになった経緯をたどる。当初、アメリカは中立の立場を取っていたが、ドイツは万一アメリカが参戦してきた場合に備えて日本・メキシコと同盟を組んでアメリカに圧迫を加えようと画策していた。その極秘指令電報をイギリスは解読したのだが、解読の事実は極秘という条件でアメリカ側にリーク。ツィンメルマンはそんな電報など存在しないと突っぱねることもできたが、なぜか認めてしまった。アメリカの国内世論は沸騰し、アメリカの参戦が決まる。たった一本の電報でも、その使い方によって大勢を変えてしまうことがあり得る。

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2009年3月20日 (金)

「ワルキューレ」

「ワルキューレ」

 1944年7月、ヒトラー暗殺未遂事件。作戦会議室でカバンに入った小型爆弾が炸裂、しかしヒトラーはかすり傷だけで奇跡的に助かった。計画の立案者であったシュタウフェンベルク大佐を中心に事件前後の動向を描く。テンポのよさに緊張感のあるストーリー展開で、一種のポリティカル・サスペンスとして見ごたえはあると思う。タイトルは、非常時における予備軍動員令“ワルキューレ作戦”に由来する。ヒトラー暗殺と同時にこのオペレーションを発動させてベルリンを制圧する計画だったが、参加者の逡巡からほころびが生じ、失敗。粛清の嵐が吹き荒れる。

 暗殺計画の背景としては、第一に無謀な戦争でドイツが破滅に突き進むのを食い止めようという愛国心があるが、第二に、ドイツ国防軍の高級将校にはプロイセン以来の貴族意識を持つ者が多く、成り上がり者のナチスに対する軽蔑があったことも挙げられる。国防軍と並立する軍事組織としてヒムラー率いるSS(親衛隊)が存在し、ヒムラーは国防軍も自分の影響下に置こうとしていたことへの反感があった。映画の中で、ヒトラーだけでなくヒムラーもターゲットにすべきと執拗な主張があったのは、国防軍が仮に叛旗を翻したとしてもSSに鎮圧されるおそれがあったことと、こうしたヒムラー個人への反感と両方が背景として挙げられる。

 シュタウフェンベルク側、ヒトラー側双方から矛盾した命令が出されても、電信室は「とにかく職務を遂行するのが自分たちの義務だ」と言ってそのまま流すシーンがあった。さり気なく挿入されたシーンだが、第三帝国の特徴を端的に表わしている。上からの命令があれば私的な見解は保留して組織行動に徹するという、社会学的な理念型としての“官僚制”の純粋な具現化(これが大規模に組織化されていたからこそ、ユダヤ人虐殺も職務として粛々と遂行された)。シュタウフェンベルクはこの特徴を逆手にとって“ワルキューレ作戦”を利用しようと目論んだわけだが、それ以上に、生き残ったヒトラーの“カリスマ”があまりにも圧倒的だった。

【データ】
原題:Valkyrie
監督:ブライアン・シンガー
出演:トム・クルーズ、ケネス・ブラナー、テレンス・スタンプ、他
2008年/アメリカ・ドイツ/120分
(2008年3月20日、新宿ピカデリーにて)

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2009年3月18日 (水)

ジョセフ・ナイ『国際紛争』『ソフトパワー』『リーダーパワー』

 ジョセフ・S・ナイ(田中明彦・村田晃嗣訳)『国際紛争 理論と歴史』(第6版、有斐閣、2007年)はハーバード大学の講義に用いられた国際政治史・理論のテキスト。主要な理論枠組みを整理した上で、第一次世界大戦から現在に至るまでの国際紛争を具体例として分析の応用を示してくれる。どの視座をとるかによって事象の捉え方が様々に異なってくるのが実感され、複眼的な思考の訓練としても格好の良書だと思う。

 静態的なパワーポリティクスに立つリアリズムや国際協調の理念性に偏るリベラリズムとは異なり、理念と現実との相互作用の中から政治的事象が形成されてくるプロセスを重視するコンストラクティヴィズム(構成主義)の立場からはソフトパワーという概念が重要となる(“理念”と言っても望ましい結果ばかりでなく、たとえばエスニックなシンボルの動員によって紛争が激化するケースもあるが)。

 ソフトパワーという言葉は上掲『国際紛争』にも散見されるが、ジョセフ・S・ナイ(山岡洋一訳)『ソフトパワー──21世紀国際政治を制する見えざる力』(日本経済新聞社、2004年)はそれを具体的に論じている。他国をいかに動かすか? ハードパワーが軍事・経済力など物理的な影響力の行使、いわば“アメとムチ”によって誘導を図るものであるのに対し、ソフトパワーは他国も含めて共通の政治課題を設定し、そこに向けて他国にも自発的に望ませる形で味方につけていく影響力だと整理できる。文化(→他国をひきつける魅力)、政治的価値観、外交政策(→正当性の確保)といった要素がある。

 たとえばイラク戦争においてアメリカは、テロ・核の抑止、さらにはアメリカの存在感が侮られてはならないという動機から武力行使に踏み切った点でハードパワーを使った。ただし、ネオコンの中東民主化構想にはソフトパワーとしての側面もあった。しかし、武力行使の正当性への疑問からアメリカのソフトパワーは弱められた。単独行動主義はソフトパワーにとってマイナスだという教訓をナイは引き出す。

 ハードパワーであっても、“強国”というイメージそのものが魅力としてソフトパワーに転化することもあり得る。アルカイダの主張は一部の人々にソフトパワーとしての力を持った。日本の場合には、劇的な成長によって経済大国となったこと自体が一つのソフトパワーとなっている。他方、周辺諸国との歴史認識問題は、この論争の具体的な是非は別として、そうしたギャップのあること自体が日本のソフトパワーを弱めている。

 本書の登場によってソフトパワーという言葉が先走っている観もあるが、ハードパワーとソフトパワーはどちらが良い悪いという性格のものではない。状況に応じて組み合わせるべきで、それをナイはスマートパワーと呼ぶ。ソフトパワーの行使において肝要なのは、一定の魅力ある政治課題を設定することにより他国をひきつけることで、それはヴィジョンを提示する側のリーダーシップの問題とつながる。

 ジョセフ・S・ナイ(北沢格訳)『リーダーパワー──21世紀型組織の主導者のために』(日本経済新聞出版社、2008年)はそのリーダーシップ概念を政治という場面において論ずる。一方的な命令ではなく、リーダーとフォロワーとの関係性が重要であることは経営学・組織論の方でよく論じられているが、国際政治の場面においてはフォロワー側の文化的・政治的・社会的状況がリーダーの提示するヴィジョンに見合うかどうかが問題となる。つまり、フォロワー側の状況も見極めながらハード・ソフトを問わずあらゆるリソースを活用しなければならない。その点で、状況を把握する知性、つまりリーダー・フォロワー双方の置かれているコンテクストを読み解く能力がリーダーシップの核心に位置付けられる。

 ナイはオバマ政権の駐日大使に内定している。2007年に超党派でまとめられた対東アジア政策についての提言、いわゆる「アーミテージ=ナイ・レポート」(The U.S.-Japan Alliance: Getting Asia Right through 2020→アーミテージとナイの連名で公表されており、こちらで読める。なお、アーミテージはブッシュ・ジュニア政権のパウエル国務長官の下で国務副長官、ナイはクリントン政権で国防次官補)にざっと目を通した。

 ポイントは、①民主制・市場経済・言論の自由などの価値観を日米は共有しており、かつ日本は今後も経済大国であり続ける→日米同盟を基軸とすべき。②中国は国内的に不安定→共産党は支配正統化のためナショナリズム、またエネルギー問題→対外的な影響力を模索している。だからと言って、日米同盟による中国封じ込めという話ではない。むしろ、中国が暴発しないよう共通の価値基盤の中へと取り込み、中国も含めたトライアングルの関係にもっていく、そうすることで東アジアの安定化を図ろうという点に主眼が置かれている。ナイを駐日大使に起用したということは、中国をソフトパワーによって取り込んでいこうという外交方針をオバマ政権は持っていると言えるのだろうか。

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2009年3月16日 (月)

ジャクリーン・ノヴォグラッツ『青いセーター:つながっている世界で貧富の格差の懸け橋となる』

Jacqueline Novogratz, The Blue Sweater: Bridging the Gap between Rich and Poor in an Interconnected World, Rodale, 2009

 著者は現在、Acumen Fundという非営利の投資ファンドCEOを務めている。もともとチェース・マンハッタン銀行に勤務していたが、海外に出て社会貢献できる仕事をしたいと非営利組織に飛び込み、アフリカに派遣された。現場で奮闘し、その体験を踏まえてAcumen Fundを設立するまでの経緯がつづられる。タイトルの『青いセーター』とは、アメリカで捨てた青いセーターを着ている少年にルワンダの首都・キガリで偶然出くわしたことに由来する。古着が援助として送られていたわけだが、目に見えないところでも世界はつながっていることをほのめかしている。

 アフリカの現場に飛び込んだ当初、彼女の“熱意”が必ずしも現地の人々に受け容れられるわけでもなく、失意の中、家族のもとに帰ることもあった。しかし、めげずに奮闘、ルワンダでマイクロファイナンスの手法を使い、女性中心のパン屋さんを軌道に乗せることに成功する。そのプロセスで、返済の義務を説いたり(未返済者を見逃すと真面目に返済した人は嫌気がさす)、簿記の収支のシステムを納得させたり、約束の遵守、品質管理など経済活動の基礎中の基礎から取り組んでいくところが興味深い。何よりも、男性優位の伝統的社会の中で、自前の経済的基盤をつくることで女性たち自身が尊厳を回復していく。

 アフリカでの経験を踏まえてマネジメントの手法をMBAで習得しようとアメリカに戻っていた1994年4月、彼女はルワンダからのニュースに青ざめた。あの忌まわしい大虐殺──。その後、ルワンダに戻った彼女はかつてパン屋さんだった建物を訪れたが、そこには見知らぬ人が暮らしていた。生き残った何人かに会って話を聞く。あの時の仲間たちのうち、ある者は殺され、あるいは家族を失い、そして、ある者は殺す側にまわっていた…。

 しかし、ルワンダの復興とともに、生き残った女性たちは再び活動を始める。ジャクリーヌと仲間たちのまいた種は無駄にはなっていなかった。彼女はアメリカに戻ってAcumen Fundを設立。こちらはマイクロファイナンスとは異なり、インフラ整備のための大規模事業にも積極的に投資を行なっていく。その具体的活動も紹介される。

 貧困国への一方的な援助が、現地の状況を無視して非効率・無意味であるばかりでなく、腐敗の温床となるなどかえって状況を混乱・悪化させてしまっているという問題意識はたとえばジェフリー・サックス(鈴木主税・野中裕子訳)『貧困の終焉──2025年までに世界を変える』(早川書房、2006年→こちらで触れた)、ポール・コリアー(中谷和男訳)『最底辺の10億人』(日経BP社、2008年→こちらで触れた)などで示されている。援助に依存させるのではなく、その国の経済的自立を促す。そのために市場経済を適切に確立させることが基本ラインとなる。彼らの議論はマクロ視点だが、それでは、現場ではどんな取り組みがなされているのか、それを具体的に知りたいという人に本書はおすすめできる。

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2009年3月15日 (日)

ムハマド・ユヌス『貧困のない世界を創る──ソーシャル・ビジネスと新しい資本主義』、他

ムハマド・ユヌス(猪熊弘子訳)『貧困のない世界を創る──ソーシャル・ビジネスと新しい資本主義』(早川書房、2008年)

 マイクロクレジットという金融システムを考案・実践した功績によってバングラデシュのグラミン銀行及びその創設者ムハマド・ユヌスは2006年度ノーベル平和賞を受賞した。マイクロクレジットとは貧しい人々が貧困から抜け出し経済的に自立できるよう、無担保、ただし5人ほどでグループをつくって連帯責任をとってもらう形式で行なう小規模融資のこと。融資対象には女性が多い。男性は浪費してしまうのに対し、女性は家事・子供の養育などに気を使わねばならないのできちんと活用するからだ。援助とは異なり返済は当然ながら義務付けられる(貸倒率は低い)。返すという前提があるからこそ自尊心をもって自分の仕事に取り組む動機となっている。

 こうしたマイクロクレジットも含め、ユヌスはソーシャル・ビジネスという考え方を提唱する。資本主義という社会構造は前提で、投資→費用・収益→利潤という企業運営形態は変わらない。ただし、従来型の企業観が利潤の最大化を動機とするのに対し、ソーシャル・ビジネスはその利潤の部分が社会的貢献に置き換えられる。コストは回収せねばならないが、だからこそ援助とは違って自律的な活動ができる。

 自分の手で何かを作り上げたい欲求、自分の成果を承認してもらいたい欲求、自分が何らかの役割を果たしているという自尊心、そうした広い意味での“表現”欲求が人間には本来的にある。だから、創意工夫に努力して他者とは違った自分らしさを出そうとする。そうした“表現”欲求が経済活動という形でうまく制度化されているところに資本主義の長所がある、そのように私は考えている。金銭的評価というのはそうした数ある“表現”欲求の中のあくまでも一部であって、すべてではない。社会的貢献というのも企業活動の動機として十分あり得ると思う。それはいわゆる慈善活動とは異なる。貧しい人であってもその人なりにもって生まれたものがあり、それがうまく活用されていくよう促していく、そのきっかけづくりとしてマイクロクレジットの役割を見出そうとしているユヌスの考え方に私は共鳴できる。

 『ムハマド・ユヌス自伝』(早川書房、1998年)も手もとにあったはずなのだが、行方不明。蔵書をちゃんと整理しなきゃなあ…。

 坪井ひろみ『グラミン銀行を知っていますか──貧困女性の開発と自立支援』(東洋経済新報社、2006年)はグラミン銀行の仕組みについて具体例を通して解説してくれる。平易で読みやすい。

 日本でも社会的格差、雇用問題が深刻になっている中、こうしたマイクロクレジットの考え方が応用できないのか? 菅正広『マイクロファイナンスのすすめ──貧困・格差を変えるビジネスモデル』(東洋経済新報社、2008年)はそうした問題意識を念頭に置きながらマイクロファイナンスの仕組みを解説、日本で活用する際に考えるべき論点を整理してくれる。

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片倉佳史『台湾に生きている「日本」』

片倉佳史『台湾に生きている「日本」』(祥伝社新書、2009年)

 ふとしたきっかけから台湾に行くことが習慣化している。理由は三つ。第一に、私の祖父母がかつて台湾で暮らしていたという個人的事情からの親近感。第二に、台湾の消費生活水準は日本に近接しており(韓国も同様)、映画・音楽・文学などで日本も含めて東アジア圏共通の文化的感性があり得そうなことへの興味(だから中国語は苦手なくせに書店にも積極的に足を運んだ)。

 第三。こんな小さな島国なのに原住民族も含めて多様な民族構成、しかも清→日本→中華民国と支配者が目まぐるしく変わる中でアイデンティティも複雑に錯綜している。そうした歴史的な複雑さそのものに私は関心がある。そこに植民地支配という形で日本も一役買っていることはやはり気になる。ただし、視点はあくまでも台湾人自身にとってどんな意味を持ったのかというところに置くべきで、親日/反日という安易で無粋な(日本人視点の)政治論を絡めるのは好きじゃない。

 本書『台湾に生きている「日本」』は、田舎まで足を運び、古老から話を聞き取りながら、台湾に見える「日本」の痕跡を丁寧に掘り起こし、記録している。巻末にある「台湾の言葉となった日本語」も眺めているだけで台湾史の様々な背景が見えてきて興味深い。片倉佳史『台湾 日本統治時代の歴史遺産を歩く』(戎光祥出版、2004年)、同『観光コースでない台湾──歩いて見る歴史と風土』(高文研、2005年)は私が台湾を歩く際に格好のガイドブックとしてお世話になったし、氏のホームページ「台湾特捜百貨店」も時折のぞかせてもらっている。この2冊及びホームページに掲載されている写真も見ながら読むとおもしろいだろう。

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2009年3月10日 (火)

悲劇のアルメニア人音楽家、コミタス

Rita Soulahian Kuyumjian, Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Icon, Gomidas Institute, 2001

 詳細は省くが、江文也と伊福部昭の二人への関心からアレクサンドル・チェレプニンという音楽家のことを調べ始め、Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer(Indiana University Press, 2008)という本を取り寄せた(読んでいる途中でほったらかしのままだが)。青年期のチェレプニンがグルジアのティフリスで過ごしていた時期の記述にほんの数ヶ所だがコミタス(Komitas)という名前を初めて見かけた。気になって調べてみると、アルメニア近代音楽の確立者と位置付けられているらしい。1915年のオスマン帝国によるアルメニア人ジェノサイドの生き残りだということが目を引いた。

 コミタスの曲をいくつか聴いてみた(iTune Storeがあると国内で入手できない曲も聴けるから本当に便利だ)。Hommage à Komitasにはアルメニア語とドイツ語の歌曲が集められており、ソプラノ独唱。軽やかで明るい。気軽に聴きやすい。Divine Liturgyはおそらく教会音楽なのだろう。男声合唱のポリフォニックな響きは力強く荘厳、同時に明朗なのびやかさもある。これはなかなか良い。

 本書Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Iconの著者の専門は精神医学である。「狂気の考古学」なんて穏やかでないタイトルだが、①コミタスはジェノサイドで精神に変調を来してしまった、②彼の音楽とアルメニア文化の探究には孤児としての生い立ちによる“父性”“母性”への渇求が動機として働いていたのではないか、以上の問題意識を持ちながらコミタスの生涯をたどっていくという内容である。なお、版元名にあるGomidasとはKomitasのフランス語表記らしい。

 コミタスは1869年9月26日、アナトリア西部のキュターヒャ(Kütahya)という町のアルメニア人家庭に生まれた。もともとの名前はソゴモン・ソゴモニアン(Soghomon Soghomonian)という。生後6ヶ月で母は亡くなり、父もアルコール中毒となって早くに死ぬ。孤児となった彼だが音楽的才能、とりわけ美しい歌声は人々の耳を引付け、アルメニアの聖地エチミアジン(Echmiadzin)の神学校に入る。アルメニア正教の大主教(カトリコス:Catholicos)ケヴォルク四世(Kevork Ⅳ)は彼の才能を認め、コミタスもカトリコスを父のように慕ったが、間もなく死んでしまった。

 教会には世俗とは違った名前を与える慣習があり、音楽家としても知られた7世紀のカトリコス、コミタス・アガイェツィ(Komitas Aghayetsi)にちなんで彼はコミタス・ヴァルタベッド(Vartabedとは司祭のこと)と呼ばれた。彼の母語はトルコ語でアルメニア語はあまり上手でなく、神学校入学当初は深刻に悩んだらしい。孤児としての出自からアルメニア教会に“家庭”を求め、さらには教会に代表されるアルメニア文化に自らをアイデンティファイする気持ちを強く持った。教会で音楽に取り組みながら、アルメニア音楽にはトルコ・ペルシア・ロシアなど周辺文化の影響が強いことを意識した。純粋な“アルメニアらしさ”を求めて教会音楽ばかりでなく労働歌や婚礼歌などの民謡採集にも努め(バルトークたちと同時代であることに当時の時代的雰囲気も感じられる)、それを踏まえて作曲活動にも取り組む。

 コミタスは合唱団を組織し、音楽教育者として後進の指導にあたった。しかし、彼のつくった恋愛歌や教会の外で演奏したことなど、さらには嫉妬もあって、教会内の保守派から風当たりが強くなった。ケヴォルク四世のような庇護者はもういない。同時に、音楽技法をきちんと学びたいという思いも強く、コミタスはエチミアジンを離れてドイツに留学する。パリのアルメニア人歌手マーガレット・ババイアン(Margaret Babaian)と親密な関係になったが、聖職者として一線を越えないよう距離は取ったらしい。コミタスの音楽はヨーロッパでも高く評価されたが、残念ながら職は得られなかった。また、アルメニアで音楽学校をつくりたいという夢もあったが、アルメニア教会内保守派からの風当たりには居心地の悪さも感じていた。そのため、アルメニア人人口の多いグルジアのティフリスやオスマン帝国のコンスタンティノープルに行って教育、演奏、作曲を行なう。

 第一次世界大戦が勃発。1915年4月、タラート内相の命令でコンスタンティノープル在住の指導的アルメニア知識人200人以上が一斉検挙された。政治活動の有無は関係なく、中には「統一と進歩委員会」へ資金援助していた人物すら含まれていた(1908年の青年トルコ革命で彼らは民族の平等も掲げたため、アルメニア人にも支持者がいた)。コミタスも例外ではなく、アナトリア中部のチャンキリ(Chankiri)へ移送される。自分たちに待ち受ける運命に怯えきった人をコミタスは「何かの間違いだ」となだめていたという。ところが、ある事件がおこる。移送の途中、歩きつかれてバケツに汲んだ水をがぶ飲みしていたとき、粗暴なトルコ兵からそのバケツを取り上げられ、水を浴びせられた。些細な事件だが、そのトルコ兵の態度を目の当たりにした瞬間、彼は顔面蒼白となって凍りついてしまったという。彼自身は虐殺現場を直接目撃したわけではないが、感受性の鋭敏な人だから、どんなことが進行中なのか、何かにハッと気付いてしまったようだ。平衡を保っていた精神が完全に崩れてしまった。周囲のすべてを恐怖と疑惑の眼差しでしか見られなくなった。これ以降、彼の表情や振舞いがおかしくなる。

 チャンキリへ送られたアルメニア人291人のうち40人だけが生き残った。コミタスも奇跡的にその中に含まれていた。彼の知人がメジド皇子(Prince Mejid→ひょっとして、大戦後にオスマン帝国最後のスルタンとなり、教養人として知られたアブデュル・メジド二世のことか?)を通して嘆願したり、アメリカのヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)大使の働きかけもあったためだと言われている。だが、“死のキャンプ”から生き残っても、精神に変調を来したコミタスはもはや音楽活動などできなくなっていた。現在の用語で言うとPTSDだったと著者は指摘する。彼は知人の尽力でコンスタンティノープルの病院の精神科に入院した。

 この病院で彼はトルコ人、アルメニア人、ギリシア人と三人の主治医にかかった。トルコ人医師はコンスタンティノープルでも第一の権威ある名医だったが、そのトルコ人であるという一点だけでコミタスはもはや猜疑心しか持てなくなっていた。共に生き残った友人のアルメニア人医師なら良さそうだが、共感度が強すぎて互いに感情面での抑制がきかず、かえって難しかったらしい。ギリシア人医師は、アルメニア人と同様にオスマン帝国から抑圧されていたが、ただし虐殺されたわけではない。そのため、コミタスに同情しつつ、同時に客観的に距離を置いて対することができたため、彼とはうまくコミュニケーションがとれていたという。だが、そのギリシア人医師も病気で離任してしまう。

 コミタスの状況を案じた友人たちが彼をパリの病院に入れようと申し入れたが、彼はもうどこへも行きたくないと拒否した。そこで彼らは音楽協会がコミタスを招聘しているとウソをついてパリへと連れ出した。しかし、ウソだと知ったコミタスはプライドを傷つけられ、ますます感情的に孤立していく。1935年10月20日、パリで逝去。翌年、遺体はアルメニアのエレヴァンへ送られた。彼の苦しむ姿は、アルメニア人ジェノサイドの象徴とみなされたという。

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2009年3月 9日 (月)

亀山郁夫『大審問官スターリン』

亀山郁夫『大審問官スターリン』(小学館、2006年)

 私はハチャトゥリヤンのバレエ組曲「スパルタクス」の叙情性と激しさとを併せ持った素直なメロディーが結構好きなのだが、このバレエ、史実とは異なってスパルタクスは最終的に勝利する。“正義は勝つ!”みたいな勧善懲悪の単細胞思考、だから社会主義リアリズムなんてのはクソなんだと軽蔑するだけで私は済ませていた。

 ところが、本書の指摘で目からウロコが落ちた(103―104ページ)。「要するに、社会主義の勝利というヴィジョンのもとで現実を描き出さなくてはならないというのである。」夢想された未来を基準として現在を作り変えるという考え方で、それは“なせばなる”的な精神主義にもつながるし、歴史の改竄も平気で正当化される。もちろん、リアルな現実世界において社会主義が勝利するとは限らない(それどころか大失敗)。ここには根本的な矛盾への自己欺瞞があるが、「その意味で、社会主義リアリズムの信奉者は、リアリストであるよりも、むしろ、未来を予見する幻視者のメンタリティの持ち主であったといえる。」超歴史的な未来のユートピア、それは一体どんなものか? 「端的にいうなら、スターリンが描く未来の夢をどれくらい共有できるか、それこそが、すべての価値基準になったということである。」まさにスターリンの“大審問官”たる所以である。

「自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪拝のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。」(ドストエフスキー[原卓也訳]『カラマーゾフの兄弟』上、新潮文庫、1978年、488-489ページ。本来なら亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版から引くべきなのでしょうが、あいにく手もとにないもので)

 絶対全能なる権力者と、それに比べればけし粒のような文学者・芸術家たち。その非対称的な関係の中で翻弄された群像を本書は描き出していく。芸術家たちにはもちろん身の安全を図るという具体的な問題もあったが、そればかりでなく、スターリンによって体現された(と思われた)ロシアの全体性へ積極的に同一化しようというモメントが働いていたケースも見られる。スターリンはそうした“すり寄り”をもサディスティックに容赦なくたたきつぶしていくのだが、それでも人々はスターリンにすがりつこうとする。異様な光景である。

 また、スターリンには“オフラナ・ファイル”に記された帝政秘密警察への協力という忌まわしい過去が露見することへの恐怖による屈折もあった。こうした辺りも含め、人間心理の不可思議な機微と政治とが絡まり合った凄惨なるドラマとして興味深く読んだ。

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E・ラジンスキー『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯』、I・ドイッチャー『スターリン 政治的伝記』

 ヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵攻した折、スターリンはヒトラーの行動が予見できず(それどころか独ソ戦の可能性についての進言をすべて無視していた)無防備だった。自身の全能性に国民が疑問を持つことを彼は常に恐れていた。大戦中、アレクセイ・トルストイの戯曲『イワン雷帝』をびっしり書き込みしながら読んだ形跡があるという。試練に持ちこたえること、そして国家をまとめ上げるために“恐怖”を使うこと。スターリンの政治経歴を洗い始めると、彼の一挙手一投足ことごとくに粛清の影が透けて見えてくる。

 エドワード・ラジンスキー(工藤精一郎訳)『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯』(上下、NHK出版、1996年)は公文書館の史料をふんだんに駆使してスターリンの公私にわたって血にまみれた生涯をたどっていく。ラジンスキーは歴史家であると同時に劇作家でもあり、史料引用も織り込んだたくみな語り口によってスターリンの行動を、とりわけ絶え間なく続く粛清劇を再現していく。亀山郁夫『大審問官スターリン』でも本書に典拠を求める記述が随所で見られたから、スターリン研究の一つのスタンダードになっているのだろうか。

 アイザック・ドイッチャー(上原和夫訳)『スターリン 政治的伝記』(新装版、みすず書房、1984年)は、トロツキー伝・レーニン伝と並ぶ三部作の一つ。ドイッチャーはかつてポーランド共産党員だったが、彼自身スターリニズムによってパージされてイギリスに亡命したという経緯があり、そうした体験がソ連の権力構造を解明しようという動機につながっている。スターリンを中心とした政治史が詳密につづられる。努めて客観的(悪く言えば無味乾燥)な筆致で、政治亡命者にありがちなプロパガンダ的要素はない。スターリン存命時から執筆に着手し、史料的制約も当然あったことを考え合わせると当時としてはかなり精度の高い研究だったのだろう。とりあえず興味を持った点を一つだけメモしておくと、グルジアにはもともと“パン・ロシア主義”と言うべきものがなかったのに、なぜスターリンは“大ロシア排外主義”とレーニンから批判されてしまうような態度を取ったのか?→ボルシェヴィズムの中央集権化志向→結果としてロシア愛国主義・膨張主義と同じ行動となった。

 なお、冷戦期、中立的なソ連研究は左翼・反共派の双方から罵倒されていたらしいが、ドイッチャーはE・H・カーのソ連研究を早くから評価していたという。

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2009年3月 8日 (日)

ヴィルヘルム・ハンマースホイは良い!

 「新日曜美術館」でハンマースホイ特集「誰もいない部屋こそ美しい」の再放送をやっていた。昨年開催された彼の展覧会は私も見に行った(→国立西洋美術館「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」展の記事を参照のこと)。あの静謐な透明感は見ているだけで胸がスッとするような心地よさがあって、一目で大好きになった。何となくフェルメールに似ているような感じも受けるが、番組で西洋美術館の方が解説されていたように、人物の表情にせよ絵画中のアイテムにせよフェルメールの絵には物語的な解釈の手掛かりがある一方で、ハンマースホイの絵にはそうした要素が皆無。下手な解釈を拒絶すると言ったらいいのか、空間そのもの、空気そのもの、光そのものをそのまま見る者に投げ渡してくる感じと言ったらいいのか。ただボーっと眺めているだけで心地よい、そういう感じの魅力がある。

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「悲夢」

「悲夢」

 ジン(オダギリ・ジョー)は夢の中で追突事故を起こした。あまりに生々しい夢だったので気になり、現場へ行ってみたところ、事故は本当に起こっていた。ただし、犯人は彼ではく、夢遊症状にかかった女性ラン(イ・ナヨン)。ジンの夢がランの行動によって現実化してしまうという不可思議。

 ジンは恋人に捨てられ、未練が断ち切れず、夢の中で彼女に会おうとする。ランは男を捨て、その男が憎くて憎くてたまらないのに、ジンが見る夢の作用によってその捨てたはずの男と寝てしまう。夢とうつつ、愛情と憎悪が入れ替わり、交錯しながら、二人はそれぞれに、自身の恋人に対する一方通行の想いを思い知らされていく。

 オダギリ・ジョー一人だけが日本語で語り、他はすべて韓国語なのに、みな何の違和感もなく会話が交わされる。同じ光景を見ているようでいて、実は一人ひとりが抱える心象風景は全く別物なのかもしれない、違うものを見てもそこには同じ想いが重ねあわされているのかもしれない、そうしたこの映画のテーマが言語設定からも端的に示されている。『荘子』にある「胡蝶の夢」のエピソードがヒントとなっているそうだ。ラン=胡蝶とほのめかすシーンが時折散見される。

 キム・ギドク映画ではいつものことだが、眠らないよう頭を針でチクチク刺したりと肉感的に痛そうなシーンもある。家屋や寺院など韓国らしさを強調する演出が見られるが、彼の映画が持つ寓話的なストーリー構成そのものには抽象性が高く、あまり特定の国籍は感じさせない。韓国映画という枠組みを外したところで私はキム・ギドクの映画に興味を持っている。

【データ】
監督・脚本:キム・ギドク
出演:オダギリ・ジョー、イ・ヨナン、他
2008年/韓国/93分
(2009年3月7日、新宿武蔵野館にて)

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「少年メリケンサック」

「少年メリケンサック」

 私はパンクなんて全く興味ないし、クドカンのファンというわけでもない。ただひたすら純粋に、宮崎あおいがお目当て。ネット上で「少年メリケンサック」なるバンドの映像をみつけ「これは掘り出し物だ!」と思って連絡を取ったら、すでに25年前に解散、現われたのは汚いおっさんたち。行きがかり上、やむを得ずコンサートツアーに出かける、というコメディー。つまらなくもないけど、冗長で意外とノリが悪い。もっと短く切り詰めてテンポよくした方が良かったんじゃないか。私としては、宮崎あおいの“壊れっぷり”を堪能できたんでそれだけで十分。彼女がパンクの格好をしたポスターを見かけたけど、映画中ではあくまでもマネージャーとしててんてこ舞いしているだけで、あんな扮装はしません、あしからず。

【データ】
監督・脚本:宮藤官九郎
出演:宮崎あおい、佐藤浩市、木村祐一、田口トモロヲ、ユースケ・サンタマリア、他
2009年/125分
(2009年3月7日、新宿バルト9にて)

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2009年3月 6日 (金)

ニコラス・グリフィン『コーカサス:キリスト教とイスラム教の狭間への旅』

Nicholas Griffin, Caucasus: A Journey to the Land between Christianity and Islam, The University of Chicago Press, 2004

 1999年に著者はコーカサスを旅して歩きまわり、そのトラブル続きの旅行記と、19世紀以来のコーカサス近現代史とが交互につづられていき、気軽に読みやすい構成となっている。とりわけ重きを置いて描かれるのがイマーム・シャミール(Imam Shamil, 1797-1871)だ。19世紀半ば頃、ロシアに対する抵抗運動を通してムスリム系の国家が形成されたが、その第三代目イマームとなった人物である。

 ロシア軍による掃討作戦は凄惨を極めたが、他方でシャミール配下の軍勢も負けてはいない。グルジアの名門チャヴチャヴァゼ(Chavchavadze)家の荘園だったツィノンダリ(Tsinondali)を訪れた際には、かつてシャミールの配下がチャヴチャヴァゼ家の女子供を拉致した時の血なまぐさい出来事も描写される(グルジア貴族はロシア側についていた)。コーカサスでは当時も今も誘拐→身代金や政治交渉の条件とすることが普通に行なわれてきた。シャミールの長男ジャマール・アッディーン(Jamal al-Din)はロシア軍の捕虜となっており、その交換交渉にはアルメニア人のロシア軍人イサーク・グラモフ(Issac Gramov)があたり、無事成功。ところが、ジャマールは完全にロシア文化に感化されており、ロシア軍の制服姿で戻ってきたため、シャミールは戸惑ったようだ。ジャマールが後継者となるので、ロシア側とムスリム側との橋渡し役として彼の存在は期待されたが、残念ながら捕虜交換から二年後に病死してしまう。

 やがてイマーム国家は壊滅、シャミールはロシアに投降し、その庇護下で余生を過ごす。アレクサンドル二世やエルモーロフ(コーカサス征服の端緒を開いた人物。ロシアにとっては英雄だが、コーカサスでは悪名高い)とすら顔を合わせている。末の息子はロシア軍に入隊して、たとえばグルジアのグリア地方の農民反乱鎮圧などにも出征したようだ。

 晩年のシャミールはどんな心境だったのだろう? ロシア側の記録では平穏だったとされるが、本書に登場するシャミールの子孫の女性(彼女はグルジア化されている)はそうした見方に異議を唱えていた。シャミールは現在でもコーカサスのムスリムの間では英雄視されており、本書でも、たとえばチェチェンの野戦司令官シャミール・バサーエフ(Shamil Basayev)の姿にも重ねあわされている。

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2009年3月 5日 (木)

スティーヴン・F・ジョーンズ『グルジア色の社会主義:社会民主主義へ向けてのヨーロッパ的路線 1883-1917年』

Stephen F. Jones, Socialism in Georgian Colors: The European Road to Social Democracy, 1883-1917, Harvard University Press, 2005

 19世紀後半から、ロシアもしくはヨーロッパで教育を受けたグルジア人知識人(tergdaleulni)は海外での進歩的思潮を故国に紹介し始める。ロシア帝国による支配、多民族的なコーカサスにおける横の緊張関係という二重の困難がはらまれた条件の下で、いかにグルジア人の民族自決と近代化=社会改革とを両立させながら実現していくのか? こうした問いかけを抱えた彼らの多くは社会主義に敏感に反応した。『グルジア色の社会主義』(Socialism in Georgian Colors)──つまり、グルジア人自身のフィルターを通して咀嚼された“社会主義”が、とりわけ民族問題との取り組みを通して、帝政支配下から1917年のロシア革命(第二次)に至るまでにどのような経過で形成されたのかを本書はたどっていく。

 本書の主役となるのはノエ・ジョルダニア(Noe Zhordania、1869~1953年)である。ティフリスの神学校の出身(なお、スターリンもここの出身。この二人に限らず、グルジア人革命家の多くがこの神学校出身というのが面白い。ジョルダニアの方がスターリンよりも年長だが、奇しくも没年は同じ)。ジョルダニアはジャーナリストとして活躍したが、政府の弾圧によりたびたびヨーロッパへ亡命、西欧思想から大きな影響を受ける(とりわけ、カウツキーなどのオーストリア・マルクス主義)。ロシア社会民主労働党の分裂に際してはメンシェヴィキで指導的立場に立つ(グルジア人がメンシェヴィキ内では一大勢力となるほどの多人数を占め、対してスターリンやオルジョニキーゼのようにボルシェヴィキに行ったのはごく少数)。1905年の第一次ロシア革命のとき故国グルジアでもボルシェヴィキとメンシェヴィキとが競い合い、一時はボルシェヴィキが優勢だったが、急遽帰国したジョルダニアは各政治勢力の調整に奔走して情勢を覆し、メンシェヴィキの主導権を確立した。その後も、政府からの弾圧を受けながらも(ストルイピン反動など)、基本的には合法的議会主義路線をとる(コーカサス総督ヴォロンツォフ=ダシュコフ[Vorontsov-Dashkov]が比較的リベラルな態度をとったことも大きい)。ジョルダニアはメンシェヴィキの指導者ではあったが、グルジア人の間では党派を超えた尊敬を勝ち得ており、1918年にグルジア共和国として独立したときには大統領に選出されている。1921年にグルジアが赤軍によって制圧された後は亡命政府首班。

 グルジアでのみメンシェヴィキ政権が成立した理由として、ジョルダニアの政治的リーダーシップがまず挙げられるが、それ以上に、彼の主張がグルジア人の一般世論にうまく適合していたからだと言える。

 ジョルダニアの目標はヨーロッパ的な社会民主主義であり、大衆的基盤に基づく議会主義、地方分権(→文化的自治)、多元主義(→民族共存)などが特徴として挙げられる。レーニンの少数精鋭的中央集権化志向に対しては民主主義の後退であるとして反対、メンシェヴィキ側に立つ。同時に、ジョルダニアは、①大衆運動の基盤として農民層を重視(この点ではレーニンと共通。グルジアのグリア[Guria]地方では革命的な農村自治が成功したという実例があり、これは農村に基盤を置く民族解放運動の先駆例だと本書は指摘)、②各民族の文化的権利を要求(→さらに、場合によってはブルジョワジーまでも含めて階級多元的なグルジア人のnational partyを目指す)、以上の点ではロシア人メンシェヴィキとも見解は一致していなかった。つまり、メンシェヴィキという看板を掲げつつも、内実は双方どちらとも異なるグルジア独自の社会民主主義だった。

 グルジアの社会民主主義者は社会主義とナショナリズムとは相互補完的だというスタンスをとったが、コーカサスの多民族的状況は楽観を許さない。民族同士の歴史的・宗教的・文化的反目というだけではない。役人・兵士はロシア人、商業はアルメニア人、低層労働はグルジア人という形で階層分化と民族問題とが結びつき、とりわけティフリスの市会ではアルメニア人が多数派(納税額による制限選挙のため)→グルジア人の不満がくすぶっていた。階級闘争+民族問題→大衆動員はやりやすかったが、民族的反目という側面が際立ってしまう。また、オスマン帝国の影がちらつく中、グルジア系ムスリムのアジャリア(Achara)人がロシア軍によって虐殺されたり、トルコ系ムスリムとアルメニア人との抗争も熾烈となっていた。

 ナショナリズムについてジョルダニアたちはどのような考え方をしていたか。①小国だけで独立しても大国にすぐ呑み込まれてしまう→外敵に対するシェルターとしてロシアが必要(具体的にはオスマン帝国が念頭に置かれていた)、②経済的基盤の弱い小国は資本主義の動向に対して脆弱→ブルジョワ支配が容易となる、③たとえ独立したとしても今度は領域内のマイノリティーを抑圧したり隣国との領土紛争を招いたりしてしまう(現実にそうなっている)、こうした認識に基づき、“民主化されたロシア”という枠組みの中で、各民族が平等な立場で分権的自治が保証されるべきだという構想を持っていた。社会主義はこの構想を後押ししてくれるものだと位置付けた。グルジア人としての民族的自尊心を擁護する一方で、政治的ナショナリズムは紛争の種になってしまうと考え、ロシアからの独立にはむしろ反対していた(このあたり、チェコ人の民族自決のためにこそ、ハプスブルク家を紐帯とする連邦を主張していたパラツキーなども想起される)。

 しかしながら、情勢は彼らの思う方向には進まなかった。1917年、ボルシェヴィキの武装蜂起(十月革命)により、首都ペトログラードは大混乱。これはあくまでも一過性の事態だと考え、レーニンの中央集権化志向に対する警戒もあってグルジアは反ボルシェヴィキでまとまった。他方で、帝政派のコルニーロフ将軍率いる反革命軍が跋扈し、南からはオスマン帝国軍の脅威が迫っている(まだ第一次世界大戦中)。こうした事態を受けて、とりあえずペトログラードにおける政治混乱が収まるまでの緊急避難的措置という形でトランスコーカサス連邦共和国が成立した。ところが、各民族の不協和音が表面化してあっという間に瓦解してしまい、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三国が分立(『ロシア領アゼルバイジャン』の記事も参照のこと)。それぞれ1920~21年にかけて赤軍によって個別撃破的に制圧されていくが、それは本書の範囲を超える。

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2009年3月 4日 (水)

E・H・カー『ロシア革命 レーニンからスターリンへ、1917-1929年』

E・H・カー(塩川伸明訳)『ロシア革命 レーニンからスターリンへ、1917-1929年』(岩波現代文庫、2000年)

 ロシア革命について大づかみできる本は何かなかったかな、と本書を思い出して、本棚から引っ張り出し、ざっと目を通した。とりあえず興味を持ってメモした論点を箇条書きすると、
・レーニンの少数精鋭主義(戦闘者集団として不適格者は排除)→レーニンの死後に大量入党→これには反対派の排除も伴い、党と国家を融合させた指揮・監督機構の形成。
・ゴスポラン内部での経済論争→「発生論者」(経済情勢の客観的傾向性に留意、旧メンシェヴィキが多い)と「目的論」(政治的な計画を重視。共産党員が多い)→後者のイニシアチブ→生産合理化のための機械等が乏しいから個々人の肉体労働に依存、一種の精神主義。
・自給自足的な農民の行動は予測不可能→食糧徴発などの計画に狂い。
・マルクス主義者は経済の工業化・近代化に傾倒、軍隊や官僚はロシア民族の権力と威信に傾倒→両者が相俟って、党・政府・行政機構の統制力へ求心力→ここにスターリンの指導力が求められた。
・1922年、死の床にあったレーニンの口述→スターリン、ジェルジンスキー、オルジョニキーゼらはグルジア問題で性急な態度を取ってグルジア人側を硬化させたとして、大ロシア排外主義だと批判(ただし、三人ともロシア人ではないが)。

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2009年3月 2日 (月)

猪木正道『ロシア革命史──社会思想史的研究』

猪木正道『ロシア革命史──社会思想史的研究』(中公文庫、1994年)

 著者の猪木正道は河合栄治郎門下のリベラリスト。日本の敗戦直後、1946年に本書は書き上げられている。当時はロシア革命史について研究しようにも党派的なパンフレットの類いしかなかったという。猪木は、マルクス“思想”のしっかりした読解を踏まえた上で、そうした党派的に平板化されたマルクス“主義”の問題点を内在的に批判していく視点を持っている。

 土着か、それとも西欧化か?という葛藤は現在に至るもロシア思想史を特徴づける基本ラインだと言える。本書によると、レーニンは西欧マルクス主義とは異なるロシア特殊の条件を踏まえ、①工業化以前の段階→農民層重視の革命戦略、②ツァーリズムによる苛烈な弾圧→対するに少数精鋭的戦闘集団の形成(→中央集権化志向→異論者への弾圧)、③民主主義の社会的条件が未成熟→革命独裁の正当化、こうした形で、西欧思想直訳的(ロシア社会民主労働党のメンシェヴィキ、穏健リベラルのカデット)でもなく、土着性依存(ナロードニキ→社会革命党)でもなく、独自の革命戦略をとり得たところにボルシェヴィキのレーニン主義が成功した要因があったと指摘される。本書はレーニンの柔軟な政治感覚を高く評価しつつも、これはあくまでもロシア特殊の事情に基づく政治戦略だったのであり、“マルクス・レーニン主義”と称してそのまま日本に持ち込もうとする傾向に対しては疑問を呈している。

 革命の勃発から一国社会主義の形成に至る政治過程の説明・評価については現在の研究水準からすると色々と問題もあるだろう。ただし、ロシア革命がおこる前史としての思想史的系譜の整理は簡にして要を得ており、この部分はいま読んでも有益だと思う。

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2009年3月 1日 (日)

辻惟雄『岩佐又兵衛──浮世絵をつくった男の謎』『奇想の系譜』『奇想の図譜』

 先日、NHK教育テレビ「新日曜美術館」で岩佐又兵衛の特集をやっていた。「山中常磐物語絵巻」の印象が鮮烈だった。斬り合いのシーンで首がとび、胴がとび、血しぶきがはねる。それに、血をダラダラ流しながら死ぬ間際の常盤御前の恍惚とした表情──。ゲスト出演の辻惟雄さんは「劇画的」という表現を使っていたが、ある種の残虐さにドラマの演出として目を引く力を持たせている。日本画のことは全く知らないので、こういう絵もあるんだと驚いた。

 興味を持ち、辻惟雄『岩佐又兵衛──浮世絵をつくった男の謎』(文春新書、2008年)を手に取った。新書だがカラー図版が豊富で読みやすい。岩佐又兵衛の父親は、信長に叛旗を翻した荒木村重。又兵衛の母も含め一族のほとんどが殺されたにもかかわらず、村重は生きて逃げた。絵師として身を立てた又兵衛にとってこの辺りのことはトラウマになって創作的動機として働いているのだろうか。

 引き続き、辻惟雄『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫、2004年)、『奇想の図譜』(ちくま学芸文庫、2005年)を手に取る。前者では岩佐又兵衛をはじめ、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢藘雪、歌川国芳と、個性的でありすぎたがために近世絵画史の脇にのけられていた画家たちを取り上げている。伊藤若冲は最近人気があるが、私は曾我蕭白の、グロテスクというかユーモラスというか、人を食ったような表情の描き方が面白くて好き。後者は近世日本画を主軸としつつ、それとの絡みで古今東西の絵画を奔放な好奇心にまかせてわたりあるく。対象とする画家たちはみな一癖も二癖もある奴らばかりだが、それに応える辻さんの旺盛な遊び心+豊かな学識が見事に響き合っている。見て、読んで楽しい本。図版がモノクロなので物足りなく感じる人もいるかもしれないが(かと言って、カラー図版にしたら価格設定が難しくなってしまう)、手もとに置いて、折に触れてめくりかえしたい本だ。

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