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2009年3月 5日 (木)

スティーヴン・F・ジョーンズ『グルジア色の社会主義:社会民主主義へ向けてのヨーロッパ的路線 1883-1917年』

Stephen F. Jones, Socialism in Georgian Colors: The European Road to Social Democracy, 1883-1917, Harvard University Press, 2005

 19世紀後半から、ロシアもしくはヨーロッパで教育を受けたグルジア人知識人(tergdaleulni)は海外での進歩的思潮を故国に紹介し始める。ロシア帝国による支配、多民族的なコーカサスにおける横の緊張関係という二重の困難がはらまれた条件の下で、いかにグルジア人の民族自決と近代化=社会改革とを両立させながら実現していくのか? こうした問いかけを抱えた彼らの多くは社会主義に敏感に反応した。『グルジア色の社会主義』(Socialism in Georgian Colors)──つまり、グルジア人自身のフィルターを通して咀嚼された“社会主義”が、とりわけ民族問題との取り組みを通して、帝政支配下から1917年のロシア革命(第二次)に至るまでにどのような経過で形成されたのかを本書はたどっていく。

 本書の主役となるのはノエ・ジョルダニア(Noe Zhordania、1869~1953年)である。ティフリスの神学校の出身(なお、スターリンもここの出身。この二人に限らず、グルジア人革命家の多くがこの神学校出身というのが面白い。ジョルダニアの方がスターリンよりも年長だが、奇しくも没年は同じ)。ジョルダニアはジャーナリストとして活躍したが、政府の弾圧によりたびたびヨーロッパへ亡命、西欧思想から大きな影響を受ける(とりわけ、カウツキーなどのオーストリア・マルクス主義)。ロシア社会民主労働党の分裂に際してはメンシェヴィキで指導的立場に立つ(グルジア人がメンシェヴィキ内では一大勢力となるほどの多人数を占め、対してスターリンやオルジョニキーゼのようにボルシェヴィキに行ったのはごく少数)。1905年の第一次ロシア革命のとき故国グルジアでもボルシェヴィキとメンシェヴィキとが競い合い、一時はボルシェヴィキが優勢だったが、急遽帰国したジョルダニアは各政治勢力の調整に奔走して情勢を覆し、メンシェヴィキの主導権を確立した。その後も、政府からの弾圧を受けながらも(ストルイピン反動など)、基本的には合法的議会主義路線をとる(コーカサス総督ヴォロンツォフ=ダシュコフ[Vorontsov-Dashkov]が比較的リベラルな態度をとったことも大きい)。ジョルダニアはメンシェヴィキの指導者ではあったが、グルジア人の間では党派を超えた尊敬を勝ち得ており、1918年にグルジア共和国として独立したときには大統領に選出されている。1921年にグルジアが赤軍によって制圧された後は亡命政府首班。

 グルジアでのみメンシェヴィキ政権が成立した理由として、ジョルダニアの政治的リーダーシップがまず挙げられるが、それ以上に、彼の主張がグルジア人の一般世論にうまく適合していたからだと言える。

 ジョルダニアの目標はヨーロッパ的な社会民主主義であり、大衆的基盤に基づく議会主義、地方分権(→文化的自治)、多元主義(→民族共存)などが特徴として挙げられる。レーニンの少数精鋭的中央集権化志向に対しては民主主義の後退であるとして反対、メンシェヴィキ側に立つ。同時に、ジョルダニアは、①大衆運動の基盤として農民層を重視(この点ではレーニンと共通。グルジアのグリア[Guria]地方では革命的な農村自治が成功したという実例があり、これは農村に基盤を置く民族解放運動の先駆例だと本書は指摘)、②各民族の文化的権利を要求(→さらに、場合によってはブルジョワジーまでも含めて階級多元的なグルジア人のnational partyを目指す)、以上の点ではロシア人メンシェヴィキとも見解は一致していなかった。つまり、メンシェヴィキという看板を掲げつつも、内実は双方どちらとも異なるグルジア独自の社会民主主義だった。

 グルジアの社会民主主義者は社会主義とナショナリズムとは相互補完的だというスタンスをとったが、コーカサスの多民族的状況は楽観を許さない。民族同士の歴史的・宗教的・文化的反目というだけではない。役人・兵士はロシア人、商業はアルメニア人、低層労働はグルジア人という形で階層分化と民族問題とが結びつき、とりわけティフリスの市会ではアルメニア人が多数派(納税額による制限選挙のため)→グルジア人の不満がくすぶっていた。階級闘争+民族問題→大衆動員はやりやすかったが、民族的反目という側面が際立ってしまう。また、オスマン帝国の影がちらつく中、グルジア系ムスリムのアジャリア(Achara)人がロシア軍によって虐殺されたり、トルコ系ムスリムとアルメニア人との抗争も熾烈となっていた。

 ナショナリズムについてジョルダニアたちはどのような考え方をしていたか。①小国だけで独立しても大国にすぐ呑み込まれてしまう→外敵に対するシェルターとしてロシアが必要(具体的にはオスマン帝国が念頭に置かれていた)、②経済的基盤の弱い小国は資本主義の動向に対して脆弱→ブルジョワ支配が容易となる、③たとえ独立したとしても今度は領域内のマイノリティーを抑圧したり隣国との領土紛争を招いたりしてしまう(現実にそうなっている)、こうした認識に基づき、“民主化されたロシア”という枠組みの中で、各民族が平等な立場で分権的自治が保証されるべきだという構想を持っていた。社会主義はこの構想を後押ししてくれるものだと位置付けた。グルジア人としての民族的自尊心を擁護する一方で、政治的ナショナリズムは紛争の種になってしまうと考え、ロシアからの独立にはむしろ反対していた(このあたり、チェコ人の民族自決のためにこそ、ハプスブルク家を紐帯とする連邦を主張していたパラツキーなども想起される)。

 しかしながら、情勢は彼らの思う方向には進まなかった。1917年、ボルシェヴィキの武装蜂起(十月革命)により、首都ペトログラードは大混乱。これはあくまでも一過性の事態だと考え、レーニンの中央集権化志向に対する警戒もあってグルジアは反ボルシェヴィキでまとまった。他方で、帝政派のコルニーロフ将軍率いる反革命軍が跋扈し、南からはオスマン帝国軍の脅威が迫っている(まだ第一次世界大戦中)。こうした事態を受けて、とりあえずペトログラードにおける政治混乱が収まるまでの緊急避難的措置という形でトランスコーカサス連邦共和国が成立した。ところが、各民族の不協和音が表面化してあっという間に瓦解してしまい、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三国が分立(『ロシア領アゼルバイジャン』の記事も参照のこと)。それぞれ1920~21年にかけて赤軍によって個別撃破的に制圧されていくが、それは本書の範囲を超える。

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