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2009年2月11日 (水)

グルジアの音楽のこと

 「世界民族音楽大集成70 グルジアの歌」というCDを図書館から借り出して聴いている。男声のアカペラ合唱が多い。複雑な旋律がポリフォニックに幾重にもかさなっているところなど洗練された印象を受け、結構聴きこんでしまう。収録されているのは、労働歌:宗教歌=1:2くらいの割合。宗教歌というのはもちろんキリスト教の聖歌だが、中には「リレ」というキリスト教以前の太陽崇拝の讃歌もある。労働歌も宗教歌も(そして“異教”の歌も)曲調の違いはあまり感じられず、世俗も宗教生活も混然一体となっていたかのようにも思われる。二見淑子『民族の魂 グルジア、ウクライナの歌』(近代文藝社、1995年)はグルジア音楽の比較分析を進めた結果、聖歌にはグルジア土着の民謡の影響が濃厚で、キリスト教受容の当初からグルジア化の傾向があったと指摘している。

 グルジアは後337年にキリスト教を国教化した。アルメニアに次ぐ古さで、テオドシウス帝によるローマ帝国での国教化(380年)よりも古い。グルジアでも当初はビザンツ式典礼が行なわれていたが、6~7世紀頃からグルジア語による典礼・聖歌が広まり始め、9世紀までには完全にグルジア化されたという。12世紀のタマラ女王の時代は文化的にも最盛期となった。その後、モンゴル、ペルシア、トルコと様々な外来勢力の侵食を受け、1801年にロシア帝国に併合された。以降、ロシア経由で西欧音楽が流入する。

 グルジアの首都チフリス(現トビリシ)はロシア領コーカサスにおける音楽教育の中心となった。コーカサス音楽協会の音楽学校が設立され、これは1917年に正式に高等音楽院となる(アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライはここの校長として招聘された)。また1883年、やはり音楽学校の教員として来ていたイッポリトフ=イワーノフ(組曲「コーカサスの風景」で有名。特に「酋長の行進」はライト・クラシックとして演奏される機会も多い)を中心にオーケストラが結成された。1886年にチフリスを訪問したチャイコフスキーをこのオーケストラが出迎えることになる(森田稔「西洋との接触から生まれたコーカサスの国民音楽」『コーカサスを知るための60章』明石書店、2006年)。

 こうして西欧音楽が流入する一方で、グルジア聖歌は教会の管轄下にあった。一種の分立状態と言えようか。19世紀以降、ヨーロッパの中小民族の間で自分たち独自の民族文化を見直そうという動きが高まるが、グルジアもその例外ではなかった。まず聖歌が再評価されたほか、民謡採集も積極的に行なわれるようになる(イッポリトフ=イワーノフなどのロシア人音楽家も協力した)。

 アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライは、リムスキー=コルサコフに師事した著名な音楽家で、1918年、チフリスの高等音楽院の校長として招聘され、グルジアへ移住した。当時のグルジアはメンシェヴィキを中心に独立した政権が形成されて比較的安定しており、革命で混乱したロシアから脱出しようという意図があった(しかし、1921年にグルジアはボルシェヴィキによって制圧され、チェレプニン一家はヨーロッパへ亡命する)。父親に連れられて来たアレクサンドルは多感な青年期、ここチフリスで音楽的にも大きな刺激を受ける。チフリスはコーカサスにおける音楽教育の中心であり、また19世紀以来コーカサス諸民族の民謡採集が行なわれてきた成果もあり、様々な音楽要素に出会う機会があった。そもそもグルジアをはじめとしたコーカサス一帯は、北はロシア、南はイスラム勢力の影響により、異なる文化圏が混淆した地域である。

 私がチェレプニンという人物に興味を持ったのは、彼が日本と中国で若手音楽家の発掘に努め、とりわけ日本では江文也と伊福部昭を見出したこと。江は台湾出身、日本で音楽教育を受け、その後中国に渡った。伊福部は日本人だが、幼少時からアイヌの文化に馴染んでいた。こうした人物に関心を寄せるチェレプニンの多民族融合的な音楽志向には、グルジアで多感な青年期を過ごした体験がやはり大きな影響を及ぼしていたと言える。

 チェレプニンはハチャトリアンの曲も大好きだったが、片や亡命ロシア貴族、片やソ連を代表する音楽家の一人、会う機会のないことを残念がっていた。ハチャトリアンはアルメニア人だが、若い頃はグルジアのチフリスにいた。チフリスはグルジアの首都であると同時にロシア領コーカサス全体の中心都市でもあり、様々な民族が入り混じっていた。特に経済面で活躍していたアルメニア人は19世紀の時点でチフリスにおける最大人口を占めていたので(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, pp.147-148)、彼がチフリス育ちだとしても珍しいことではなかった。ハチャトリアンが若き日に、チフリスで行なわれたある演奏会に非常な感銘を受けたと語っているのをチェレプニンは知り、「私もその演奏会は聴きに行った、ああ、彼と同じ会場で同じ感動を受けていたんだ!」と実に感慨深げである(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer, Indiana University Press, 2008, p.27)。

 ハチャトリアンの曲をまとめて聴き返してみた。「剣の舞」「レズギンカ舞曲」などは有名だから、ああ、あれか、とすぐイメージはわくだろうが、交響曲第三番なんてあの調子が繰り返し続く。音量をしぼらないと耳が痛くなるが、あの派手さ、たとえばシンバルの激しいリズムにのって金管楽器が咆哮するところなんて血わき肉おどるようで大好き。土俗的に素朴で力強いリズムと色彩豊かな音響の厚み、ふとチェレプニンが見出した伊福部の「日本狂詩曲」を思い浮かべ、チェレプニンの好みが何となくうかがわれるように思った。

 なお、グルジアの現代作曲家ではギヤ・カンチェーリが有名だが、彼についてはまた機会を改めて。

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