モンテ・メルコニアン──ある“アルメニア系アメリカ人”の軌跡
Markar Melkonian, My Brother’s Road: An American’s Fateful Journey to Armenia, I.B.Tauris, 2007
第一次世界大戦中におこったオスマン帝国によるアルメニア人大虐殺はいまだにトルコとアルメニアとの和解を阻害する問題として影を引きずっている。「青年トルコ」政権の三頭政治家のうちタラート、ジェマルの二人が暗殺されたのをはじめアルメニア人による報復テロは続き、1973年には、家族を皆殺しにされた70歳代の老人ヤニキアンがロサンジェルスでトルコ領事館員を殺害するという事件もおこっている。
モンテ・メルコニアン(Monte Melkonian)は1957年、アメリカに生まれた。過去のことは何も知らなかったが、アルメニア人意識に目覚めたのをきっかけに中東を放浪。本書は、トルコに対するテロ活動(彼は「プロパガンダ・アタック」と表現)に身を投じ、1993年、ナゴルノカラバフ紛争で戦死するまでの彼の人生の軌跡を、作家でもある兄マーカーがたどっていく。
モンテは大学では考古学を専攻、トルコ語も含めて様々な言語を習った(高校生の頃には日本にも留学したことがあり、空手や剣道に取り組んだ)。アルメニアの歴史を研究すると同時に、政治活動のカモフラージュとするつもりもあったようだ。モンテの母語はあくまでも英語なので、アルメニア語に習熟するためイランやレバノンのアルメニア人コミュニティーに入り込む。
ちょうどレバノン紛争の頃。アルメニア人コミュニティーは紛争において中立の立場だったが、自衛組織を形成。この頃にモンテは戦闘術を身につけた。パレスチナ難民を迫害するイスラエル軍や、それをバックアップするアメリカへの反感を募らせる。兄は、弟の様子が明らかに変化していくのを懸念してアメリカに連れ帰ろうとしたが、彼の決意はかたかった。ハゴピアンのスカウトでシークレット・アーミー(民族主義政党ダシュナクとは対立)に加入。しかし、アブー・ニダルやカルロスといった名うての暗殺者やネオナチなどもひしめく中、ハゴピアンは無差別テロもいとわない輩とつるみ、内部抗争で対立するアルメニア人も平気で暗殺したりするため、そうした彼の姿勢に対しモンテは疑問を感じ始める。
ハゴピアンの指示により、アテネでトルコ大使館付情報部員を暗殺した。車内にいるのが誰であるの分からないまま銃撃したのだが、ターゲットの他にその妻や十代の息子と娘も手にかけてしまったことを後で知りショックを受ける。彼にとって「プロパガンダ・アタック」は正当な対トルコ戦争であるはず。以降、非戦闘員の殺戮は許さないという信条を持つ。フランスではトルコ籍の船を爆沈(乗船客はいないことを確認した上で)、その容疑で逮捕され、刑務所に入る(入獄中、CIAからアブー・ニダルについての情報提供を条件に取引の申し出があったが、彼はアブー・ニダルも嫌いだが、アメリカ軍も大嫌いだったので拒否)。刑期を終えた後、レバノン紛争の頃からつながりのあるPLOの仲介で南イエメンに渡った。
ちょうどソ連崩壊によりアルメニアが独立、そしてナゴルノカラバフ(Mountainous Karabagh)紛争が激化している時期だった。モンテは生まれて初めてアルメニアに渡り、カラバフで部隊指揮官となる(Avoと名乗った)。彼の活躍でアゼルバイジャン軍を押し返し、アルメニア本土とカラバフの間のケルバジャール(Kelbajar)を確保したほか、アグダム(Agdam)も占領。アゼルバイジャンではこの敗北の衝撃からクーデターがおこって民族主義的なエリチベイ(Elcibay)大統領は失脚、元共産党第一書記のアリエフ(Aliyev)が復活した。モンテはアルメニア国民の英雄となる。彼の“大アルメニア主義”からすれば、カラバフはもちろんのこと、ケルバジャールも歴史的にアルメニア人のホームランドだったと正当化される。ところが、ここは現在ではアゼリ人やクルド人の居住地域であってアルメニア人は少数派にすぎず、しかもアグダムに至っては戦闘の経過から占領しただけで歴史的ホームランドですらない。アルメニア国内のマイノリティーとして彼らは生きればいい、と主張するのだが、血みどろの殺し合いの後でそんな期待ができるわけもない。大量の難民が流出し、周辺諸国は警戒する。モンテは他のアルメニア軍人とは異なり、捕虜となったアゼリ人の命を助けたと指摘される。だが同時に、アルメニアにとっての英雄ではあっても、周辺諸国での受け止め方が全く異なってくるギャップも感じさせる。
1993年に彼は戦死したが、「彼の台頭を警戒したアルメニア人によって謀殺された」「いや、彼はまだ生きている」などと様々な噂がとびかったという。“英雄”に“神話”はつきものか。
モンテはアメリカで青年期を過ごしたとき、なぜ自分たちアルメニア人がアメリカで暮らしているのか、その歴史的背景を全く知らなかった。スペインに留学したとき、指導教官から「あなたは一体何者なんですか?」と問われたことがきっかけで、アルメニア人としての“自分探し”が始まった。家族旅行でトルコの祖先の村を訪れた際に歓待してくれたアルメニア人一家が、実はオスマン帝国から生命の保証と引換に同胞を売りとばした裏切り者であったことを帰国後に知ってショックを受けたり、ヤニキアン老人による暗殺事件の報道も影響しているようだ。彼の“大アルメニア主義”をどう考えるかは別として、“自分探し”、つまり自身の現存在を確証する根拠探しが政治的行動の動機となる、そうしたアイデンティティ・ポリティクスの一例として興味がひかれる。
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コメント
アルメニア人のディアスポラはユダヤ系、ウクライナ系、イタリア系、ロシア系やギリシア系のように欧米各国に散在しているようです。
アルメニア語のほかロシア語を第二言語として使用する人も少なくないそうです。
投稿: 台湾人 | 2009年5月10日 (日) 00時54分
アルメニア人のディアスポラは欧米だけでなく、トルコ、レバノン、イランなど中東にも散在してますよ。
投稿: トゥルバドゥール | 2009年5月10日 (日) 16時07分
この前はNHKでフランスにはアルメニア人学校まであるので、フランスにはアルメニア系の人が多くいることを知りました。
アルメニアもウクライナと同様に経済が低迷しているようです。
トルコとアゼルバイジャンとの関係も悪いようです。
投稿: 台湾人 | 2009年5月11日 (月) 21時48分
アゼルバイジャンにもアルメニア人のディアスポラが存在するようです。
何故かフランスに多くの移民を送り出すアルメニアでございます。
投稿: 台湾人 | 2009年5月23日 (土) 23時14分
→台湾人様
申し訳ありませんが、私の方からは特にコメントはありません。
投稿: トゥルバドゥール | 2009年5月23日 (土) 23時47分
"my brother's road"の記事を検索していて貴ブログにたどりつきました。是非購入したいと思います。
ところでモンテ自身の著作である"right to struggle"という本があるのですが、そこではレバノン滞在中に日本赤軍とフランスのプレスの通訳をしたという記述がありました(現在手元にないのでうろおぼえです)。日本に留学したときは高校生だったそうですが、アメリカに帰る前に立ち寄ったのが当時まだ存在していた南ベトナムだったそうで、少年の頃からすごかったみたいですね。
投稿: nil | 2009年7月14日 (火) 07時21分
nilさん、コメントをありがとうございました。
モンテは色々な外国語が得意だったようですね。外の世界に出て行きたいと冒険心旺盛な性格だったのでしょうか。彼のロマンティシストとしての側面と、アルメニア人としての“自分探し”をするあたりと、両方が絡み合っているところに関心を持っています。-
投稿: トゥルバドゥール | 2009年7月14日 (火) 18時47分