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2009年2月

2009年2月28日 (土)

モンテ・メルコニアン──ある“アルメニア系アメリカ人”の軌跡

Markar Melkonian, My Brother’s Road: An American’s Fateful Journey to Armenia, I.B.Tauris, 2007

 第一次世界大戦中におこったオスマン帝国によるアルメニア人大虐殺はいまだにトルコとアルメニアとの和解を阻害する問題として影を引きずっている。「青年トルコ」政権の三頭政治家のうちタラート、ジェマルの二人が暗殺されたのをはじめアルメニア人による報復テロは続き、1973年には、家族を皆殺しにされた70歳代の老人ヤニキアンがロサンジェルスでトルコ領事館員を殺害するという事件もおこっている。

 モンテ・メルコニアン(Monte Melkonian)は1957年、アメリカに生まれた。過去のことは何も知らなかったが、アルメニア人意識に目覚めたのをきっかけに中東を放浪。本書は、トルコに対するテロ活動(彼は「プロパガンダ・アタック」と表現)に身を投じ、1993年、ナゴルノカラバフ紛争で戦死するまでの彼の人生の軌跡を、作家でもある兄マーカーがたどっていく。

 モンテは大学では考古学を専攻、トルコ語も含めて様々な言語を習った(高校生の頃には日本にも留学したことがあり、空手や剣道に取り組んだ)。アルメニアの歴史を研究すると同時に、政治活動のカモフラージュとするつもりもあったようだ。モンテの母語はあくまでも英語なので、アルメニア語に習熟するためイランやレバノンのアルメニア人コミュニティーに入り込む。

 ちょうどレバノン紛争の頃。アルメニア人コミュニティーは紛争において中立の立場だったが、自衛組織を形成。この頃にモンテは戦闘術を身につけた。パレスチナ難民を迫害するイスラエル軍や、それをバックアップするアメリカへの反感を募らせる。兄は、弟の様子が明らかに変化していくのを懸念してアメリカに連れ帰ろうとしたが、彼の決意はかたかった。ハゴピアンのスカウトでシークレット・アーミー(民族主義政党ダシュナクとは対立)に加入。しかし、アブー・ニダルやカルロスといった名うての暗殺者やネオナチなどもひしめく中、ハゴピアンは無差別テロもいとわない輩とつるみ、内部抗争で対立するアルメニア人も平気で暗殺したりするため、そうした彼の姿勢に対しモンテは疑問を感じ始める。

 ハゴピアンの指示により、アテネでトルコ大使館付情報部員を暗殺した。車内にいるのが誰であるの分からないまま銃撃したのだが、ターゲットの他にその妻や十代の息子と娘も手にかけてしまったことを後で知りショックを受ける。彼にとって「プロパガンダ・アタック」は正当な対トルコ戦争であるはず。以降、非戦闘員の殺戮は許さないという信条を持つ。フランスではトルコ籍の船を爆沈(乗船客はいないことを確認した上で)、その容疑で逮捕され、刑務所に入る(入獄中、CIAからアブー・ニダルについての情報提供を条件に取引の申し出があったが、彼はアブー・ニダルも嫌いだが、アメリカ軍も大嫌いだったので拒否)。刑期を終えた後、レバノン紛争の頃からつながりのあるPLOの仲介で南イエメンに渡った。

 ちょうどソ連崩壊によりアルメニアが独立、そしてナゴルノカラバフ(Mountainous Karabagh)紛争が激化している時期だった。モンテは生まれて初めてアルメニアに渡り、カラバフで部隊指揮官となる(Avoと名乗った)。彼の活躍でアゼルバイジャン軍を押し返し、アルメニア本土とカラバフの間のケルバジャール(Kelbajar)を確保したほか、アグダム(Agdam)も占領。アゼルバイジャンではこの敗北の衝撃からクーデターがおこって民族主義的なエリチベイ(Elcibay)大統領は失脚、元共産党第一書記のアリエフ(Aliyev)が復活した。モンテはアルメニア国民の英雄となる。彼の“大アルメニア主義”からすれば、カラバフはもちろんのこと、ケルバジャールも歴史的にアルメニア人のホームランドだったと正当化される。ところが、ここは現在ではアゼリ人やクルド人の居住地域であってアルメニア人は少数派にすぎず、しかもアグダムに至っては戦闘の経過から占領しただけで歴史的ホームランドですらない。アルメニア国内のマイノリティーとして彼らは生きればいい、と主張するのだが、血みどろの殺し合いの後でそんな期待ができるわけもない。大量の難民が流出し、周辺諸国は警戒する。モンテは他のアルメニア軍人とは異なり、捕虜となったアゼリ人の命を助けたと指摘される。だが同時に、アルメニアにとっての英雄ではあっても、周辺諸国での受け止め方が全く異なってくるギャップも感じさせる。

 1993年に彼は戦死したが、「彼の台頭を警戒したアルメニア人によって謀殺された」「いや、彼はまだ生きている」などと様々な噂がとびかったという。“英雄”に“神話”はつきものか。

 モンテはアメリカで青年期を過ごしたとき、なぜ自分たちアルメニア人がアメリカで暮らしているのか、その歴史的背景を全く知らなかった。スペインに留学したとき、指導教官から「あなたは一体何者なんですか?」と問われたことがきっかけで、アルメニア人としての“自分探し”が始まった。家族旅行でトルコの祖先の村を訪れた際に歓待してくれたアルメニア人一家が、実はオスマン帝国から生命の保証と引換に同胞を売りとばした裏切り者であったことを帰国後に知ってショックを受けたり、ヤニキアン老人による暗殺事件の報道も影響しているようだ。彼の“大アルメニア主義”をどう考えるかは別として、“自分探し”、つまり自身の現存在を確証する根拠探しが政治的行動の動機となる、そうしたアイデンティティ・ポリティクスの一例として興味がひかれる。

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蛇蔵&海野凪子『日本人の知らない日本語』

蛇蔵&海野凪子『日本人の知らない日本語』(メディアファクトリー、2009年)

 日本語学校教師の披露するエピソードをもとにしたエッセー風マンガ。言語や文化のギャップというのは、ともすれば紛争のタネにもなりかねないが、ギャグのネタにしてしまえば無性に笑える。生徒たちは真面目に搦め手から質問攻めにしてくるから先生というのも大変だ。貸してくれた知人もツボにはまっていたが、中国人留学生が志望する大学院の担当教官にお手紙を書きなさいと言われ、持ってきたのが堂々たる美文調の詩賦…なんて簡単にまとめてしまってもこのおかしみは伝わらないだろうが。そうか、科挙で四六駢儷体で答案を書いた伝統が感覚として残っているんだ、と妙に納得。クスクス笑いの中でもなかなか勘所をついていて面白かった。

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今月読んだ小説

覚えている分だけ適当に。
・倉橋由美子『聖少女』(新潮文庫、1981年)
・倉橋由美子『大人のための残酷童話』(新潮文庫、1998年)
・レナーテ・ドレスタイン(長山さき訳)『石のハート』(新潮社、2002年)
・桜庭一樹『少女には向かない職業』(創元推理文庫、2007年)
・ナンシー・ヒューストン(横川晶子訳)『時のかさなり』(新潮社、2008年)
・ソーニャ・ハートネット(金原瑞人・田中亜希子訳)『サレンダー』(河出書房新社、2008年)
・カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)『わたしを離さないで』(ハヤカワ文庫、2008年)

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ポール・ルセサバギナ『ホテル・ルワンダの男』

 書店をブラブラひやかしていたら、ポール・ルセサバギナ(堀川志野舞訳)『ホテル・ルワンダの男』(ヴィレッジ・ブックス、2009年)が新刊で出ていた。以前、原書で読んだときのメモはこちら(→ポール・ルセサバギナ『An Ordinary Man』)。

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2009年2月24日 (火)

東京国立近代美術館フィルムセンター「無声時代ソビエト映画ポスター展」

東京国立近代美術館フィルムセンター「無声時代ソビエト映画ポスター展」

 ロシア・ソビエト文化研究家で映画評論家の袋一平が戦前、ソ連に渡った際に収集した映画ポスター(現在はフィルムセンターが所蔵)の展覧会。全部で140点もあるため展覧会は三期間に分けて行なわれるとのことで、私はカタログを購入して眺めている。

 時代的に言って共産党の宣伝映画が多いわけだけど、デザイン的には結構目を引くものもある。なぜか黒い色調のものが目につく。この頃によく見られる鋭角的な線を多用した構図が私は好きだ。いわゆるロシア・アヴァンギャルドの流れを汲むデザイナーの手になる。

 ロシア革命に際して、既存体制の打破→前衛という点で政治運動と芸術運動とがかりそめの同盟関係を組んだものの、政治が再び体制化する一方、芸術は魂を奪われてしまったという悲劇的ななりゆきに私は関心がひかれている。思想的には党の統制下に入らざるを得なかったが、前衛的なデザインは引き継がれた。

 以前、日本の戦争中の生活光景をテーマとしたある展覧会を見たとき、空襲への警戒を呼びかけるポスターがあったのだが、サーチライトが鋭角的に交差するなかなか格好良いデザインで目を引いた覚えがある。明らかに未来派風だった。その時にもソ連体制下のアヴァンギャルド的なデザインを思い浮かべた。日本でも戦時色が強まる中、食うために職業として宣伝ポスターをつくっていたデザイナーたちがいたが、彼らも同時期のソ連のデザイナーたちと同様に、1920年代のアヴァンギャルド思潮(日本では大正モダニズムの頃)の洗礼を受けていたわけだ。この辺り、興味はあるんだけれど、調べようにもなかなか手が回らない。

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2009年2月23日 (月)

チャールズ・キング『自由という幻影:コーカサスの歴史』

Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008

 コーカサスの歴史を調べようとすると、あたかもジグソーパズルを解くような面倒くささに頭が痛くなってくる。現在、国際的に承認された独立国としてはアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三ヶ国があるが(他にもいわゆる未承認国家やロシア連邦内の自治共和国などがある)、それぞれについて個別に通史的に勉強しようと思っても、必ず他の国の歴史と分かちがたく絡まりあっている。

 本質主義的に「~民族」と一義的にくくることなど不可能で、人種的・文化的・言語的・宗教的・政治的に様々な条件が歴史的コンテクストに応じて組み合わさり、組み替えられながら、何となく“民族”らしきものが形成されているとしか言いようがない。その点で、コーカサスでの“民族”概念は状況依存的である。

 近現代においてコーカサスはロシアの支配を受けた。バラバラだったこの地域はロシア支配下で制度的・経済的に統合され、ロシア経由で近代化の洗礼を受けた。そこには複雑な矛盾がはらまれていた。第一に、ロシア化政策に対する反発と同時に、ロシア文化への愛着もあったというアンビヴァレンス。それ以上に深刻な問題として、第二に、ロシアの支配下から逃れようにも、“民族”としての境界線が曖昧かつ錯綜している中、それはどこからどこへ向けての解放なのか? 誰にとっての解放なのか? どこに線引きをしても必ず紛争を招いてしまうという矛盾。“民族”の自由を渇求しても、悲しいことにその自由はどうしても形をなすことのできない困難──本書のタイトル『自由という幻影』(The Ghost of Freedom)はそうしたコーカサス地域が直面した不可避的な宿命を端的に表わしている。

 本書は、ロシア帝国の南進が顕著となった十八世紀から、ソ連崩壊による独立・民族紛争の再燃した最近に至るまでコーカサス近現代史を概観する。ここでのコーカサス地域にはアゼルバイジャン・アルメニア・グルジア三ヶ国が独立した南コーカサスとロシア連邦内の共和国が密集した北コーカサスの両方を含む。文学作品からの引用があったり、歴史を彩る人物群像も取り上げたりとエピソードは豊富。たとえて言うと、中央公論社の新旧『世界の歴史』シリーズのように学術的なクオリティーを備えつつ読み物としても十分にたえる、そうした感じの歴史概説書として飽きさせずに読ませてくれる。

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2009年2月22日 (日)

フランク・ティボル『ハンガリー 西欧幻想の罠──戦間期の親英米派と領土問題』

フランク・ティボル(寺尾信昭編訳)『ハンガリー 西欧幻想の罠──戦間期の親英米派と領土問題』(彩流社、2008年)

 意外と気付かれていないが、ハンガリーはドイツと同様に第一次・第二次両世界大戦の敗戦国である(両国の置かれた事情は全く異なるが)。第一次大戦ではオーストリア=ハンガリー二重帝国の一員として参戦した。敗戦、二重帝国解体後はトリアノン条約によって領土を大幅に削減されてしまう。これはあまりにも不当であるという世論が渦巻き、失地回復のための条約改正が政治課題となった。この失地回復という目標やソ連の脅威などの要因から親ナチス派が台頭する。

 他方、国家元首のホルティ・ミクローシュ摂政を中心とした政治指導層は、東のソ連・西のドイツという二大勢力の狭間にあって如何にハンガリーの独立を維持するかに腐心していた。彼らの外交政策にはハンドリングの難しい矛盾がはらまれていた。英米の支持によってソ連・ナチス双方からの脅威に対処しようと望む一方で、ナチスの援助によって回復した領土を失いたくないとも考えていたし、何よりも英米側はハンガリーをさほど重要視していなかった。こうしたギャップを埋めようと奮闘したホルティ側近の政治家・外交官・言論人たちの動向を本書は跡付ける。とりわけ、ナチスへの配慮から英米への接近をおおっぴらにはできなかったため、文化外交を通して英米側にアピールしようとした努力に焦点が当てられる。

 結局、ナチスに対する面従腹背の外交路線は破綻してテレキ首相は自殺、ハンガリーは日独伊三国同盟に加盟して第二次世界大戦に巻き込まれる。1944年にホルティは親英米派の登用によって巻き返しを図るが、ドイツ軍によって占領され、ホルティは摂政の座を追われた。『ハンガリー・クウォータリー』誌のバログはユダヤ人であったため殺され、反ナチス的な政治家たちも次々と逮捕・処刑された。

 なお、当時のハンガリーは立憲君主政。ただし、ハプスブルク家の復活はあり得ないとして、海軍提督出身のホルティが摂政となっていた。彼はかつて侍従武官としてフランツ・ヨーゼフ帝の側に仕えていたことがあり、難局にぶつかるたびに「フランツ・ヨーゼフならばどのように振舞ったろうか」と常に自問していたという。

 戦間期のハンガリー政治史については、アントニー・ポロンスキ(羽場監訳、越村・篠原・安井訳)『小独裁者たち──両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊』(法政大学出版局、1993年)に1章が割かれている。

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2009年2月21日 (土)

『ロシア領アゼルバイジャン、1905─1920年:ムスリム・コミュニティにおけるナショナル・アイデンティティーの形成』

Tadeusz Swietochowski, Russian Azerbaijan, 1905─1920: The Shaping of National Identity in a Muslim Community, Cambridge University Press, 2004

 アゼルバイジャンの政治的アイデンティティーは様々に錯綜する条件の中で揺れ動きながら形成されてきた。ロシアの圧倒的な影響の中でムスリムとしての帰属意識、トルコ系としての帰属意識、そしてコーカサス連邦主義などにもひかれつつ、1905年の第一次ロシア革命、1914年からの第一次世界大戦(ロシア対オスマン帝国)、1917年の第二次ロシア革命と政治的混乱が続く中で、ロシアでもない、トルコでもないものとしてアゼルバイジャン人意識が現われてくる。

 前史をメモしておくと、
・バラバラだった藩国がロシア支配下で一つに統合→アゼルバイジャンのトルコ系ムスリムの間で経済的一体感(→ペルシア領アゼルバイジャンとは分離)。また、ロシア帝国は土着エリート層を支配システムの中に組み込んでいた。
・石油→産業化→バクーには様々な出自の人々が集まった→技能職はロシア人・アルメニア人が独占し、ムスリム系は単純労働者という分化→アルメニア人への敵意の背景
・3つの思想潮流→①パン・トルコ主義(ガスプリンスキのジャディード運動の影響もある)、②パン・イスラム主義(アル・アフガーニーの影響。スンナ・シーア両派の和解も含めて)、③リベラリズム(ロシア経由で西欧思想が流入。1900年にはバクーにロシア社会民主労働党の支部)

 1917年の二月革命に際して、アゼルバイジャン人は基本的にロシアへの残留を望んでいた(二つの方向性→左派は革命ロシアとの連携を目指し、パン・イスラム主義者は全ロシアのムスリムとの一体感を優先させよとした)。続く十月革命(ボルシェヴィキの政権奪取)に際しても、トランスコーカサス全体の空気として民主的なロシア内への残留を求める考え方が一般的だったが、ボルシェヴィズムによる政治混乱回避を目的として、グルジアのメンシェヴィキ、アルメニアのダシュナク、ムスリム系社会主義者など非ボル系左派を中心にザカフコム(ZAKAVKOM)を形成。Seimという議会が開設されて、1918年にはトランスコーカサス連邦共和国の独立という成り行きになった。ただし、これはロシアの政治混乱やオスマン軍の進軍という二つの対外状況への暫定的対処という消極的な理由によるものにすぎず、独立への熱狂などない実に冷めたものだった。

 同床異夢のかりそめの連邦はすぐに破綻した。まず、アゼルバイジャン人とアルメニア人との緊張関係。1917年、ロシア軍が引き揚げ始めるが、その代わりに空白を埋めるべくロシア人と同じキリスト教のアルメニア人・グルジア人を動員して軍隊組織がつくられた。とりわけ、反オスマン意識の強いアルメニア人(トルコ人による虐殺が進行中)と親オスマン意識の強いムスリム系住民とが反目、1918年、いわゆるMarch Days、バクーでダシュナクがムスリム系住民を虐殺。これ以降、ムスリム系住民にはトルコへの傾斜が強まっていた(ただし、ダシュナクとムスリム系組織との間でも連絡を取り合って、双方で事態を沈静化させようという動きも頻繁に見られた)。グルジア人には、オスマン軍が来攻してきたときムスリム系は本当にトランスコーカサス連邦に忠誠を誓えるのかと懐疑的で、やがてドイツの支援(オスマン帝国を牽制してもらう)を当て込んで1918年5月26日にグルジアの独立を宣言、連邦はほんの一ヶ月ちょっとで崩壊した。

 アゼルバイジャンは5月28日に独立を宣言した(ただし、バクーではボルシェヴィキを含めたコミューンが成立しており、首都は西部のギャンジャに置かれた)。これ以降、トルコ系ムスリムは公的にアゼルバイジャン人となる。やがてオスマン軍が進駐してくるが、オスマン軍司令官の傲慢な態度とアゼルバイジャン指導部の思惑とのズレが鮮明となり、トルコを当て込む心情は急速に冷えてしまった。他方、赤軍の敗北により、バクーのコミューンではダシュナク・右派エスエル(SR→社会革命党)・メンシェヴィキが連携してボルシェヴィキ指導者シャウミアンを追放、イギリス軍を招く。ところが、オスマン軍によってバクーは陥落、この際、March Daysの報復として1万人前後のアルメニア人がアゼルバイジャン人によって虐殺された。

 第一次世界大戦でオスマン帝国は敗北し、イギリス軍がバクーに進駐。イギリス軍の占領下で当面の安全は保障され、民主的な制度づくりが進められた。アゼルバイジャンの政治指導者たちはイギリスの民主主義志向に敏感に反応しており、いちはやく暫定議会を召集して直接選挙・比例代表制・完全普通選挙(女性も含めて)による選挙法を可決した。イスラム世界で初めて議会制民主主義が登場したのはアゼルバイジャンであり、結局実施する時間はなかったものの女性参政権が認められていたことは注目に値する(日本よりも早い!)。このアゼルバイジャン共和国において、パン・イスラム主義でもパン・トルコ主義でもなく、トルコ系であっても自前の国民国家を持つアゼルバイジャン人としてのナショナリズムが形成された(ただし、知識人中心で、末端の農民レベルまでは行渡ってはいなかったようだ)。安全保障面ではグルジア・アルメニアとの連携が基本方針となる。ただし、民主的制度は整ったものの、それを運用していく人材が不足していた。連立政権の下で政情も不安定となった。

 アゼルバイジャンの共産主義者も自前の国民国家を経験したことから大きな影響を受けており、彼らはソ連への加盟を目指しつつも、それがロシア内部の単なる一地方としてソヴィエト化するのか、それとも自立した国家としてソ連に加盟するのかが問題となった。1920年、バクーの共産主義者の動きに呼応する形で赤軍が国境線を越え、4月27日、アゼルバイジャン議会はボルシェヴィキ側の最後通牒をのんだ。ほぼ無血でボルシェヴィキの支配下に入ったが、共和国の指導的政治家たちはただちに逮捕・処刑されたほか、議会指導者のレスルザーデはトルコに亡命、初代首相のホイスキーは亡命先のトビリシ(グルジア首都)で暗殺された。なお、ボルシェヴィキは、内部からの共産主義者の反乱と外部からの軍事的圧力というこのパターンを隣国グルジア・アルメニアでも繰り返そうとしたが、この二国ではボルシェヴィキの勢力は弱かったので手こずり、制圧には翌1921年までかかった。

(Tadeusz Swietochowskiという著者名はスペルからするとポーランド系だと思うが、タデウシュ・スヴェトチョフスキと読んでいいのだろうか?)

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2009年2月16日 (月)

アルメニア史についてメモ

 アルメニアの通史としては、ジャン・ピエール・アレム(藤野幸雄訳)『アルメニア』(白水社・文庫クセジュ、1986年)、佐藤信夫『新アルメニア史 人類の再生と滅亡の地』(泰流社、1988年)、中島偉晴『閃光のアルメニア ナゴルノ・カラバフはどこへ』(神保出版会、1990年)、藤野幸雄『悲劇のアルメニア』(新潮選書、1991年)のほか、北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』(明石書店、2006年)の関連箇所を参照のこと。藤野書が過不足なくまとまっており、入門書として一番読みやすい。

 とりあえず頭に残ったポイントを書き出すと、
・アルメニア人のシンボルとなっているアララト山(ただし、現トルコ領)→語源的に古代ウラルトゥ王国に由来(母音変化により、ウラルトゥ→アララト)。
・後301年にキリスト教を国教化した最古のキリスト教国だが、太陽崇拝・アナヒータ(大地母神)崇拝など古代の風習も残っているほか、ゾロアスター教の痕跡も見られるらしい。
・エチミアジン大寺院にキリスト教のアルメニア大主教(カトリコス)がいて、メスロープ・マシュトツがアルメニア文字をつくった→ペルシア文化と訣別し、アルメニア人としての民族的一体感。
・11世紀以降、アナトリア中西部のキリキアへの移住が始まる→小アルメニア(キリキア)王国→十字軍と連携した。キリキアにアルメニア大主教が置かれたが、キリキア王国滅亡後も存続→エチミアジンと一種の分立状態。
・18世紀以降、ロシアの南下→1828年、ロシアとペルシアとの間でトルコマンチャーイ条約→現在のアルメニアの国境線がほぼ確定→アルメニア人はロシア領とそれ以外とに分裂。
・19世紀末、ハンチャク党(社会主義)、ダシュナク党(民族主義)などの結成→アルメニア人の政治活動活発化、権利要求の他、分裂したアルメニア再統合の主張も出てくる。
・オスマン帝国は、アルメニア人の活動はロシア帝国と手を結ぶのではないかと猜疑心→1894~96年、赤いスルタン・アブドュル=ハミト二世によるアルメニア人大虐殺。

 アルメニア現代史で最も重大な事件はオスマン帝国による大虐殺である。「統一と進歩委員会」(いわゆる“青年トルコ党”)のエンヴェル陸相・タラート内相・ジェマル海相の三頭政治による舵取りでオスマン帝国は第一次世界大戦に参戦、1915年から国内のアルメニア人の“移送”(すなわち抹殺)を指示した。その状況は中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』(明石書店、2007年)に詳しいほか、デーヴィッド・ケルディアン(越智道雄訳)『アルメニアの少女』(評論社、1990年)、マリグ・オアニアン(北川恵美訳)『異境のアルメニア人』(明石書店、1990年)は生き残った人の逃避行を生々しく描き出している。この虐殺にはアッシリア人も巻き込まれた。トルコ人やクルド人でもアルメニア人に救いの手を差し伸べた人もいたが、そうした行為は処罰の対象となったし、地方総督でも拒否した者もいたが、抗議の辞任や左遷、場合によっては処刑された。憎悪や憤怒による偶発的な虐殺というよりも、政府による指揮命令系統に従った虐殺として近代的なジェノサイドの始まりを意味した。ヒトラーが第二次世界大戦を仕掛けるにあたり、「今日、だれがあのアルメニア人虐殺なんて覚えているだろうか?」と語ったことはよく知られている。

 オスマン帝国の敗戦後、青年トルコの三頭政治家はみな国外に逃亡したが、タラートは1921年にベルリンで、ジェマルは1922年にグルジアのティフリスで暗殺された(山内昌之『納得しなかった男 エンヴェル・パシャ 中東から中央アジアへ』岩波書店、1999年)。タラート暗殺犯のテフレリアンが裁判(アルメニア人への同情から無罪になった)にかけられたことに関心を抱いた国際法専攻の学生ラファエル・レムキンは後にジェノサイド防止条約の制定に尽力することになる(Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007)。なお、アルメニア人によるトルコ人への復讐テロは1980年代まで起こった。

 トルコにとってアルメニア問題はいまだにタブーとなっている。ノーベル賞作家オルハン・パムクがアルメニア人虐殺に言及して、国家侮辱罪に問われたことは記憶に新しい。背景の一つには、トルコ国内での歴史教育の問題がある。アメリカに行ったあるトルコ人政治学者が語るところによると、アルメニア人学生からアルメニア人虐殺問題について指摘されたところ、そもそもその問題について知らないために感情的にムキになってしまうらしい(中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』)。

 アルメニア教会がアルメニアのエチミアジンとキリキア(その後、レバノンのアンテリアス)とに分立していたことは、アルメニア人の国外亡命組織の派閥抗争にも暗い影を落とした。共産党支配下でエチミアジンの教会が荒廃する一方、オスマン帝国のジェノサイドを逃れてアメリカにいたトゥーリアン大主教(Archbishop Tourian、キリキア系)はソ連のアルメニア共和国と連携したが、これはソ連によって弾圧された民族主義政党ダシュナクからは裏切り行為とみなされ、トゥーリアンは暗殺された(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, 179-181)。ソ連崩壊後も、アメリカ帰りのアルメニア人ともともといたアルメニア人とでは政治主張(たとえばナゴルノカラバフ紛争についてなど)に温度差があるらしい。

 最近のアルメニア情勢をめぐっては、廣瀬陽子『強権と不安の超大国・ロシア──旧ソ連諸国から見た「光と影」』(光文社新書、2008年)、『コーカサス 国際関係の十字路』集英社新書、2008年を参照のこと。

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2009年2月14日 (土)

トム・レイス『オリエンタリスト』

Tom Reiss, The Orientalist: Solving the Mystery of a Strange and Dangerous Life, Random House, 2005

 クルバン・サイード(松本みどり訳)『アリとニノ』(河出書房新社、2001年)という小説がある。舞台はカスピ海沿岸、石油のにおいがたちこめる街バクー。ムスリムの青年アリとグルジア人貴族の美少女ニノ、いわばコーカサス版『ロミオとジュリエット』といった趣きのロマンスである。第一次世界大戦やロシア革命を背景に、コーカサスの複雑な民族関係、さらにはキリスト教とイスラム教、ヨーロッパとアジア、近代と近代以前、こうした対立構図も、二人が運命に翻弄される姿を通してストーリーに織り込まれている。1937年にウィーンで刊行されて以来、欧米ではロングセラーとなっているらしい。

 だが、この小説よりも、作者自身の数奇な生涯の方がはるかにエキサイティングだ。

 クルバン・サイードというのはオーストリアの男爵夫人エルフレーデ・エーレンフェルス(Elflede Ehrenfels)とエサド・ベイ(Essad Bey)の二人によるペンネームだが、実質的にはエサド・ベイの手になる。Tom Reiss, The Orientalist: Solving the Mystery of a Strange and Dangerous Lifeは、このエサド・ベイなる人物の謎に包まれた波乱の人生を、関係者のインタビューや時には当時の秘密警察のファイルなども用いながら解き明かそうとしたノンフィクションである。

 エサド・ベイ、もとの名をレフ・ヌッシムバウム(Lev Nussimbaum)という。1905年、石油で一財産をなしたバクー(現アゼルバイジャンの首都)のユダヤ人家庭に生まれた。第一次世界大戦、ロシア革命と続く混乱の時代、ヌッシムバウム一家はトルキスタン、イラン、アルメニア、グルジア、トルコと転々と逃げまわり、コンスタンティノープルからヨーロッパへ渡る(なお、レフがまだ幼かった頃に自殺した母親は共産主義シンパで、若き日のスターリンとも面識があったらしい)。コンスタンティノープルではオスマン帝国の黄昏を、イタリアではローマ進軍直前の黒シャツたちを、ベルリンではドイツ革命やスパルタクス団の武装蜂起による混乱を、それぞれ目の当たりにした。

 レフはドイツでロシア人亡命者の子弟向けの学校に入学したが、何人かの親友はできたものの、周囲にはあまり馴染めなかったようだ。孤独な彼の心は、“オリエント”への興味に吸い込まれるように引き寄せられ、ベルリンのトルコ大使館(まだオスマン帝国解体直前だった)でイスラム教に改宗した。これ以降、レフはエサド・ベイと名乗る。彼が学校を卒業した頃のドイツはワイマール文化の爛熟期に入っていた。“オリエント”に関する豊富な知識と文才を駆使してレフは20代の頃からジャーナリストとして活躍、とりわけ彼のムスリムであることを誇張したパフォーマンスは多くの人々の耳目を引きつけた。

 ナチスの政権掌握後もレフのユダヤ人としての出自は公になっておらず、旺盛に執筆活動を続けた。むしろ、ユダヤ人であることがばれるまで宣伝省の推薦図書リストに彼の著作も載っていたほどだ。しかし、離婚スキャンダルでドイツ文芸家協会を除名され、ウィーンに移る(ここで『アリとニノ』が出版された)。しかし、1938年、オーストリアもナチス・ドイツに併合されてしまい、レフは自分の本を出版できるところを求めてイタリアへ行く。イタリアのファシズムにはもともと反ユダヤ主義の要素はなく、ファッショ体制に反対しない限りユダヤ人も受け容れられていたらしい。だが、ムッソリーニがヒトラーと同盟を組むと、イタリア国内でも人種法が制定され、ユダヤ人の立場は難しくなった。レフは病に倒れ、知人の尽力でサレルノ近郊の保養地ポジターノで療養生活を送ることになる。ウィーンに残った父アブラハム・ヌッシムバウムは1941年にトレブリンカへ送られ、殺された。病床にあったレフは父からの手紙が途絶えたことに気持ちを焦らせながら、1942年にこの世を去る。

 レフはなぜイスラム教に改宗したのか? 本書で論点の一つとして示されているユダヤ人のオリエンタリズムというテーマに興味を持った。今でこそパレスチナ問題をめぐってユダヤ教とイスラム教の対立関係が目立つが、もともとヨーロッパにおけるイスラム研究に先鞭をつけたのはユダヤ人だったという(背景としては、ユダヤ人=非ヨーロッパ人=オリエントという、時には差別的なニュアンスも混じった構図を、プラスのものとして受け容れたユダヤ人もいたらしい)。シオニストの中でもマルティン・ブーバー(Martin Buber)、オイゲン・ヘフリッヒ(Eugen Hoeflich)といった人たちには、ユダヤ思想とイスラム思想の根柢に共通したものを見出し、それは広くアジア一般につながるものだと考え、西欧近代の限界(具体的には凶暴な全体主義が登場した)を超えるものとして積極的に意義付け、ユダヤ人の役割をそこに求めようという志向があったことを本書は指摘している(何となく日本における“近代の超克”を想起してしまうが)。こうした志向性をレフの生い立ちそのものが体現していた、少なくともそのような自覚を彼は持っていたらしい。“西”と“東”の対立を超えていこうという考え方は『アリとニノ』のテーマになっている。

 西欧による“オリエント”への偏見が内包された知的構造についてエドワード・サイードが“オリエンタリズム”というキーワードを通して問題提起して以来、こうした問題に現代の我々は割合と敏感になっている。コーカサス出身のユダヤ人として自身のアイデンティティーをヨーロッパではないもの=“オリエント”に求めようとしたところには、この“オリエンタリズム”的な幻想による逆規定があったのかもしれない。しかし、政治的な右翼と左翼、帰属意識としての“西”と“東”、どれかでありそうでいて、実はどれでもない、おとぎ話的な幻想の世界にすがりつこうとしてでも、どこかに自分の場所を求めつつ、結局どこにも身の置き所がなかった彼の苦衷そのものが、悲劇として目の離せない迫力を放っている。

 レフの謎めいた人生に興味をかきたてられるばかりでなく、コーカサスからヨーロッパまで20世紀初頭の様々な世界史的大事件を一人の人間で目の当たりにしたというケースはそうそうないだろう。本書を非常に面白く読んだが、主人公は日本ではマイナーだから、翻訳出版しても市場性は見込めないんだろうなあ。

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2009年2月11日 (水)

グルジアの音楽のこと

 「世界民族音楽大集成70 グルジアの歌」というCDを図書館から借り出して聴いている。男声のアカペラ合唱が多い。複雑な旋律がポリフォニックに幾重にもかさなっているところなど洗練された印象を受け、結構聴きこんでしまう。収録されているのは、労働歌:宗教歌=1:2くらいの割合。宗教歌というのはもちろんキリスト教の聖歌だが、中には「リレ」というキリスト教以前の太陽崇拝の讃歌もある。労働歌も宗教歌も(そして“異教”の歌も)曲調の違いはあまり感じられず、世俗も宗教生活も混然一体となっていたかのようにも思われる。二見淑子『民族の魂 グルジア、ウクライナの歌』(近代文藝社、1995年)はグルジア音楽の比較分析を進めた結果、聖歌にはグルジア土着の民謡の影響が濃厚で、キリスト教受容の当初からグルジア化の傾向があったと指摘している。

 グルジアは後337年にキリスト教を国教化した。アルメニアに次ぐ古さで、テオドシウス帝によるローマ帝国での国教化(380年)よりも古い。グルジアでも当初はビザンツ式典礼が行なわれていたが、6~7世紀頃からグルジア語による典礼・聖歌が広まり始め、9世紀までには完全にグルジア化されたという。12世紀のタマラ女王の時代は文化的にも最盛期となった。その後、モンゴル、ペルシア、トルコと様々な外来勢力の侵食を受け、1801年にロシア帝国に併合された。以降、ロシア経由で西欧音楽が流入する。

 グルジアの首都チフリス(現トビリシ)はロシア領コーカサスにおける音楽教育の中心となった。コーカサス音楽協会の音楽学校が設立され、これは1917年に正式に高等音楽院となる(アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライはここの校長として招聘された)。また1883年、やはり音楽学校の教員として来ていたイッポリトフ=イワーノフ(組曲「コーカサスの風景」で有名。特に「酋長の行進」はライト・クラシックとして演奏される機会も多い)を中心にオーケストラが結成された。1886年にチフリスを訪問したチャイコフスキーをこのオーケストラが出迎えることになる(森田稔「西洋との接触から生まれたコーカサスの国民音楽」『コーカサスを知るための60章』明石書店、2006年)。

 こうして西欧音楽が流入する一方で、グルジア聖歌は教会の管轄下にあった。一種の分立状態と言えようか。19世紀以降、ヨーロッパの中小民族の間で自分たち独自の民族文化を見直そうという動きが高まるが、グルジアもその例外ではなかった。まず聖歌が再評価されたほか、民謡採集も積極的に行なわれるようになる(イッポリトフ=イワーノフなどのロシア人音楽家も協力した)。

 アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライは、リムスキー=コルサコフに師事した著名な音楽家で、1918年、チフリスの高等音楽院の校長として招聘され、グルジアへ移住した。当時のグルジアはメンシェヴィキを中心に独立した政権が形成されて比較的安定しており、革命で混乱したロシアから脱出しようという意図があった(しかし、1921年にグルジアはボルシェヴィキによって制圧され、チェレプニン一家はヨーロッパへ亡命する)。父親に連れられて来たアレクサンドルは多感な青年期、ここチフリスで音楽的にも大きな刺激を受ける。チフリスはコーカサスにおける音楽教育の中心であり、また19世紀以来コーカサス諸民族の民謡採集が行なわれてきた成果もあり、様々な音楽要素に出会う機会があった。そもそもグルジアをはじめとしたコーカサス一帯は、北はロシア、南はイスラム勢力の影響により、異なる文化圏が混淆した地域である。

 私がチェレプニンという人物に興味を持ったのは、彼が日本と中国で若手音楽家の発掘に努め、とりわけ日本では江文也と伊福部昭を見出したこと。江は台湾出身、日本で音楽教育を受け、その後中国に渡った。伊福部は日本人だが、幼少時からアイヌの文化に馴染んでいた。こうした人物に関心を寄せるチェレプニンの多民族融合的な音楽志向には、グルジアで多感な青年期を過ごした体験がやはり大きな影響を及ぼしていたと言える。

 チェレプニンはハチャトリアンの曲も大好きだったが、片や亡命ロシア貴族、片やソ連を代表する音楽家の一人、会う機会のないことを残念がっていた。ハチャトリアンはアルメニア人だが、若い頃はグルジアのチフリスにいた。チフリスはグルジアの首都であると同時にロシア領コーカサス全体の中心都市でもあり、様々な民族が入り混じっていた。特に経済面で活躍していたアルメニア人は19世紀の時点でチフリスにおける最大人口を占めていたので(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, pp.147-148)、彼がチフリス育ちだとしても珍しいことではなかった。ハチャトリアンが若き日に、チフリスで行なわれたある演奏会に非常な感銘を受けたと語っているのをチェレプニンは知り、「私もその演奏会は聴きに行った、ああ、彼と同じ会場で同じ感動を受けていたんだ!」と実に感慨深げである(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer, Indiana University Press, 2008, p.27)。

 ハチャトリアンの曲をまとめて聴き返してみた。「剣の舞」「レズギンカ舞曲」などは有名だから、ああ、あれか、とすぐイメージはわくだろうが、交響曲第三番なんてあの調子が繰り返し続く。音量をしぼらないと耳が痛くなるが、あの派手さ、たとえばシンバルの激しいリズムにのって金管楽器が咆哮するところなんて血わき肉おどるようで大好き。土俗的に素朴で力強いリズムと色彩豊かな音響の厚み、ふとチェレプニンが見出した伊福部の「日本狂詩曲」を思い浮かべ、チェレプニンの好みが何となくうかがわれるように思った。

 なお、グルジアの現代作曲家ではギヤ・カンチェーリが有名だが、彼についてはまた機会を改めて。

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2009年2月10日 (火)

何となくプロメテウスで雑談

 天界から火を盗んで人間に与えたため、ゼウスの不興をこうむってコーカサスの岩山に縛り付けられたプロメテウス。荒鷲に体をついばまれても元通り、苦痛が延々と続く。巍巍として荒涼たる岩山に、グリューネヴァルトのキリスト磔刑図のような姿で括りつけられ、天空いと高きところに荒鷲がンギャア、ンギャアと鳴いている、そんなイメージがある。アイスキュロス(呉茂一訳)『縛られたプロメーテウス』(岩波文庫、1974年)は、こうした不条理に耐えつつ、全能なるゼウスに毅然として対峙する雄雄しい姿を描いている。ゼウスに向かって呪詛の言葉をはっきりと投げつけるところなど『ヨブ記』とはだいぶ違う。

 ロシア革命の混乱の中、1918年に独立を宣言したグルジア共和国は1921年にボルシェビキによって制圧され、共和国指導層は国外に亡命、プラハ、パリ、ワルシャワなどで拠点組織を設立。パリで発行された機関誌のタイトルはProméthéeとつけられた。亡命組織の中でも色々な思惑があったらしいが、反ボルシェビキという点で一括してPrometheanismと呼ばれたという(Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus, Oxford University Press, 2008, p.174)。プロメテウスにはコーカサスという土地のシンボル的イメージがあると同時に、独立へ向けての不屈の意志という意味合いも当然ながら込められていたのだろう。

 スクリャービンの交響曲第五番は「プロメテウス、あるいは火の詩」。この曲の独特なところは、照明の色彩とピアノの鍵盤とが連動した色光ピアノを使うよう指示されていること。通常、人間の知覚能力は目で色彩を把握し、耳で音を聞き取るという形で五官の機能が働いているが、こうした感官機能の作用が通常とは異なる人が稀にいるそうだ。共感覚というらしい。スクリャービンや、あるいはランボーなどもそうだったという説もある。「俺は母音の色を発明した。──Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」(小林秀雄訳『地獄の季節』岩波文庫、1970年、30ページ)。

 コーカサス→プロメテウス→火、と言えば、カスピ海は石油の宝庫。湖畔で石油が燃え上がる光景はゾロアスター教徒にとって重要な意味を持った。イスラム化する以前、アゼルバイジャンのあたりにはゾロアスター教が広まっていたし、遠方からもわざわざ見にやって来る信徒もいたという。

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