アンナ・ポリトコフスカヤの三冊
アンナ・ポリトコフスカヤ(鍛原多惠子訳)『ロシアン・ダイアリー 暗殺された女性記者の取材手帳』(NHK出版、2007年)は、2003年12月から2005年8月まで、プーチン再選に向けての選挙キャンペーンの喧しかった季節からウクライナのオレンジ革命、キルギスのチューリップ革命と続いた時期に重なる。
大統領選挙と言っても、プーチン再選初めにありきで、体裁を整えるために泡沫御用候補を並べるのはともかく、有力な野党候補が拉致されてしまうというのはやはり異常だ。同時に、民主派勢力が仲違いしてまとまらないことにもアンナは苛立ちを隠さない。プーチン政権は暴力に買収、そして情報操作とあらゆる手段を使って統制を進めているが、ロシア人の忍耐強さがかえってこうした動きを助長してしまっているとも指摘する。民主派指導者の一人、ヤブリンスキーへのインタビューではこんなやり取りもあった。「あなた方は政権と妥協して、見返りに議席の確保を狙っているのではないのか?」というアンナの問いかけ、対してヤブリンスキーは「冗談じゃない、それを言うなら、あなたの新聞はなぜつぶされていないんだ? 政権はあなたの新聞をEUに持っていって、ほら、わが国にも言論の自由がある、そう言い訳するのに利用しているのではないか?」と返す。その後、ヤブリンスキーは議席を失い、アンナは殺されてしまうわけだが。こうした軽口のたたき合いから、「あいつも政権に取り込まれたんじゃないか?」と疑心暗鬼が渦巻いている様子が窺える。
モスクワでタジク人の誰それが殺された、チェチェンで誰それがFSB(=連邦保安局、KGBの後身)に連行された──こうしたことが毎日書きつけられている。それぞれ簡潔な一文であるだけに、日常茶飯事と化した現実の恐ろしさを感じさせる。だが、それは報道されない。ベスラン事件でアンナは仲介役に指名され、まさに当事者だったわけだが、その時の手帳は素っ気ない。FSBに毒を盛られ、意識不明で病院に担ぎ込まれたからだ。
アンナのライフワークはチェチェン問題である。『チェチェン やめられない戦争』(三浦みどり訳、NHK出版、2004年)は、ロシア軍がやりたい放題、文字通りの無法状態に投げ込まれてしまったチェチェンの人々の惨状をつぶさに見聞きして、戦争を押し進めるロシアの体制の矛盾を告発する。チェチェン人の受難については本書を読んでもらうしかないが、他方で、こうした体制はロシア人にも犠牲を強いている。たとえば、『プーチニズム 報道されないロシアの現実』(鍛原多惠子訳、NHK出版、2005年)では、入営したロシア人の若者が上意下達の軍隊文化の中でリンチを受けて殺されてしまったにも拘わらず、司法は口を閉ざしていることを彼女は報告する。「ロシア兵の母の会」とチェチェン人の犠牲者の母親たちとの合同デモを実現できたのは、アンナのように双方の人々と誠実に向き合ってきた人がいたからこそだ。また、チェチェンから帰還してモスクワ勤務に戻った兵士が何の意味もなく“掃討作戦”を行なうということにも考えさせられてしまう。チェチェンの戦場に駆り出されて精神に異常をきたしてしまっている。見方を変えれば、彼らだって犠牲者だと言える。
チェチェン人の老人ホームに援助物資を届けに行く際、ついて来た若いロシア軍将校のことが印象に残る。彼は、こういう状況は初めて知った、と涙を流してアンナに感謝した。ところが、その不規則行動のゆえに彼は解雇されてしまった。事実さえ知らせることができれば何とか希望をつなぐことはできる。しかし、上からの圧力によってロシア国内の報道機関は肝心なニュースをにぎりつぶす。そもそも『ロシアン・ダイアリー』『プーチニズム』の二冊は英語版からの翻訳で、ロシア語版は刊行されていない。そして、2006年10月7日、アンナは自宅アパートのエレベーター内で射殺された。享年四十八。
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