岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』、榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』
近代日本の音楽史を考える上で、“満州”というファクターは意外と無視できない。岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』(音楽之友社、1999年)はこの空白の音楽史を明らかにしてくれる。もともとロシア色の強い街ハルビンにロシア革命によって多数の人々が亡命してきたが、多くの芸術家たちも逃れてきた。その中には、ケーニヒ、メッテルなど、日本のオーケストラ育成に力を注いだ人々もいた。ヨーロッパ留学経験のある山田耕筰は、本場のオーケストラの魅力を何とか日本でも響き渡らせたいと考え、ハルビンから東支鉄道交響楽団を招いたりもしている。
1932年の満州国建国後も、音楽愛好家の尽力でハルビン交響楽団が設立され、白系ロシア人をはじめ多国籍のメンバー構成。さらに、甘粕正彦の肝煎りで新京交響楽団も設立された。彼の関心は満州国の“国家”としての体裁を整えて西欧にひけをとらない文化水準を示そうとするところにあり、そのための人材を育成しようと新京音楽院も設立。中国人生徒を入学させ、もちろん結果論ではあるが、戦後中国の音楽界を担う人材もここから出てきた。また、満州国時代、ラジオ放送を通して西洋音楽の響きが中国人民衆の耳にも馴染み始めていた。日本は西洋排撃を高唱しつつも、実際には西洋の文物や制度の普及によって支配地域に臨んだというこの不思議な矛盾が音楽という側面からも窺われるのが面白い(建築についても同様のことが言える→こちらを参照)。
若き日の朝比奈隆も新京交響楽団を指揮している。満州での彼の初舞台はベートーベンの第五に加え、江文也とバルトークという組み合わせ。二人とも、民族色と西欧音楽との融合に意を砕いていた音楽家だ。建前としての“五族協和”なる理念を意識したのだろう。日本内地でチャンスの得られない朝鮮人音楽家たちも満州国へ渡ったという。日本の敗戦後、ハルビンのオーケストラがソ連兵相手に演奏することになった際、日本人の指揮者はダメだということで、朝鮮人の林元植が急遽タクトを取ることになった。彼はハルビンに残留していた朝比奈からレッスンを受け、自らを朝比奈の弟子だと語る。民族の垣根を感じさせず親身に相談にのってくれた朝比奈のことを尊敬していたようだ。林元植は後に韓国の楽壇の権威となる。なお、やはり同じ頃ハルビンで音楽を学んでいた白高山は北朝鮮に行って、こちらで西洋音楽の第一人者となった。また、1970年代に中国で客演した小澤征爾は、北京で新京交響楽団の所蔵印のある楽譜を見たそうだ。帝政ロシア時代の楽譜を満州にいた日本人が写譜、それが戦後中国に残っていたわけである。いずれにせよ、東アジア広域における音楽史の中で満州国の持った意味合いは決して小さくない。
共産党の公定史観では、満州国と同様、上海租界=帝国主義の植民地という位置付けで、そこで行なわれた音楽活動についてもやはり厳しい見方をされてしまう。榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』(春秋社、2006年)はそうした頑な態度からは自由に、上海で活動した音楽家たちの群像を語りつくしてくれる。
東アジアで最も古いオーケストラは1879年に結成された上海パブリックバンドである。その後、共同租界工部局の管轄下に入り、「工部局交響楽団」と呼ばれる。指揮者マリオ・パーチが育て上げた。演奏者も聴衆も西洋人ばかりだったが、徐々に中国人も入ってきて、その関係者から戦後中国の音楽をリードする人材を輩出することになる。日本軍の占領下、日本側に移管されて「上海交響楽団」となった。“敵国人”が強制収容所に入れられた一方で、聴衆の大半は中国人が占めるようになったという。
朝比奈隆は上海交響楽団でも客演している。日本色を出したがる山田耕筰や近衛秀麿とは違ってスマートな朝比奈は楽団員から好感を持たれたらしい。朝比奈も上海交響楽団の実力は素晴らしかったと言い、この時の経験は後に欧米の有名オーケストラで客演する際に役立ったという。
満洲にしても、上海にしても、イギリス・ロシア・日本といった帝国主義列強による侵略の歴史と二重写しになってしまうので、たとえ音楽という本来は政治性の稀薄なジャンルといえども、中国側で冷静に考えるのは難しかった。そうした難しさの中、上掲二書とも近現代東アジアの音楽史を彩る人物群像を様々に掘り起こし、かつ現代史にまつわる政治性ともうまくバランスをとりながら書かれているのでとても面白い。二冊とも題材として色々なタネをまいてくれているように思うので、これを踏まえた研究がもっと出て欲しい。
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