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2009年1月31日 (土)

井筒俊彦『ロシア的人間』

井筒俊彦『ロシア的人間』(中公文庫、1989年)

 戦後間もなく、井筒俊彦が大学でロシア文学を講じた草案がこの『ロシア的人間』のもとになっている。後年の井筒が思索をめぐらした東洋思想や言語哲学の論著は、テーマそのものがはらむ了解困難な性格のゆえに非常に晦渋な印象を持たれやすい。しかし、本書はそうしたしかめっつらしい相貌とは打って変わって、これがあの井筒か、と驚くほどに情熱的に鮮烈な文章が次々と繰り出されてくる。良い意味で若書きだ。同時に、ロシア文学という題材を通して後年の井筒の思索の萌芽も垣間見える。単なるロシア文学史という以前に、井筒の思想を知るとっかかりに格好な入門書とも言えよう。

 たとえば、チュチェフという詩人を取り上げて井筒はこう記す。

…この詩人の眼光は、氷河を溶かす春の太陽のようなものだ。彼が眸を凝らしてじっと眺めていると、今まで硬い美しい結晶面をなしていた実在世界の表面が、みるみるうちに溶け出して、やがて、あちこちにぱっくり口を開けた恐ろしい亀裂から、暗い深淵が露出してくる。絶対に外には見せぬ宇宙の深部の秘密を、禁断を犯してそっと垣間見る、その不気味な一瞬の堪えがたい蟲惑! 恐怖に充ちた暗黒の擾乱の奥底を、身の毛もよだつ思いをもって、詩人は憑かれたように覗き込む。…存在がその窮極の深みにおいて、いかに恐ろしいものであり、また同時にいかに美しいものであるかということをこの詩人は痛切に知っていた。そう言えば、一般に、表層的な美とは全くの成立の次元を異にして、真の深層の美は、ただ美しいだけでなく同時に恐ろしいものであり、光であるとともに闇でもあること、そこにこそ美に纏わる永遠の神秘があるのではないか。…宇宙の深部に隠れひそむ太古の暗黒は自らを意識しないが、それが詩人の意識を借りてほのかに明るみに照らし出されてくる。詩的直観の意識はいわば宇宙そのものの意識だ。言いかえれば、詩人の意識が真に純粋な詩的陶酔に入った時、それは宇宙の根柢が自己自身を意識する場所となるのである。そして詩人の意識が宇宙と間髪を入れずぴたりと一致して一体となるこの瞬間には、人を茫然自失せしめるばかりの、筆舌に尽し難い美の魅惑があるのだ。このような瞬間、詩的意識の照明の中に朦朧と浮び上ってくる宇宙的カオスの恐ろしくも美しい姿を、チュチェフは、人っ子一人いない深夜、月光を浴びてきらめきつつ身をうねらす大海の波に象徴している(179~180ページ)。

 あるいは、自然性と意識性との相克をトルストイに見出したり、自然性を喪失して他者とのまっさらな共感が閉ざされた近代人の宿命的苦悩をドストエフスキーから読み取ったり。無条件に“あるがまま”という法悦を意識的にギリギリまで追求する、この本来的に矛盾した探求を無謀なまでにやり抜こうとした井筒の思索に戦慄した経験のある人ならば、彼がロシア文学の魅力を語りつつも、その語られたものはもっと次元の違うところにあるという限りない深淵に気付くはずだ。

 井筒俊彦といっても、一般読書人の間ではイスラム思想の専門家という程度にしか認識されていないようだ。最近、井筒のイスラム理解には井筒自身の過剰な読み込みがあるという指摘がされているらしいが、それはこの『ロシア的人間』にもあてはまる。これを裏返すと、井筒自身の存在論的探求が、ある場面ではロシア文学史という形をとり、ある場面ではギリシア神秘思想という形をとり、またある場面ではイスラム思想という形をとったというに過ぎない。

 彼は後年、東洋思想(ただし、彼の関心には古代ギリシア思想やロシア文学が入ってくるから、近代西欧以外のすべてと言う方が適切かもしれない)における思惟構造の共時的把握という課題に挑み、その序論として中国仏教の『大乗起信論』をテクストに『意識の形而上学』(中公文庫、2001年)を書き上げたところで亡くなった。もしこれが続行されていれば、井筒自身の思想を、あらゆる文明の思想枠組を借りて語ろうという、とてつもないスケールの試みだったと言える。かのジャック・デリダが井筒をマイスターと呼んで教えを請うていたのは知る人ぞ知る話。『ギルガメシュ叙事詩』を訳した矢島文夫氏は、原典を入手できず困惑していたある日、たまたま井筒の書斎を訪ね、無造作に積み上げられた書物の中に『ギルガメシュ叙事詩』を見つけ、事情を話して借り受けたそうだ。井筒の知的探求は、どこの思想、というレベルではなく、時空間を超えて思想一般に広く目が及んでいた。

 私は哲学の専門的訓練を受けたことはないが、戦後日本の哲学者でこの人は本当にすごいと驚嘆した人が二人だけいる。一人は、率直な感受性という点で大森荘蔵。もう一人が、知的スケールの壮大さという点で井筒俊彦。私の敬愛する故池田晶子女史もこの二人に私的に師事していたはずだ。

 今月、ロシア政治がらみの本を何冊か読みながら(→こちらを参照のこと)、思想史的に歯ごたえのあるものを何か読みたいと思って、本棚からこの『ロシア的人間』を引っ張り出してきたという次第。皇帝=神=ロシアという感覚、“真理”のためならば善悪の彼岸に立って流血も正当化する感覚、受難への黙従、こういったロシア文学から読み取られたポイントが、ジャーナリストたちの指摘する現代ロシア政治の問題点と一つ一つ符合してくるのが興味深い。あるいは、旧ソ連の膨張主義も、共産主義インターナショナル云々というのではなく、井筒の言うようにロシアの民族的メシアニズムという観点から捉える方が私などには説得的に思えてくる。もちろん、本書に解説を寄せている袴田茂樹氏が指摘するように、ロシア文学に登場する人物群像はあくまでも知識人の構築物であって、現実の市井の人々を写し取っているわけではない。しかし、もっとメタな精神史的スケールとして井筒の議論に私は魅力を感じてしまう。

 井筒と対談した司馬遼太郎がこんなことを記していた。ちょうどリクルート事件で世間が騒然としていた時期。ああいう事件を通しても日本の思想というのが見えてくる、という趣旨のことを井筒は語ったらしい。

 思想史というのは、表層的なレベルにとどまっている限りただの観念遊戯に終わってしまう。しかし、ひとたび思想史の核心に迫ることができれば、同じ物事を見ていても、その見え方がおそらく違ってくるのだろう。世界史レベルで思索を続けていた井筒からすればリクルート事件なんてほんの些末事に過ぎなかったろうが、彼の目には政治的事象もどんなふうに映っていたのか、興味が引かれる。

 それにしても、こんな素敵な本が版元品切れ中というのは実にもったいない…。

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