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2009年1月

2009年1月31日 (土)

井筒俊彦『ロシア的人間』

井筒俊彦『ロシア的人間』(中公文庫、1989年)

 戦後間もなく、井筒俊彦が大学でロシア文学を講じた草案がこの『ロシア的人間』のもとになっている。後年の井筒が思索をめぐらした東洋思想や言語哲学の論著は、テーマそのものがはらむ了解困難な性格のゆえに非常に晦渋な印象を持たれやすい。しかし、本書はそうしたしかめっつらしい相貌とは打って変わって、これがあの井筒か、と驚くほどに情熱的に鮮烈な文章が次々と繰り出されてくる。良い意味で若書きだ。同時に、ロシア文学という題材を通して後年の井筒の思索の萌芽も垣間見える。単なるロシア文学史という以前に、井筒の思想を知るとっかかりに格好な入門書とも言えよう。

 たとえば、チュチェフという詩人を取り上げて井筒はこう記す。

…この詩人の眼光は、氷河を溶かす春の太陽のようなものだ。彼が眸を凝らしてじっと眺めていると、今まで硬い美しい結晶面をなしていた実在世界の表面が、みるみるうちに溶け出して、やがて、あちこちにぱっくり口を開けた恐ろしい亀裂から、暗い深淵が露出してくる。絶対に外には見せぬ宇宙の深部の秘密を、禁断を犯してそっと垣間見る、その不気味な一瞬の堪えがたい蟲惑! 恐怖に充ちた暗黒の擾乱の奥底を、身の毛もよだつ思いをもって、詩人は憑かれたように覗き込む。…存在がその窮極の深みにおいて、いかに恐ろしいものであり、また同時にいかに美しいものであるかということをこの詩人は痛切に知っていた。そう言えば、一般に、表層的な美とは全くの成立の次元を異にして、真の深層の美は、ただ美しいだけでなく同時に恐ろしいものであり、光であるとともに闇でもあること、そこにこそ美に纏わる永遠の神秘があるのではないか。…宇宙の深部に隠れひそむ太古の暗黒は自らを意識しないが、それが詩人の意識を借りてほのかに明るみに照らし出されてくる。詩的直観の意識はいわば宇宙そのものの意識だ。言いかえれば、詩人の意識が真に純粋な詩的陶酔に入った時、それは宇宙の根柢が自己自身を意識する場所となるのである。そして詩人の意識が宇宙と間髪を入れずぴたりと一致して一体となるこの瞬間には、人を茫然自失せしめるばかりの、筆舌に尽し難い美の魅惑があるのだ。このような瞬間、詩的意識の照明の中に朦朧と浮び上ってくる宇宙的カオスの恐ろしくも美しい姿を、チュチェフは、人っ子一人いない深夜、月光を浴びてきらめきつつ身をうねらす大海の波に象徴している(179~180ページ)。

 あるいは、自然性と意識性との相克をトルストイに見出したり、自然性を喪失して他者とのまっさらな共感が閉ざされた近代人の宿命的苦悩をドストエフスキーから読み取ったり。無条件に“あるがまま”という法悦を意識的にギリギリまで追求する、この本来的に矛盾した探求を無謀なまでにやり抜こうとした井筒の思索に戦慄した経験のある人ならば、彼がロシア文学の魅力を語りつつも、その語られたものはもっと次元の違うところにあるという限りない深淵に気付くはずだ。

 井筒俊彦といっても、一般読書人の間ではイスラム思想の専門家という程度にしか認識されていないようだ。最近、井筒のイスラム理解には井筒自身の過剰な読み込みがあるという指摘がされているらしいが、それはこの『ロシア的人間』にもあてはまる。これを裏返すと、井筒自身の存在論的探求が、ある場面ではロシア文学史という形をとり、ある場面ではギリシア神秘思想という形をとり、またある場面ではイスラム思想という形をとったというに過ぎない。

 彼は後年、東洋思想(ただし、彼の関心には古代ギリシア思想やロシア文学が入ってくるから、近代西欧以外のすべてと言う方が適切かもしれない)における思惟構造の共時的把握という課題に挑み、その序論として中国仏教の『大乗起信論』をテクストに『意識の形而上学』(中公文庫、2001年)を書き上げたところで亡くなった。もしこれが続行されていれば、井筒自身の思想を、あらゆる文明の思想枠組を借りて語ろうという、とてつもないスケールの試みだったと言える。かのジャック・デリダが井筒をマイスターと呼んで教えを請うていたのは知る人ぞ知る話。『ギルガメシュ叙事詩』を訳した矢島文夫氏は、原典を入手できず困惑していたある日、たまたま井筒の書斎を訪ね、無造作に積み上げられた書物の中に『ギルガメシュ叙事詩』を見つけ、事情を話して借り受けたそうだ。井筒の知的探求は、どこの思想、というレベルではなく、時空間を超えて思想一般に広く目が及んでいた。

 私は哲学の専門的訓練を受けたことはないが、戦後日本の哲学者でこの人は本当にすごいと驚嘆した人が二人だけいる。一人は、率直な感受性という点で大森荘蔵。もう一人が、知的スケールの壮大さという点で井筒俊彦。私の敬愛する故池田晶子女史もこの二人に私的に師事していたはずだ。

 今月、ロシア政治がらみの本を何冊か読みながら(→こちらを参照のこと)、思想史的に歯ごたえのあるものを何か読みたいと思って、本棚からこの『ロシア的人間』を引っ張り出してきたという次第。皇帝=神=ロシアという感覚、“真理”のためならば善悪の彼岸に立って流血も正当化する感覚、受難への黙従、こういったロシア文学から読み取られたポイントが、ジャーナリストたちの指摘する現代ロシア政治の問題点と一つ一つ符合してくるのが興味深い。あるいは、旧ソ連の膨張主義も、共産主義インターナショナル云々というのではなく、井筒の言うようにロシアの民族的メシアニズムという観点から捉える方が私などには説得的に思えてくる。もちろん、本書に解説を寄せている袴田茂樹氏が指摘するように、ロシア文学に登場する人物群像はあくまでも知識人の構築物であって、現実の市井の人々を写し取っているわけではない。しかし、もっとメタな精神史的スケールとして井筒の議論に私は魅力を感じてしまう。

 井筒と対談した司馬遼太郎がこんなことを記していた。ちょうどリクルート事件で世間が騒然としていた時期。ああいう事件を通しても日本の思想というのが見えてくる、という趣旨のことを井筒は語ったらしい。

 思想史というのは、表層的なレベルにとどまっている限りただの観念遊戯に終わってしまう。しかし、ひとたび思想史の核心に迫ることができれば、同じ物事を見ていても、その見え方がおそらく違ってくるのだろう。世界史レベルで思索を続けていた井筒からすればリクルート事件なんてほんの些末事に過ぎなかったろうが、彼の目には政治的事象もどんなふうに映っていたのか、興味が引かれる。

 それにしても、こんな素敵な本が版元品切れ中というのは実にもったいない…。

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2009年1月30日 (金)

今日マチ子『センネン画報』

今日マチ子『センネン画報』(太田出版、2008年)

 これ、なんか良いね。さり気ない日常光景を切り取った、1ページ完結の連作マンガ。一つ一つの小話めいたものはどうでもいいんだけど、十代の青春時代の感傷を思い起こさせるような淡い青の色づかいが無性に目にしみてくる。こちらのブログからセレクトされて一冊にまとめられている。

 しかし、今日マチ子ってペンネームは何でしょう? 黒澤明の「羅生門」を思い浮かべて、このマンガとイメージが全然違う…。

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2009年1月29日 (木)

最近のロシア、チェチェン問題がらみの本

 今月に入って読んだロシアがらみの本。2006年に暗殺されたアンナ・ポリトコフスカヤ(鍛原多惠子訳)『ロシアン・ダイアリー 暗殺された女性記者の取材手帳』(NHK出版、2007年)、同(三浦みどり訳)『チェチェン やめられない戦争』(NHK出版、2004年)はこちらで触れた。

 やはり同年に暗殺された元FSB将校アレクサンドル・リトヴィネンコについては、歴史学者ユーリー・フェリシチンスキーとの共著『ロシア 闇の戦争──プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』(光文社、2007年)、彼の妻マリーナ・リトヴィネンコと亡命学者アレックス・ゴールドファーブとの共著『リトビネンコ暗殺』(早川書房、2007年)の2冊。国民のプーチン政権に対する求心力を高めることを目的としてチェチェン戦争は仕掛けられ、その正当化のためモスクワ劇場占拠事件やベスランの小学校占拠事件は秘密警察によって仕組まれていたとポリトコフスカヤもリトヴィネンコも主張していた。ロンドンに亡命したリトヴィネンコが、やはり亡命中のチェチェン人指導者ザカーエフと親交を深め、チェチェンの人々への贖罪の気持ちのあまり晩年にはイスラムに改宗していたというのが興味深い。そのことで葬儀の際、遺族ともめたらしいが。

 ポリトコフスカヤの著作にはプーチン批判の口調に若干ヒステリックな感じがあるし、リトヴィネンコ関連書では自画自賛的なところも否めない。ジャーナリストのスティーヴ・レヴィン(中井川玲子・櫻井英里子・三宅敦子訳)『ザ・プーチン 戦慄の闇──スパイと暗殺に導かれる新生ロシアの迷宮』(阪急コミュニケーションズ、2009年)はもう少し第三者的な立場から、この二人も含めて暗殺の横行するロシアの政治体制の問題点をレポートする。

 中村逸郎『ロシアはどこに行くのか──タンデム型デモクラシーの限界』(講談社現代新書、2008年)は、警察の腐敗、選挙の買収など横行しつつもロシア国民が諦めきって政権に黙従している日常光景の描写が目を引く。タンデムとは二頭立て馬車。リベラル派という印象から欧米に割合と受けの良いメドヴェージェフ大統領を看板にして、実権を握るプーチン首相。しかし、レヴィン書・中村書とも、将来的にこの二人の間に権力闘争が生じる可能性を排除しない。メドヴェージェフなんて若僧はただの操り人形に過ぎないじゃないかと言われるが、プーチンだってエリツィンによって引き立てられた時点では似たような立場だった、と。たとえ二人に信頼関係があったとしても、プーチンに連なるシロビキとメドヴェージェフ周辺の人脈とでは明らかに温度差があるという。

 チェチェン問題がらみでは、チェチェン人自身による手記として、ミラーナ・テルローヴァ(橘明美訳)『廃墟の上でダンス──チェチェンの戦火を生き抜いた少女』(ポプラ社、2008年)、ハッサン・バイエフ(天野隆司訳)『誓い──チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』(アスペクト、2004年)の2冊についてこちらで触れた。チェチェン問題の背景を知るには、林克明・大富亮『チェチェンで何が起こっているのか』(高文研、2004年)、植田樹『チェチェン大戦争の真実 イスラムのターバンと剣』(日新報道、2004年)、横村出『チェチェンの呪縛 紛争の淵源を読み解く』(岩波書店、2005年)がある。常岡浩介『ロシア 語られない戦争──チェチェンゲリラ従軍記』(アスキー新書、2008年)はチェチェン人たちと信頼関係を築き、彼らへの敬意を惜しまない一方で、FSBの息のかかった者も紛れ込んでいる様子が実体験を以てリアルに描かれているのが目を引く。著者はリトヴィネンコとも親交があり、彼へのインタビューが巻末資料として掲載されている。チェチェン問題についてはロシアの秘密警察が仕組んだ戦争という点でポリトコフスカヤ、リトヴィネンコとも命を懸けて取り組んでいた。

 チェチェン情勢関連のメモを整理しておこうと思っていたが、時間がないので、以上、文献紹介まで。

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2009年1月26日 (月)

ニコ・ピロスマニのこと

 NHK教育テレビ「新・日曜美術館」でピロスマニの特集。彼のことは、昨年の夏、渋谷の文化村で開催された「青春のロシア・アヴァンギャルド」展で初めて知った(→こちらを参照のこと)。シャガールやらカンディンスキーやらマレーヴィチやらとシュールな絵が並ぶ中、ピロスマニの絵の素朴さは全く異世界に足を踏み入れたかのように際立ち、その印象が本当に強烈だった。

 ニコ・ピロスマニ(Niko Pirosmani、もしくは、ピロスマナシヴィリPirosmanashvili、1862~1918年)。グルジアのカへティという地方の農村に生まれたが、幼い頃に両親をなくし、首都ティフリス(現トビリシ)の親戚の家に引き取られた。印刷工や鉄道員をしたり知人と商売をしたりと職を転々とした挙句、絵筆を手に居酒屋の看板絵を描きながら放浪生活を送るようになる。報酬は、酒とパンと一夜の宿。金が入れば絵具を買った。ペテルブルクから来た若手芸術家たちによって見出されて一躍注目を浴びたが、彼の絵の素朴さは画壇から「画法が稚拙だ」と酷評された。放浪生活のまま1918年、狭い階段下の一室で独り死んでいる姿が見つかる。

 黒や暗色系を背景にしたイコンを思わせる人物像を見ていると、何となく敬虔な雰囲気も漂っていてジョルジュ・ルオーを思い浮かべたけど、コーカサスの森を背景に人々や動物を描いたものを見ると、色合いの暗いアンリ・ルソーって感じもする。ピロスマニを知らない人に向けてイメージとして伝えようとするとそんなところか。鹿や熊など動物の絵も多くて、つぶらな瞳がかわいらしい。何よりも、背景に使われている深い青の色合いが私の眼に焼きついている。

 最近、私はアレクサンドル・チェレプニンという音楽家に興味があって、彼は革命前後の時期、ティフリスの音楽院長として赴任してきた父親と一緒にグルジアへ来ており、ピロスマニの絵を同時代で見ている。彼はピロスマニの素朴さに目を引かれつつも困惑しており、結局、「未熟な学生の素朴さだ」と記していた(Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer, Indiana University Press, 2008, pp.29-30)。これが当時の知識人の一般的な見解だったのだろう。稚拙、と言えばそうなのかもしれない。画法のスタンダードに則っていないという意味で。しかし、彼の絵を見て、私も含め何かホッとするものを感じて、理屈以前に強い愛着を覚えるのはどうしたことなのか。

 加藤登紀子に「百万本のバラ」という曲があるらしいが(世代的に知りませんでした)、この曲のモデルはピロスマニだという。マルガリータというフランス人女優に恋をして、彼女の宿泊先の周りを全財産はたいてバラの花で埋め尽くしたそうな。世間知らずなバカと言えばバカです。だけど、こういうひたむきな純粋さ、それを、人から何と言われようとも絵を描き続け、貧窮の放浪生活の中で死んでいく姿と重ね合わせたとき、私には何ともうまい言葉が出てこない。技術がどうとかいうレベル以前に、この人はこうあらざるを得なかった、その純粋さが絵を通して訴えかけてくるものに胸が打たれるとしか言いようがない。ペテルブルクから来た前衛芸術家たちも、既成の妙なしがらみを一切取り払って純粋なものを求めようという情熱があったはずで、その点で彼らもピロスマニの素朴さに自分たちにはないものを見出して驚愕したのだと思う。

 「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を観てピロスマニという人物に興味がかきたてられ、彼のことを知りたくてただちに画集(文遊社、2008年)を買った。だけど、この本、絵の配列がおざなりな感じだし(例えば、「兄と妹」という複数の絵にはストーリー的なつながりがありそうなのに、配置はバラバラ)、誤植もあったし、やはりピロスマニに関心を持った知人は印刷の色があまりよくないと言っていたし…。少々不満はあるけれど、彼の絵を一冊でまとめて鑑賞できるので大目に見ましょう。先日、グルジアのテンギズ・アブラゼ監督「懺悔」を観に行ったら(→こちらを参照のこと)、上映館の岩波ホールでもこの画集が販売されていた。映画の内容とは直接には関係ないのだが、グルジアといえばピロスマニと相場が決まっているようだ。

 ピロスマニの生涯を描いた評伝があれば是非読みたいと思っているのだが、どうやらないみたい。「新・日曜美術館」でも、たいていはゲストとして専門家が一人は招かれるものだが、今回は日本在住のグルジア人女性と彼に関心をもった絵本画家さんだけだった。せめて英語ならと思ってamazonで検索したのだが、見当たらず。ロシア語ならあるんだろうけど、読めません…。

 ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督「ピロスマニ」(1969年、日本では1978年に岩波ホールで上映)が彼の生涯を描き出しており、コーカサスのどこか寒々としつつも美しい野山を背景に、彼の絵を模したシーンがあちこちに散りばめられているのが目を引く。

 最近、色々な関心が不思議な交錯をしている。台湾出身の江文也という音楽家に興味を持って、江を見出したチェレプニンについて調べ始めて、そのチェレプニンは青春期にグルジアで音楽的感受性を養っていた。それから、アレクサンドル・ソクーロフ監督「チェチェンへ アレクサンドラの旅」という映画を観て、チェチェン問題を知ってそうでよく知らないことに気付いて、それでコーカサスの歴史を調べ始めた。そして、これもたまたまだけど、グルジア出身の作曲家ギヤ・カンチェリの曲をここのところ聴き込んでいる。そして、ピロスマニ。

 宴会風景の絵を観ていたら、何だかグルジア・ワインが呑みたくなってきた。グルジアに行ってみたいものだが、ここのところ政情不安が続いているからどうなんだろう?

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2009年1月25日 (日)

佐藤優がサンプロに出てたな

 今朝、佐藤優が「サンデープロジェクト」に出てたな。テレビ初出演との触れ込み。以前、何度か彼の講演会を聴きに行ったことがあって、そのたびに「書籍の文化は大切だと思うので書店での講演はボランティアでやるが、テレビには出たくない」という趣旨のことを話していたけど、田原総一郎との共著が出たばかりだから、そのプロモーションということで断れなかったんだろうな。

 佐藤優『国家の罠』(新潮社、2005年)を読んだときの驚きは以前こちらに書いたことがある。ただし、最近のものはちょっと食傷気味で読んでない。彼の国際情勢分析や国家論に興味ないわけじゃない。ただ、私の佐藤優の読み方は他の人とはちょっと違って、ある種の不条理にぶつかったときの態度の取り方として毅然としたものが『国家の罠』によく表われているところに興味を持った。彼の思想的バックボーンにはキリスト教がある。彼がむかし訳していたフロマートカ『なぜ私は生きているか』(新教出版社、1997年)をすぐ探し出して読んだ(こちらを参照のこと)。巻末に付された彼の解説論文がなかなか良かった。佐藤自身の考えるキリスト教神学論をまとめてくれたら是非読んでみたいと私は切望しているのだが、まあ売れないだろうからなあ。

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2009年1月23日 (金)

ユリウス・クラプロートという人

…と言っても知っている人はあまりいないでしょうね。私も今日初めて知りました。いま、Charles King, The Ghost of Freedom: A History of the Causasus(Oxford University Press, 2008)という本を読んでいて、知らない人名が出てくるたびにwikipediaで検索してるんだけど、この人、どうやらジャパノロジストとしても知られている人らしい(wikiの記事はこちら。国際日本文化研究センターのサイトには彼についての講演要旨あり)。

 Julius Heinrich Klaproth (1783-1835)、ベルリン生まれ。若い頃からアジアの言語の専門家として注目されていたようで、サンクト・ペテルブルクのアカデミーによって1807年、コーカサスに派遣された。弱冠24歳のとき。上掲書では、コーカサスにまつわるオリエンタリズムとも言うべきイメージ形成にあたり、18世紀のギュルデンシュテット(Johann Anton Güldenstädt)とこのクラプロートの観察が源流となり、二人ともロシアでの知名度は低かったが、ブロネフスキなる人の著作によってそのイメージはロシアでも一般的となり、さらにプーシキン「コーカサスの虜」につながるという文脈だった。

 クラプロート、ギュルデンシュテット、二人ともドイツ人であったことに上掲書は注意を促しているが、そもそも言語学という学問が19世紀ヨーロッパで本格化した時代的雰囲気と符合する(詳しくは、風間喜代三『言語学の誕生』岩波新書、1979年を参照のこと)。①ドイツではナショナリズムの高まり→民族的源流はどこ?という問いかけ→印欧語族の比較研究、②イギリス・フランスの植民地拡大→とりわけインドの知識→印欧語族研究の進展、③未知なる領域への探究心→ロマンティストがホイホイ海外へ出かけていく、ざっくり言ってこんなところか。

 クラプロートはもともと中国語に興味を持ったようだが、さらには、満州語、チベット語、ペルシア語、クルド語、サンスクリット等々と様々な言語の研究に没頭した。博士論文はウイグル語の研究。日本語については、イルクーツクにいたシンゾウ(ロシア語名、ニコライ・コロティギン)なる人物から手ほどきを受けたらしい。林子平『三国通覧図説』をフランス語訳したり、琉球諸島の研究をしたり、シーボルトとも文通していたという。どんな人なのか詳しいことは分からないが、ユーラシア大陸を股にかけてほっつき歩いていたロマンティスト(勝手にそう思っている)がいたというのは非常に興味がひかれる。

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2009年1月21日 (水)

ミラーナ・テルローヴァ『廃墟の上でダンス チェチェンの戦火を生き抜いた少女』、ハッサン・バイエフ『誓い チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』

 モスクワで弁護士のマルケロフ氏と新聞記者のバブロワさんが射殺されたという。例によってお蔵入りになるのだろう。マルケロフ氏が取り組んでいた、チェチェン人女性をレイプ・殺害したとされる元ロシア軍大佐の事件は、ポリトコフスカヤ(鍛原多惠子訳)『プーチニズム 報道されないロシアの現実』(NHK出版、2005年)で取り上げられている。パブロワさんの所属していた「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙には、かつてポリトコフスカヤもいた。

 チェチェン紛争はかつてほど耳目を引く激しさは伝わってこないが、ロシアの現政権が進める“紛争のチェチェン化”により、むしろ確実に日常化しているようだ。理由もなく人々を連行して身代金を要求するという非道が横行していることは、ポリトコフスカヤのルポルタージュやチェチェン人の手記で必ず出てくる話である。これはロシア軍ばかりでなく、チェチェン人の武装勢力までもがそうした“誘拐ビジネス”に手を染めている。武装勢力同士のいがみあいもある一方、あろうことか、ロシア軍と通じて“誘拐ビジネス”に励んでいる者も珍しくない。ロシア軍の軍事的プレゼンスは限定的となっても、敵か味方かという区別以前に、紛争そのものが経済的にも構造化してしまっている、その意味で日常化してしまっているところに、チェチェンの人々が置かれたやりきれない惨状がある。

 ミラーナ・テルローヴァ(橘明美訳)『廃墟の上でダンス──チェチェンの戦火を生き抜いた少女』(ポプラ社、2008年)は、ロシア軍の襲来で廃墟と化したチェチェンを抜け出し、フランスでジャーナリズムを学んでいる女性の手記。サラッと読み物風の筆致でも、そこにつづられている彼女の見たこと、聞いたことの重みはひしと感じる。

 チェチェンの首都グローズヌイではロシア軍による封鎖は日常茶飯事。彼女の通っていたグローズヌイ大学がいつものように包囲され、たまたま外に締め出されて門前で様子を見ていたときのこと。中に閉じ込められた娘が喘息持ちとのことで発作の薬を持ってきたある母親がロシア兵に「入れてください! そうしないと娘が死んでしまう!」と泣き叫ぶ。その若い兵士は「命令なんです、すみません、お助けしたいんですが、ぼくにはどうにもなりません」と弱々しく答える。ロシア軍の若年兵は二者択一を迫られてしまう。良心を押し殺して精神的に戦場と一体化するか、さもなくば、上官からリンチを受けるか。チェチェンの人々が被っている惨状と同時に、彼ら末端の兵隊たちにも逃げ道がない。

 ハッサン・バイエフ(天野隆司訳)『誓い──チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』(アスペクト、2004年)は、紛争下、“ヒポクラテスの誓い”に忠実に、チェチェン人かロシア人かを問わずあらゆる負傷者の救護に尽力したチェチェン人医師の自伝。そうした彼の態度は、ロシア軍からはチェチェン過激派への幇助、チェチェンの武装勢力からはロシア人を助ける裏切り者とみなされ、彼は結局、アメリカに亡命せざるを得なくなってしまう。

 チェチェンの人々には来訪者は必ず歓待するという風習があり、ロシア軍の脱走兵をチェチェン人がかくまうというケースも結構あったらしい。バイエフの家にも三人の脱走兵が来た。かくまわれている間、彼らがチェチェンの風習に何とか合わせようと努力する姿が微笑ましい。チェチェン側にはモスクワの「ロシア兵士の母親の委員会」と何らかのコンタクトがあるようで、ここを通じてロシア兵の実家と連絡を取る。そして母親自身に息子を迎えに来てもらう。第一次紛争の時点では、女性が来る分にはまだ怪しまれなかったらしい。昨年末、アレクサンドル・ソクーロフ監督「チェチェンへ アレクサンドラの旅」を観たのだが(まだ感想メモをアップしてませんが)、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ演ずる老女がグロズヌイの基地へやって来るという筋立てには、この辺りの事情も意識されているのだろうか。

 第二次世界大戦中、チェチェン人・イングーシ人が対独協力の容疑でカザフスタンやシベリアへ強制移住させられた過去について、テルローヴァもバイエフも祖父母や両親から話を聞いており手記に書き留めている。この世代には、憎しみという次元はもはや通り過ぎ、チェチェン人である以上、差別されることに慣れなければならないという諦めがあったようだ。他方、子供や孫の世代はソ連=ロシアの体制に馴染んでおり(チェチェン語にはロシア語の語彙がだいぶ混じっており、サウジアラビアに行ったバイエフが、ヨルダン出身のチェチェン人と出会い、彼らが純粋なチェチェン語を保持していることに驚くエピソードが象徴的だ。ロシアの圧迫を逃れたチェチェン人は多数ヨルダンに移住している)、ロシア人の友達だっている。ロシア軍の横暴への憤りと同時に、板ばさみになってしまう苦悩もある。

 チェチェンの過激派武装勢力の自分勝手な乱暴は一般のチェチェン人からも反感を買っている。他方で、ロシア連邦軍やFSB(ロシア連邦保安局)に勤務するチェチェン人でも、ロシア側の内部にいるからこそチェチェン人を助けることができるという信念を密かに持ち続けている人もいる。バイエフを逃すのに一役買ってくれたFSBのチェチェン人大佐は、その後、何者かによって夫妻ともども殺されてしまったという。彼はそうした重みも抱えながら生きていく。

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2009年1月20日 (火)

アンナ・ポリトコフスカヤの三冊

 アンナ・ポリトコフスカヤ(鍛原多惠子訳)『ロシアン・ダイアリー 暗殺された女性記者の取材手帳』(NHK出版、2007年)は、2003年12月から2005年8月まで、プーチン再選に向けての選挙キャンペーンの喧しかった季節からウクライナのオレンジ革命、キルギスのチューリップ革命と続いた時期に重なる。

 大統領選挙と言っても、プーチン再選初めにありきで、体裁を整えるために泡沫御用候補を並べるのはともかく、有力な野党候補が拉致されてしまうというのはやはり異常だ。同時に、民主派勢力が仲違いしてまとまらないことにもアンナは苛立ちを隠さない。プーチン政権は暴力に買収、そして情報操作とあらゆる手段を使って統制を進めているが、ロシア人の忍耐強さがかえってこうした動きを助長してしまっているとも指摘する。民主派指導者の一人、ヤブリンスキーへのインタビューではこんなやり取りもあった。「あなた方は政権と妥協して、見返りに議席の確保を狙っているのではないのか?」というアンナの問いかけ、対してヤブリンスキーは「冗談じゃない、それを言うなら、あなたの新聞はなぜつぶされていないんだ? 政権はあなたの新聞をEUに持っていって、ほら、わが国にも言論の自由がある、そう言い訳するのに利用しているのではないか?」と返す。その後、ヤブリンスキーは議席を失い、アンナは殺されてしまうわけだが。こうした軽口のたたき合いから、「あいつも政権に取り込まれたんじゃないか?」と疑心暗鬼が渦巻いている様子が窺える。

 モスクワでタジク人の誰それが殺された、チェチェンで誰それがFSB(=連邦保安局、KGBの後身)に連行された──こうしたことが毎日書きつけられている。それぞれ簡潔な一文であるだけに、日常茶飯事と化した現実の恐ろしさを感じさせる。だが、それは報道されない。ベスラン事件でアンナは仲介役に指名され、まさに当事者だったわけだが、その時の手帳は素っ気ない。FSBに毒を盛られ、意識不明で病院に担ぎ込まれたからだ。

 アンナのライフワークはチェチェン問題である。『チェチェン やめられない戦争』(三浦みどり訳、NHK出版、2004年)は、ロシア軍がやりたい放題、文字通りの無法状態に投げ込まれてしまったチェチェンの人々の惨状をつぶさに見聞きして、戦争を押し進めるロシアの体制の矛盾を告発する。チェチェン人の受難については本書を読んでもらうしかないが、他方で、こうした体制はロシア人にも犠牲を強いている。たとえば、『プーチニズム 報道されないロシアの現実』(鍛原多惠子訳、NHK出版、2005年)では、入営したロシア人の若者が上意下達の軍隊文化の中でリンチを受けて殺されてしまったにも拘わらず、司法は口を閉ざしていることを彼女は報告する。「ロシア兵の母の会」とチェチェン人の犠牲者の母親たちとの合同デモを実現できたのは、アンナのように双方の人々と誠実に向き合ってきた人がいたからこそだ。また、チェチェンから帰還してモスクワ勤務に戻った兵士が何の意味もなく“掃討作戦”を行なうということにも考えさせられてしまう。チェチェンの戦場に駆り出されて精神に異常をきたしてしまっている。見方を変えれば、彼らだって犠牲者だと言える。

 チェチェン人の老人ホームに援助物資を届けに行く際、ついて来た若いロシア軍将校のことが印象に残る。彼は、こういう状況は初めて知った、と涙を流してアンナに感謝した。ところが、その不規則行動のゆえに彼は解雇されてしまった。事実さえ知らせることができれば何とか希望をつなぐことはできる。しかし、上からの圧力によってロシア国内の報道機関は肝心なニュースをにぎりつぶす。そもそも『ロシアン・ダイアリー』『プーチニズム』の二冊は英語版からの翻訳で、ロシア語版は刊行されていない。そして、2006年10月7日、アンナは自宅アパートのエレベーター内で射殺された。享年四十八。

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2009年1月19日 (月)

「耳に残るは君の歌声」

「耳に残るは君の歌声」

 1927年、ロシアの農村。幼い少女フィゲレが父親に肩車される、林の中の牧歌的な風景。ソ連時代に入ってもポグロムは尾を引きずっているのか、ユダヤ人である彼女の村は焼打ちされた。父親はアメリカに渡り、フィゲレは孤児としてイギリスにもらわれてスージーと名前を変えた。父親譲りの美声に恵まれた彼女はパリのオペラ団に入り、ジプシー(ロマ族と言うべきか)の青年と出会う。折りしも、第二次世界大戦が勃発、パリはナチス・ドイツに占領された。ユダヤ人である彼女は、父がいるはずのアメリカへと発つ。

 イギリスで育った彼女はロシア語もイディッシュ語も分からない。名前は変わり、定住場所もない。生きるよすがとなるのは、握り締めた父の写真と、耳に残った父の歌う子守唄。動乱の時代、同様に故郷喪失した人々もおりまぜ、時代に翻弄されつつも前向きに生きようとする女性の姿を描いている。

 この時代を背景としたヒューマン・ドラマは基本的に好きでよく観る。この映画も決して出来は悪くないし、バックに流れるオペラの朗々たる歌声は良い雰囲気を出しているとも思うのだが、私にはそれほど深い印象も残らなかったな。

【データ】
原題:The Man Who Cried
監督・脚本・音楽監修:サリー・ポッター
出演:クリスティーナ・リッチ、ジョニー・デップ、ケイト・ブランシェット、ジョン・タトゥーロ
2000年/97分/イギリス・フランス
(DVDにて)

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2009年1月18日 (日)

キム・ギドク監督「弓」

キム・ギドク監督「弓」

 陸も見えない波間に漂う船の上。老人と、拾われてきた少女、二人きりの世界。時折訪れる釣客にいたずらされても少女は全く動じず、余裕のある微笑みを崩さない。老人が弓矢で守ってくれるからだ。絶対の信頼。少女が17歳になるのを待って二人は結婚するのだという。老人は、その日の来るのを心待ちに、一日一日とカレンダーに印をつけている。ところが、釣客に交じっていた青年と出会って、少女は外の世界を知る。老人の束縛を疎ましく感じるようになった彼女の惑い。二人の関係にきしみが萌し、老人はこのどうにもならぬ成り行きに焦り始める。

 モチーフとなっている弓の意味合いは両義的だ。矢をつがえれば相手を傷つける凶暴さを示すが、他方で、胡弓として旋律を奏でれば二人の穏やかな情愛をも醸しだす。二人は一切言葉を発しない。寓話的なストーリー構成を二人の表情の揺れ動きだけで見事なまでに雄弁に語らせる。

 とりわけ、少女役のハン・ヨルムが目を引く。清楚なあどけなさに、柔らかそうな肌の白さ。「サマリア」で見せていた彼女の穏やかな笑顔は印象に残っていたが、この「弓」でも、老人に守られているという余裕のある笑み、弓を構えた時の凛々しい笑み、男を挑発する時のコケティッシュな笑み、一つ一つのシーンに応じて表情を演じ分けているのが素晴らしい。この映画全編を通して卑猥さを全く感じさせない清潔なエロティシズムが漂っているのは彼女の存在感のおかげだ。

 キム・ギドクの映画には時折グロテスクな演出も目立つが、それもひっくるめて緊張感がピンと張りつめた美しさが魅力的である。私が初めて観たのは「魚と寝る女」、その頃はミニシアターのレイトショーでのみ上映される程度にマイナーで、グロテスクで痛々しい映像が私にはちょっときついという印象が強かった。その後、「サマリア」「うつせみ」と続けて観てキム・ギドク映画のファンになった(こちらを参照のこと)。とりわけ「サマリア」は好きな映画だ。援助交際少女の話、なんて言うと怪訝な顔をされそうだが、彼女たちの心象風景の切なさを映し出す映像が実に美しくて、その映像そのものに気持ちが強くひかれた。「春夏秋冬そして春」は「弓」と同様に寓話性の濃厚な映画だが、これについてはこちらに書いたことがある。

【データ】
監督:キム・ギドク
2005年/90分/韓国
(DVDにて)

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2009年1月17日 (土)

合唱曲でダラダラと雑談

 北原白秋・作詞、信時潔・作曲「海道東征」を聴きながら今書き込んでいる。天孫降臨、神武東征など日本神話を題材とした交声曲(カンタータ)。皇紀2600年記念で作曲された。戦前のレコードを復刻したCDを図書館から借りてきてiPodに落としたので、ノイズがざわつく。なかなかドラマチックな曲だと思うが、好きかどうかと言えば微妙。別に政治的思惑で言うのではなく、音楽としての好みの問題で。

 他に日本のカンタータとしては、大木正夫・作詞、佐藤眞・作曲「土の歌」のCDが手もとにある。この中の一曲、「大地讃頌」は中学・高校の合唱でよく取り上げられるから、歌ったことのある人も多いのではないか。あのサビの部分にオーケストラ伴奏がつくと、胸の奥にまでズシンと響いてくる。他の曲では核兵器の恐怖と、放射能によって大地が汚染されることへの怒りが歌われており、反核平和思想と大地礼讃の農本主義思想との結びつきが窺われる。大木は戦争中、皇国讃美の詩を多数書いたので戦後は不遇だったらしいが、農本主義という点では戦前も戦後も一貫していたようだ。なお、名編集者として知られた宮田毬栄さん(『追憶の作家たち』文春新書、2004年を読んだことがある)の父君にあたる。

 学校の合唱曲としては、むかし、ショスタコーヴィチ「森の歌」もよく取り上げられたと聞く。どうでもいいが、共産主義国で“オラトリオ”というのも妙なものだ。冒頭、深みのあるバリトン独唱、そして力強い男声合唱が続くあたりが私は好きでよく聴く。男声合唱の響きというのは、コサックの合唱団もあるが、私のロシア・イメージの一つになってすらいる。

 「森の歌」というと牧歌的なイメージが浮かぶかもしれないが、この曲はそういうのではない。独ソ戦におけるスターリングラードの戦いは第二次世界大戦の帰趨を決める一大転換点となった。スターリングラードを包囲するドイツ軍を、ソ連軍は人海戦術でさらに包囲するというとんでもない戦闘規模で陥った膠着状態、たとえばジャン・ジャック・アノー監督、ジュード・ロウ主演の映画「スターリングラード」の冒頭、その戦場パノラマが大写しにされるのが圧巻だった。それだけヴォルガ河流域の荒廃はすさまじく、戦火で焼けた森を復活させようと植林を呼びかけるのがこの「森の歌」の趣旨だ。ヒトラーは“スターリングラード”“レニングラード”という都市名にやたらとこだわって猛攻撃を命じ、対するスターリンも絶対死守を厳命、二人の独裁者の思惑によって膨大な死傷者が出されたことは周知の通りである。なお、ショスタコ(通は、さらに縮めて“タコ”と呼ぶ)の交響曲第七番のタイトルは「レニングラード」。レニングラード攻囲戦の最中に作曲された。スコアはマイクロフィルムにされてドイツ軍の包囲網を抜けて持ち出され、アメリカでトスカニーニによって初演された。以前、アリナミンVドリンクのCMでこの曲が使われ、宮沢りえとシュワルツェネッガーが「チーンチーン、ブイブイ」と歌っていたあのメロディーは、実はドイツ軍来攻を示すモチーフ。

 「森の歌」の第五曲「スターリングラード市民は行進する」は、スターリン批判の後に改名された。スターリングラードという都市名そのものが消滅したわけだし(現ヴォルゴグラード)。そういえば、ハチャトリアンやプロコフィエフが「スターリン・カンタータ」なるものを作曲していたらしいが、どんなものだか一度聴いてみたい。

 ロシアものでは、シュニトケの交響曲第2番「聖フロリアン」のアカペラ合唱が印象に残っている。ポリフォニックな響きが美しいのだが、突然止まって、オーケストラの不協和音でかき消されてしまうのが何ともはや。同じくシュニトケ「合唱のための協奏曲」は心の奥にまで静かにしみこむように美しくて好きだ。それから、新古典主義に転向した後のストラヴィンスキー「ミサ曲」も落ち着いた歌声にホッとする。

 私は根が単純なので、大規模編成のオーケストラと合唱というだけで嬉しくなってしまう。とりわけ、マーラーの交響曲第八番、いわゆる“千人の交響曲”。オーケストラは250~300人くらいで、あとは合唱団。第一部のすき間なく音が充満していくところは圧巻。第二部のラスト、神秘の合唱、静かに歌い始められたメロディーが徐々に高まっていき、オーケストラやオルガンと一緒になって響き渡るところは胸の奥にまでジーンとくる。ゲーテ『ファウスト』からの引用、「すべて無常なものはただの幻影に過ぎない…」、いかにもマーラーらしい虚無感と音の厚みとの絡み合いが何とも言えず好きだった。

 大規模編成という点ではベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」も負けていない。どうでもいいが、この曲に映像をつけたデレク・ジャーマン監督「ウォー・レクイエム」という映画を観に行ったことがある(たしか、渋谷のシアター・イメージフォーラムだったと思う)。往年の名優ローレンス・オリヴィエを起用したシュールな映像詩。小難しい顔をした観客層の中、一人いかにもヤンキーっぽいにいちゃんが退屈そうにしているのが浮いていた。タイトルだけ見て、そういう戦争映画だと思って入ったんだろうな。

 何と言っても、カール・オルフ「カルミナ・ブラーナ」。修道院に残されていたラテン語詩集に曲をつけた、世俗カンタータ。運命のはかなさにため息ついたり、酒で憂さを晴らしたり、男女の秘め事の喜びを歌い上げたり、こういう歌詞を見ていくと、修道僧たちもやっぱり人間ですな。オルフの単純明快なリズムが耳に強く残る。他に、「カトゥリ・カルミナ」とか「時の終わりの劇」とかのCDも手もとにあるが、やはり「カルミナ・ブラーナ」が理屈抜きに一番好き。

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2009年1月16日 (金)

岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』、榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』

 近代日本の音楽史を考える上で、“満州”というファクターは意外と無視できない。岩野裕一『王道楽土の交響楽 満洲──知られざる音楽史』(音楽之友社、1999年)はこの空白の音楽史を明らかにしてくれる。もともとロシア色の強い街ハルビンにロシア革命によって多数の人々が亡命してきたが、多くの芸術家たちも逃れてきた。その中には、ケーニヒ、メッテルなど、日本のオーケストラ育成に力を注いだ人々もいた。ヨーロッパ留学経験のある山田耕筰は、本場のオーケストラの魅力を何とか日本でも響き渡らせたいと考え、ハルビンから東支鉄道交響楽団を招いたりもしている。

 1932年の満州国建国後も、音楽愛好家の尽力でハルビン交響楽団が設立され、白系ロシア人をはじめ多国籍のメンバー構成。さらに、甘粕正彦の肝煎りで新京交響楽団も設立された。彼の関心は満州国の“国家”としての体裁を整えて西欧にひけをとらない文化水準を示そうとするところにあり、そのための人材を育成しようと新京音楽院も設立。中国人生徒を入学させ、もちろん結果論ではあるが、戦後中国の音楽界を担う人材もここから出てきた。また、満州国時代、ラジオ放送を通して西洋音楽の響きが中国人民衆の耳にも馴染み始めていた。日本は西洋排撃を高唱しつつも、実際には西洋の文物や制度の普及によって支配地域に臨んだというこの不思議な矛盾が音楽という側面からも窺われるのが面白い(建築についても同様のことが言える→こちらを参照)。

 若き日の朝比奈隆も新京交響楽団を指揮している。満州での彼の初舞台はベートーベンの第五に加え、江文也とバルトークという組み合わせ。二人とも、民族色と西欧音楽との融合に意を砕いていた音楽家だ。建前としての“五族協和”なる理念を意識したのだろう。日本内地でチャンスの得られない朝鮮人音楽家たちも満州国へ渡ったという。日本の敗戦後、ハルビンのオーケストラがソ連兵相手に演奏することになった際、日本人の指揮者はダメだということで、朝鮮人の林元植が急遽タクトを取ることになった。彼はハルビンに残留していた朝比奈からレッスンを受け、自らを朝比奈の弟子だと語る。民族の垣根を感じさせず親身に相談にのってくれた朝比奈のことを尊敬していたようだ。林元植は後に韓国の楽壇の権威となる。なお、やはり同じ頃ハルビンで音楽を学んでいた白高山は北朝鮮に行って、こちらで西洋音楽の第一人者となった。また、1970年代に中国で客演した小澤征爾は、北京で新京交響楽団の所蔵印のある楽譜を見たそうだ。帝政ロシア時代の楽譜を満州にいた日本人が写譜、それが戦後中国に残っていたわけである。いずれにせよ、東アジア広域における音楽史の中で満州国の持った意味合いは決して小さくない。

 共産党の公定史観では、満州国と同様、上海租界=帝国主義の植民地という位置付けで、そこで行なわれた音楽活動についてもやはり厳しい見方をされてしまう。榎本泰子『上海オーケストラ物語──西洋人音楽家たちの夢』(春秋社、2006年)はそうした頑な態度からは自由に、上海で活動した音楽家たちの群像を語りつくしてくれる。

 東アジアで最も古いオーケストラは1879年に結成された上海パブリックバンドである。その後、共同租界工部局の管轄下に入り、「工部局交響楽団」と呼ばれる。指揮者マリオ・パーチが育て上げた。演奏者も聴衆も西洋人ばかりだったが、徐々に中国人も入ってきて、その関係者から戦後中国の音楽をリードする人材を輩出することになる。日本軍の占領下、日本側に移管されて「上海交響楽団」となった。“敵国人”が強制収容所に入れられた一方で、聴衆の大半は中国人が占めるようになったという。

 朝比奈隆は上海交響楽団でも客演している。日本色を出したがる山田耕筰や近衛秀麿とは違ってスマートな朝比奈は楽団員から好感を持たれたらしい。朝比奈も上海交響楽団の実力は素晴らしかったと言い、この時の経験は後に欧米の有名オーケストラで客演する際に役立ったという。

 満洲にしても、上海にしても、イギリス・ロシア・日本といった帝国主義列強による侵略の歴史と二重写しになってしまうので、たとえ音楽という本来は政治性の稀薄なジャンルといえども、中国側で冷静に考えるのは難しかった。そうした難しさの中、上掲二書とも近現代東アジアの音楽史を彩る人物群像を様々に掘り起こし、かつ現代史にまつわる政治性ともうまくバランスをとりながら書かれているのでとても面白い。二冊とも題材として色々なタネをまいてくれているように思うので、これを踏まえた研究がもっと出て欲しい。

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2009年1月13日 (火)

古代文字や考古学のなつかしい本

 御茶ノ水駅を降りて神保町に向かう途中、明治大学の手前あたりのビルの一室に聖書考古学資料館というのがある。前を通りかかるたびに気になってはいたのだが、月・土曜の午後のみ開館とのこと。先日、神保町に行った折、たまたま日時が合ったので入ってみた。

 特別展示として「聖書の世界と文字」展。パネル解説は簡にして要を得てわかりやすい。こじんまりとした部屋なので展示品が限られてくるのはやむを得ないが、それでも円筒印章、コイン、鏃、陶片などきちんと陳列されている。2メートルほどもあろうか、アッシリア王シャルマネセル三世の戦勝記念碑、ブラック・オベリスクのレプリカが目を引く。

 私自身はクリスチャンではないが、幼稚園はキリスト教系で、小学校にあがってからもしばらく日曜学校に通っていたので聖書には馴染みがある。大学では名目上指導教官となっていただいた先生のご専門が聖書考古学だったので、この分野について一通りの見当はつく。キリスト教系大学ではないし、その先生ご自身もクリスチャンではなかったが、パレスチナ地域の考古学=聖書考古学という括り方。さらに旧約聖書に登場する世界はエジプトからメソポタミアまで広がり、いわゆる古代オリエント世界を大きくカバーすることになる。

 この世界には系統不明の民族も含め様々な人々が入り乱れていたわけで、聖書の背景を考えるには、やはり言語や文字の多様性が注目される。旧約聖書はヘブライ語だけでなくアラム語で書かれている部分もあるし、そもそもイエスはヘブライ語ではなくアラム語をしゃべっていたわけだし、新約聖書の書き言葉はコイネーだ(ヘレニズム時代のギリシア語。いわゆる古典ギリシア語ともまた違うらしい)。また、古代エジプト語や古代メソポタミアの楔形文字文書を解読することで聖書の背景世界を別の視点から裏付けることができる。だから、聖書の世界を知るには、古代文字の知識も必要となってくるわけだ。

 むかし古代文字に興味を持っていた時期もあったので色々と思い出し、帰ってから本棚を引っ掻き回した。レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ(木原武一訳)『ロゼッタストーン解読』(新潮文庫、2008年)はつい最近買ったばかりの本だ。シャンポリオンを中心に、ロゼッタ・ストーンの解読競争をドラマチックに描いている。

 私は中学、高校生くらいの頃、シャンポリオンに憧れていた。考古学に興味を持つ人はよくシュリーマンを挙げるが、私の場合、『古代への情熱』を読んでもそれほどピンとこなかった。前半の生い立ちを語るところは面白かったけど。肉体労働はいやなんで、土掘りよりも、古代文字の解読の方にロマンを感じていた。自分の愚鈍な頭のことは棚に上げて、怠け癖がよく分かる。まあ、それだけでなく、土器や石器を通して推測を重ねるよりも、文字を通して具体的な描写を読みたいという気持ちの方が強かったように思う。その点では物語志向だったし、今でもそうだ。

 C・H・ゴードン(津村俊夫訳)『古代文字の謎──オリエント諸語の解読』(社会思想社・現代教養文庫、1979年)、矢島文夫編『古代エジプトの物語』(現代教養文庫、1974年)、酒井傳六『古代エジプトの謎』(現代教養文庫、1980年)が出てきた。あと、T・H・ガスター(矢島文夫訳)『世界最古の物語』(現代教養文庫、1973年)も持っているはずなのだが、見つからない。社会思想社は結構この手の本を出していたんだな。つぶれたからもう入手不可。それともどこかが復刊するかね。なお、ゴードン書の訳者、津村俊夫氏は聖書考古学資料館の理事長です。

 『世界最古の物語』『古代エジプトの物語』、いずれも楔形文字やヒエログリフの解読によって明らかにされた当時の神話や説話を集めている。『ギルガメシュ叙事詩』も同様に矢島文夫氏の訳で現在はちくま学芸文庫に入っているが、私は大学の図書館で山本書店版を読んだ。言うまでもないが、山本七平氏の出版社である。稼いだ印税をつぎ込んで、明らかに売れそうにない聖書考古学の学術書も良心的に刊行していた。

 ギルガメシュ叙事詩のおおまかな内容はそれ以前に高校生の頃、世界の神話を取り上げたシリーズもので読んだ覚えがある。永遠の生命なんて果たしてあるのか?というなかなか深遠なテーマで、色々とイマジネーションをふくらませることができそうな感じがした。森の神(たしか、レバノン杉がまだ鬱蒼と茂っていた頃の象徴)フンババの、この“フンババ”という語呂がその頃からなぜか頭にこびりついていて、今でも時々脳裡に浮かぶ。

 ドーブルホーファー(矢島文夫他訳)『失われた文字の解読』(全三巻、山本書店、1963年)は高校生の頃に図書館で読んだ。書誌データを調べてみると、かなり古い本だったんだな。矢島氏の本では『知的な冒険の旅へ』(中公文庫、1994年)も好きで持っているはずなのだが、どっかに紛れ込んで見つからない。杉勇『楔形文字入門』(中公新書、1968年)という古い本もあるはずなんだが、やはり行方不明。ツェーラム(村田数之亮訳)『神・墓・学者』(中央公論社、1962年)も図書館で読んだが、その後古本屋で見つけて買った。この本もストーリー性があって好きだった。江上波夫『聖書伝説と粘土板文明』(平凡社・江上波夫著作集第5巻、1984年)も読みやすくて好きだったが、これも図書館で読んだ。この手の発掘もの、文字解読ものを図書館の埃っぽい(ここがミソ!)本で手に取って、ワクワクしながらページをめくったあの頃を思い出すと、胸がキュンとなります。

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2009年1月11日 (日)

伊福部昭のこと

 ここのところ、伊福部昭「ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ」という曲にはまっている。ピアノや木管楽器の小刻みなリズムに光が瞬くようなイメージを感じたのだが、何となくオリヴィエ・メシアン「トゥランガリーラー交響曲」の「星々の血の喜び」という楽章を思い浮かべた。リトミカ・オスティナータというのは執拗な反復律動という意味、まさにミニマリズムの美学だ。この曲のピアノ連弾版もあるそうだが、スティーヴ・ライヒ「ピアノ・フェイズ」のような感じになるのだろうか。旧満州国・新京音楽院の招きで大陸に渡った際、熱河の寺院で仏像を見た経験からインスピレーションを得たらしい。一つ一つの仏像は貧相なものだが、その大量に充満している様子に圧倒され、反復律動のイメージにつながったという。

 伊福部は、1936年、21歳のとき、「日本狂詩曲」でチェレプニン賞を受賞。北海道の片隅に暮らす無名の一青年が一躍楽壇で脚光を浴びた。チェレプニン賞というのは、亡命ロシア人貴族の音楽家アレクサンドル・チェレプニンがアジアの若手音楽家発掘のため私財を投じて設けたコンクールである。伊福部のメロディーは荒々しい。日本の楽壇で受け止められていた西洋音楽的洗練とは無縁である。日本側の担当者には、彼の曲の型破りなところを危惧してそのままパリへ送ることにためらいもあったらしいが、むしろこれが受けた。とりわけ第二楽章「祭」など聴いてみると、その激しさが体の芯からふるわせるようで私も大好きだ。リズムにのって無意識のうちに手が動いてしまう。その頃、パリの楽壇はイゴール・ストラヴィンスキー「春の祭典」が巻き起こしたショックをすでに経験済みで、音楽シーンは次の段階に移っていた。伊福部もストラヴィンスキーを意識している。「春の祭典」が放った、キリスト教以前のロシアにおける異教的イメージ。ソリッドな“近代”に対する前衛が古層的なものと結びつく、つまり、前衛と古層とが手を携えて“近代”を挟撃するという精神史的なドラマに私は興味がひかれている。伊福部もそこにシンクロしているように私には思われてくる。

 伊福部の父親は北海道の音更で村長をしていたが、他の高圧的な役人とは違ってアイヌの人々と親しく接していたという。昭もまた幼少からそうした付き合いにまじり、アイヌの文化に馴染んでいた。彼らにとって詩、踊り、音楽は人間感情の混沌としたものの発露として不可分一体のもので、伊福部自身も音楽だけを特別に切り分けるという意識はなかったそうだ。中学校にあがり、国家の文化政策としての音楽教育は理屈っぽくて違和感があったという。レコードで西洋音楽にも触れ始め、民族によって音楽というのはこんなに違うものかと実感したらしい。中学生の頃から兄弟や友人たちと音楽活動をしていた。北海道帝国大学林学科に進学、卒業後は林務官となったが、ちょうどその頃に、音楽仲間の三浦淳史(後に音楽評論家)のすすめで書いた「日本狂詩曲」がチェレプニン賞を受賞した。翌年、来日したチェレプニンから特別レッスンを受けたが、しばらくは本職と作曲との二足のワラジをはく。

 1945年、日本の敗戦時、彼は病床にあった。厚木飛行場に降り立ったマッカーサーを迎える軍楽隊が、戦時中に伊福部が海軍の依頼で書いた(やっつけ仕事だったらしいが)「吉志舞」を演奏するのをラジオで聴き、驚いたという。戦後は膨大な数の映画音楽を作曲したが、とりわけゴジラのテーマ曲は、伊福部の名前を知らない人でも耳に馴染んでいる。脚本を読み、そのアンチ・テクノロジーの思想に共鳴したようだ。監督の本多猪四郎、円谷英二らとは意気投合し、その後も多くの怪獣映画で一緒に仕事をしている。なお、北海道時代からの親友・早坂文雄もやはり映画音楽で活躍し、黒澤明作品で有名だ。

 近所の盆踊りとか民謡は分からないのにベートーベンやらモーツァルトなら分かるというのは不自然だ、そういうのはただの教養主義で格好つけているだけで、本当は何も分かっていないんじゃないか、と伊福部は言う。ドイツ・フランス・イタリアといった西欧音楽の主流圏に留学して音楽をやっても意味がない、むしろ、ポーランド・チェコ・ハンガリー・ユーゴスラヴィア・ルーマニアなどのドーナツ圏の国々が自分たちとは文化の異なる西欧音楽を如何に消化したのか、そこをこそ日本は学ぶべきだとも言う。伊福部の音楽に漂う土俗性は時折“民族楽派”とも呼ばれるが、彼はことさら日本にこだわっているわけではない。ただ、自分の感性に正直に作曲したい。意図的にでっちあげたものなんて所詮、虚構だ。自分の感性に馴染むものに、たまたま生まれ育った日本なり、北海道なりの土着的なものがにじみ出てくるというだけだ。民族的と言っても、アイヌやギリヤークなど北方諸民族も含め、むしろユーラシア的な広がりを持っているところが伊福部の魅力だ。日本なら日本という特殊性を通過して共通の人間性に到達する、それが理想だとも彼は語る。

 伊福部家の家学として『老子』を昭は幼少時から父親によってたたき込まれたという。「『老子』の第三十八章に、「上徳は徳とせず、是を以て徳有り」とあるんです。上徳とは、徳の非常に高いことを意味します。徳をほどこしても、ほどこしたぞ、ほどこしたぞといえば、それはもう徳ではない、ということなんです。それと同じように芸術も、芸術的だ、芸術的だ、芸術品だという意識をもってすれば、それはもう芸術ではない。芸術だか何だかわからないうちに生み出すものが芸術なんだというふうに思っております」(木部与巴二『伊福部昭──音楽家の誕生』262ページ)。一切のことわりを取り払ったとき、表現すべきものが自ずと表われてくる。私自身、早くから老荘思想に馴染んでいたので、こういう感性を持っている人は信頼できると思っている。

 木部与巴二『伊福部昭──音楽家の誕生』(新潮社、1997年)は、伊福部自身の語りを織り込みながら、日本の敗戦直後、伊福部が職業音楽家として立つまでの軌跡を描き出している。戦後の伊福部の活動については、小林淳『伊福部明の映画音楽』(ワイズ出版、1998年)が伊福部の手がけた映画音楽のクロノロジーという形で整理している。同じく小林淳『伊福部明──音楽と映像の交響』(上下、ワイズ出版、2004年)は伊福部の純音楽と映画音楽との関わりを個別の曲ごとに詳細に論じている。片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)も随所で伊福部に言及しているほか、CD「伊福部昭の芸術」シリーズにもライナーノーツとして片山による伊福部からの聞き書きや論考がある。

 伊福部については以前にも少し興味があってCDも何枚か持っていたのだが、最近、江文也について調べ始めて(→こちらを参照)、江を見出したチェレプニンに関心を持って、彼は同時に伊福部も発掘していたことから再び伊福部音楽を聴き始めたという流れ。チェレプニンについては、Ludmila Korabelnikova, tr. by Anna Winestein, Alexander Tchrepnin: The Saga of a Russian Emigré Composer, Indiana University Press, 2008を取り寄せたのでこれから読むところ。

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2009年1月10日 (土)

テンギズ・アブラゼ監督「懺悔」

テンギズ・アブラゼ監督「懺悔」

 “偉大なる”独裁者ヴァルラム・アラヴィゼが死んだ。人々が悲嘆にくれる中、埋葬されたはずの彼の遺体がアラヴィゼ家の玄関先で見つかる。埋め直しても同じことが繰り返されたので警察が張り込み、捕まった女性ケテヴァン。法廷に立たされた彼女は無罪を主張、ヴァルラムによって消された両親のことを回想しながら彼の敷いた体制の矛盾を告発する。傍聴していたヴァルラムの孫トルニケは衝撃を受け、あくまでもヴァルラムを正当化する父との間に生じた葛藤からは、抑圧的な政治体制の負の遺産を如何に清算するかの困難が浮き彫りにされる。

 制作年度は1984年となっているから、ゴルバチョフ政権登場直前の時期だ。テーマはやはり重いので楽しい映画と言うわけにいかない。ただし、映像的にところどころシュールな演出が見られ、決して無粋な政治映画になりさがってはいない。2時間を超える長さだが、散りばめられたメタファーを一つ一つ考えながら観ていけば退屈はしないと思う。分かりやすいところから言うと、ヴァルラムの黒シャツ(=ムッソリーニ)にチョビヒゲ(=ヒトラー)という姿からは旧共産体制をファッショとイコールで結び付けているのが分かる。ケテヴァンへの精神鑑定要求には旧ソ連において反体制活動家をいわゆる精神医学的処置によって静かに抹殺してきた過去をうかがわせるし、天秤を持った女神に目隠しされているシーンからは法の正義など棚上げされていたことが示される。ヴァルラムの遺体をめぐるエピソードには、真実を掘り起こすべきという主張と、独裁者の“亡霊”が復活しかねない懸念とが重ね合わされているのか。ヴァルラムの背後にぴったり寄り添う変てこりんな二人組を見て、カフカ『城』の登場人物を思い浮かべた。

 岩波ホールのパンフレットにはいつも台本が掲載されているのでありがたい。巻末の過去上映作品一覧を見ると、グルジア映画が結構ある。ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督「若き作曲家の旅」とエリダル・シェンゲラーヤ監督「青い山」は学生の頃に観に行った覚えがある。グルジア映画祭というラインナップだった。前者はコーカサスの野山の風景が印象に残っているし、後者は寓話的な風刺劇で意外と面白かったように思う。

 ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督「ピロスマニ」は1978年に上映されている。高野悦子の手記によると、岩波ホール上映作品の中でも人気の高かった一つらしい。私がピロスマニを初めて知ったのは、昨年、渋谷の文化村で開催された「青春のロシア・アヴァンギャルド」展(→こちらを参照のこと)でのこと。他の作品はともかく、ピロスマニの印象が非常に強く、すぐ彼の画集を買った。グルジアというとピロスマニが連想されるものなのか、岩波ホールでも映画のパンフレットと並べてこの画集が販売されていた。

 ソ連崩壊後、グルジアでは民族主義的な文学者のガムサフルディアが大統領に当選。以前は反体制活動家として逮捕された経験もある彼だが、権威主義的性格を強めて反発を受け、失脚。続くシェワルナゼも、かつての新思考外交の立役者としてのイメージとは裏腹に政権は腐敗し、やはり失脚。サアカシュヴィリ現大統領はロシア相手の危うい政治駆け引きが裏目に出て、軍事衝突を招いてしまった。この映画の最後近く、トルニケ青年が祖父の時代の責任を引き受ける形で自殺してしまうが、グルジアの政情不安定を見るにつけ、負の連鎖に終わりがないようで複雑な思いがする。ラスト、老婆が教会への道を尋ねるシーンで締めくくられる。荒廃した精神的状況に対するグルジア社会のもがきが示されているのだろうか。

【データ】
監督:テンギズ・アブラゼ
主演:アフタンディル・マハラゼ
1984年/旧ソ連(グルジア)/153分
(2009年1月10日、神保町・岩波ホールにて)

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2009年1月 8日 (木)

バルトークのこと

 手もとにショルティ指揮、シカゴ交響楽団によるバルトーク「管弦楽のための協奏曲」「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」の二曲が収録されたCDがあって、時折聴く。劇的な抑揚が盛り上がりを見せる絢爛とした厚みのある響きが好き。バルトークが民謡採集に力を入れていたということを知ってから聴いてみると、小刻みに激しい弦楽のリズムやツィンバロムを思わせる金属音が何となくジプシー音楽っぽい感じもする。ただし、リストによって定式化されたハンガリー音楽=ジプシー音楽というイメージをめぐってはだいぶ議論があったらしい。

 バルトーク(Bartók Béla、1881~1945年)といえば二十世紀現代音楽のメジャーな一人だが、伊東信宏『バルトーク──民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中公新書、1997年)はサブタイトルの通り、彼の民俗学者としての姿に焦点を合わせる。録音機器が未発達の時代、蝋管に刻み込む形式の大型の機械を抱えて農村に入り込んだ。出会った農婦に民謡を歌ってくださいと頼んでも、事情が分からない彼女たちからは胡散臭がられて「あんたたち、何しに来たの?」と押し問答を繰り返すのものどかというか、ユーモラスだ。彼の関心はあくまでも採集→分類にあって、議論としてはそれほど洗練されたものでもなかったらしい。

 19世紀以来、ヨーロッパの中小民族の間では自分たちのアイデンティティーを求める動きが高まっており、文学、芸術、学術(とりわけ言語学と民俗学)の各面でそれは顕著であった。1867年のアウスグライヒによってハプスブルク家との同君連合として再編されたハンガリー王国においても事情は同様であり、若きバルトークは音楽という観点から“ハンガリー的”なものの探究に関心を向ける。自民族とは異なる西欧音楽という語法によりつつも、そこを通して“ハンガリー的”なものを表現しようということ、民俗学的な探究も併用されたこと、こうしたあたり、日本とも同時代的なところを感じさせる。

 第一次世界大戦の敗戦によるオーストリア=ハンガリー二重帝国の解体以前において、ハンガリー王国の領域にはトランシルヴァニア(ルーマニア)やスロヴァキアなど異民族も内包されており、バルトークの民謡採集はこうした民族も含めて広きにわたっていた。

 “民族性の核”の探究は19~20世紀のいわば流行現象だったとも言えるが、そこには様々な逆説がからみつく。バルトーク自身も素朴なナショナリストであったが、彼を批判した国粋主義者にとって“ハンガリー的”なものの“核”そのものを論じることは一種のタブーだったらしい。“民族性の核”は言語化不能で曖昧なものであるからこそ、あらゆる意味に拡張できる恣意的な操作概念となり得る。これに対してバルトークは、民謡の採集・分類を通してハンガリー的な音楽要素を抽出することで、むしろ“ハンガリー的”なものを客体化、国粋主義的な呪縛から解放されたという伊東書の指摘が興味深い。採集→抽出された旋律は他民族の音楽と並置可能となり、音楽面における民族共存を彼は目指したのだという。

 民謡採集という点では、バルトークと一緒に活動したコダーイ(Kodály Zoltán、1882~1967年)を忘れるわけにはいかない。ただし、多民族志向のバルトークに対して、コダーイはあくまでもハンガリーにこだわった点が違うようだ。私は今まで知らなかったのだが、コダーイは作曲家としてだけでなく、日本では合唱教育という点でも有名らしい。横井雅子『ハンガリー音楽の魅力──リスト・バルトーク・コダーイ』(東洋書店、2006年)によると、彼は従来のドイツ的な器楽中心の音楽教育ではなく、自分自身の耳と声を鍛える全人的なところに主眼を置いたという。音楽は特別な演奏者だけのものではなく、みんなのものという理念が彼にはあり、歌いやすいもの、耳にしっくりと馴染むものを求めて民謡採集を行なった。西欧音楽をそのまま移入しても、翻訳調のものはどこか不自然な違和感が残るからだ。

 西欧的な語法を使わざるを得ない状況の中で、同時に自分たちの感性に馴染むもの=“民族的なもの”の探究へと向った点で、東欧(ロシアも含めて)と日本とに同時代的な志向性がうかがわれるところに私は興味がひかれている。

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2009年1月 3日 (土)

台北探訪記(1)

※以下、容量の関係で写真をアップできない状況なのですが、問題が解決し次第、掲載いたします。

 2008年12月27日の午後に成田を飛び立ち、台北に到着した時にはすでに暗くなっていた。とりあえず宿舎に荷物を置いてから、台北駅の南側、重慶南路の書店街をぶらぶらとひやかす。台北の書店はどこも夜10時くらいまではやっている。

 新刊・ベストセラー台に映画「海角七号」のノベライズと撮影日誌的なメイキング本が積んであったので購入。日本統治時代と現代とを交錯させた日本人と台湾人とのラブストーリーらしいが、いま台湾で記録的な大ヒットとなっている。中台統一派からは日本時代を美化するなんてけしからんという声もあがっているそうな。

 12月28日、曇り。昨年(2008年)の正月に台北に来たときはちょうど寒波が襲来しており、最高気温も1ケタ台、道行く人はみな厚手のコートを着込んでいた。対して、本日の最低気温は14度、天気予報によると20度くらいまで上がるらしい。歩くと、はおっているジャケットが暑苦しくなってきて、少し汗ばむ。街中には、ジャンパー姿のおじさんがいたり、短パン姿の女の子がスラリとしたきれいな足を惜しげもなく見せてくれたりと服装もまちまち。

 午前7時半頃、宿舎を出る。まずは歴史散策。台北中心部の土地勘はほぼつかんでいるので、目的地が決まればスムーズに歩いていける。横断歩道に歩行者がいても車やスクーターが平気で突っ込んでくる交通マナーの悪さにもすでに慣れている。台北郵局、北門と通り過ぎ、旧鉄道部、日本統治時代の台湾総督府鉄道局の建物の前に出た。まだ改修工事中。この近辺は再開発予定だが、歴史的建築物として一部は残す計画らしい。かつて鉄道局勤務の日本人が住んでいた日本家屋街も崩れかかりながらかろうじて残っている。戦後は外省人の暮らすいわゆる眷村となっていた所だが、こちらは取り壊し予定の様子。立ち退きが迫られているらしく、人の気配は希薄。

 かつて大稲埕と呼ばれた区域へ行く。現在の大同区である。貴徳街に入る。平行して南北に走る迪化街も含め、日本統治時代から台湾人の商業地区であった。衣料関係、薬種、茶葉など各種問屋が軒を連ねている。淡水河の船着場に近いためこの辺りは港町と呼ばれた。写真1は、かつて港町文化講座の開かれたという建物である。古蹟として保存すべくこちらも改修工事中。近くで医院を開業していた蒋渭水を中心に、台湾人の参政権や自治を要求する文化運動の中心となっていた。向かいには李春生紀念教会がある。

 さらに進むと、榮星幼稚園(写真2、3)。台湾でも随一の豪商であった辜顕栄の私邸だった建物を活用している。榮星というのは辜顕栄の号である。彼は1895年、日本軍の台北入城の手引きをしたということで商業上の特権を取得、1934年には貴族院議員となった。息子の辜振甫も実業家で、海峡交流基金会の会長を務めたことで知られる。たしか、経済アナリストのリチャード・クーも辜一族のはずだ(辜=Koo)。

 迪化街から横道に入ってみた。台北の人口密度はきわめて高い。道路沿いにすき間なく建物が並んでおり、どれも5階以上はあるので、路地裏はやや暗い。ほとんどの窓には、洗濯物を乾せるスペースは確保した上で出窓状の格子がはめられている。泥棒よけか、それとも落下物防止のためか。台北の街並を見渡して何となくものものしく感じられるのはこの格子窓のせいだ。野良猫よりも野良犬の方が比率は高く、特に黒犬が目立つ。初めて台北を歩いたときは少しびびったものだが、ワンちゃんたちはマイペースにうろついているだけだし、もう慣れた。八角という香辛料だろうか、あのにおいが鼻腔に入ってくると、「ああ、今、台湾にいるんだなあ」とつくづく感じる。

 かつては屋台で賑わっていたという円環には、現在、公共施設だろうか真新しい建物が建っている。波麗路西餐廳(ボレロ・レストラン)の前を通る。看板には1934年創立とある。まだ朝早いので開いていない。先日、『文芸台湾』をパラパラめくっていたら、編集後記で西川満がボレロで誰それと会って云々ということを書いていたのを思い出した。以前から一度は入ってみようと思いつつ、いまだに入る機会を得ないままだ。

 台北駅前に出て、館前路を南下、二二八和平公園に出る。日本統治時代には新公園と呼ばれていた。太極拳、社交ダンスの練習をするおじさん、おばさんに混じり、扇子を使ったモダンダンスの練習に励む若い男女も見かけた。二二八紀念館の開館する10:00までまだ時間があるので辺りを散策。写真11は国立台湾博物館。かつては総督府立博物館だった建物である。横には、大天宮后旧跡を示す石碑(写真4)。日本はこのお宮をつぶして、その上に博物館を建てた。この近辺の歴史的建造物を博物館等に活用して公園として整備する計画があるらしく、写真12はその計画告知板。

 博物館前の道路脇に鳥居が二つある(写真5)。台北駅の北東、現在は林森公園となっている区域はかつて日本人墓地だったのだが、ここにあった鳥居が二二八和平公園に移転されている。大きい方は元台湾総督・明石元次郎の墓前にあったもの(写真6、7)。小さい方は、やはり元台湾総督だった乃木希典の母親の墓前に会ったもの(写真8、9)。台湾の国府接収後、外省人難民が大陸から流れ込んできたが、住む場所がなかったためこの墓地に住みつき、一種のスラム街を形成していた。鳥居はバラック建ての柱に使われていたが、陳水扁・台北市長時代にこのスラム街は撤去され、その時に鳥居は発見されたらしい。

 いったん公園の外に出た。写真10は土地銀行で、戦前の三井物産台北支店。後ろの改修工事中の建物は戦前の勧業銀行。写真14は台湾銀行。戦前も組織は違うがやはり台湾銀行。金融恐慌の発端となった銀行である。

 写真13は総統府。言うまでもなく、かつての台湾総督府である。昨年(2008年)、私が台湾に来たときはまだ民進党の陳水扁が総統在任中で、総統府の尖塔には台湾名義での国連加盟を求める文字板が掛かっていた。国民党の馬英九政権となった現在は、「中華民国建国紀念」となっている。中華民国が建国されたのは1912年で、2012年には百周年を迎えるわけだが、それに向けてということか。ちなみに、この尖塔、戦前は「アホウ塔」と呼ばれていたと祖母から聞いたのだが、どんな字をあてたのだろう?

 総統府の斜向かいにあるのは台北第一女子高級中学(北一女中、写真15)。戦前の台北第一高等女学校で、戦前も現在も台湾における女子教育のトップ校である。私の祖母もここで学んだらしい。朱天文の小説を以前に読んでいたら、彼女もここの出身で、蒋経国が時々視察に来たと記していたように思う。さらに厳家淦(蒋介石と蒋経国の間で中継ぎとして総統になった人)旧邸や総統官邸のあたりをふらつく。二二八国家紀念館という看板(写真16)のある建物が改修工事中なのだが、これは何だったのだろう? 写真17は公売局、戦前からタバコ等の専売局だった建物だ。デジカメを向けると、警備員さんが柱の陰に隠れた。割合と有名な建築物なので写真を撮る人が頻繁に来るのだろう。近いうちに産業史博物館となる予定らしい。写真22は台湾賓館(迎賓館)、戦前の台湾総督官邸だった建物である。

(続く)

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台北探訪記(2) 二二八紀念館再訪

(承前)

 ちょうど10:00に二二八紀念館に到着。コロニアル風の明るい感じの建物だ(写真18、19)。日本統治時代から放送局として使われていた。1947年、二・二八事件がおこったとき台湾人の群集が占拠、国民党の暴政に対し、台湾人よ、立ち上がれ!と台湾全土に向けてここから檄が飛ばされた。占拠されたとき、女性アナウンサーによる北京語放送が途中から男声の台湾語に切り替わる瞬間の録音を館内で聞くことができる。

 玄関脇にハマユウの花(写真20)。広島の原爆による焼け野原に残った花を誰かが守り育て、平和の願いを込めて二二八紀念館に贈られたらしい(写真21)。

 二二八紀念館では日本語世代のご老体がボランティアでガイドをしてくれる。私が中に入ると、別の日本人観光客一人を相手に解説が始まったばかりだったので合流。私は前にも一度ここに来たことがあるのだが、その時にガイドをしてくれたCさんだった。もう一人の方は次の予定の都合があるとのことで途中で別れたので、一対一でお話をうかがうことができた。二二八事件についてのおおまかな話は基本的に前回と変わらないので、こちらを参照のこと。

 Cさんは昭和5(1930)年生まれだから、現在78歳。戦争中、14歳のとき、航空志願兵になったという。「ちゃんと試験を受けて通ったんですよ」と誇らしげだ。しかし、程なく日本は敗戦。Cさんは日本時代と国民党時代、二つの時代の教育を受けたことになる。

 セーラー服姿の女学生たちが中華民国の青天白日旗を振っている写真があった。国民党軍の台北入城のときらしい。Cさんはこの写真を指して「みんなきれいな身なりをしているでしょう。ところが、やってきた国民党の兵隊はどんなだったと思います? 鍋釜しょって、まるで苦力みたいにみすぼらしかった。」この話は、当時台北にいてやはりこの行進を見ていた私の祖母からも聞いたことがあるし、台湾人の回想録にもよく出てくる。Cさんにしても、私の祖母にしても、「日本はあくまでもアメリカに負けたんであって、中国に負けたんじゃない」と言う。もちろん、異論はあることと思う。しかし、日本人か台湾人かを問わず当時の台湾にいた人たちの素朴な実感としてそう受け止められても仕方のない理由はあったようだ。

 日本の大本営は、連合軍はまず台湾に上陸するものと想定して、本土決戦の前哨戦として台湾に兵力を集中させていたが(実際には、沖縄に上陸してあてがはずれたわけだが)、降伏時、台湾の日本軍は温存されていた。他方、蒋介石は共産党に備えて精鋭部隊は大陸に残し、最も質の低い兵隊を台湾接収に送り込んできたわけだから、その落差は当然だろう。しかし、台湾人は当初中国への復帰を歓迎していただけに、この落差は幻滅と映ってしまった。先日読んだばかりの楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』(中央公論社、1997年→こちら)では、著者もやはりこの行進を見ていて、日本人の視線を意識して恥ずかしくなってしまったところ(つまり、この時点では中国人アイデンティティーを持っていたと言える)、横にいた日本人のおばさんが彼の様子を見て取って「中国の人は今まで日本軍にひどい目に遭わされてきたんだから仕方ないわよ」と逆になぐさめられてしまったと記している。

 この落差は単に見た目の問題だけではなかった。国民党軍の基隆港上陸直後から略奪・強姦等の被害が発生した。また、日本統治下、台湾人の生活水準、教育水準は大陸に比べてはるかに高く、識字率は7~8割ほどもあったのに対し、大陸の識字率は2~3割程度であったと言われる(こうした社会生活レベルの相違は、台湾独立派だけでなく、例えば大陸に渡って共産党と連携しようとした謝雪紅たち台湾民主自治同盟にしても、独立とまでは言わないにしても台湾の高度な自治を求める根拠となった)。しかし、国民党側は、台湾人は日本によって奴隷化教育を受けてきたとみなして主要ポストから台湾人を排除。さらに国民党の金権腐敗体質、経済面での失政、疫病の流行(台湾人には後藤新平を高く評価する人がいるが、疫病というのはイデオロギーとは関係なく体感レベルで深刻な問題なわけで、国民党の台湾上陸と同時に疫病も一緒に持ち込まれた記憶が反転して、衛生制度を確立させた後藤への評価につながっているのだろうか)、様々な問題によって台湾人は反国民党感情を募らせていく。それが一挙に爆発したのが二・二八事件である。

 戦後、Cさんの父親は日本人から栄町(現在の総統府~西門のあたり)の商家を購入、そこで商売をしていた。Cさんは二・二八事件のとき、「危ないから外に出てはいけない」と父親から言われて家にとじこもっていたが、二階の窓から、国民党の兵隊が台湾人を追いかけて射殺するのを目撃したという。見せしめのため遺体を片付けることは許されず、放置されたままだった。二・二八事件及び以後のいわゆる白色テロで、国民党の特務は、共産党系の人々への弾圧を強める一方、日本時代に高等教育を受けた台湾人エリートを狙い撃ちするように逮捕、次々と殺害したと言われている。夜中に拉致されて行方不明になった人も数知れず。疑いがかけられたら証拠もなく逮捕された。Cさんの知人でも逮捕された人がいた。たまたま通りがかりの人に道を尋ねられたので教えたところ、その人が共産党員だったらしく特務の尾行がついており、言葉を交わした→共産党員の疑いあり、としてその知人も逮捕されてしまった。過酷な拷問のため容疑を認めざるを得ず、仮に認めなくてもそのまま殺されてしまった可能性が高い。監獄に15年間ぶちこまれ、体を壊してしまったため、釈放されてから2年ほどで亡くなったという。

 「二・二八事件では、政府の公式発表として2万8千人が犠牲になったとされています。ただし、正確な数字は分かりません。今でも山奥でたくさんの白骨死体が発見されることがあります。李登輝さんが謝罪しましたが、彼も台湾人です。手を下した国民党員はまだ生きているのに、彼らは一言も謝ってくれない。どこで殺して埋めたのか教えてくれません。20万、30万という数字を挙げる人もいますが、証拠がないので私には何とも言えません。公式見解で2万8千人ですから、少なくとも3万人以上としか私には言えません。」

 Cさんは大学では建築を専攻。ただし、専門を生かした職種にはつけず、普通の会社に入ったらしい。「国民党の時代になってから、公務員になるにはワイロが必要でした。同窓生にはワイロを出して就職したのもいましたが、私はそんなの払いたくありませんでした。」台湾人である限り出世の見込みはないと考え、57歳のときアメリカに移住、技術関連の企業で部長になったそうだ。永住権も取得したらしい。71歳まで勤め上げ、自分はやはり台湾人だと考えて帰国。陳水扁の民進党政権が発足した翌年のことである。

 近くの壁をさすりながらCさんは言った。「この建物をごらんなさい。戦前に日本人が建てた放送局ですが、とても頑丈です。蒋介石の建てさせたものなんてダメです。むかし、日本人の建築現場を見たことがあります。コンクリートをつくるにしても、砂を本当に丁寧に洗っていました。中国人は役人がピンはねするし、手抜きします。だから、すぐ崩れてしまう。日本人ならそんなことしません。」

 Cさんは小脇に抱えたファイルから教育勅語のコピーを取り出して私にくれた。裏面には現代日本語訳もある。前回来館したときは驚いたものだが、今回は話の流れは分かっているので素直に受け取る。「教育勅語というと、日本の一部の人は軍国主義とか言うようですが、私が言いたいのはそういうことではありません。」“朕”とか“皇祖皇運”といった表現を指して、「天皇だってあくまでも一人の人間ですから天皇崇拝はよくないし、侵略してもいけません。ただ、正直、勤勉、国のために尽くすこと、そういう大切なことが教育勅語には書かれています。私はそれを日本人から教わりました。私には大和魂があります。ところが、こういう美徳が台湾から失われています。最近は日本でもそうだと聞いていますが、いかがですか?」といたずらっぽい笑みを浮かべながら問われると、私としても「いやあ、耳が痛いです」と答えるしかない。

 “大和魂”“日本精神”(向こうではリップンチェシンと発音するようだ)なんて言うと、戦後教育を受けた私の世代はびっくりしてしまう。しかし、Cさんには、当時の日本人はワイロもピンはねもしない→正直、コンクリートをつくるとき丁寧に砂を洗う→勤勉、そうした具体的なイメージがあるようだ。つまり、公共道徳という意味合いとして受け止めるべきであって、いわゆる軍国主義的なものとは全く違う。このあたりは誤解しないよう注意せねばならない。

 お話をうかがっていると、蒋介石及び国民党に対する批判が頻繁に出てくる。蒋介石の写真を見ると、「私たちはこいつのことをハゲと呼んでいました。」「蒋介石の銅像がまだ残っているのはおかしい。ドイツでヒトラーの銅像があったら、どう思いますか?」「アメリカは3つの原爆を落としました。2つは広島と長崎に。残る1つは蒋介石という原爆を台湾に。」そう言いたくなるほど、蒋介石によって台湾人は苦しめられたという怨みが強いようだ。

 「政治というのは、やはり比較してみないと分かりません。若い頃は日本の植民地支配を私も快く思っていませんでした。差別がありましたから。ところが、蒋介石がやって来て、日本時代は本当に良かったとつくづく思います。あの頃は戸締りなんかしなくても、安心して眠ることができました。しかし、国民党の時代は、特務が夜中に突然やって来て、証拠もなく政治犯とされた人が次々と連行されました。日本時代にも弾圧を受けて投獄された人はいましたが、少なくとも殺された政治犯はいませんでした。あの静かだった時代に戻って欲しい…。」

 「国民党は日本の残した資産を全部私物化してしまった。しかし、これは本来国家のものです。」最後の台湾総督・安藤利吉の写真を指して、「この人は戦後、戦争犯罪人として逮捕されました。服毒自殺したとされていますが、国民党の財産横領のやり口を見ていたので、口封じのために毒殺されたとも言われています。」真偽のほどは私には分からない。出典は何だろう?

 「国民党は悪辣なやり方で金集めをしました。しかし、民進党には何もありません。陳水扁は8年間、何もしなかった。国民党の問題を清算できませんでしたから。」「李登輝さんは偉いと思います。しかし、以前は大嫌いでした。彼は国民党員でしたから。やはり本心を隠さなければならなかったのでしょう。」「金に目がくらんで国民党になびく台湾人がいるのはいけない。台湾人はまったく愚かな民族です。だから、国民党が再び権力の座についてしまった。このままいくと、台湾人は再び何も言えなくなってしまう。国民党は圧力をかけています。総統府にもガイドがいますが、二・二八事件について語る人はみな追い出されてしまいました。ここだって、いつまでもつことか…。」そういえば、Cさんと私を別の日本人観光客のグループが追い越していったのだが、そちらの日本語ガイドの人は、以前、総統府でガイドをしてくれた人だったような気がする。総統府を追い出されて、二・二八紀念館に移ったのだろうか。総統府のガイドなのに、元総統の蒋介石を徹底的に罵っているのが印象に残っていた。

 黄文雄の本を薦められたのは内心困ってしまったのだが、それはともかく。Cさんの話には中国に対する警戒心も強くにじみ出ており、暴政をやった国民党=中国人という不信感を強く抱いていることが窺える。二・二八事件の記憶が恐怖と共にそれだけ深く心の中にまで根を下ろしているわけだ。

 馬英九への好き嫌いはともかく、少なくともかつての国民党の恐怖政治に戻るようなことはまずないはずだし、そこまで彼がバランス感覚を失した政治家だとは私には思えない。その点ではCさんの懸念は若干杞憂のようにも思える。また、台北滞在中、宿舎でテレビニュースをつけると、陳水扁の保釈の可否をめぐる報道が過熱していた(有名占い師30人を集めて保釈されるかどうか占わせるなんて趣向があるのも台湾らしい。占いでは保釈されると断定されたのだが、翌日、逃亡のおそれありとして刑務所に戻されていたが)。陳水扁陣営が「李登輝だってマネーロンダリングやってたじゃねえか」と告発するという泥仕合まで展開され、泛緑陣営はもうグダグダ。かつて李登輝と陳水扁は親子にたとえられるほど密接な関係をアピールしていたが、もう関係修復不可能なほど険悪らしい。こんなブザマな状況でも、テレビに映る阿扁の支持者が激しく抗議する様子が印象に残る。これは阿扁個人の是非というのではなく、二・二八事件以来の国民党の負の記憶が彼の行方に投影されていると考えるべきなのだろう。Cさんの懸念にしても、阿扁支持者の激しい抗議にしても、それだけ台湾社会に打ち込まれた二・二八事件という楔の重さを改めて考えさせられた。

 館内を一通り案内していただいた後、ベンチに座ってしばらく雑談。「今度いらっしゃるときは事前に連絡してください。日程に合わせてここで待機していますよ。どうせヒマですから」と笑いながらおっしゃっていただいた。帰り際、Cさんから握手を求められ、足元が若干おぼつかないのに玄関先までお見送りいただき、恐縮しながら辞去。時計を見ると、もう13時を過ぎていた。

(続く)

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台北探訪記(3)

(承前)

 二・二八紀念館を出て、その足で中正紀念堂に行った(写真23)。蒋介石を追悼する施設である。陳水扁政権時代の正名運動で蒋介石にまつわるものを否定する動きの中、この大門に掛けられていた「大中至正」(蒋介石の号である中正に由来)という扁額は「自由廣場」に替えられ、また、奥の蒋介石の銅像の置かれている堂宇の扁額も「中正紀念堂」から「台湾民主紀念館」に替えられた(写真26)。ただし、法的には現在も中正紀念堂のままらしい。

 門前に、青テントの抗議デモ(写真24)。民進党系の人々か。馬英九はデモ妨害を謝罪せよ、という趣旨のプラカードがあった。奥の方にはダライ・ラマの肖像画も見える。

 中正紀念堂に入った(写真25)。昨年(2008年)の正月に来た時には、ちょうど台湾民主紀念館として開館したばかりだった(→前回の記事はこちら)。堂内には現代アーチストの演出で凧が舞っていた。蒋介石の銅像を取り囲むように人権弾圧の歴史を示すパネルが並べられて、蒋介石という主役はそのままに、彼の評価をプラスからマイナスへと正反対に逆転させていた。今回は、そういったものは何もない。銅像の前に立入禁止のロープが張られているだけだ(写真27、28)。両脇に小壇が置かれている。近いうちに、儀仗兵を復活させるつもりなのだろうか。1階には蒋介石関連の展示があり、これは以前もそのままだった。去年来た時にはもう半分のスペースで「人権之道」という特集展示が行なわれていたが、この日は書画の展示会となっていた。蒋介石のマイナス面を示すものは一切撤去されており、民進党から国民党へ政権が戻ったことを実感させる。

 中正紀念堂を出る。東門市場をくぐり抜けて、仁愛路に行き、ここを東に進む。戦前、私の祖母が住んでいたという辺りを歩くのが次の目的だ。かつては東門町と言って、日本人住宅街が広がっていたらしい。一応、番地は聞いてあったので、戦前の地図と現在の地図とを照らし合わせ、この辺だろうとだいたいの見当をつけた路地を歩いた。道のうねり方からすると間違っていないとは思うのだが、当時の面影は全く感じられない。5階建て以上の高層共同住宅の並ぶ、普通に現代台北の住宅街である。少し離れた所に一軒の日本家屋が残っていたので(写真29)、こんな感じの家に暮らしていたのだろうと想像をめぐらす。

 さらに北へ歩き、光華商場へ行く。台北の“アキバ”と言われる電脳街である。かつては雑然とした小店舗が密集していたらしいが、最近建てられたモダンなビルに集約されたようだ。6階建ての中にパソコン関連機器、ソフト、マンガを中心とした古書店が並んでいるが、期待していたほど“濃い”雰囲気はなかった。客層も老若男女様々、普通に電器製品を買いに来ているという感じで、オタクっぽいのは目立たなかった。こっち方面に私は不案内なので、値段的な相場も分からない。メイドのコスプレした女の子がチラシを配っていた。メイド喫茶か?

 忠孝新生站でMRTに乗り、東の終着駅・南港まで行く。私の祖母は女学校を出てすぐの頃、ここの公学校(台湾人向けの小学校)で教員をしていた。ただし、性に合わなかったらしく、一年でやめてしまったそうだが。当時は農村だったという。現在でも一応台北市とはなっているが、埃っぽくて賑わいはない。しかし、台湾高速鉄道(新幹線)の駅を建設中で、それを当て込んでか、くすんだ商店街の向こうに大企業の近代的な巨大ビルがそびえているのが見える。東京で言うと多摩の雰囲気だ。国民小学校の前まで行ったが、当然ながら戦前の雰囲気を感じさせるものはない。

 再びMRTに乗って台北中心部に戻る。市政府站で下車。この辺り信義区は台北の副都心、東京で言うと新宿といったところか。お目当ては誠品書店信義旗艦店である。前回来た時から私のお気に入り(→こちらを参照のこと)。もう夕方の5時過ぎ。ずっと歩きづめで、朝から何も食べていない。腹へった。地下2階がカフェテリア式のちょっとした食堂になっているので、そこまで降りた。魯肉飯、排骨肉、葉ものの炒め物、魚丸湯のセットを注文。魯肉飯は好き。付け合せにタクアンがのっていた。排骨肉はシナモン風味で私の口に合わず、残した。

 誠品書店信義店は台湾第一の売場面積を誇る。日本のジュンク堂書店をもっとシックにファッショナブルにした感じ。大きいし、店内はきれいだし、当たり前だが日本では見られない本がたくさんあるし、何だか嬉しくなってくる。ぶらぶらひやかしているだけで、あっという間に2時間、3時間と過ぎてしまう。中国語は苦手なくせに、台湾史関連の本を中心に、ついつい色々と買い込んでしまった。王力雄『我的西域、你的東土』(大塊文化、2007年)という本が積んであり、ウイグル関連で噂は知っていたのでこれも買っておいた。カラー写真入りできれいな本だ。いつ読み終わるのかは分かりませんが。

 台湾の書店で目立つのは座り読みが当たり前のこと。最近は日本でも椅子を用意している書店が増えてきたが、誠品書店では当然のごとく机まで置いてある。本を開いて椅子に座っている女の子のページが進まないなあと思っていたら(ちょっとかわいかったので見ていた)、寝ていた。男子学生が漢娜・鄂蘭(ハンナ・アレント)『責任與判断』をエクスキューズのように脇に置きながら、机に突っ伏してこいつも寝とった。まるで図書館だ。

 CD売場に行った。江文也のCDでもあればと思ってクラシック・コーナーを探したが、なかった。日本からの輸入盤が多く、ポリドールやロンドンといったレーベルの半分は中国語、半分は日本語という割合。ナクソスも日本語で一棚そろっていた。

 誠品書店の日本語書籍コーナーはアート、デザイン、ファッションが中心で若者向き。たとえば平台の目立つところに奈良美智の画集や蒼井優の写真集が置いてあるという感じで、一般書は奥の方に申し訳程度に置いてあるくらい。この後、微風広場の紀伊国屋書店にも行ったのだが、こちらでは明らかに日本語世代のおじいちゃんが虫眼鏡を使って何やら一生懸命に立ち読みしている姿を見かけた。誠品書店の日本語書籍コーナーはこういうおじいちゃまたちには入りづらい雰囲気だ。

 MRTに乗って台北站で下車。地下街をぶらぶら歩きながら宿舎へと向かう。コーヒーパンの芳しい香りが漂ってきて、見ると行列している。私もつられて一個買った。中にバターがしっかり練り込まれていて、そのこってり感とコーヒー風味のほろ苦さがうまく絡み合い、なかなかうまかった。台湾の菓子パンはどれもこってり感が強くて、ものによっては口に合わないこともあるが、このコーヒーパンは良い。ご満悦でさらにてくてく歩いていたら、今度は臭豆腐のにおいが充満してきた。ふひゃっ。

(続く)

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台北探訪記(4) 三芝

(承前)

 12月29日。朝から雨降り。本日は、第一に江文也や李登輝ゆかりの三芝、第二に私の祖母の生まれた淡水、この2ヵ所を回るのが目的である。宿舎の受付で三芝への行き方を尋ねると、まずMRTで淡水まで行き、ここから金山方面行きの路線バスに乗れば、その途中だという。

 MRT淡水站まで台北站から30分くらいか。バスセンターに行くと、金山経由・基隆行きという表示のバスを見つけた。運転手さんに三芝と大きく書いたメモ帳を見せながら「San-Zhi, OK?」ときいたら、いかにも面倒くさそうにうなずいた。柄の悪そうなヤンキーっぽいあんちゃんで、ものすごく不機嫌そう。「多少銭?」と尋ねると、「○☆△□」。よく聞き取れません。私を個人的に知っている人なら分かるでしょうが、非常に小心者でありまして、内心「えーん、このにーちゃん、こえーよー」とパニクってます。メモ帳とペンを渡しながら「請写一下」と言ったら、運ちゃんは一瞬躊躇した表情をして、再び怒ったように声を張り上げます。なんでわかんねーんだよ、バカヤロウってな具合の剣幕です。まあ、何とか金額は確認できたので、とにかく乗車。

 車内前方に電光掲示板があるのに停留所名は表示されず、アナウンスも一切ありません。勝手知ったる地元民には分かるのでしょうが…。持参した台北近郊の都市地図帳を開き、通り過ぎる停留所名や街路名を一つ一つ確認しながら、行先は間違っていないと自分に言い聞かせます。結構、不安でした。目的地の三芝に近づいた辺りで誰かが降車ボタンを押した。ようやく着いたかと腰を上げたら、どうやら子供がいたずらで押してしまったらしく、母親が何やら叱りつけていた。一つ手前のようだったが、私は勢いで降りてしまった。私が下車しようとするのを見て運ちゃんはドアを閉めようとしたのだが、ひょっとしたら、まだだぞという意思表示だったのかもしれない。

 降りて、あちゃー、と後悔したが、地図で見る限り、そんなに見当違いな所でもない。少し歩くと近隣の観光案内表示板があった。目的地の源興居を確認。念のため、デジカメに撮った(写真30)。デジカメの画面では文字が小さく見えづらいのだが、少なくとも道路のつながりは分かるので参考になる。私が表示板を見ている間、人の良さそうなおじさんが横に立って私の方を見ていた。おそらく、親切に教えてくれるつもりだったのだろう。目が合ったので、にこやかに会釈して先へ行った。

 5分ほど歩くと三芝の中心街に出た。古そうな家屋を一軒パチリ(写真31)。道標に従って歩くと中心街を抜けた。田畑や野山が広がる中、一本の大きな道路がまっすぐ続いている。道路脇に生い茂ったススキの穂が風に吹かれてかすかに揺れる。東京は冬だったが、ここはまだ秋の気配。小雨が静かに降ったりやんだり、傘を持つ手がちょっと面倒だけど、この穏やかな空気に不快感はない。畑からは、雨水に濡れた土のかおりに肥料の臭いがかすかに混じっている。野山の中、所々、ノッポビルが遠望できる。新たに宅地造成されたマンションか。ノッポビルの唐突さは台湾独特の風景だ。

 畑以外には何もない所を10分ばかりも歩いたろうか、割合と新しい公共施設らしきものが見えてきた。三芝観光中心、名人文物館が一緒になっている(写真33)。名人というのは地元出身の有名人のことで、四人について展示されていた(各出身地を示したパネルは写真35)。写真34は三芝観光中心の前から見渡す周囲の眺望。

 生年順に紹介すると、まず杜聡明(1893~1986年、写真37)。亜熱帯の台湾には毒蛇が多いらしいが、蛇毒研究の世界的権威となった医者であり、他にアヘン中毒患者の更生など台湾の医療水準の向上に尽力したことで知られる。台湾総督府医学校及び京都帝国大学の出身、1937年には台北帝国大学医学部教授となる。台湾人として初めて医学博士号を取得、台湾人だってやればできると発奮させたことも功績に数えられているようだ。日本人の引揚後は台湾大学医学部長。台湾医学会の中心人物となったが、後に学長と意見があわなくて辞職。高雄に医学校を創設した(展示パネルは写真39、40、41、42、43、44、45、46、47。一部、館内の照明の関係で見えづらくなっています)。

 江文也(1910~1983年、写真38)は台湾出身の作曲家として世界で最も有名な人という位置付けになっている。彼については、著書『上代支那正楽考』に絡めて先日書いたばかりだ(→こちらを参照)。当館のパネル解説を読んでいたら、バルトークの影響を受けていると書いてあった。バルトークは西欧の現代音楽を意識する一方で、ハンガリーの民謡を採譜、これを取り込みながら自らの楽風を確立していったことで知られている。台湾原住民や中国伝統の音楽を積極的に取り込もうとした江文也と時代的にもパラレルな関係にあると言える。なお、江文也の出生地について多くの文献では三芝と記されているが、今回、台北の書店で買い求めた顔緑芬・主編『台湾當代作曲家』(玉山社、2006年)所収の劉美蓮「以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也」を帰国後に読んだところ、戸籍は一族の出身地である三芝に置かれていたものの、実際には台北の大稲埕で生まれたという。三芝で暮らしたことはないようだ。私は三芝に来た時点でそのことを知らず、近辺の野山が日本の農村風景とあまり変わらないため、江は最初の留学先である長野県上田での生活にも違和感はなかったのだろうなどと思いをめぐらせていたのだが、実際には幼少時から都市的センスに馴染んでいたわけである。なお、展示パネルは写真48、49、50、51、52、53、54。

 李登輝(1923年~、写真36)については特にコメントも必要ないでしょう。ここでは「民主之父」という位置付け。

 盧修一(1941~1998年)という名前は初めて知った。政治学者出身で民進党の立法委員(国会議員)になった人らしい。ヨーロッパ留学中、保釣運動に関わったこともあるようだ。台湾独立案関連で逮捕され、1986年に出獄。1988年、立法委員に当選。誠実で情熱的な政治家として尊敬されたという。

 名人文物館と同じ建物内に開拓館という名前の郷土資料館も併設されており、先住民のケタガラン族についての考古学的展示と、農暦にまつわる民俗行事の展示とに力が注がれている。漢族の中でも客家系の江姓の一族が三芝に住み着いて商売で成功したらしい。そういえば、先ほど三芝の中心街を歩いていたら、「台北縣江姓宗親会」という看板の掛かった事務所の前を通りかかった(写真32)。江文也もこの一族にあたるわけだ。

 ケタガラン族とは台北近辺にいた平埔族である。台湾の原住民はおおまかに言って山岳地帯の高山族(高砂族、生蕃)と平野部にいた平埔族(熟蕃)とに分けられ、後者は漢族系と同化した(大陸からわたってきた漢族系は男性ばかりで、原住民の女性と結婚した→この時点で大陸の中国人とは異なる台湾人が形成されたと主張する人もいる)。なお、総統府前の大通りは、かつて蒋介石の号にちなんで介壽大道と呼ばれていたが、陳水扁が台北市長の頃に凱達格蘭(ケタガラン)大道と改称された。

 名人文物館の裏に出ると、李登輝の生家がある。源興居と呼ばれている(写真55、56、57)。中はあまり広くなく、李登輝と蒋経国の並んだ掛け軸が一本かかっているのみ(写真58)。レンガ積みの伝統的な中国式家屋である。田舎ではこのような家が普通だったのだろう。婦人会の団体さんがわやわやと写真を撮り合って騒がしいので、しばし近隣を歩き回る。地形はゆるやかにうねっているため、棚田が広がっている。遠くに道観が見える(写真60)。日本で言うと鎮守の杜といったところか。植生にしても、田畑のつくりにしても、レンガ積み家屋がなければ、一昔前の日本の農村にいるかのような錯覚に陥る(写真59)。

 李天禄布袋戯(ポテヒ)文物館というのが近くにあるらしいので行ってみた。近くと言っても結構距離はあった。田舎で何もないので道路の分岐は少なく、迷わないですんだが、20分くらいは歩いたろうか。観光客はみんな車で移動している。たどり着いて、ヘナヘナと力が落ちた。シャッターが下りて休館の表示。そうです。今天是星期一。まあ、無目的に台湾の田舎道を歩く機会なんてないだろうから、これはこれでよしとすべきか。とりあえず写真だけ撮っておいた(写真62、63)。写真61は途中で見かけた家屋。増築の仕方が面白くて撮った。

 なお、布袋戯とは台湾の伝統的な人形劇。李天禄はその国宝級の使い手として知られた人で、侯孝賢の映画にもよく出演、飄々と味わいのある姿を見せていた。とりわけ「戯夢人生」(→こちらを参照)は彼の自伝的な作品である。晩年は三芝のここで暮らしていたらしい。

 三芝の中心街に戻ると、すぐ淡水站行きのバスが来た。今度は終点まで行けばいいので安心。車内で小銭に両替することはできないようで、おばさんが近くに座っていた若い女性に声をかけて両替してもらっているのを見かけた。バスを降りるとき、みんな運転手さんに「謝謝」と声をかけていた。日本でも、田舎だと同様の光景を見かけたのを思い出した。

(続く)

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台北探訪記(5) 淡水

(承前)

 淡水は、アロー戦争後の北京条約(1860年)で開港地の一つとなって以来、欧米諸国の領事館が設置されるなど貿易港として栄えていた。しかし、河口部に砂が堆積してしまって大型船が入れなくなり、日本統治時代には基隆に貿易港としての地位は奪われてしまう。夕日の美しさが有名で、現在、台北に近いこともあって気軽に来られる観光地となっている。バスで三芝との間を往復したとき、30階もあろうかという高層リゾートマンションが建てられているのを見かけたが、キャッチコピーは「新横浜」。かつて貿易港として繁栄した経緯や台北とのほどほどの距離感から、東京に対しての横浜のようなイメージで売り出そうということらしい。

 老街(old street)を行く。写真64、65はその入口。写真74はここが淡水老街であることを示す石碑。商店にはそれなりに賑わいがある。私の祖母は、父親(つまり私の曽祖父)が勤務していた役場近くの官舎で生まれたということなので、淡水鎮公所(町役場、写真66)を目印に歩く。途中、福佑宮という道観があった(写真68、69)。祖母もこれを見たのだろうか。祖母の住んでいたという家の具体的な番地までは分からないが、割合と大き目の日本家屋が一軒残っている(写真70、71、72)。おそらくこういう感じの家で暮らしていたのだと思う。他にも古い建物をいくつか見かけた(写真67、73)。

 トマソン発見!(写真81、82) 奥にあるキリスト教会の礼拝堂への通り道として家が一軒つぶされているのだが、台湾の家屋は隣同士すき間なく建てられているので、その壊された家屋の輪郭がくっきりと残っている。路上観察学では“原爆タイプ”に分類されます。広島の平和祈念館に行くと、原爆の光で人の影が焼き付けられた石壁が展示されていますが、これをイメージした命名(詳しくは、赤瀬川原平『超芸術トマソン』、もしくは『トマソン大図鑑 無の巻』を参照のこと)。ちょっと冗談がきつすぎるようにも思うが、それはともかく。この“原爆タイプ”は台湾の街を歩いているとよく見かける。淡水で見つけたこれが面白いのは、片方は壊されたまま放っておかれているのに、対面のもう片方は残存輪郭内をしっかりとペインティングしていること。無造作なんだか手をかけているのかよく分からんところが良いですねえ。

 前清淡水関税務司官邸という案内板を見かけ、その表示に従って脇道の階段をのぼる。淡水は坂道が峻険な街である。ちっちゃい神戸という感じか。前清淡水関税務司官邸を外から撮った(写真75、76)。本日は月曜日なり。中には入れません。道標に従ってさらに坂をのぼると、外僑墓園の前に出た(写真77、78、79)。関係者以外立入禁止なので柵のすき間から中を撮影。基督教(プロテスタント)、天主教(カトリック)、官員区、商人区に分かれている。つまり、宣教師、各国の領事館員、貿易商人と淡水開港の経緯がうかがわれる。

 馬偕(Mackay)の墓もここにあるはずだ。馬偕というのは19世紀、台湾にやって来たカナダの宣教師、医療や教育に従事したことから台湾の人々から慕われた人物で、台湾史におけるキーパーソンの一人である。淡水站前には馬偕の頭像があった(写真83)。台北には馬偕紀念医院という大病院がある。さらに、真理大学の前を通った。英語名はAletheia University。大学に昇格したのはそんなに古いことでもないようだが、もともとは馬偕の創設した学堂に起源を持つ。

 ぐるっと回って坂道をおりていくと紅毛城の前に出た。繰り返すが、本日は月曜日。閉館中。外から写真だけ撮ったが(写真80)、中の様子は分からない。17世紀、スペインがセント・ドミニカ城を築造したのが始まりで、後にオランダが奪取。17世紀における斜陽の旧帝国スペインと、そこから独立したばかりの新興貿易立国オランダ、両国の世界的な海上覇権をめぐる闘争は、日本では安土桃山から江戸時代にかけての南蛮人→紅毛人の交代として目の当たりにされていたが、同様の国際政治的な動きがここ淡水でも見られたわけである。ただし、オランダも程なく鄭成功によって追い出され、さらに鄭氏政権も同世紀中に清の康熙帝によって滅ぼされる。アヘン戦争、アロー戦争の敗北後、淡水も開港地に指定されたのに合わせ、この紅毛城にイギリス領事館が開設された。港を一望できる要衝である。祖母の住んでいた家からこの紅毛城が見えたと聞いている。

 淡水河畔の船着場に出た。現在の淡水には港湾地としての機能はほとんど失われているが、淡水河を挟んだ対岸の町への遊覧船が出ている。淡水は夕焼けの美しい街として知られているが、今日は生憎の雨降り。ここには、日本なら焼きイカとか焼きトウモロコシとか売ってそうな感じの海の町によくあるタイプのお店が並んでいる。何だかんだ言って、もう夕方4時過ぎ。今日も歩きづめで朝から何も食べていない。繁盛してそうなお店に入った。食べたいものを書いたメモを見せながらブロークン・チャイニーズで注文したら、お店のおばさんからは日本語で返事が返ってきた。日本人観光客もよく来るようだ。焼きビーフンはあまりうまくなかったが、さっぱりしたスープにつみれかはんぺんのような魚のすり身団子の入った魚丸湯は好き。老街と並行する土産物屋街をぶらぶらひやかしながらMRT淡水站まで戻った。

(続く)

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台北探訪記(6)

(承前)

 MET西門站で下車。西門のメインストリートの南側、中華路(かつてはここを台湾鉄道が走っていたが、現在は地下化され、大通りになっている)脇に、台湾歴史風情彫絵という台湾史に関わるシンボリックなものを彫りこんだ大きなレリーフが建てられている。割合と新しい。この背後の一画は萬華406号広場となっている。日本統治時代、西本願寺のあった所だ。当時の建物が崩れかかりながらも保存されている(写真84、85、86)。日本は台湾統治にあたり宗教政策面でも日本化を進めようとしたが、神道系は入り込めず、仏教系が中心となったらしい(胎中千鶴『葬儀の植民地社会史──帝国日本と台湾の〈近代〉』を参照のこと)。国民党の台湾接収後、この西本願寺の建物に特務の逮捕した政治犯が収容されたと何かで読んだ記憶もある。

 華西街観光夜市に足を運ぶ。かつては近くに公娼地区があったせいか、“情趣”商品とか精力剤的なものとか売ってたり、他の夜市よりもいかがわしい雰囲気のあるところが面白い。狭い横道に入ってみる。淫靡な空気がますます強まる。いわゆる私娼窟と言ったらいいのか。ちょうど陽も落ちた頃合。明るい時間帯には誰もいないだろうし、かと言って夜晩くにこういううさんくさい横道に入り込む勇気は私にはない。一人やっと通れるくらいの狭い路地に、明らかに昔は置屋だったと思われる構えが連なっている区域もあった。写真を撮っておこうかとも思ったのだが、誰何されても面倒なので、さっさと通り抜けた。

 温暖な気候のためか、台湾の店舗というのはどこも開放的で、何をやっている店なのか外を歩いていても中がよく見える。こうした横道には、本物の食堂も混じってはいるのだが、所々、○○清茶房とか△△餐庁といった看板を出しつつも女性たちがたむろしているだけの店がある。奥の方に個室ブースが並んでいるのが見えた。あそこで“接客”するのだろうか。きれいな女性は一人も見かけなかった。女性たちも、客層も、年齢はだいぶ高めで、男性はとりわけ老人が多かった。老人と女性たちが交じり合って談笑したりカラオケしたりしているのも見かけた。

 大陸からやって来た外省人兵士たちには、結婚もできず、台湾社会にも馴染めず、孤独をかこっていた人々が多く、こうした私娼窟で安い女性を買って淋しさを紛らわせていたと何かで読んだ記憶がある。彼らの孤独な老後は一つの社会問題になっていると聞く。ここで見かけたカラオケに興じる老人たちも、そうした外省人兵士の現在の姿なのだろうか。

 龍山寺に出た(写真87)。去年、私の初詣はここだった。龍山寺站からMRTに乗り、忠孝復興站で下車。微風広場の紀伊国屋書店へ。駅からちょっと歩くが、雨が降っていても停仔脚は実に便利だ。

 MRTに乗って市政府站まで行き、昨日に続いてもう一度誠品書店信義旗艦店を見て回る。新刊・ベストセラーの平台に積んであった新刊小説を何冊か買い込んだ。台湾文学評論の本をいくつか手にとってパラパラめくってみたのだが、やはりライトノベルを取り上げたものはない。藤井樹とか九把刀(Giddens、ギデンズ )といった名前を台湾の書店の新刊コーナーでたびたび見かけるので何者なのか気にかかっているのだが、ライトノベルは文学評論というよりも、社会学的なサブカルチャー研究の対象となるのか。

 MRTに乗り、再び西門站まで戻った。西門近辺は、日本で言うと渋谷、原宿といった感じの若者向け繁華街。道路はきれいに舗装され、メインストリートの大型ビジョンには「嫌疑犯X的獻身」(容疑者Xの献身)とか「黄金公主──敵中突破 The Last Princess」(隠し砦の三悪人 The Last Princess)とかの映像が流れ、行き交う人の服装は日本と全く変わらない。何やらパラレルワールドに迷い込んだような錯覚にも陥る。ただ一点違うのは、屋台が出没して、このファッショナブルな街並に食欲をさそう香りを漂わせていること。本来は非合法らしく、パトカーが近づくと(このパトカーがまたゆっくりとやって来る)、おいちゃん、おばちゃんたちは屋台を引いて三々五々逃げ出します。

 12月30日の昼過ぎ、桃園国際空港を飛び立ち、成田に帰国。色々と都合がつかなくて4日間(実質的に動けたのは2日間)しか時間がとれなかったが、今度はせめて1週間くらいは時間をとって地方をじっくりまわりたいものである。

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