台北探訪記(5) 淡水
(承前)
淡水は、アロー戦争後の北京条約(1860年)で開港地の一つとなって以来、欧米諸国の領事館が設置されるなど貿易港として栄えていた。しかし、河口部に砂が堆積してしまって大型船が入れなくなり、日本統治時代には基隆に貿易港としての地位は奪われてしまう。夕日の美しさが有名で、現在、台北に近いこともあって気軽に来られる観光地となっている。バスで三芝との間を往復したとき、30階もあろうかという高層リゾートマンションが建てられているのを見かけたが、キャッチコピーは「新横浜」。かつて貿易港として繁栄した経緯や台北とのほどほどの距離感から、東京に対しての横浜のようなイメージで売り出そうということらしい。
老街(old street)を行く。写真64、65はその入口。写真74はここが淡水老街であることを示す石碑。商店にはそれなりに賑わいがある。私の祖母は、父親(つまり私の曽祖父)が勤務していた役場近くの官舎で生まれたということなので、淡水鎮公所(町役場、写真66)を目印に歩く。途中、福佑宮という道観があった(写真68、69)。祖母もこれを見たのだろうか。祖母の住んでいたという家の具体的な番地までは分からないが、割合と大き目の日本家屋が一軒残っている(写真70、71、72)。おそらくこういう感じの家で暮らしていたのだと思う。他にも古い建物をいくつか見かけた(写真67、73)。
トマソン発見!(写真81、82) 奥にあるキリスト教会の礼拝堂への通り道として家が一軒つぶされているのだが、台湾の家屋は隣同士すき間なく建てられているので、その壊された家屋の輪郭がくっきりと残っている。路上観察学では“原爆タイプ”に分類されます。広島の平和祈念館に行くと、原爆の光で人の影が焼き付けられた石壁が展示されていますが、これをイメージした命名(詳しくは、赤瀬川原平『超芸術トマソン』、もしくは『トマソン大図鑑 無の巻』を参照のこと)。ちょっと冗談がきつすぎるようにも思うが、それはともかく。この“原爆タイプ”は台湾の街を歩いているとよく見かける。淡水で見つけたこれが面白いのは、片方は壊されたまま放っておかれているのに、対面のもう片方は残存輪郭内をしっかりとペインティングしていること。無造作なんだか手をかけているのかよく分からんところが良いですねえ。
前清淡水関税務司官邸という案内板を見かけ、その表示に従って脇道の階段をのぼる。淡水は坂道が峻険な街である。ちっちゃい神戸という感じか。前清淡水関税務司官邸を外から撮った(写真75、76)。本日は月曜日なり。中には入れません。道標に従ってさらに坂をのぼると、外僑墓園の前に出た(写真77、78、79)。関係者以外立入禁止なので柵のすき間から中を撮影。基督教(プロテスタント)、天主教(カトリック)、官員区、商人区に分かれている。つまり、宣教師、各国の領事館員、貿易商人と淡水開港の経緯がうかがわれる。
馬偕(Mackay)の墓もここにあるはずだ。馬偕というのは19世紀、台湾にやって来たカナダの宣教師、医療や教育に従事したことから台湾の人々から慕われた人物で、台湾史におけるキーパーソンの一人である。淡水站前には馬偕の頭像があった(写真83)。台北には馬偕紀念医院という大病院がある。さらに、真理大学の前を通った。英語名はAletheia University。大学に昇格したのはそんなに古いことでもないようだが、もともとは馬偕の創設した学堂に起源を持つ。
ぐるっと回って坂道をおりていくと紅毛城の前に出た。繰り返すが、本日は月曜日。閉館中。外から写真だけ撮ったが(写真80)、中の様子は分からない。17世紀、スペインがセント・ドミニカ城を築造したのが始まりで、後にオランダが奪取。17世紀における斜陽の旧帝国スペインと、そこから独立したばかりの新興貿易立国オランダ、両国の世界的な海上覇権をめぐる闘争は、日本では安土桃山から江戸時代にかけての南蛮人→紅毛人の交代として目の当たりにされていたが、同様の国際政治的な動きがここ淡水でも見られたわけである。ただし、オランダも程なく鄭成功によって追い出され、さらに鄭氏政権も同世紀中に清の康熙帝によって滅ぼされる。アヘン戦争、アロー戦争の敗北後、淡水も開港地に指定されたのに合わせ、この紅毛城にイギリス領事館が開設された。港を一望できる要衝である。祖母の住んでいた家からこの紅毛城が見えたと聞いている。
淡水河畔の船着場に出た。現在の淡水には港湾地としての機能はほとんど失われているが、淡水河を挟んだ対岸の町への遊覧船が出ている。淡水は夕焼けの美しい街として知られているが、今日は生憎の雨降り。ここには、日本なら焼きイカとか焼きトウモロコシとか売ってそうな感じの海の町によくあるタイプのお店が並んでいる。何だかんだ言って、もう夕方4時過ぎ。今日も歩きづめで朝から何も食べていない。繁盛してそうなお店に入った。食べたいものを書いたメモを見せながらブロークン・チャイニーズで注文したら、お店のおばさんからは日本語で返事が返ってきた。日本人観光客もよく来るようだ。焼きビーフンはあまりうまくなかったが、さっぱりしたスープにつみれかはんぺんのような魚のすり身団子の入った魚丸湯は好き。老街と並行する土産物屋街をぶらぶらひやかしながらMRT淡水站まで戻った。
(続く)
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