台北探訪記(4) 三芝
(承前)
12月29日。朝から雨降り。本日は、第一に江文也や李登輝ゆかりの三芝、第二に私の祖母の生まれた淡水、この2ヵ所を回るのが目的である。宿舎の受付で三芝への行き方を尋ねると、まずMRTで淡水まで行き、ここから金山方面行きの路線バスに乗れば、その途中だという。
MRT淡水站まで台北站から30分くらいか。バスセンターに行くと、金山経由・基隆行きという表示のバスを見つけた。運転手さんに三芝と大きく書いたメモ帳を見せながら「San-Zhi, OK?」ときいたら、いかにも面倒くさそうにうなずいた。柄の悪そうなヤンキーっぽいあんちゃんで、ものすごく不機嫌そう。「多少銭?」と尋ねると、「○☆△□」。よく聞き取れません。私を個人的に知っている人なら分かるでしょうが、非常に小心者でありまして、内心「えーん、このにーちゃん、こえーよー」とパニクってます。メモ帳とペンを渡しながら「請写一下」と言ったら、運ちゃんは一瞬躊躇した表情をして、再び怒ったように声を張り上げます。なんでわかんねーんだよ、バカヤロウってな具合の剣幕です。まあ、何とか金額は確認できたので、とにかく乗車。
車内前方に電光掲示板があるのに停留所名は表示されず、アナウンスも一切ありません。勝手知ったる地元民には分かるのでしょうが…。持参した台北近郊の都市地図帳を開き、通り過ぎる停留所名や街路名を一つ一つ確認しながら、行先は間違っていないと自分に言い聞かせます。結構、不安でした。目的地の三芝に近づいた辺りで誰かが降車ボタンを押した。ようやく着いたかと腰を上げたら、どうやら子供がいたずらで押してしまったらしく、母親が何やら叱りつけていた。一つ手前のようだったが、私は勢いで降りてしまった。私が下車しようとするのを見て運ちゃんはドアを閉めようとしたのだが、ひょっとしたら、まだだぞという意思表示だったのかもしれない。
降りて、あちゃー、と後悔したが、地図で見る限り、そんなに見当違いな所でもない。少し歩くと近隣の観光案内表示板があった。目的地の源興居を確認。念のため、デジカメに撮った(写真30)。デジカメの画面では文字が小さく見えづらいのだが、少なくとも道路のつながりは分かるので参考になる。私が表示板を見ている間、人の良さそうなおじさんが横に立って私の方を見ていた。おそらく、親切に教えてくれるつもりだったのだろう。目が合ったので、にこやかに会釈して先へ行った。
5分ほど歩くと三芝の中心街に出た。古そうな家屋を一軒パチリ(写真31)。道標に従って歩くと中心街を抜けた。田畑や野山が広がる中、一本の大きな道路がまっすぐ続いている。道路脇に生い茂ったススキの穂が風に吹かれてかすかに揺れる。東京は冬だったが、ここはまだ秋の気配。小雨が静かに降ったりやんだり、傘を持つ手がちょっと面倒だけど、この穏やかな空気に不快感はない。畑からは、雨水に濡れた土のかおりに肥料の臭いがかすかに混じっている。野山の中、所々、ノッポビルが遠望できる。新たに宅地造成されたマンションか。ノッポビルの唐突さは台湾独特の風景だ。
畑以外には何もない所を10分ばかりも歩いたろうか、割合と新しい公共施設らしきものが見えてきた。三芝観光中心、名人文物館が一緒になっている(写真33)。名人というのは地元出身の有名人のことで、四人について展示されていた(各出身地を示したパネルは写真35)。写真34は三芝観光中心の前から見渡す周囲の眺望。
生年順に紹介すると、まず杜聡明(1893~1986年、写真37)。亜熱帯の台湾には毒蛇が多いらしいが、蛇毒研究の世界的権威となった医者であり、他にアヘン中毒患者の更生など台湾の医療水準の向上に尽力したことで知られる。台湾総督府医学校及び京都帝国大学の出身、1937年には台北帝国大学医学部教授となる。台湾人として初めて医学博士号を取得、台湾人だってやればできると発奮させたことも功績に数えられているようだ。日本人の引揚後は台湾大学医学部長。台湾医学会の中心人物となったが、後に学長と意見があわなくて辞職。高雄に医学校を創設した(展示パネルは写真39、40、41、42、43、44、45、46、47。一部、館内の照明の関係で見えづらくなっています)。
江文也(1910~1983年、写真38)は台湾出身の作曲家として世界で最も有名な人という位置付けになっている。彼については、著書『上代支那正楽考』に絡めて先日書いたばかりだ(→こちらを参照)。当館のパネル解説を読んでいたら、バルトークの影響を受けていると書いてあった。バルトークは西欧の現代音楽を意識する一方で、ハンガリーの民謡を採譜、これを取り込みながら自らの楽風を確立していったことで知られている。台湾原住民や中国伝統の音楽を積極的に取り込もうとした江文也と時代的にもパラレルな関係にあると言える。なお、江文也の出生地について多くの文献では三芝と記されているが、今回、台北の書店で買い求めた顔緑芬・主編『台湾當代作曲家』(玉山社、2006年)所収の劉美蓮「以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也」を帰国後に読んだところ、戸籍は一族の出身地である三芝に置かれていたものの、実際には台北の大稲埕で生まれたという。三芝で暮らしたことはないようだ。私は三芝に来た時点でそのことを知らず、近辺の野山が日本の農村風景とあまり変わらないため、江は最初の留学先である長野県上田での生活にも違和感はなかったのだろうなどと思いをめぐらせていたのだが、実際には幼少時から都市的センスに馴染んでいたわけである。なお、展示パネルは写真48、49、50、51、52、53、54。
李登輝(1923年~、写真36)については特にコメントも必要ないでしょう。ここでは「民主之父」という位置付け。
盧修一(1941~1998年)という名前は初めて知った。政治学者出身で民進党の立法委員(国会議員)になった人らしい。ヨーロッパ留学中、保釣運動に関わったこともあるようだ。台湾独立案関連で逮捕され、1986年に出獄。1988年、立法委員に当選。誠実で情熱的な政治家として尊敬されたという。
名人文物館と同じ建物内に開拓館という名前の郷土資料館も併設されており、先住民のケタガラン族についての考古学的展示と、農暦にまつわる民俗行事の展示とに力が注がれている。漢族の中でも客家系の江姓の一族が三芝に住み着いて商売で成功したらしい。そういえば、先ほど三芝の中心街を歩いていたら、「台北縣江姓宗親会」という看板の掛かった事務所の前を通りかかった(写真32)。江文也もこの一族にあたるわけだ。
ケタガラン族とは台北近辺にいた平埔族である。台湾の原住民はおおまかに言って山岳地帯の高山族(高砂族、生蕃)と平野部にいた平埔族(熟蕃)とに分けられ、後者は漢族系と同化した(大陸からわたってきた漢族系は男性ばかりで、原住民の女性と結婚した→この時点で大陸の中国人とは異なる台湾人が形成されたと主張する人もいる)。なお、総統府前の大通りは、かつて蒋介石の号にちなんで介壽大道と呼ばれていたが、陳水扁が台北市長の頃に凱達格蘭(ケタガラン)大道と改称された。
名人文物館の裏に出ると、李登輝の生家がある。源興居と呼ばれている(写真55、56、57)。中はあまり広くなく、李登輝と蒋経国の並んだ掛け軸が一本かかっているのみ(写真58)。レンガ積みの伝統的な中国式家屋である。田舎ではこのような家が普通だったのだろう。婦人会の団体さんがわやわやと写真を撮り合って騒がしいので、しばし近隣を歩き回る。地形はゆるやかにうねっているため、棚田が広がっている。遠くに道観が見える(写真60)。日本で言うと鎮守の杜といったところか。植生にしても、田畑のつくりにしても、レンガ積み家屋がなければ、一昔前の日本の農村にいるかのような錯覚に陥る(写真59)。
李天禄布袋戯(ポテヒ)文物館というのが近くにあるらしいので行ってみた。近くと言っても結構距離はあった。田舎で何もないので道路の分岐は少なく、迷わないですんだが、20分くらいは歩いたろうか。観光客はみんな車で移動している。たどり着いて、ヘナヘナと力が落ちた。シャッターが下りて休館の表示。そうです。今天是星期一。まあ、無目的に台湾の田舎道を歩く機会なんてないだろうから、これはこれでよしとすべきか。とりあえず写真だけ撮っておいた(写真62、63)。写真61は途中で見かけた家屋。増築の仕方が面白くて撮った。
なお、布袋戯とは台湾の伝統的な人形劇。李天禄はその国宝級の使い手として知られた人で、侯孝賢の映画にもよく出演、飄々と味わいのある姿を見せていた。とりわけ「戯夢人生」(→こちらを参照)は彼の自伝的な作品である。晩年は三芝のここで暮らしていたらしい。
三芝の中心街に戻ると、すぐ淡水站行きのバスが来た。今度は終点まで行けばいいので安心。車内で小銭に両替することはできないようで、おばさんが近くに座っていた若い女性に声をかけて両替してもらっているのを見かけた。バスを降りるとき、みんな運転手さんに「謝謝」と声をかけていた。日本でも、田舎だと同様の光景を見かけたのを思い出した。
(続く)
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