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2009年1月 3日 (土)

台北探訪記(2) 二二八紀念館再訪

(承前)

 ちょうど10:00に二二八紀念館に到着。コロニアル風の明るい感じの建物だ(写真18、19)。日本統治時代から放送局として使われていた。1947年、二・二八事件がおこったとき台湾人の群集が占拠、国民党の暴政に対し、台湾人よ、立ち上がれ!と台湾全土に向けてここから檄が飛ばされた。占拠されたとき、女性アナウンサーによる北京語放送が途中から男声の台湾語に切り替わる瞬間の録音を館内で聞くことができる。

 玄関脇にハマユウの花(写真20)。広島の原爆による焼け野原に残った花を誰かが守り育て、平和の願いを込めて二二八紀念館に贈られたらしい(写真21)。

 二二八紀念館では日本語世代のご老体がボランティアでガイドをしてくれる。私が中に入ると、別の日本人観光客一人を相手に解説が始まったばかりだったので合流。私は前にも一度ここに来たことがあるのだが、その時にガイドをしてくれたCさんだった。もう一人の方は次の予定の都合があるとのことで途中で別れたので、一対一でお話をうかがうことができた。二二八事件についてのおおまかな話は基本的に前回と変わらないので、こちらを参照のこと。

 Cさんは昭和5(1930)年生まれだから、現在78歳。戦争中、14歳のとき、航空志願兵になったという。「ちゃんと試験を受けて通ったんですよ」と誇らしげだ。しかし、程なく日本は敗戦。Cさんは日本時代と国民党時代、二つの時代の教育を受けたことになる。

 セーラー服姿の女学生たちが中華民国の青天白日旗を振っている写真があった。国民党軍の台北入城のときらしい。Cさんはこの写真を指して「みんなきれいな身なりをしているでしょう。ところが、やってきた国民党の兵隊はどんなだったと思います? 鍋釜しょって、まるで苦力みたいにみすぼらしかった。」この話は、当時台北にいてやはりこの行進を見ていた私の祖母からも聞いたことがあるし、台湾人の回想録にもよく出てくる。Cさんにしても、私の祖母にしても、「日本はあくまでもアメリカに負けたんであって、中国に負けたんじゃない」と言う。もちろん、異論はあることと思う。しかし、日本人か台湾人かを問わず当時の台湾にいた人たちの素朴な実感としてそう受け止められても仕方のない理由はあったようだ。

 日本の大本営は、連合軍はまず台湾に上陸するものと想定して、本土決戦の前哨戦として台湾に兵力を集中させていたが(実際には、沖縄に上陸してあてがはずれたわけだが)、降伏時、台湾の日本軍は温存されていた。他方、蒋介石は共産党に備えて精鋭部隊は大陸に残し、最も質の低い兵隊を台湾接収に送り込んできたわけだから、その落差は当然だろう。しかし、台湾人は当初中国への復帰を歓迎していただけに、この落差は幻滅と映ってしまった。先日読んだばかりの楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』(中央公論社、1997年→こちら)では、著者もやはりこの行進を見ていて、日本人の視線を意識して恥ずかしくなってしまったところ(つまり、この時点では中国人アイデンティティーを持っていたと言える)、横にいた日本人のおばさんが彼の様子を見て取って「中国の人は今まで日本軍にひどい目に遭わされてきたんだから仕方ないわよ」と逆になぐさめられてしまったと記している。

 この落差は単に見た目の問題だけではなかった。国民党軍の基隆港上陸直後から略奪・強姦等の被害が発生した。また、日本統治下、台湾人の生活水準、教育水準は大陸に比べてはるかに高く、識字率は7~8割ほどもあったのに対し、大陸の識字率は2~3割程度であったと言われる(こうした社会生活レベルの相違は、台湾独立派だけでなく、例えば大陸に渡って共産党と連携しようとした謝雪紅たち台湾民主自治同盟にしても、独立とまでは言わないにしても台湾の高度な自治を求める根拠となった)。しかし、国民党側は、台湾人は日本によって奴隷化教育を受けてきたとみなして主要ポストから台湾人を排除。さらに国民党の金権腐敗体質、経済面での失政、疫病の流行(台湾人には後藤新平を高く評価する人がいるが、疫病というのはイデオロギーとは関係なく体感レベルで深刻な問題なわけで、国民党の台湾上陸と同時に疫病も一緒に持ち込まれた記憶が反転して、衛生制度を確立させた後藤への評価につながっているのだろうか)、様々な問題によって台湾人は反国民党感情を募らせていく。それが一挙に爆発したのが二・二八事件である。

 戦後、Cさんの父親は日本人から栄町(現在の総統府~西門のあたり)の商家を購入、そこで商売をしていた。Cさんは二・二八事件のとき、「危ないから外に出てはいけない」と父親から言われて家にとじこもっていたが、二階の窓から、国民党の兵隊が台湾人を追いかけて射殺するのを目撃したという。見せしめのため遺体を片付けることは許されず、放置されたままだった。二・二八事件及び以後のいわゆる白色テロで、国民党の特務は、共産党系の人々への弾圧を強める一方、日本時代に高等教育を受けた台湾人エリートを狙い撃ちするように逮捕、次々と殺害したと言われている。夜中に拉致されて行方不明になった人も数知れず。疑いがかけられたら証拠もなく逮捕された。Cさんの知人でも逮捕された人がいた。たまたま通りがかりの人に道を尋ねられたので教えたところ、その人が共産党員だったらしく特務の尾行がついており、言葉を交わした→共産党員の疑いあり、としてその知人も逮捕されてしまった。過酷な拷問のため容疑を認めざるを得ず、仮に認めなくてもそのまま殺されてしまった可能性が高い。監獄に15年間ぶちこまれ、体を壊してしまったため、釈放されてから2年ほどで亡くなったという。

 「二・二八事件では、政府の公式発表として2万8千人が犠牲になったとされています。ただし、正確な数字は分かりません。今でも山奥でたくさんの白骨死体が発見されることがあります。李登輝さんが謝罪しましたが、彼も台湾人です。手を下した国民党員はまだ生きているのに、彼らは一言も謝ってくれない。どこで殺して埋めたのか教えてくれません。20万、30万という数字を挙げる人もいますが、証拠がないので私には何とも言えません。公式見解で2万8千人ですから、少なくとも3万人以上としか私には言えません。」

 Cさんは大学では建築を専攻。ただし、専門を生かした職種にはつけず、普通の会社に入ったらしい。「国民党の時代になってから、公務員になるにはワイロが必要でした。同窓生にはワイロを出して就職したのもいましたが、私はそんなの払いたくありませんでした。」台湾人である限り出世の見込みはないと考え、57歳のときアメリカに移住、技術関連の企業で部長になったそうだ。永住権も取得したらしい。71歳まで勤め上げ、自分はやはり台湾人だと考えて帰国。陳水扁の民進党政権が発足した翌年のことである。

 近くの壁をさすりながらCさんは言った。「この建物をごらんなさい。戦前に日本人が建てた放送局ですが、とても頑丈です。蒋介石の建てさせたものなんてダメです。むかし、日本人の建築現場を見たことがあります。コンクリートをつくるにしても、砂を本当に丁寧に洗っていました。中国人は役人がピンはねするし、手抜きします。だから、すぐ崩れてしまう。日本人ならそんなことしません。」

 Cさんは小脇に抱えたファイルから教育勅語のコピーを取り出して私にくれた。裏面には現代日本語訳もある。前回来館したときは驚いたものだが、今回は話の流れは分かっているので素直に受け取る。「教育勅語というと、日本の一部の人は軍国主義とか言うようですが、私が言いたいのはそういうことではありません。」“朕”とか“皇祖皇運”といった表現を指して、「天皇だってあくまでも一人の人間ですから天皇崇拝はよくないし、侵略してもいけません。ただ、正直、勤勉、国のために尽くすこと、そういう大切なことが教育勅語には書かれています。私はそれを日本人から教わりました。私には大和魂があります。ところが、こういう美徳が台湾から失われています。最近は日本でもそうだと聞いていますが、いかがですか?」といたずらっぽい笑みを浮かべながら問われると、私としても「いやあ、耳が痛いです」と答えるしかない。

 “大和魂”“日本精神”(向こうではリップンチェシンと発音するようだ)なんて言うと、戦後教育を受けた私の世代はびっくりしてしまう。しかし、Cさんには、当時の日本人はワイロもピンはねもしない→正直、コンクリートをつくるとき丁寧に砂を洗う→勤勉、そうした具体的なイメージがあるようだ。つまり、公共道徳という意味合いとして受け止めるべきであって、いわゆる軍国主義的なものとは全く違う。このあたりは誤解しないよう注意せねばならない。

 お話をうかがっていると、蒋介石及び国民党に対する批判が頻繁に出てくる。蒋介石の写真を見ると、「私たちはこいつのことをハゲと呼んでいました。」「蒋介石の銅像がまだ残っているのはおかしい。ドイツでヒトラーの銅像があったら、どう思いますか?」「アメリカは3つの原爆を落としました。2つは広島と長崎に。残る1つは蒋介石という原爆を台湾に。」そう言いたくなるほど、蒋介石によって台湾人は苦しめられたという怨みが強いようだ。

 「政治というのは、やはり比較してみないと分かりません。若い頃は日本の植民地支配を私も快く思っていませんでした。差別がありましたから。ところが、蒋介石がやって来て、日本時代は本当に良かったとつくづく思います。あの頃は戸締りなんかしなくても、安心して眠ることができました。しかし、国民党の時代は、特務が夜中に突然やって来て、証拠もなく政治犯とされた人が次々と連行されました。日本時代にも弾圧を受けて投獄された人はいましたが、少なくとも殺された政治犯はいませんでした。あの静かだった時代に戻って欲しい…。」

 「国民党は日本の残した資産を全部私物化してしまった。しかし、これは本来国家のものです。」最後の台湾総督・安藤利吉の写真を指して、「この人は戦後、戦争犯罪人として逮捕されました。服毒自殺したとされていますが、国民党の財産横領のやり口を見ていたので、口封じのために毒殺されたとも言われています。」真偽のほどは私には分からない。出典は何だろう?

 「国民党は悪辣なやり方で金集めをしました。しかし、民進党には何もありません。陳水扁は8年間、何もしなかった。国民党の問題を清算できませんでしたから。」「李登輝さんは偉いと思います。しかし、以前は大嫌いでした。彼は国民党員でしたから。やはり本心を隠さなければならなかったのでしょう。」「金に目がくらんで国民党になびく台湾人がいるのはいけない。台湾人はまったく愚かな民族です。だから、国民党が再び権力の座についてしまった。このままいくと、台湾人は再び何も言えなくなってしまう。国民党は圧力をかけています。総統府にもガイドがいますが、二・二八事件について語る人はみな追い出されてしまいました。ここだって、いつまでもつことか…。」そういえば、Cさんと私を別の日本人観光客のグループが追い越していったのだが、そちらの日本語ガイドの人は、以前、総統府でガイドをしてくれた人だったような気がする。総統府を追い出されて、二・二八紀念館に移ったのだろうか。総統府のガイドなのに、元総統の蒋介石を徹底的に罵っているのが印象に残っていた。

 黄文雄の本を薦められたのは内心困ってしまったのだが、それはともかく。Cさんの話には中国に対する警戒心も強くにじみ出ており、暴政をやった国民党=中国人という不信感を強く抱いていることが窺える。二・二八事件の記憶が恐怖と共にそれだけ深く心の中にまで根を下ろしているわけだ。

 馬英九への好き嫌いはともかく、少なくともかつての国民党の恐怖政治に戻るようなことはまずないはずだし、そこまで彼がバランス感覚を失した政治家だとは私には思えない。その点ではCさんの懸念は若干杞憂のようにも思える。また、台北滞在中、宿舎でテレビニュースをつけると、陳水扁の保釈の可否をめぐる報道が過熱していた(有名占い師30人を集めて保釈されるかどうか占わせるなんて趣向があるのも台湾らしい。占いでは保釈されると断定されたのだが、翌日、逃亡のおそれありとして刑務所に戻されていたが)。陳水扁陣営が「李登輝だってマネーロンダリングやってたじゃねえか」と告発するという泥仕合まで展開され、泛緑陣営はもうグダグダ。かつて李登輝と陳水扁は親子にたとえられるほど密接な関係をアピールしていたが、もう関係修復不可能なほど険悪らしい。こんなブザマな状況でも、テレビに映る阿扁の支持者が激しく抗議する様子が印象に残る。これは阿扁個人の是非というのではなく、二・二八事件以来の国民党の負の記憶が彼の行方に投影されていると考えるべきなのだろう。Cさんの懸念にしても、阿扁支持者の激しい抗議にしても、それだけ台湾社会に打ち込まれた二・二八事件という楔の重さを改めて考えさせられた。

 館内を一通り案内していただいた後、ベンチに座ってしばらく雑談。「今度いらっしゃるときは事前に連絡してください。日程に合わせてここで待機していますよ。どうせヒマですから」と笑いながらおっしゃっていただいた。帰り際、Cさんから握手を求められ、足元が若干おぼつかないのに玄関先までお見送りいただき、恐縮しながら辞去。時計を見ると、もう13時を過ぎていた。

(続く)

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