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2009年1月 3日 (土)

台北探訪記(1)

※以下、容量の関係で写真をアップできない状況なのですが、問題が解決し次第、掲載いたします。

 2008年12月27日の午後に成田を飛び立ち、台北に到着した時にはすでに暗くなっていた。とりあえず宿舎に荷物を置いてから、台北駅の南側、重慶南路の書店街をぶらぶらとひやかす。台北の書店はどこも夜10時くらいまではやっている。

 新刊・ベストセラー台に映画「海角七号」のノベライズと撮影日誌的なメイキング本が積んであったので購入。日本統治時代と現代とを交錯させた日本人と台湾人とのラブストーリーらしいが、いま台湾で記録的な大ヒットとなっている。中台統一派からは日本時代を美化するなんてけしからんという声もあがっているそうな。

 12月28日、曇り。昨年(2008年)の正月に台北に来たときはちょうど寒波が襲来しており、最高気温も1ケタ台、道行く人はみな厚手のコートを着込んでいた。対して、本日の最低気温は14度、天気予報によると20度くらいまで上がるらしい。歩くと、はおっているジャケットが暑苦しくなってきて、少し汗ばむ。街中には、ジャンパー姿のおじさんがいたり、短パン姿の女の子がスラリとしたきれいな足を惜しげもなく見せてくれたりと服装もまちまち。

 午前7時半頃、宿舎を出る。まずは歴史散策。台北中心部の土地勘はほぼつかんでいるので、目的地が決まればスムーズに歩いていける。横断歩道に歩行者がいても車やスクーターが平気で突っ込んでくる交通マナーの悪さにもすでに慣れている。台北郵局、北門と通り過ぎ、旧鉄道部、日本統治時代の台湾総督府鉄道局の建物の前に出た。まだ改修工事中。この近辺は再開発予定だが、歴史的建築物として一部は残す計画らしい。かつて鉄道局勤務の日本人が住んでいた日本家屋街も崩れかかりながらかろうじて残っている。戦後は外省人の暮らすいわゆる眷村となっていた所だが、こちらは取り壊し予定の様子。立ち退きが迫られているらしく、人の気配は希薄。

 かつて大稲埕と呼ばれた区域へ行く。現在の大同区である。貴徳街に入る。平行して南北に走る迪化街も含め、日本統治時代から台湾人の商業地区であった。衣料関係、薬種、茶葉など各種問屋が軒を連ねている。淡水河の船着場に近いためこの辺りは港町と呼ばれた。写真1は、かつて港町文化講座の開かれたという建物である。古蹟として保存すべくこちらも改修工事中。近くで医院を開業していた蒋渭水を中心に、台湾人の参政権や自治を要求する文化運動の中心となっていた。向かいには李春生紀念教会がある。

 さらに進むと、榮星幼稚園(写真2、3)。台湾でも随一の豪商であった辜顕栄の私邸だった建物を活用している。榮星というのは辜顕栄の号である。彼は1895年、日本軍の台北入城の手引きをしたということで商業上の特権を取得、1934年には貴族院議員となった。息子の辜振甫も実業家で、海峡交流基金会の会長を務めたことで知られる。たしか、経済アナリストのリチャード・クーも辜一族のはずだ(辜=Koo)。

 迪化街から横道に入ってみた。台北の人口密度はきわめて高い。道路沿いにすき間なく建物が並んでおり、どれも5階以上はあるので、路地裏はやや暗い。ほとんどの窓には、洗濯物を乾せるスペースは確保した上で出窓状の格子がはめられている。泥棒よけか、それとも落下物防止のためか。台北の街並を見渡して何となくものものしく感じられるのはこの格子窓のせいだ。野良猫よりも野良犬の方が比率は高く、特に黒犬が目立つ。初めて台北を歩いたときは少しびびったものだが、ワンちゃんたちはマイペースにうろついているだけだし、もう慣れた。八角という香辛料だろうか、あのにおいが鼻腔に入ってくると、「ああ、今、台湾にいるんだなあ」とつくづく感じる。

 かつては屋台で賑わっていたという円環には、現在、公共施設だろうか真新しい建物が建っている。波麗路西餐廳(ボレロ・レストラン)の前を通る。看板には1934年創立とある。まだ朝早いので開いていない。先日、『文芸台湾』をパラパラめくっていたら、編集後記で西川満がボレロで誰それと会って云々ということを書いていたのを思い出した。以前から一度は入ってみようと思いつつ、いまだに入る機会を得ないままだ。

 台北駅前に出て、館前路を南下、二二八和平公園に出る。日本統治時代には新公園と呼ばれていた。太極拳、社交ダンスの練習をするおじさん、おばさんに混じり、扇子を使ったモダンダンスの練習に励む若い男女も見かけた。二二八紀念館の開館する10:00までまだ時間があるので辺りを散策。写真11は国立台湾博物館。かつては総督府立博物館だった建物である。横には、大天宮后旧跡を示す石碑(写真4)。日本はこのお宮をつぶして、その上に博物館を建てた。この近辺の歴史的建造物を博物館等に活用して公園として整備する計画があるらしく、写真12はその計画告知板。

 博物館前の道路脇に鳥居が二つある(写真5)。台北駅の北東、現在は林森公園となっている区域はかつて日本人墓地だったのだが、ここにあった鳥居が二二八和平公園に移転されている。大きい方は元台湾総督・明石元次郎の墓前にあったもの(写真6、7)。小さい方は、やはり元台湾総督だった乃木希典の母親の墓前に会ったもの(写真8、9)。台湾の国府接収後、外省人難民が大陸から流れ込んできたが、住む場所がなかったためこの墓地に住みつき、一種のスラム街を形成していた。鳥居はバラック建ての柱に使われていたが、陳水扁・台北市長時代にこのスラム街は撤去され、その時に鳥居は発見されたらしい。

 いったん公園の外に出た。写真10は土地銀行で、戦前の三井物産台北支店。後ろの改修工事中の建物は戦前の勧業銀行。写真14は台湾銀行。戦前も組織は違うがやはり台湾銀行。金融恐慌の発端となった銀行である。

 写真13は総統府。言うまでもなく、かつての台湾総督府である。昨年(2008年)、私が台湾に来たときはまだ民進党の陳水扁が総統在任中で、総統府の尖塔には台湾名義での国連加盟を求める文字板が掛かっていた。国民党の馬英九政権となった現在は、「中華民国建国紀念」となっている。中華民国が建国されたのは1912年で、2012年には百周年を迎えるわけだが、それに向けてということか。ちなみに、この尖塔、戦前は「アホウ塔」と呼ばれていたと祖母から聞いたのだが、どんな字をあてたのだろう?

 総統府の斜向かいにあるのは台北第一女子高級中学(北一女中、写真15)。戦前の台北第一高等女学校で、戦前も現在も台湾における女子教育のトップ校である。私の祖母もここで学んだらしい。朱天文の小説を以前に読んでいたら、彼女もここの出身で、蒋経国が時々視察に来たと記していたように思う。さらに厳家淦(蒋介石と蒋経国の間で中継ぎとして総統になった人)旧邸や総統官邸のあたりをふらつく。二二八国家紀念館という看板(写真16)のある建物が改修工事中なのだが、これは何だったのだろう? 写真17は公売局、戦前からタバコ等の専売局だった建物だ。デジカメを向けると、警備員さんが柱の陰に隠れた。割合と有名な建築物なので写真を撮る人が頻繁に来るのだろう。近いうちに産業史博物館となる予定らしい。写真22は台湾賓館(迎賓館)、戦前の台湾総督官邸だった建物である。

(続く)

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