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2008年2月10日 - 2008年2月16日

2008年2月15日 (金)

スピノザ『エチカ』から

 時折、気分の滅入っているとき手に取る古典がある。スピノザ『エチカ』もその一つ。手もとにあるのは畠中尚志訳の岩波文庫版、上下二巻。文体は古い。改版前のものを古本屋で見かけたことがあるが、旧仮名遣いだった。ラテン語直訳的で日本語としては非常に読みづらいのだが、あちこち線を引っ張ってある。シャーペンで引いたミミズのはったような線。しっかり定規を当てて引いた赤ペンの線。読むたびに違う箇所に傍線を引っ張ってきた。頭が疲れているとき、ページをパラパラめくりながらそうした箇所を拾い読みする。

 定義、定理、証明、Q.E.D.(証明終わり)を繰り返し、倫理の問題についてあたかも幾何学を解くように書き進める、素っ気ない本。その論理展開をいちいちおさえながら読むのは面倒くさい。おそらく私は、スピノザの思索を理解などしていないと思う。自分の思い込みだけで読んできただけなんだと思う。でも、それで安心立命を得てきたんだからいいじゃないか。所詮、オナニーみたいなもんさ。

「物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった」(上巻、76頁)。

 私自身のあり様も含め、一切の物事には、今ある状態以外のどんな状態もあり得ないという端的な事実。当たり前のことなんだけどね。他の状態なんて本来的にあり得なかったのだから、クヨクヨしたって仕方ない。

 “スピノザの石”という表現がある。いま、石を投げたとする。もしその石に意識があったなら「自分はいま、自分の自由意志で空を飛んでいる」と考えることだろう──。“自由意思”なんて言い方はするが、単に“私がかく意志している”というその遠因が分からないだけのこと。こんな言い方をすると、運命決定論だとか敗北主義だとかやっきになって反論しようとする人がいるけど、どこか感覚が違う。こうあること、こうあらざるを得ないことをそっくりそのまま認めて引き受けること──“こう”とか、“その”とか、指示代名詞ばかりで雲をつかむような言い方になってしまうのがもどかしい。

 裏返せば、こうすべきと心の奥底でささやく確信を聞き取ることができたら、それもまた一つの真実なのだから、その確信に従って振舞えばいい。たとえば、何か不合理な扱いを受けているとして、それを甘受せよなどと言っているわけではない。導き手は私のうちなる“何か”だけ(良心、と言いたいところだけど、誤解されそうだから使わない)。マニュアルはどこにもない。

「徳とは人間の能力そのものであり、そしてそれは人間の本質にほかならない、言いかえればそれは人間が自己の有に固執しようと努める努力にのみ存する。ゆえに各人は自己の有を維持することにより多く努めかつより多くこれをなしうるに従ってそれだけ有徳であり、したがってまた人は自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である」(下巻、31頁)。

 “有”といっても何のことやら分かりづらいが、英訳版を参照すると、beingとなっている。つまり、私がかくあることをそのままに出しきればいいということ。もちろん、自己吟味を経た上でのことだが。外的なものがどうであれ、私自身のあるがまま、私自身でしかないもの、それを自己肯定していくという態度は、表現こそ違えどもニーチェを思い起こす。ジル・ドゥルーズもそうしたところでニーチェと共通するようなことをスピノザ論で言っていたように記憶している。

 結果として失敗、もしくは破滅したって構わない。それが私の宿命なのだから、私は進んで死ねばいい。それだけのこと。たいした問題ではない。

「…人間の能力はきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される。したがって我々は、我々の外に在る物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持っていない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するようなできごとに遇っても、我々は自分の義務を果したこと、我々の有する能力はそれを避けうるところまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部分であってその秩序に従わなければならぬこと、そうしたことを意識する限り、平気でそれに耐えるであろう。もし我々がこのことを明瞭判然と認識するなら、妥当な認識作用を本領とする我々自身のかの部分、すなわち我々自身のよりよき部分はそれにまったく満足し、かつその満足を固執することに努めるであろう。なぜなら、我々は妥当に認識する限りにおいて、必然的なもの以外の何ものにも満足しえないからである。それゆえに、我々がこのことを正しく認識する限り、その限りにおいて、我々自身のよりよき部分の努力〔欲望〕は全自然の秩序と一致する。」(下巻、94~95頁)

 かくあること、その一点だけで、自分のあり様は大きな世界と重なっている。だから、不安に感じてソワソワする必要は本来的にはない。そういえば、パスカル『パンセ』の次の言葉も思い出した。有名な「人間は考える葦である」の一節だが、この言葉の使い方を意外と間違っている人をときどき見かける。続く後段もよく読んでみましょう。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は、何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。」(前田陽一・由木康訳、中公文庫、1973年、225ページ)

 自分の存在する理由をどこかに“具体的に”求めようとすると必ず間違う。かくある自分というものを、大きな構図の中で、「ああ、そういうことなんだな」と納得できればそれでいい。自分を突き放した視点に立って、生き死にもひっくるめて大きく俯瞰してしまえば、意外と気持ちが楽になる。そうした自身をめぐる世界のありようをリアルにそのまま理解することが、“考える”ってこと。それを小難しい表現で“哲学”って称しているだけ。池田晶子さんが言っていたのも基本的にはそういうことだったと思っている。

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2008年2月14日 (木)

「アドリブ・ナイト」

「アドリブ・ナイト」

 ソウルの雑踏、人待ち顔に携帯電話をいじっている女の子(ハン・ヒョジュ)の姿。突然、二人組みの男から「ひょっとして、ミョンウンじゃないか?」と声をかけられた。人違いだと言ってもなかなか納得してくれず、彼女は戸惑うばかり。事情を聞いてみると、そのミョンウンという娘は家出しているのだが、父親が危篤なので探しているのだという。──君は本当にそっくりだから代役として死ぬ間際に一言声をかけてやってくれないか? 何となく説得されてしまった彼女はしぶしぶながらもついていく。

 目的地に着くと、親類や関係者が集まっている。遺産やら借金やら過去の人間関係やら、色々と大騒ぎ。そうした中で、ミョンウンという女性にまつわる話を聞き、彼女の持ち物に触れ、そして父親の臨終に立ち会ってその手を取る。自分にそっくりだという他人の人生に触れることで、かえって自分自身の抱えているものに思いをいたす。どこか投げやりな気分になっていた彼女の中で確実に何かが変わった。

 ハン・ヒョジュという女優さんは今回初めて知った。訳あり気に憂いを帯びた暗さが浮びつつも清潔感のある顔立ちを見ていると、それがまた胸がドキドキするように美しい。原作は平安寿子らしいが、私は未読。舞台を韓国に移し変えているのだからかなりアレンジされているのだろうが、落ち着いた映像の効果もあって、しっとりと良い感じの作品だ。特にラスト近く、一晩が終わってソウルに戻ってきたときの朝の光景が、何というか、観ている側の中にもしんみりとしたものが湧き起こってきて、彼女が感傷的になるのも自然に納得できる、そんな感じにとても印象的だった。

【データ】
英題:Ad Lib Night
監督・脚本:イ・ユンギ
原作:平安寿子「アドリブ・ナイト」『素晴らしい一日』文春文庫
2006年/韓国/99分
(2008年2月11日、渋谷、アミューズCQNにて)

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2008年2月13日 (水)

「牡牛座──レーニンの肖像」

「牡牛座──レーニンの肖像」

 青みがかった色調で映し出された鮮やかな木々の中、サナトリウムのような大きな邸宅がひっそりとたたずむ。病と痴呆が進行し、やつれた面持ちのレーニンが車椅子にぐったりと深く沈みこんでいる。

 身の回りの世話をしてくれる妻クループスカヤと妹マリアのひそひそ声。医師や衛兵たちの無造作な対応。やがて登場するスターリンは余裕の表情を見せ、のらりくらりと論点をずらしながら慇懃無礼な態度を取る。彼らとの語らいによって、レーニン晩年の独白を引き出す形で話は進行する。セリフ回しは、映画というよりも演劇の雰囲気。随所に思わせぶりな暗喩が散りばめられている上、いかにもレーニンらしいぺダンチックな語り口もあって、観念的で分かりづらい印象を与えるだろう。映画館は満席だったが、明らかに退屈している観客が多かった。

 アレクサンドル・ソクーロフ監督のいわゆる“二十世紀の独裁者”シリーズの一つである。ヒトラーとエヴァ・ブラウンのベルヒデスガーデンでの一夜を描いた「モレク神」(1999年)や、日本の敗戦後、人間宣言を出すに至るまでの昭和天皇を主人公とした「太陽」(2005年)は、いずれも世間から隔絶された“雲の上”で“神”的な存在となった人物が見せる孤独な葛藤を描くという構図を持っていたように思う。その点ではこの「牡牛座」も共通している。

 たとえば、“愚民”を調教するためのムチ打ちに関する文献を延々と読み上げたり、党中央委員会から贈られたステッキを振り回して暴れまわったり、「自分が死んでもこの世界は存在するのかね?」とつぶやいたり、こうしたあたりには、権力の絶対性とその残虐さとの両面をうかがわせる。そして、それを担うのは常人にはとてもじゃないが耐えられるものではない。映画のはじめの方、レーニンは裸で転がっている。彼とても特別な人間ではない。その衰え行く姿からは、権力の重荷とに押しつぶされた孤独なうめきを聞き取ることができるのだろう。

【データ】
英題:Taurus
監督・撮影:アレクサンドル・ソクーロフ
2001年/ロシア/94分
(2008年2月11日、渋谷、ユーロスペースにて)

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2008年2月12日 (火)

「ちーちゃんは悠久の向こう」

「ちーちゃんは悠久の向こう」

 モンちゃん(林遣都)とちーちゃん(仲里依紗)は幼なじみ。高校に入学しても二人はいつでも一緒。モンちゃんは弓道部に、ちーちゃんはオカルト研究会に入るのだが、弓道部の先輩がモンちゃんに接近してきて、ちーちゃんは気が気でない。“高校の七不思議”を制覇すると願いがかなうらしいと知ったちーちゃんは、モンちゃんの家庭の事情も考えて、彼をその探検に連れ出す。

 両親の離婚、幼なじみとの死別──受け入れがたい悲しみに直面して、そこから目をそらそうという逃げの意識とどう向き合うか。ストーリーはジュヴナイル小説にありそうな展開の学園もの。当然、高校生くらいの登場人物が多い。西田尚美と堀部圭亮を除くと、みんな学芸会レベルの演技という難点はあるが、全体的にほのぼの、しみじみという感じで、私は意外と嫌いでもない。仲里依紗のクリクリまなこはこういうタイプの映画の雰囲気にぴったり。

【データ】
監督:兼重淳
出演:仲里依紗、林遣都、堀部圭亮、西田尚美、他
2007年/94分
(2008年2月11日、シアターN渋谷にて)

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2008年2月11日 (月)

最近読んだ雑誌から

 1月の台湾・立法院選挙(総選挙)では国民党が地すべり的な大勝を果した。民進党の陳水扁政権下での①経済失政、②政治腐敗に批判が集まり、それを挽回すべく③陳総統自身のイニシアティブで正名運動(具体的には、蒋介石にまつわる地名の抹消)と台湾独立意識の昂揚(具体的には、台湾名義での国連加盟を求める国民投票の実施)などによって本省人と外省人との対立意識を煽動しようという方針がかえって反発を買ってしまったこと、以上に原因が求められる。小選挙区制を導入したのも敗因の一つだが、これは他ならぬ民進党自身が国民党の内部分裂を誘発しようと画策した結果であり、返り討ちをくらってしまった形だ。

 香港誌『亜洲週刊』1月27日号は台湾総統選特集を組んでいる。3月の総統選についての世論調査では国民党の馬英九候補が圧倒的にリードしている。謝長廷候補を擁する民進党は、陣頭指揮を取っていた陳総統が総選挙大敗を受けて前面から退き、謝候補自身がすべてを取り仕切る態勢に組み替えた。童清峰「台湾総統選挙爆発力大決戦」によると、民進党にも必ずしも目がないわけでもないらしい。民進党の支持率は30~40%前後、これに台湾団結連盟など汎緑派(台湾独立派)を合わせると45%くらいはいくという。あと5%をにぎるのが第一に、李登輝。現在、李登輝と陳水扁の仲は悪く、台湾独立派の選挙協力に失敗したことも民進党敗北の一因となっている。謝は総選挙大敗直後に面会に行ったそうだ。一方、馬も李登輝を敬う姿勢を変えていないが、李自身は馬・謝のどちらを支持するか態度を明らかにしていない。第二に、中間派の票を取り込み必要がある。現在の台湾社会では穏健な台湾独立という考え方が主流となっており、少なくとも経済では大陸との関係を拡大すべきという趨勢にある。それを受けて謝は陳水扁が進めてきた強硬路線を完全に切り替えた。馬にしても中台統一派というイメージが固定化することで票が逃げることを警戒している。従って、謝・馬ともに“穏健台独”という世論の流れに如何に歩み寄るかがカギとなっている。そして、両陣営ともに軸足を中道に寄せていけば、それだけ台湾社会内での対立も弱まっていくとも考えられる。

 ちなみに、童清峰「謝長廷逆中求勝的伝奇」によると、謝長廷のあだ名は“九命怪猫”。民進党内での権力闘争に何度も敗れながらもそのたびに復活し、強い意志力で逆境を踏ん張ってきた経歴で知られているらしい。

 咼中校「一個大陸人看台湾選挙」は、『亜洲週刊』記者自身の選挙見聞記。国民党陣営のプレスルームで開票速報を見ていたら、王金平立法院長(国会議長)というVIPが気軽に入ってきて、「セキュリティーは大丈夫なのか?」と驚いているのが面白い。香港とは違って、台北の人々が候補者の人物像や政策について盛んに話し合っているのを見て、「中山先生(孫文)の説いた“政治即衆人之事”が台湾ではまさに実現している」と記す。本号の冒頭には香港での普通選挙をめぐる不透明な未来についての記事(「怎様普選VS何時普選」)があるだけに、言外の感慨がありそうだ。

 毛峰「華人作家与日本芥川奨邂逅」は、『ワンちゃん』で第138回芥川賞の最終選考まで残った中国人留学生楊逸さんへのインタビュー記事。

 “Foreign Affairs”2008 Jan/Febの特集は‘Changing China’。John L. Thornton‘Long Time Coming : The Prospects for Democracy in China’は長期的に見れば中国の政治過程の民主化は楽観できるという趣旨。G. John Ikenberry‘The Rise of China and the Future of the West : Can the Liberal System Survive?’は、台頭する大国は既存の国際秩序をひっくり返すか、そこに適合するかのどちらかだが、中国にとっては適合する路線が利益にかなうだろう。将来的にアメリカの覇権が相対的に低下することは避けられないが、現在の国際システムの中にアメリカ主導で中国を組み込んでいくことが必要、と主張。Stephanie Kleine-Ahlbrandt and Andrew Small‘China`s New Dictatorship Diplomacy : Is Beijing Parting with Pariahs?’。Pariahというのはつまり北朝鮮、ミャンマー、スーダンなどの“鼻つまみ”国家のこと。こうした“鼻つまみ者”が崩壊の危機にあるという認識を共有することで、ここ数年、米中が共同で対処するシーンがあったことを踏まえ、中国自身の価値観は変わらないにしても、国際問題で歩み寄れる可能性を指摘する。

 Michael McFaul and Kathryn Storner-Weiss‘The Myth of the Authoritarian Model : How Putin`s Crackdown Holds Russia Back’はデータを示しながらプーチン政権について開発独裁モデルで考えることを否定、権威的政権だから経済成長に成功したのではなく、権威的であるにも拘わらず成長したのだと指摘。Vali Nasr and Ray Takeyb‘The Cost of Containing Iran : Washington`s Misguided New Middle East Policy’はアメリカ政府のイラン封じ込め政策を批判、イランも地域的安全保障に組み込むべきだし、そうすればイラク情勢の安定化にもつながると主張する。

 『東京人』2008年2月号は「開通80年 地下鉄がつないだ東京風景」特集。昔のポスターについての記事を見ているとやはり杉浦非水が目を引く。東京の地下鉄の変遷や各路線ごとのエッセイ多数。詳しく書きたいところだけど、長くなってきたのでやめときます。

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2008年2月10日 (日)

「東京少年」

「東京少年」

 解離性同一性障害、いわゆる二重人格の少女ミナト(堀北真希)。彼女にひかれる浪人生のシュウ(石田卓也)がミナトのもう一つの人格ナイトと出会うという話。ナイトが少年という設定からタイトルがつけられているのだろう。

 堀北真希の演技はなかなか悪くない。小づくりな顔立ちに大きくつぶらな瞳、人格が変化する瞬間にギョロッと見開き、それまでの楚々とした表情が一転してさも相手を軽蔑しきったような目つきにかわる。無造作にリンゴをかじる時のアゴの動きも堂に入っている。堀北ファンにはたまらないだろうが、ストーリーは陳腐で退屈、あくびが出た。おそらく、堀北を主演に映画をつくるから何か一本適当にでっちあげろという程度の企画なんだろうな。

 続けて夏帆の主演で「東京少女」というのも上映されるらしい。予告編を見ると、明治時代の青年と現代の少女が時を超えて携帯電話でわずかな間だけどつながり合うという筋立てのようだ。「東京少年」は内なる自分と会いたくても会えないという話だった。相手の存在は分かってはいて気持ちはつながっているのに会えないもどかしさをテーマとしてシリーズ化しているのだろう。夏帆は気になるが、たぶん観には行かないな。て言うか、この程度の内容ならダラダラしたつくり方しないで、もっと簡潔に切り詰めて二本立てにすれば良かったんじゃないか。

【データ】
監督:平野俊一
出演:堀北真希、石田卓也、草村礼子、平田満
2008年/95分
(2008年2月9日、新宿トーアにて)

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