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2008年2月3日 - 2008年2月9日

2008年2月 9日 (土)

「人のセックスを笑うな」

「人のセックスを笑うな」

 原作は山崎ナオコーラのデビュー作(河出文庫、2006年。どうでもいいが、高橋源一郎の解説は力みかえりすぎて、うざい…)。文体は至ってシンプル。無駄な描写を省いたところに透明感があって、たとえばセックスのシーンでも妙ないやらしさを感じさせない。

 マイペースで一風変わった美術学校教師ユリちゃん(永作博美)に生徒の純情な青年ミルメ(松山ケンイチ)が振り回されるという構図では小説も映画も共通する。映画では学校をドロップアウトするエンちゃん(蒼井優)のエピソードが大きくふくらまされ、ミルメを軸にユリちゃんとエンちゃんがシーソーゲームをするような展開になっている。

 短編とは言わないまでもせいぜい中編程度に短いこの小説をどうやって二時間を超える映画に仕立て上げたのか気になっていた。小説には小説なりの、映画には映画なりの媒体としての持ち味がある。原作を忠実になぞっただけの映画というのはたいていつまらないものだが、かといってアレンジし過ぎてチンチクリンな出来上がりの作品もあって難しい。この映画の場合、原作の雰囲気を生かしつつ映画版なりに独自の物語が成立しており、よく出来ていると思う。

 四捨五入すれば40歳になるのに子供っぽい雰囲気を出せる女優といえば、やはり永作博美しかいないだろう。はまり役だ。蒼井優も自然にあどけない感じがとても良い。

 何よりも、心にくいまでにディテールにこだわった描写が私は好きだ。小説の舞台は東京だったが、映画では北関東の小都市に移されている。つかず離れずの微妙な男女関係を描いているわけだが、たとえば東京のマンションだと冷たく突き放す雰囲気になってしまう。この映画では、古びた木造家屋のぬくもり、石油ストーブ(なつかしい)、こたつにみかん──。ミルメやエンちゃんのグダグダした想いを包み込んでくれる落ち着いたイメージが浮かび上がってくる。さり気ないけど、決め手となるとても良い演出になっていると思う。

 評判は良いらしく、映画館は満席だった。

【データ】
監督:井口奈己
脚本:井口奈己・本調有香
出演:永作博美、蒼井優、松山ケンイチ、忍成修吾、温水洋一、あがた森魚、桂春團治、他
2007年/137分
(2008年2月8日レイトショー、銀座テアトルシネマにて)

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2008年2月 8日 (金)

経済的合理性についてメモ

(2,3年くらい前に書いたメモです。あくまでも自分の考えを整理するためのものだったのでかなり大雑把ですが、看過しがたい誤解がありましたらご指摘ください。)

 経済についての議論が論壇で主流となっていること自体に、現代という時代の一つの精神史的特徴が表われているようにも思える。そこにおいては、①経済的合理性を持った人間が、②多様な選択肢が与えられる中で、③主体的な責任を持って選び取る、こうした条件を以て“自由”とみなす考え方が前提とされている。これを純粋に抽象化した思想的立場を政治哲学ではリバタリアニズム(libertarianism=自由至上主義)という。

 ①に対しては、そもそも人間に合理性などあり得るのか?という疑問が出てくる。ホモ=エコノミクス(homo economicus)という人間モデルは、現実の人間像を写し取ったものではなく、あくまでも経済動向を分析・予測するための方法的仮設に過ぎない。現実の人間の予測不可能で複雑な行動の襞を読み込むのはほとんど不可能に近いわけだが、それでも、(a)マスのレベルでは一定の傾向性が見られる、(b)それを大雑把にでも措定することで計算可能性→予測可能性を擬制する、というのが経済学の基本的な考え方である。
 しかし、経済学に重きを置いた議論が主流となるにつれ、プロクルステスのベッドとも言うべき次のような倒錯が生じた。複雑な人間像を描くと収拾がつかなくなるから次善の策としてホモ=エコノミクスが措定されたという学的成立の経緯をひっくり返してしまい、むしろ経済活動をスムーズにするためにこそ、人間は論理化できない感情的な襞を捨てて合理的であらねばならないという独特な社会風潮が表われてきた。それは、かつては封建的な因習を打破せねばならないという進歩主義の主張であったが、近年は経済的な新保守主義が取って代わり、進歩派・左派はその行き過ぎを批判するというスタンスに回っている。これは日本国内の問題というだけでなく、アメリカ発のグローバライゼーションと密接に連動しており、そこに内包されている経済的人間観の世界一律な押し付けに対する反発として世界各地で摩擦を引き起こしている。
 なお、藤原正彦『国家の品格』は、こうした極端なまでの論理合理性が人間の情緒における奥行きを損なってしまうことへの危機意識をテーマの一つとしている。本書には感情的な決め付けが目立って説得力に乏しいという欠点があるにしても、これがベストセラーとなった背景としては、合理的人間モデルを当然視する考え方への、一般の人々からの潜在的な反発が伏流しているものと考えられる。

 ②に対しては、次の疑問がある。ホモ=エコノミクスに込められたニュアンスとして、すべての人間に選択肢の可能性=情報が均一に与えられているはずだ、という前提がある。しかし、情報に接する機会それ自体が非対称的なのだから、均衡を軸とした経済モデルは実際には成立していないという指摘がある(たとえば、ジョゼフ・スティグリッツ)。
 情報があまりに多すぎても、人間の思考の処理能力を考えると、事実上選択はできないという問題がある。結局、経験則として積み重ねられた先入見に基づいて取捨選択しながら、つまり選択肢の広がりを自ら狭めることでようやく判断を可能とする条件が整えられると言える(西部邁、金子勝という対極的な二人が指摘していた)。そうした先入見を社会思想史的な文脈で言うと、世代を超えた試行錯誤により文化規範として各人に染み渡った行動習慣、すなわちイギリス経験論・保守主義における“伝統”概念である。この意味での“伝統”を破壊するものとしてグローバライゼーションへの反発は強い。

 ③に対しては、そもそも“主体性”なるものがどのようにして形成されるのか、という問題がある。たとえば、最近の社会格差論でもここが問題となっている。つまり、“主体性”は放っておけば自然と備わるものではなく、その人の置かれた生育環境に応じて、意欲の持ち方自体が大きく影響を受けてしまうことが指摘されている。その生育環境の基礎は家庭にある。ところで、近年、社会学者の研究により、社会的ステータスが親から子へと世代間再生産され、社会的階層の固定化傾向が見られることが指摘されている(佐藤俊樹、苅谷剛彦、本田由紀などの議論を参照)。
 つまり、生育環境の階層分化→“主体性”や“創造性”、“意欲”等の情緒面も含めた全人的形成環境における格差が固定化→たまたまどの家庭に生れたかにより、その後の人生経路における格差が出てくる、こうした悪循環に陥ってしまう。
 問題の立て方は二つあり得る。第一に、格差固定化を防ぐために機会の均等を保証するための対策を考えること。これはほとんど不可能であるが、各論は別として原則論としてはあらゆる人々から同意を得られるだろう。
 第二に、格差はやむを得ないとみなし、その納得のシステムを考えること。問題なのは、“実力主義”や“自己責任”というフィルターを通すことで、質的な格差が、あたかも本人の努力によって得られたかのような虚構が当然とみなされてしまうことである。それによって、失敗したのは自分の責任なのだから仕方ないとされて弱者切捨てが正当化されてしまうし、またノブレス・オブリージュ(高貴な者には責任がある)の感覚も失われてしまう。
 “実力主義”や“自己責任”論において、実力を発揮し、選択の責任を取る“主体”はどのようにして形成されるのか、という問いが発せられることはない。自明の前提とされているため、突き詰めると精神論で終るだけである。やる気になればすべての人間にあらゆる機会が保証されているというというのはあくまでもフィクションに過ぎない。現実の良くも悪くも多様な人間性と、“自由”や“平等”という本来ならばあり得ない近代的理念=フィクションとの整合性は、その矛盾を留保しているからこそ成り立っているのである。そこを暴き出してしまうと、“自由”概念は事実上無意味なものとなってしまう。
 フィクションが悪いわけではない。かつてハンス・ファイヒンガーが指摘したように、“かのように”という前提を疑わずに共有することで我々の社会は成り立っているとも言えるのだから。しかし、そうしたフィクションが破れたとき、社会的な様々な取り決めごとを正当化する根拠は何もなくなってしまう。その破綻の一端が、社会格差論を通して浮かび上がっているのかもしれない。

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2008年2月 7日 (木)

「テラビシアにかける橋」

「テラビシアにかける橋」

 ジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)の特技は絵を描くこと。でも、家は貧しいのでいつまでも夢なんか見ているなとお父さんからよく叱られる。学校にはいじめっ子。慕ってくれるのは妹のメイベルくらいだけど、ついつい邪険にしてしまう。そうそう、特技がもう一つ、駆けっこがはやいのも自慢だったのに、転校生の女の子に負けてしまった。

 その子の名前はレスリー(アナソフィア・ロブ)。隣に引っ越してきたばかり。スポーツも勉強もよくできるけど変わっているので彼女もクラスで浮いている。意気投合した二人は放課後、森の中へと分け入った。レスリーはイマジネーションを豊かにふくらませ、一つの王国をつくり上げる。名付けて、テラビシア──。

 ファンタジーは決して現実逃避ではない。学校でのいじめ、家の貧しさ、そして親友との死別…。耐え難い現実に直面したとき、どうしても視野が狭くなって立ちすくんでしまう。しかし、別のストーリーに置き換えてみることで、困難と闘う勇気や悲しみを受け入れ、乗り越える力を得られる。ラストのあたりでは不覚にも涙腺がゆるみ、何となくストーリー的には宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を、映像のイメージとしては去年観た「パンズ・ラビリンス」を思い浮かべた。子役二人がよくはまっている。特にレスリー役・アナソフィア・ロブのボーイッシュにのびやかな感じがとても良い。

 余韻をかみしめたくてキャサリン・パターソン(岡本浜江訳)『テラビシアにかける橋』(偕成社文庫、2007年。単行本は1981年)を手に取った。訳者解説によると、著者自身の息子の親友が死んでしまったのをきっかけにこの物語を書き上げたらしい。児童文学は大人になってもその年齢なりの読み方ができる。なかなかバカにはできない。

【データ】
原題:Bridge to Terabithia
監督:ガボア・クスポ
2007年/アメリカ/95分
(2008年2月3日、新宿ミラノにて)

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2008年2月 6日 (水)

「ヒトラーの贋札」

「ヒトラーの贋札」

 戦争に勝つためなりふり構わず手段を模索するのは当然だが、その中から突飛な奇策が採用されることがある。ナチスが実行したベルンハルト作戦もそうした一つ。イギリス・ポンドやアメリカ・ドルを偽造してばらまき、相手国に経済的混乱を引き起こして軍事的劣勢を挽回しようというのが目的だ。作戦名は、責任者に任命されたSS将校ベルンハルト・クルーガーにちなむ。

 強制収容所のユダヤ人たちの中から技術者を集めて偽造が行なわれた。目的を達成したらいつでも口封じできるというわけだ。ローレンス・マルキン(徳川家広訳)『ヒトラー・マネー』(講談社、2008年)は贋札作戦をめぐってドイツと連合国とが火花を散らす攻防戦を題材としたなかなか面白いノンフィクションだが、これによると、彼らの作った贋札の精度は極めて高く、イングランド銀行にかなりのダメージを与えたという。「ヒトラーの贋札」は実話をもとに脚色しながらこのベルンハルト作戦に従事させられたユダヤ人たちの強制収容所内での生活を描いている。

 ザクセンハウゼン強制収容所へ移送されると伝えられたソロモン・ソロヴィッチ(カール・マルコヴィックス)の表情に不安の影がよぎる。ところが、出迎えたSS将校ヘルツォーク(デーヴィト・シュトリーゾフ)の言葉遣いは親しげだ。ソロヴィッチの国際指名手配されたほどの贋金づくりの腕前が買われ、ベルンハルト作戦に招かれたのである。

 協力しなければ殺される。だが、成功したところで自分たちに未来はない。妻をアウシュヴィッツで殺された印刷工のアドルフ・ブルガー(アウグスト・ディール)はサボタージュを主張。しかし、ブルガーの巻き添えをくって殺されるのはいやだと所内の仲間たちから反感を買う。悪に対抗するにはやはり悪知恵が一番、仲間はみんな助けると決意したソロヴィッチは巧みに難題を切り抜けるのだが…。

 ベルンハルト作戦に動員されたユダヤ人たちは優遇された。強制収容所の中でも印刷工場は全くの別世界で、目を背けたくなるような残酷なシーンは意外とない。しかし、塀の内と外とを分けたのはほんの偶然に過ぎない。塀の外で銃声が聞こえる。ガス室に震えおののく男と偶然出くわす。自分の意志ではどうにもならないにしても、日常茶飯事となっている殺戮をただ傍観するしかなかった。映画の始めと終わり、カジノで大金を賭けるソロヴィッチの虚ろな目には生き残った者ならではの哀しみを感じさせる。

【データ】
原題:Die Fälscher
監督・脚本:ステファン・ルツォヴィツキー
2007年/ドイツ・オーストリア/96分
(2008年2月2日、日比谷、シャンテシネにて)

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2008年2月 5日 (火)

「音符と昆布」

「音符と昆布」

 モモ(市川由衣)は作曲家の父(宇崎竜童)と二人暮らし。父が海外に行って不在のある日、突如やって来たカリン(池脇千鶴)。姉だというが、モモは自分に姉がいるなんて知らなかった。カリンは椅子に座るやいなや昆布茶づけを所望、干し椎茸について滔滔と薀蓄を語り出す。一方通行でコミュニケーションの取りづらい彼女にモモは唖然とするばかり。

 カリンはアスペルガー症候群という設定。その特徴としては、社会的ルーティンに適応できないこと、言葉遣いが独特で他人とのコミュニケーションに問題があること、想像力が欠如しており相手の感情が読めないので悪意はないのだがズケズケとした物言いをしてしまうことなどが挙げられる。そのため、“変な奴”と孤立してしまうことが多い。先天的なものだが、知的障害ではない。ある特定の対象に執着したり、極端なまでに潔癖・秩序好きなところが、一面においてトラブルのきっかけとなる一方、高度な専門性を発揮することもあり得るという(磯部潮『発達障害かもしれない』光文社新書、2005年を参照)。

 コミュニケーション不全のカリンとも共感し合えるきっかけを見出すというのがこの映画の筋立てだ。嗅覚障害だがフードコーディネーターを目指すというモモの設定も考え合わせると、スタンダードから外れてはいても何とかなるというメッセージが込められているのだろうか。池脇千鶴は、「ジョゼと虎と魚たち」(2003年)でもそうだったが、あどけない顔をしてエキセントリックな役柄をよくこなしている。市川由衣は普通にかわいい。

 前掲書によると自閉症─アスペルガー症候群─正常という形で連続しているらしいが(自閉症スペクトラム)、症候群という言葉を使っていることから窺えるように幅は広く、あいまいだ。もちろん、一定の特徴を捉えて区分する方が対処する上で便利ではある。ただ、逆にレッテル貼りしてしまうことで差異性を強調→ある種の偏見を増幅してしまうという悪循環もあり得るのが難しいところだ。この映画では決して悪意ある描き方はされてはいないのだが、それでも一定の類型化は否めない。アスペルガー症候群をテーマとして打ち出してしまうのはちょっと微妙な違和感がある。

【データ】
監督・脚本:井上春生
出演:池脇千鶴、市川由衣、石川伸一郎、宇崎竜童、他
2008年/75分
(2008年2月2日、シネマート六本木にて)

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2008年2月 4日 (月)

日暮吉延『東京裁判』

日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年)

 私は中学・高校生くらいの頃から東京裁判マニアで、折に触れて関連書を読み漁ってきた。という言い方をすると妙に誤解されるかもしれないが、いわゆる歴史観をめぐる不毛な論争からはできるだけ距離を置こうと努力してきたつもりだ。なぜ興味を持ったのか。第一に、肯定するにせよ、否定するにせよ、日本の現代史を総括する一つのたたき台となったこと。第二に、歴史的・政治的論争そのものという点でも、そして何よりも人物群像という点でも、様々なドラマが凝縮されていて面白いと感じた。小林正樹監督「東京裁判」はバランスのよくとれたドキュメンタリー映画で、私は繰り返し観たものだ。

 本書は、東京裁判の根拠となる枠組みの成立過程から裁判終了後における戦犯釈放問題まで、東京裁判の全体像を要領よくまとめてくれている。著者のスタンスは、いわゆる“勝者の裁き”論、“文明の裁き”論、いずれからも距離を置き、裁判のプロセスそのものをとにかくリアルに把握しようというところにある。国際関係における政策論としての位置づけを探り、連合国側にとっては、敗者に屈辱感・怨恨感情を残してしまった点で失敗だったと捉え、日本側にとっては対米協調の安全保障政策として有効だったと評価する。

 裁判を構成する検事団・弁護団・判事団それぞれの内部における厳しい対立を描き出しているところが面白く、またこれだけ複雑な要因が絡み合っているのだから一元的な理解など不可能なことを改めて実感させる。検事団の中ではキーナンのスタンド・プレーへの不満が強く、弁護団は国家弁護か、個人弁護かをめぐって完全に二分されていた。

 何よりも微妙だったのは判事団である。戦争そのものを裁く根拠が国際法になかったにもかかわらず(パリ不戦条約(1928年)には罰則規定なし)、事後法で日本を裁けるのかという疑問を複数の判事が持っていた。結局、裁判そのものが崩壊しかねない中、イギリスのパトリック判事による多数派形成工作によって辛うじてニュルンベルク・ドクトリン(侵略戦争を犯罪と規定)に基づく判決が出される。判決作成過程から排除されたウェッブ裁判長(オーストラリア)、レーリンク判事(オランダ)、ベルナール判事(フランス)、パル判事(インド)はそれぞれ個別意見を出すという異例の結果となった(このせめぎ合いについては、昨夏のNHKスペシャル「パール判事は何を問い掛けたか──東京裁判 知られざる攻防」で取り上げられた)。

 パル判事については、第一に、“勝者の裁き”批判の論理には「国家主権の平等」に基づき「力の行使」を容認する国際関係のリアリズム論と重なるところがあるという指摘、第二に、法実証主義に立って事後法批判をする一方で、パル個人の“反西欧帝国主義批判”という強い政治性が色濃く滲んでいるという極端な二面性があるという指摘に興味を持った。

 日本もそうだし、天皇の扱いをめぐってはアメリカもそうだったが、東京裁判に対しては各国各様に両面的な対応を迫られた。インド政府は連合国と共同歩調を取る方針だったのでパル判決には驚いたらしい。しかし、インド国内の世論はパルを支持した。インド政府もまた対外的な顔と対内的な顔とを使い分けざるを得なくなった。それだけ、東京裁判というイベントの複雑な様相が浮かび上がってくる。

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2008年2月 3日 (日)

「アース」

「アース」(日本語吹替版)

 北極から南極まで縦断しながら地球上に息づく様々な動物たちの姿を見せてくれる。ただし、単に自然の雄大な光景を映し出しただけのドキュメンタリーと考えたら大間違いだ。

 たとえば、アフリカのサバンナ、水を求めてはちあわせたゾウの群れとライオンの群れ。小ゾウを狙って襲いかかるライオンに対し、親ゾウたちが張る鉄壁の防御陣。海中では、クジラやカジキマグロに狙われた小魚の群れが変幻自在に陣形を組み替えて攻撃をかわすスピード感の鮮やかさ。生存をかけて、そして子供を守るため、熾烈な闘いを繰り広げる動物たちの姿には濃厚なドラマがあって息を呑む。

 その一方で、どことなくユーモラスな表情をとらえたシーンではおのずと頬がゆるむ。アマゾンのゴクラクチョウがあんなに巧みにダンスをするのは初めて知った。しかも、事前にきちんと舞台を整えているなんて。滅多にない洪水に出くわし、川を渡るサルたちの仕草も、当人(当サル?)たちは真剣なのだが、いかにもおっかなびっくりという感じで笑ってしまった。子育てのシーンが多く取り上げられており、子供たちの覚束ない足取り、羽ばたきがほほ笑ましい。だが、そうした未熟さが外敵に狙われることになるのだが…。

 数千頭、数万羽もの群れが移動する様子、巨大なジャングルや滝、上空から俯瞰するように撮影された映像が圧巻だ。そこにベルリン・フィルの奏でるメロディーがかぶさり、地球を舞台にとった壮大な映像叙事詩として見ごたえがある。映画館の大スクリーンで観るとやはり迫力が違う。

 映像はBBCによる。木々の葉の色合いを一瞬のうちに変化させる映像手法など、昨年にNHKで放映された「プラネット・アース」でも似たようなシーンを見かけた。この番組はBBCとNHKとの共同制作だったし、今回の「アース」のエンドロールでThanks to NHKという文言を見かけたから、「プラネット・アース」と同じ映像も使われているのだろうか。

【データ】
原題:EARTH
監督・脚本:アラステア・フォザーギル、マーク・リンフィールド、デビッド・アッテンボロー他
音楽:ジョージ・フェントン
ナレーション:渡辺謙
2007年/ドイツ・イギリス/98分
(2008年2月1日レイトショー、新宿バルト9にて)

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