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2008年12月21日 - 2008年12月27日

2008年12月26日 (金)

江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』

江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)

 侯孝賢監督「珈琲時光」という映画が私は好きで、江文也という名前はこの作品で初めて知った。一青窈演ずるフリーライターが取材して歩き回るシーンがあるが、東京時代の江の足跡をたどることが彼女のテーマとなっていた。

 江文也は1910年、台北北郊の三芝郷に生まれた。李登輝と同郷である。父親のつてで日本の長野県・上田中学(旧制)に留学、さらに武蔵高等工科学校(現・武蔵工業大学)を卒業してとりあえず技術者としての道を歩み始める。しかし、上田時代から西洋音楽に深い関心を示していた彼は山田耕筰や橋本國彦に師事、まずはバリトン歌手として出発した。デビュー作は「肉弾三勇士の歌」のレコーディングだったらしい。ただし、江は作曲家として身を立てたいと考えており、そうした彼をロシア人の作曲家チェレプニンが見出した。交響曲や映画音楽など幅広く作曲活動を行ない、1938年以降は日本軍占領下の北京で北京師範大学の教職につく。本書のオリジナルは北京時代の1941年に刊行された。日本敗戦後は一度“文化漢奸”として捕らえられたが、台湾工作での役割を期待されて音楽家としての活動を再開。しかし、反右派闘争や文化大革命では苛酷な運命に翻弄されたようだ。1983年、北京にて逝去。〔追記:江文也の出生地について多くの文献では三芝とされているが、顔緑芬・主編『台湾當代作曲家』(台北:玉山社、2006年)所収の劉美蓮「以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也」によると、江文也の戸籍は一族の出身地である三芝に置かれていたものの、実際には台北の大稲埕で生まれたという。〕

 『上代支那正楽考』なんて仰々しいタイトルだが、文体は躍動的で読みやすい。中国の伝統文化を音楽の素材として掘り起こそうという意図があったのだろうが、いわゆる堅苦しい“儒学者”というイメージではなく、音楽家としての孔子の姿を彼自身の視点から共感を込めて描き出そうとしているところがおもしろい。

「…美的なものは常に人間から出発するものである。それは規定された日常の道徳律や規則からではなくして、人間の心の底から流れ出た時に、始めてそこに美しいものが存在するのである。
 いま、われわれの日常生活に於ける行為を考へてみるに、それが単に礼に適ひ、道徳的に一々よく当嵌るからと言つて、それで充分だとは言へないのだ。それは単に規定されたところの機械の如き挙動であつて、ほんたうの人間そのものから出たものではないのである。そこにはその人間の個性といふものよりも、その人間によつて構成された社会そのものが、行為して居るやうに見えるのだ。しかし、よき行為といふものは、いつも社会が行ふのではなくして、その社会の一単位であるところのよき人間の個性に基づくものである。従つて単に規定された道徳律によく当嵌まる行為や、それにとどまる範囲内での行為などといふものは、実際では道徳的でもなければ、善の何ものでもないのだ。それが、われわれには一つの立場を与へてくれるには違ひないがしかしそこにはなんらの生命的発展もなく、融通のきかない固形的なものであり、なんらの進歩をも伴はないものである。孔子は、かかる種の道徳家を軽蔑し、耶蘇は、この種の徒を偽善者と罵った。そして芸術家にとつては、それは死をも意味することであるのだ。」(225-226ページ)

 読みながら、ふと、白川静『孔子伝』を思い浮かべた。孔子の言わんとした感覚的なもの、そこに後世になって詳細な註釈が施されたが、その註釈が膨大なものであればあるほど、本来的に言語化しようのない感覚的なものを固定化→規範化、かえって孔子の本来の意図からははずれていく。この言語化できない感覚に目を向けている点で、むしろ荘子の方こそ孔子の後継者だと言えるという白川の指摘が私には新鮮だった(→こちらを参照のこと)。江の文章を読みながら、社会全体を覆いつくそうとしている機械化・システム化の動向、そうした中で芸術における“個性”もまた平均化されていくというもがきが感じられ、その点では、江もまた大正モダニズムの申し子だと言える。同時に、孔子にまつわる註釈という汚れを剥ぎ取りながら白川の迫ろうとしていたところと、音楽という観点から共感されているようにも私には思えてくる。

 本書に解説として付された片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」という論文が秀逸で、とりわけチェレプニンを軸とした記述が非常に興味深い。チェレプニンの父親も有名な音楽家で、リムスキー=コルサコフの弟子、プロコフィエフの師匠にあたる。ロシア革命の動乱期、チェレプニンはグルジアの首都ティフリスの音楽学校校長となるが、ここでグルジアばかりでなくアルメニア、アゼルバイジャン、ウズベクなどコーカサス・中央アジア諸民族の音楽に触れた。西洋音楽の限界を感じていた彼はアジアの民族音楽に可能性を求め、その媒介者としてのロシア人という自己規定をしたらしい。1930年代に日本と中国を来訪、それぞれで若手音楽家の発掘に努める。日本では江文也と伊福部昭を見出した。伊福部はゴジラのテーマ曲の人と言えば分かるだろうか。台湾出身の江、日本人ではあるが北海道でアイヌ文化に触れていた伊福部。多民族融合的な音楽志向を持つこの二人を発掘したというあたりにチェレプニンの目指す方向性がよくうかがわれる。江の北京移住の動機として、台湾人=“日中の架け橋”として軍部に目を付けられたという政治的背景もあるが、彼自身の内的なものとして、チェレプニンによって中国への関心を目覚めさせられた点を忘れてはならないだろう。大きく俯瞰してみると、江自身の意図とは関係ないレベルで、広くユーラシアをまたぐ精神史的なドラマに彼もまた組み込まれているように見えてきて、そこに興味が尽きない。

 いま書店に並んでいる『諸君!』2009年2月号、片山杜秀・新保祐司の対談「昭和10年代、日本音楽の奇蹟」が当時の音楽シーンについて色々な話題が出されていて面白かった。

 なお、江文也の評伝として井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』(白水社、1999年)があるが、遺族と何かトラブルがあったらしく、絶版。この本は江文也の身辺については調べられていてその点では評価できるとは思うが、当時の社会的・文化的背景との関わりがあまり見えてこず、書きっぱなしという印象があった。斬新な視点を示せる人、それこそ片山氏にまとまった江文也論を書いて欲しいものである。

 というわけで(って、どういうわけだが我ながら分かりませんが)、27日から台北に行ってきます。

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2008年12月23日 (火)

東京裁判について最近の本

 今年は東京裁判判決60周年ということで、東京裁判をめぐる本が色々と出た。

 比較文化論の立場から日本と西洋という異文化接触の場として東京裁判を捉え、これをめぐる言説を検討してきた牛村圭、国際政治史というコンテクストの中から東京裁判を捉える視点を示す日暮吉延。両者とも、“勝者の裁き”か“文明の裁き”かという二項対立に押し込めて一面的な議論を進めるような愚に陥ることを避け、一次史料に即して東京裁判の実像に迫ろうという点では一致する。この二人による対談をまとめた『東京裁判を正しく読む』(文春新書、2008年)は、誤解されやすい論点を一つ一つ解きほぐしてくれて、この裁判を知るとっかかりとして良質な入門書となっている。

 日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年→以前にこちらで取り上げたことがある)は今年度サントリー学芸賞受賞。判事団、検事団、弁護団それぞれの人間関係は決して一枚岩ではなく内部で分裂抗争があった、その意味ではそれぞれが自律的なダイナミズムで動きながら裁判が展開されていたことを描き出しているのがドラマのように面白く、判決の方向性が予め決められていたわけではないことを明確に示している。本書は対米協調という政治的リアリズムから東京裁判を受け容れた吉田茂を評価する。一方で、反吉田系の保守派の否定論や左派の肯定論、双方ともに見られる反米主義は東京裁判が温床になっているのではないかという日暮の指摘も興味深い。

 戸谷由麻『東京裁判──第二次大戦後の法と正義の追求』(みすず書房、2008年)は国際人道法の確立という観点から東京裁判を検討する。

 “A級戦犯”という言葉がよく比喩的に用いられる。しかし、A級→平和に対する罪、B級→残虐行為や捕虜虐待など通例の戦争犯罪、C級→人道に対する罪、というカテゴリー分けが便宜的に並べられているだけのことで、犯罪としてのランクを示しているわけではない。

 侵略戦争開始の共同謀議(被告中、互いに一面識もなかった人もいるのに“共同謀議”とはおかしい、という疑念がよく出されるが、ある犯罪行為の実行に結果として合意したとされれば、これを“共同謀議”とみなすというのが英米法に独特な概念で、事前に密議をこらして云々というイメージとは異なるらしい)の責任を問う“平和に対する罪”が成り立つのかどうかは私にはよく分からない。実際、“平和に対する罪”の訴因で有罪となっても、これだけで死刑判決を受けた者はいないが(文官の広田弘毅は南京事件の責任を問われて死刑判決を受けた)、これは、裁判官たちの間でも事後法という批判を受けることへの懸念があって量刑が考慮されたのではないかと日暮は指摘している。

 中支那方面軍司令官であった松井石根は“平和に対する罪”(A級)では無罪、南京事件をめぐる訴因(B級)だけで死刑となった。松井に対する判決は、現在の国際刑事裁判において指揮官責任を問う先駆的な判例となっていると戸谷は指摘している。もちろん、松井個人はもともと親中派で南京事件に心を痛めており、“興亜観音”を建てて日中双方の犠牲者に哀悼を示していたことは知られているが、そうした彼個人の心情は別として、指揮官としての職責を果たせなかった点を追及されたと考えるべきだろう。

 広田弘毅の部下であった元東亜局長の石射猪太郎は、広田は日本軍による残虐行為を憂慮して陸軍省に対して注意を促したが(その趣旨のことは石射『外交官の一生』中公文庫、1986年、332-333ページにも見える)、それ以上のことは出来なかったと証言、弁護団は広田の道義心を訴える戦術をとった。しかし裁判官側には残虐行為防止の不作為と受け止められ、逆に有罪の根拠となってしまった。このあたり、心情面における法文化の違いが興味深い(私自身、城山三郎『落日燃ゆ』の印象が強すぎて、何となく広田に同情的になってしまうのだが)。しかし、それ以上に注目すべきなのは、軍の指揮系統に属さない文官であっても個人責任を問われる先例となったことである(戸谷、206ページ。多谷千賀子『戦争犯罪と法』岩波書店、2006年、118-119ページにも広田判決について言及あり)。戸谷によると、ルワンダ国際刑事裁判でもこの広田判決が援用されたという。

 ときどき誤解している人もいるが、南京事件に関する判決はあくまでも通例の戦争犯罪(B級)であって、“人道に対する罪”(C級)ではない。ナチスの行なった犯罪行為でとりわけ顕著なのはユダヤ人の大量虐殺だが、法的に言うとこのユダヤ人たちはドイツ国民である。ところが、戦争犯罪として裁けるのは交戦相手国民に対する残虐行為であって、自国民を相手にした場合は想定されていない。かと言って、ユダヤ人虐殺を見逃すわけには勿論いかない。そこで、ニュルンベルク国際軍事裁判所条例においてユダヤ人虐殺の責任を追及するため、対象が自国民であっても戦争犯罪とみなす“人道に対する罪”が初めて提起された。こうした経緯による法概念であるため、自国民を相手とした虐殺行為を行なっていない日本の戦犯裁判でC級は適用されなかった。

 なお、こうした“人道に対する罪”の成立経緯を踏まえたとしても、戦争犯罪を対象としたニュルンベルク法廷で裁けるのはドイツ軍がポーランド国境を越えて戦争を開始した時点以降のことで、それ以前に行なわれたユダヤ人に対する残虐行為は管轄範囲に入らない(Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007, p.49)。そこで、ユダヤ系ポーランド人の国際法学者ラファエル・レムキン(Raphael Lemkin)はもっと包括的な法規範としてジェノサイド防止条約(レムキン法)の制定に奔走することになる。ジェノサイド(genocide)というキーワードを造語したのはレムキンである。

 東京裁判は多国籍裁判という異例の形式をとったが、当然ながら言語の問題が課題となる。武田珂代子『東京裁判における通訳』(みすず書房、2008年)は、コミュニケーションのあり方そのものが当事者の関係性に及ぼす影響を検討する通訳学という新しい知見を基に東京裁判を考える。ニュルンベルク裁判とは異なり、東京裁判では通訳の態勢が整っていなかった。連合国側に日本語のできる人材がほとんどいない以上、通訳は日本人に頼らざるを得ない。しかし、連合国側には日本人通訳への不信感がある。そこで、日本人通訳を使いながらも、日系二世のモニター(チェック役)をつけ、さらに白人士官の言語裁定官を上に置くという三層構造がとられた。異言語コミュニケーションの通訳を相手側に依存するか(他律型)、こちら側で養成するか(自律型)というモデルで考えると、日系二世モニターはこの両方を併せ持ったアンビヴァレントな立場になっていた。とりわけ、日本語が堪能なため採用された帰米二世(日本の学校で学んでアメリカに帰った日系二世)は、アメリカ国民でありながらもその忠誠心が疑われているという難しい立場にあり、通訳そのものの難しさと、彼ら自身のアイデンティティーの難しさとが二重写しになってくる。中でもデイビット・アキラ・イタミという人は山崎豊子『二つの祖国』やNHK大河ドラマ「山河燃ゆ」のモデルとなったらしい。そういえば、私は小学生のとき「山河燃ゆ」を毎回欠かさず見ていて、東京裁判に興味を持ったのはこの頃からだったように思う。

 保阪正康『東京裁判の教訓』(朝日新書、2008年)は、同時代史的な感情論ではなく、記録をもとに冷静に東京裁判を捉えるべきことを強調。その上でこの裁判から、当時の拙劣な指導者の責任、この裁判から欠落していた周辺アジア諸国への責任、裁いた側の西欧植民地主義の責任など、多面的な責任のあり方を汲み取ろうとする。

 東京裁判の全体像を知るには、児島襄『東京裁判』(上下、中公文庫、1982年)、東京裁判朝日新聞記者団『東京裁判』(上下、朝日文庫、1995年)、粟屋憲太郎『東京裁判への道』(上下、講談社選書メチエ、2006年)といったあたりに目を通すといいだろう。小林正樹監督のドキュメンタリー「東京裁判」(1983年)もよくできている。なお、パル判決については、これはこれでややこしいので、気が向いたらまた別の機会に。

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楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』

楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』(中央公論社、1997年)

 著者は日本統治期に生まれ、台湾では耳鼻咽喉科の権威となったお医者さん。大谷渡『台湾と日本』(東方出版、2008年)にも中学校で屋良朝苗に教わった人が複数出てきたが、屋良の教え方は厳しいが工夫がこらされており、進学率は抜群であったという。著者も屋良によって発奮した一人。脱線になるが、台湾には沖縄出身者が割合とたくさん来ている。『文芸台湾』の同人にも沖縄姓の人が目立ったし、そういえばノンフィクション作家の与那原恵さんのおじいさんも医師として台北で開業していた(与那原恵『美麗島まで』文藝春秋、2002年)。

 台北帝国大学付属医学専門部に入学したところ、女生徒が一人いた。汪精衛政権派遣の留学生で、康有為の孫娘・康保敏という人だったという。在学中に日本は敗戦、中途半端な時期だったが頼み込んで何とか台北帝国大学の卒業証書を繰り上げてもらったらしい。ポツダム少尉ならぬ“ポツダム証書”。国民党軍の台北入城行進を見て、そのあまりのみすぼらしさに幻滅してしまったとも語る。私の祖母もこの行進をじかに見ていて、著者と同様の感想を述べていた。

 国府接収後はただちに日本語が全面的に禁止されたため、北京語習得に苦労したらしい。しかし、医師は実力さえあればいいわけで、著者は英語・日本語文献を通して積極的に最先端の知識を摂取、宋美齢をはじめ国民党政権の要人から信頼された。ただし、著者自身は国民党をあまり快く思っていなかったようだが。

 専門は耳鼻科なのに、なぜか“産婦人科”がらみの話が多いのも著者の人徳?か。ちょっとした艶笑譚といったエピソードを淡々と、しかしユーモラスな語り口で披露するところが意外と面白かった。

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2008年12月21日 (日)

『文芸台湾』を眺めて

 先日、私の祖母が『文芸台湾』の同人であったことを初めて知って(→こちらを参照のこと)、国会図書館でバックナンバーを調べた。一応揃ってはいるものの、創刊号がない。保存状態は悪くて、第二巻を除き、複写禁止。幸い、祖母の小説の載った巻は後日複写なら可とのことでカウンターに持って行ったら、当該ページが破れかかっている。「うーん、申し訳ないですが、これはちょっと無理ですねえ…」と係の人。「えーっ、このページが一番欲しいんですよ」と哀願するような表情をしたら、何とか複写許可を出してくれた。本当にありがとうございました。「将来的にマイクロフィルム化される予定はあるんですか?」と尋ねたら、「いやあ、予算がつかない限りどうにもなりませんねえ…」とのこと。コピーはできず、覆刻版もないことだし、しばらく土曜日ごとに国会図書館に通いつめることになりそうだ。

 時間に余裕がなかったので、目次を中心にざっと眺める。目ぼしい人物を拾い上げていくと、まず西川満については以前に触れたことがある(→こちら)。
矢野峰人:台湾文芸家協会会長となっている。台北帝国大学教授で英文学者、とりわけ詩論に詳しい。『ルバイヤート』は日本ではフィッツジェラルドの自由訳を通して最初に紹介されたが、矢野の重訳によるものを見かけた覚えがある。
島田謹二:台北帝国大学助教授で比較文化論。後に『華麗島文学志』という大著を出したが、私は未読。一般的には、『ロシヤにおける広瀬武夫』『アメリカにおける秋山真之』が知られているだろう。
中村哲:台北帝国大学助教授で政治学者。柳田國男を政治思想史の観点から取り上げた論文を読んだことがあったような覚えがある。戦後、法政大学学長を務めた。
前嶋信次:この頃は台南第二中学校教諭→満鉄東亜経済調査局。彼が台湾時代に書いた「媽祖祭」(杉田英明編『〈華麗島〉台湾からの眺望 前嶋信次著作選3』平凡社・東洋文庫、2000年、所収)を読んだことがあるが、幻想的でなかなか美しい文章だった。イスラム研究の先達として慶應では井筒俊彦と双璧をなす。前嶋の自伝『アラビア学への途──わが人生のシルクロード』(NHKブックス、1982年)は以前に取り上げたことがある(→こちら)。
金関丈夫:台北帝国大学医学部教授。人類学者。『文芸台湾』では毎号、美術批評もやっている。林熊生という筆者名の小説も時々見かけるのだが、これは金関のペンネームらしい。幅広くて面白そうな人だ。池田敏雄と共に『民俗台湾』を出す。
池田敏雄:当時、黄氏鳳姿という少女の本が話題になっていたらしく、『文芸台湾』で毎号のように広告が出ている他、綴方教室で有名な豊田正子との往復書簡も見かけた。公学校(台湾人向けの小学校)の教員をしていた池田の教え子で、池田が彼女の才能を発掘したのだという。池田は台湾生まれ、いわば下町にあたる萬華に早くから馴染んでいて、民俗学的な発掘に力を注ぐようになった。日本の敗戦後、黄氏鳳姿と結婚、一緒に日本に渡ってからは平凡社に勤務(李筱峰・荘天賜編『快讀台湾歴史人物Ⅰ』台北:玉山社、2004年を参照。なお、この本は台湾史の重要人物を60人ほど取り上げているが、その中に日本人の池田についても敢えて一項目を立て、彼を皇民化運動に反対し、心の底から台湾を愛した日本人として高く評価している)。川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)は池田や金関らの『民俗台湾』は日本主導で台湾を周縁化する試みだったとするが、呉密察(台湾大学教授)「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」(藤井省三・黄英哲・垂水千恵編『台湾の「大東亜戦争」』東京大学出版会、2002年、所収)は川村に対して、池田が台湾文化の消滅を憂えていたことを正当に評価すべきだと批判している。
龍瑛宗:当時は台湾銀行員。『改造』懸賞小説で入賞したこともある。最近、『憤れる白い鳩 二〇世紀台湾を生きて──六人の女性のオーラルヒストリー』(明石書店、2008年→こちら)という本を読んだばかりで、これに龍瑛宗の妻が彼との葛藤を語る章があった。今回、祖母の小説を彼が論評する記事を見かけ、妙なつながり方をしたものだと感慨深い。
張文環:肩書きは台湾映画株式会社文芸部長となっていた。彼は後に西川と袂を分かち、『台湾文学』を創刊。西川の耽美的傾向とは異なり、こちらはリアリズム路線をとる。
・他に、周金波黄得時楊雲萍邱炳南〔追記:若き日の邱永漢のペンネーム〕、濱田隼雄といった名前はどこかしらで見た覚えがあった。装丁をしている立石鉄臣というのは何者なのだろう? 所属が台北帝国大学となっていた。

 当時、台北帝国大学医学部教授だった森於菟(森鴎外の長男)のもとを訪れる記事も見かけた。西川を軸として、台湾における文化人サークルが広がっていた様子がうかがえて興味深い。どうでもいいが、画家たちの絵の間に挟まって何やら子供落書きのような狐?の絵を見かけた。作者名は、潤・5歳~ヶ月となっている。西川満の子息で、現在は早稲田大学名誉教授(開発経済学)西川潤氏の幼少時の絵。いやはや、親ばかというかなんというか。

 台湾愛書会の『愛書』という雑誌の広告も毎号のように見かけた。広告掲載の執筆者名で私が何らかの形で見た覚えのある人を適当に拾い上げると、上掲の西川・島田・前嶋の他、移川子之蔵(台北帝国大学教授・民族学)、浅井惠倫(台北帝国大学教授・言語学)、神田喜一郎(台北帝国大学教授・東洋史学。なお、私は中央アジア史に興味を持っていた時期があって、神田の名前を見ると『敦煌学五十年』という本を思い出す)、尾崎秀眞(尾崎秀実・秀樹たち兄弟の父親)といったあたりか。それから、田大熊という人が気になった。私の祖父が台北第二中学校に勤務していて、その時の校長が田健治郎(元台湾総督)の息子で田英夫(元社民党参院議員)の父親だったと間接的に聞いているのだが、手掛かりがつかめなかった。ひょっとしてこの田大熊という人がその人だろうか。あくまでも推測に過ぎないが。〔追記:今月刊行されたばかりの『田健治郎日記1』(芙蓉書房出版)を見たところ、田家の家系図が載っていて、英夫の父親は誠という人でした。田大熊氏は関係ないようです。〕

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