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2008年12月14日 - 2008年12月20日

2008年12月19日 (金)

Philip H. Gordon and Omer Taspinar, Winning Turkey: How America, Europe, and Turkey Can Revive a Fading Partnership

Philip H. Gordon and Omer Taspinar, Winning Turkey: How America, Europe, and Turkey Can Revive a Fading Partnership(Brookings Institution Press, 2008)

 トルコ共和国建国の父、ケマル・アタチュルクの考え方は三本柱から成り立っている。第一に、世俗主義。フランスにおけるライシテがモデルとなっており、イスラムはアンシャン・レジームの象徴として徹底的な政教分離が図られた。第二に、同化主義的なナショナリズム。言語、領土などアナトリア大の同質的な民族=国民が目指され(この点でもフランス的だ)、かつてのオスマン帝国を特徴付けていた多元性は否定された。マイノリティーへの同化政策→クルド人問題が生じていることは周知の通り。第三に、近代主義。第一次世界大戦における勝者としての西欧国民国家がアタチュルクの求めるモデルとなり、その後もEU加盟への熱望としても表われている。とりわけ軍部がこの近代化の推進役となったが、冷戦期、トルコは反共の砦として重視されたため、軍部の政治干渉は黙認されてきた。

 イスラム政党とされる公正発展党(AKP)の位置付けに興味を持った。以上のケマリズム(Kemalism)に立つ世俗主義的な法曹界や軍部の干渉によって彼らは何度もつぶされかけたにもかかわらず、福祉党→美徳党→公正発展党と名称を変えながら勢力をのばして着実な政権担当能力を示し、2007年の総選挙でも現エルドアン政権は勝利した。彼らは一度、軍部によるクーデターで政権を追われたことから、世俗主義的なエスタブリッシュメントに対抗することの難しさを教訓として得ており、それ以降、宗教色はできるだけ抑えて具体的な政策による支持獲得を目指してきた。選挙で勝って政治的正統性を得るために広範な票を取り込まなければならないという思惑もあっただろう。出発は宗教政党であっても、現在は実質的に中道政党となっている。彼らは西欧を敵視などしていない。現政権もEU加盟を意識して人権問題の改善に努め、不十分ながらもクルド問題は従来に比べれば改善された。キプロス問題でも妥協、EU加盟の阻害要因であった仇敵・ギリシアとも関係改善が進んだ。

 しかし、ヨーロッパ側の事情でEU加盟が難しそうな情勢にあること、またイラク戦争による中東情勢不安定化などから欧米に対する不信感がトルコ国内にくすぶっており、それはイスラム勢力ばかりでなく、世俗主義的な軍部に顕著なようだ。イラク戦争に際してアメリカ軍のトルコ進駐を求められた際、イスラム政党の現政権側が対米関係を意識して渋々ながらも支持を求めたのに対して、本来は親米派であった世俗主義勢力が反対したという逆転現象が興味深い。

 世俗主義勢力は、欧米がイスラム穏健派やクルド人問題に対して甘いという不満を強く抱いているらしい。もし現AKP政権に対するクーデターがおこったら、権威主義的な軍部は西欧との関係を絶って、ロシア、中国、イラン、シリア、中央アジア諸国などの権威主義的政権との関係緊密化に動くのではないかという懸念を本書は示す。クルド問題、キプロス問題、アルメニアとの歴史的和解などトルコの果たすべき課題はたくさんあるが、何よりもそれらの解決の前提条件として、民主主義の原則が後退しないよう欧米は働きかける必要があるとされる。

 私などは中東情勢についてまったくの素人なので、トルコでイスラム政党が政権獲得→いわゆる“イスラム原理主義”の動向の表われかなどと勘繰り、これに対して世俗主義勢力→近代化→民主主義勢力という一面的な把握をしてしまいかねないところがあった。本書によると、実際には、選挙のダイナミズムによってAKPは穏健化・中道化しており、逆に世俗主義勢力の方がかえって権威主義化の危険があるという逆転現象がおこっている。知らない世界について、たとえば“イスラム原理主義”というような流行語に結びつけて分かったつもりになってしまうことがあるが、対外関係を考えるときには安易に一般論に還元してしまわず、個別の内在的事情をきちんと理解する必要があることを改めて痛感した。

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2008年12月18日 (木)

マイケル・イグナティエフがカナダ自由党党首になったらしい

 マイケル・イグナティエフがカナダの野党・自由党の党首に決まったそうだ。辞任したディラン党首は他の野党・新民主党やケベック連合と共に少数与党の保守党・ハーパー政権に対して不信任案を出すつもりだったようだが、イグナティエフは消極的らしい。前回の選挙で敗北した痛手を立て直す必要があるし、そもそも経済運営が難しい現在、敢えて火中の栗を拾うわけにもいかないのだろう。

 イグナティエフは人権問題の専門家として知られる。もともとジャーナリストとして出発、世界の紛争の現場に立った経験をもとに彼の著わした『軽い帝国──ボスニア・コソボ・アフガニスタンにおける国家建設』(中山俊宏訳、風行社、2003年)は以前にこのブログでも取り上げたことがある(→こちらを参照のこと)。現実問題として、ジェノサイド等の残虐行為を抑止するためには軍事力が必要な事態が考えられるし、また戦火で混乱した社会を再建するには外部の力を借りねばならないこともある。そのためにアメリカの覇権も場合によっては助けとなる。イラク戦争に際して彼は人道目的の武力介入という観点からブッシュ政権を支持、リベラル派からは批判を受けた。ただし、それはあくまでも人道目的であって、国益目的の保守派とは全く異なる。こうした彼のスタンスはリベラル・ホーク(リベラルなタカ派)と呼ばれた。

 たしか自由党政権時代のクレティエン首相はイラク戦争への参加を拒んだはずだが、イグナティエフはその点でどのように受け入れられたんだろう?

 戦後日本において“非武装中立”という夢物語で自衛隊の存在すら否定してきたいわゆる進歩派、彼らの主張には国境外の悲惨事については無視するという独善的な逆説がはらまれていた。それにもかかわらず、“平和”“人権”という言葉を使えばもっともらしいが、実はこれらの“正しい”言葉への呪術的信仰は、彼らの知的欺瞞を糊塗する道具に使われていたに過ぎなかった。私自身は必ずしもイラク戦争を是認するわけではない。ただし、結論への賛否はともかく、理想主義と現実主義との架橋しがたい矛盾を直視して、その矛盾そのものの中から考えていこうという点では、イグナティエフのようなリベラル・ホークの方がよほど誠実だと思っている。

 そういえば、ロメオ・ダレールも自由党の上院議員を務めているはずだ。国連平和維持軍司令官としてルワンダに赴任し、あの大虐殺を目の当たりにしながら何も出来なかった後悔から現在は人道問題に取り組んでいる。彼の著わしたShake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda(悪魔との握手:ルワンダにおける人道の失敗、Carroll &Graf Publishers, 2005)も以前に取り上げたことがあるが(→こちらを参照のこと)、人道問題や国際貢献というテーマを考える上で必読だと私は思っている。残念ながら邦訳はまだない。以前、エージェンシーに確認したら、どこかの出版社が翻訳権を取得しているらしいんだけどね。ダレールと伊勢﨑賢治の対談『戦禍なき時代を築く』(NHK出版、2007年)という本があるので(これも以前に取り上げたことがあります→こちら)、ダレールの発言を知りたい場合にはとりあえずこの本をどうぞ。

 カナダはPKO活動に積極的な国として知られている。日本の自衛隊のPKO派遣についてすぐ軍国主義云々という議論が沸き起こるが、まったくアホらしい。日本の大国志向なんて捉え方はただの妄想に過ぎない。むしろアメリカのような大国が見落としがちなところで、カナダと同様のミドルパワーとして国際貢献できることがあるはずだという点でダレールと伊勢﨑の見解は一致しているし、また、これが外交路線として現実的であることについては添谷芳秀『日本の「ミドルパワー」外交──戦後日本の選択と構想』(ちくま新書、2005年)が論じている(→こちらを参照のこと)。

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2008年12月17日 (水)

タイの政治情勢のこと

 タクシン元首相の汚職疑惑への反発から2006年にクーデターがおこって以来混乱続きのタイ情勢。ようやくアピシット新首相が選出されて反タクシン派の連立政権が発足。いったんは落ち着いたものの、タクシン支持派と反タクシン派の確執は収まっておらず、まだまだ波乱含みらしい。

 だいぶ以前だが、岡崎久彦・横田順子・藤井昭彦『クーデターの政治学──政治の天才の国タイ』(中公新書、1993年)という本を読んだことがあった。タイは割合と安定した国というイメージがあるが、意外とクーデターが頻発している。政治家が腐敗して軍部がクーデターをおこし、議会指導者が拘束されると、ギリギリのタイミングで国王が出てきて「いや、殺してはいけない」と押しとどめる。軍部が強権化して民主化デモがわきおこるとやはりギリギリのタイミングで国王が登場して「もうお前は辞めなさい」といなし、できるだけ穏便に政権交代させる。1992年の騒乱の際、民主化運動指導者チャムロンと軍政のスチンダ将軍とがプミポン国王の前で並んでひざまずいている姿が印象的だった。つまり、国王というバランサーを媒介として議会と軍部という二つの政治アクターが政権交代を繰り返すのがタイの政治システムなのだという。政権交代による緊張感→権力独占を防ぎ、政治を活性化させるのが民主政治の一つの長所とするなら、西欧モデルの議会主義とは違ったシステムもあり得る、そうした比較政治論的な視点を示した議論として面白く読んだ覚えがある。

 非政治的な権威として議会・軍部の両者から超越した存在であるからこそ、いざという時に仲介役を果たし国政を安定させることができる、そうしたキーマンとしてプミポン国王には私なども割合と好印象を持っていた。ところが、The Economist(2008.12.6)掲載の“Thailand’s king and its crisis : A right royal mess”という記事を読んでいたら、タイ王室のあり方に疑問を投げかけており、興味を引いた。

 そもそもタイでは現在でも不敬罪がある。王室への批判は罰せられるため、うかつに話題にはできないらしい。タイ王室の権威というのは相当なもので、あらゆる奇跡も王室の恩恵に帰せられる。学生の頃、岩波ホールで上映されるアジア映画なんかをさして面白くもないのに無理して観ていた時期があるのだが、「ムアンとリット」というタイ映画も観たことがあった。封建的な因習の中で女性が奮闘する話だったような気がするが、最後に象徴的なシーンとして雨が降る。文字通りの「慈雨」で、これは国王陛下の恩恵だ、みたいなナレーションがあって違和感があったのを覚えている。

 それはともかく。The Economistの記事によると、ヴェトナム戦争を背景とした時代、アメリカは反共の同盟者としてタイ王室に目をつけ、その権威を高めるキャンペーンにふんだんに資金をつぎ込んだという。不敬罪は1970年に強化された。また、国王は必ずしも非政治的というわけでもない。国王自身は直接的なことは言わなくても、彼のメッセージからその意図を臣下は読み取って忖度しながら政治行動を行なっているらしい。

 タクシンは配分的政策、具体的には低廉な医療制度やマイクロファイナンスの普及によって、とりわけ農村部での支持が厚い。そのため、ポピュリスティックな政治家だとよく言われる。反タクシンの王党派には、彼の政治行動が既得権益を侵すというだけでなく、配分的政策→庶民の支持→国王の恩恵に対する挑戦、と受け止められ、一時はタクシン派がタイ史上初めて議会過半数を握ったこともあわせて、脅威と考えられているようだ。タクシン派政党の解党命令やソムチャイ前首相の失職理由にしても、新聞で読んでもその根拠が私にはいまいちピンとこなかったのだが、タクシンの存在感そのものが王室のタブーに踏み込みかねないからこそ軍部も司法も躍起になってタクシンつぶしにかかっていると考えていいのだろうか?

 プミポン国王は今年81歳。先は決して長くはない。ところが、皇太子の評判はかなり悪い。不敬罪があるため、おおっぴらには語られないが。下手すると、ネパール王家と同じ末路をたどりかねない。実際、チャクリ朝は9代までしか続かないという予言があったらしい。プミポン国王は別称ラーマ9世である。ある宮廷関係者は、「Long live the king(国王万歳)と言う時、王には文字通り永遠に生きて欲しいと思っている、次がどうなるかなんて考えたくもない」と語っている。

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2008年12月16日 (火)

村井哲也『戦後政治体制の起源──吉田茂の「官邸主導」』

村井哲也『戦後政治体制の起源──吉田茂の「官邸主導」』(藤原書店、2008年)

 明治以降、日本の政治機構が常に直面してきた問題として「官邸主導の不在」という論点が挙げられる。明治憲法体制における国務と統帥の分離、国務大臣単独輔弼(首相は横並びの国務大臣の一人にすぎない)→制度面における権力分立的性格→当初は藩閥・元老、後には政党勢力の人的ネットワークによって補われていた。

 ところが、1930年代以降、元老・政党とも求心力を失い、挙国一致内閣が次々と現われたが、いずれも様々な思惑を持つ勢力の寄り合い所帯に過ぎなかった。経済危機・対外危機への対応として、行政国家化・統制経済化・戦時体制化が進む中、政治的求心力の確立が求められたが、近衛文麿をトップに据える大政翼賛会は結局骨抜きされて失敗。注目されるのが、企画院である。全体的な政策統合を目指す総合官庁として設立、軍部や官僚の中堅層、いわゆる“革新派”が中心となった。しかし、この総合的性格は明治憲法体制の権力分立的性格とは相容れないため各方面から反発が強く、また企画院自体が自律化・肥大化→かえって「官邸主導」を阻害。企画院は解体されたが、政治的多元性は克服されず、結局、戦争を終わらせるにあたって天皇の「聖断」に頼らざるを得なかったことは象徴的である。

 戦後の占領前半期、GHQ内部でもGS、G2、ESSとそれぞれに思惑が異なっていたが、日本の各官庁もそれぞれと結びついていわゆる「クロス・ナショナルな連合」という形で権力分散的な状況を呈していた。こうした中、吉田茂はGHQからの矛盾に満ちた要求を受け容れていくためにも「強力な安定政権」確立の模索を始める。反吉田派牽制のため、経済安定本部内部の統制経済派やマルクス主義的な学者グループと接近して彼らを媒介とした社会党との連立を模索、これができなくなると保革二元論によって保守勢力の結集を目指す。また、当初は安本の総合政策機能に注目していたが、かつての企画院と同様に安本もまた自律化・政治化し始めたため、各方面から反発を受けて力が弱められた。その後は次官会議を掌握して、各省分立的だった「クロス・ナショナルな連合」の分断も図る。

 とりわけ吉田が意をくだいたのは、外相官邸連絡会議という私的な会合における人的ネットワークであった。つまり、安定した政権運営のため政策統合的な調整が必要だが、他方で安本やかつての企画院のように総合官庁として制度化してしまうと、それ自体が自律化・政治化→「官邸主導」を阻害してしまうおそれがある。そこで、分立的な官僚機構を前提としつつ、その上に吉田が立って各省庁と個別につながる。その結節点として非制度的な人的ネットワークを活用しようとした。ここには、明治憲法体制下で秘かに力を発揮していたインフォーマルな人的関係による政治調整も想起される。

 このように吉田の確立した政治スタイルは、その後吉田がいなくなってからも、官僚と政党勢力(=自民党)との非制度的な相互浸透という形で残った。「戦後政治体制」を1990年代まで続いた官僚主導、政党=自民党主導の並存した二元体制と本書は定義し、これは吉田による非制度的な運営ルールに起源を持つと指摘する。様々な政治勢力のせめぎ合いを詳細に分析、そこから一定の政治運営ルールが醸成されてくる様子を浮き上がらせていくところが興味深い。

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2008年12月15日 (月)

台湾にいた祖母の話(2)

 祖父は台北第二中学校で教員をしていた。台北一中は日本人中心、二中は台湾人生徒が半分くらいいたという。日本の敗戦直後、台湾人生徒を差別して嫌われていた先生が夜道で殴られたりということもあったらしい。幸いなことに祖父は台湾人生徒たちからも慕われており、戦後になっても当時の生徒たちから台湾に招待されたり、日本にいる元の教え子が訪ねてきたりしたそうだ。祖父宛に送られてきた、台湾にいる教え子たちの同窓会の集合写真もきちんととってあった。

 祖父が徴兵されて戦車部隊に配属されていたと聞いたことはあったのだが、今回写真を見ていて、それがノモンハン事件のことだったと初めて知って驚いた。1939年に祖父は20歳で入営、旧満州へ。何枚かある集合写真の横には牡丹江省、吉林省と記されている。厚手の防寒具、足元には雪が降り積もっていた。ある写真の余白には、「操縦、通信、工術 しごかれどおしの毎日だった」と書き込まれている。戦友たち一人ひとりの写真も残されているのだが、ひょっとしたらいつ死ぬか分からないという緊張感の中で交換し合ったものだろうか。戦車の写真も多いが、私は軍事関係には疎いので何式かまではすぐには分からない。向こうからソ連兵が白い布を振りながら近づき、こちら側では日本兵が握手をしようと手を前に出している写真があった。おそらく停戦協定が結ばれた時だろう。ノモンハン事件では日本の戦車部隊は壊滅的な打撃を受けたはずだ。祖父もよく生き残ったものだと思う。機械化の進んだソ連軍を過小評価した作戦参謀・辻政信らの独断専行で日本軍は大敗を喫し、それでも彼らは勝ったと強弁してそのように日本国内でも喧伝された。なぜこの大敗北から日本は教訓を引き出そうとしなかったのかという点に昭和期日本の決定的な誤謬を見出し、そこに至るまでの近代日本のあり様を探ろうとしたのが司馬遼太郎の日本論の動機だったことは周知の通りだろう。

 祖父は除隊してから教員になり、2年ばかり日本内地で勤務してから台湾に渡った。結婚してからたった二ヶ月で祖父は応召されたが、配属先は台湾東岸の守備隊だった。当時、大本営は対米決戦に向けての作戦立案においてアメリカ軍はまず台湾に上陸すると想定しており、台湾における兵力増強を進めていた。実際には、台湾を素通りして沖縄に上陸したわけだが。祖父は学徒動員された中学生たちを指揮して塹壕掘りに明け暮れていたらしく、日本の敗戦後、時をおかずに祖母のもとへ帰ってきたという。

 1945年8月、敗戦の一週間前に台北は空襲を受け、祖母の家も半壊した。すぐ近くの家では防空壕に爆弾が直撃して、死体の散らばっているのを目の当たりにしたようだ。8月15日、いわゆる玉音放送が流れ、10月25日には降伏調印式が行なわれた。台湾における「終戦記念日」=「光復節」はこの日である(川島真「台湾の光復と中華民国」、佐藤卓己・孫安石編『東アジアの終戦記念日──敗北と勝利のあいだ』ちくま新書、2007年)。祖母は日本敗戦の話が広まるとすぐに「祝大戦勝」の横断幕が翻っているのを見かけたという。中国軍が台北市に入城するとのことで祖母も見に行ったらしいが、「どんな感じだったと思う?」と私に問いかけてくる。いや、分からない、と答えると、「それがねえ、みんな裸足なのよ。靴を履くと磨り減るでしょ、だから肩にぶら下げて。服装も何だかみすぼらしくてね。担架みたいのに所帯道具一式を乗せてかついで、軍隊というよりも、お引越しって感じだったわねえ。それが次の日の新聞には「威風堂々と入城す」なんてでっかく書いてあるのよ。新聞なんて話半分でみるものだってつくづく思うわ」。

 祖母は続けて「日本は中国に負けたんじゃなくて、アメリカに負けたのよねえ」とも語る。もちろん反論したくなる人もいるかもしれないが、ここで汲み取るべきなのは、こうした素朴な実感を当時台湾にいた日本人が抱いたことだろう。日本に進駐したアメリカ軍の豊かさを目の当たりにして、これなら負けたのも仕方ないと日本人は納得した。対して台湾にやって来たのは、制服すら整っていない装備の貧弱なみすぼらしい軍隊であった(もちろん、共産党の勢力伸張に備えて蒋介石は精鋭を大陸にとっておいたという事情もあるのだが)。それこそ電灯も水道も見るのは初めて、蛇口をひねって水が出るのに驚いて蛇口を買い求め、壁につけたが出ないぞ!と文句を言ったなんて笑い話もあるほどだ。中国軍を見て「みすぼらしい」と感じた実感は、その後、台湾社会に深刻な暗い影を落とすことになる。

 日本の植民地支配下ではあっても、台湾人は経済的・社会的に高度な生活システムに適応し、台湾人自身のテクノクラート層も十分に育っていた。日本人がいなくなって、ようやく彼ら自身で自分たちの社会を運営できると思ったら、大陸から来た国民党は「台湾人は日本の奴隷教育を受けてきた」と考えて、台湾人の上に大陸出身者が居座る。管理的ポジションについてふんぞりかえるのだが、近代的な技術や社会システムを理解していない者が多かった。知識のない者が指示を出したところで現場は混乱するばかりだが、それにも拘わらず彼らは偉そうに台湾人を見下す。当然、台湾人の不満は募る。彼らと自分たちは違うという意識が芽生え、当初は国民党軍を歓迎していた気運は冷めてしまった。この当時における大陸とは違った台湾の経済的・社会的先進性は、台湾独立派の主張というばかりでなく、大陸に渡って共産党との共闘を目指した台湾民主自治同盟が台湾の高度な自治を求める根拠にもなっていた(ただし、反右派闘争以降、この主張は退けられてしまうのだが)。

 日本人の引き揚げにあたり、手荷物以外の資産の持ち帰りは許されず、家財道具の大半は置いていかざるを得なかった。道端でゴザの上に並べて売ろうともしたらしいが、どうせ置いていくしかない、ほっとおけばタダになる、と足元を見られていて台湾人はあまり買ってくれなかったと祖母は言う。日本人に対する報復のようなことは一切なく、その点では平穏であった。夜、見回り中の台湾人警官が、戸が開いているからちゃんとカギをかけなさい、と親切に声をかけてくれたことなども思い出していた。

 日本人が日本へ引き揚げようにも船がなかった。祖母は1946年3月に基隆から日本へと渡る。アメリカの貨物船にすし詰めにされたらしい。祖父は勤務先の中学校に大陸から新任の教員たちが来るまで留用され、4ヶ月ほど帰国が遅れた。

 今回、色々と話を聞きながら、祖母が戦時中の香港にもいたこと、『文芸台湾』に関わっていたこと、祖父がノモンハン事件に行っていたことなど、初めて知ることが次々と出てきて本当に驚いた。以前にも漠然と台湾時代の話を聞いたような気もするのだが、やはり聞き方というか、こちらの持っている背景知識によって引き出されてくる内容が格段に違ってくる。実は、私の母方の祖父は北京で華北交通(満鉄の子会社)に勤務していて、現地応召された。母方の祖母は短期間ではあったが奉天にいた。祖母の父親(私の曽祖父)が旧満州国で事業をやっており、伊達順之介ともつるんでいたらしいのでおそらく大陸浪人タイプ、だいぶきな臭い感じもするのだが、このことは以前に書いたことがある(→こちらを参照)。いずれにせよ、私の祖父母が4人とも日本の外にいたということが感慨深いし、なおさらもっときちんと話を聞いておけばよかったという後悔も感じている。

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台湾にいた祖母の話(1)

 祖母はそろそろ米寿を迎える。しばらくご無沙汰していて気が咎めていたのだが、祖父母とも台湾にいたので(祖父はすでに亡くなっている)、その頃のお話を伺おうと久しぶりに訪問した。耳は遠いが頭はしっかりしており、当時の写真を見ながら話すと記憶も鮮明に浮かび上がってくるようだった。

 台北の北郊、淡水で祖母は生まれた。台湾総督府勤務の父親(つまり私の曽祖父)が淡水に赴任していた時のことで、官舎で育つ。淡水街字(あざ)烽火、かつてスペイン人の築いた紅毛城(セント・ドミニカ城)跡を高みに望む、そのふもとのあたり。とても広い家だったという。父親の転勤に従って蘇澳、台北、基隆と移り住んだ。台北第一高等女学校補習科を卒業して教員免許を取得し、台北郊外の公学校に勤務。公学校というのは台湾人子弟向けの学校のこと。7歳~12歳までと年齢はまちまち、一クラスに70人もの生徒がいて束ねきれず、性に合わなかったようで一年でやめたという。台湾語の使用は禁止、日本語を押し付ける教育をしていたわけだが、子供たちは家庭では台湾語を使っているわけでついついそれが出てしまう。注意したところ、ある子から反論を受け、「あの子は頭がよかったなあ」と懐かしげに思い出していた。その子の名前もはっきり覚えていた。なお、台北一女は総督府(現在の総統府)のすぐ斜め向かいにあり、現在の台湾でもエリート校である。

 1941年12月8日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。12月25日までに日本軍は香港を占領し、香港占領地総督部が設置された。陸軍直轄で、総督は磯谷廉介。行政運営上の人員不足のためか台湾でも募集が行なわれ、祖母も応募して書記生として採用が決まり、1942年4月に香港へと渡る。上海香港銀行の本社ビルが接収されて、総督部も職員の宿舎もすべてこの中にあったという。14階に勤務、ここからレパルス・ベイを撮影した写真があった。また、和装した西洋人女性の写真もあり、これは誰かと尋ねると、英文タイピストとして雇われたポルトガル人女性とのこと。日本軍占領下、イギリス人は民間人も含めてみな収容所に入れられたが、マカオから来たポルトガル人は自由に出歩けたという。当時、ポルトガルのサラザール政権、およびスペインのフランコ政権は、同様のファッショ独裁国家としてヒトラーから枢軸同盟に加わるよう働きかけを受けていたが、のらりくらりとかわして中立政策をとっていた。

 日本軍の占領という形で治安は維持されているうちは戦跡めぐりの観光をする余裕もあったようだが、香港も連合軍の爆撃を受けるなど徐々に情勢は悪化してきた。総督部の屋上から突然砲声が響き渡り、自分の部屋のベランダに薬莢がバラバラと落ちてきて、初めて高射砲が設置されていたのを知ったらしい。危ないから婦女子は帰れ、ということで、1943年2月に台北に戻る。香港に来るときは快適だったが、帰りは潜水艦の魚雷攻撃で撃沈される危険があり、乗船の際にいざという時の脱出方法などの心構えを聞かされてゾッとしたという。

 台北に戻ってからは台湾総督官房情報課に勤務。職員の集合写真があって、撮影場所は総督府の裏玄関前。裏玄関といっても大きくて風格もあるのだが、以前、私も総統府見学をした時、まさにここから入った覚えがある。何とも感慨深い。情報課では月刊誌のようなものを出していたらしい(要調査)。原稿を取りに行ったり、編集部の上役がインタビューに行くのについていって、横でかたくなって聞いたりしていたという。台北市長や台北帝国大学教授などのところへも行ったそうだ。

 「当時の台湾の文化人でしたら、たとえば『文芸台湾』の西川満なんて有名ですけど、やはり会ったことあるんですか?」と話をふってみたら、「あら、西川さんだったら知ってるわよ。だって、私も『文芸台湾』の同人だったんだから」との返答。さらに張文環、黄得時、濱田隼雄といった名前が祖母の口からスラスラ出てきた。予想もしていなかったので、正直、面食らった。近年、この時代の日本語作家たちを“台湾アイデンティティー”の揺らぎという観点から読み直し、再評価しようという研究動向が現われつつある(たとえば、垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』五柳書院、1995年。フェイ・阮・クリーマン(林ゆう子訳)『大日本帝国のクレオール──植民地期台湾の日本語文学』慶應義塾大学出版会、2007年)という趣旨の話をしても祖母にはピンとこなくて当然なのだが、むしろ私が彼らの名前を知っていることが意外だったようだ。祖母はそそくさとスクラップ・ファイルを持ってきてくれた。そこには『文芸台湾』や同様に西川の出した雑誌『華麗島』に掲載された、祖母の小説や詩の切り抜きがあった。ある号の編集後記(おそらく西川の筆になるはずだ)も切り抜かれており、そこでは祖母の名前を指して、これから良い作家になるだろう、という趣旨のことが書いてある。その箇所を祖母は読み返しながら嬉しそうに相好を崩した。女性の同人は2人しかいなかったらしい。年齢的にいうと、祖母が同人になったのはまだ女学校を出たばかり、18、19歳くらいの頃だろうか。

 1944年に祖父とお見合いで結婚。初めて会う日、空襲警報が鳴って灯火管制が敷かれ、ロウソク1本を灯しただけの部屋で会ったという。「当時は男の人が少なかったからね、誰でもよかったのよ。顔がよく見えなかったから、かえって良かったのかもしれないわね」なんて笑って話すが、ふと真顔に返り、「あの時のロウソクの明かりはよく覚えているわ」としみじみとつぶやいた。聞いていて、何となくロマンチックな感じもした。

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