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2008年1月27日 - 2008年2月2日

2008年2月 2日 (土)

深尾須磨子という人

 健康的だが堅苦しくてとっつきにくい明治、軍国主義が暗い影を落とす昭和初期。大正期はこの二つの時代に挟まれた不思議なエアポケットとして意外と存在感は薄いが、開けっぴろげな明るさがあって独特な魅力のある時代だと思う。この頃、女性たちのはしゃぎぶりも目立った。現在の視点からすると、不自然に無理しすぎというか、力みかえったところがむしろ滑稽にすら感じさせるが、そうしたところもひっくるめて愛嬌を感じさせ、嫌いじゃない。

 深尾須磨子は明治21(1888)年、兵庫県北部の氷上郡に生れた。生家の荻野家は没落士族で、7人目の末っ子。志げのと名づけられた。7歳のときに父を亡くし、母は女手一つで子どもたちを育てようとしたがやはり難しく、翌年、志げのは親戚のもとに養子として預けられた。

 15歳になり、京都師範学校に入学。しかし、派手な服装や奔放な言動が師範学校のかたい校風に合わず、退学処分を受けた。菊花高等女学校に転校し、明治40(1907)年3月に卒業。在学中、演劇に夢中となって女優を志したが、家族から強い反対を受けて断念。理解を示した恩師から、脚本を書いて俳優を動かす方にまわればいいと助言され、この頃から作家になることを意識し始めたという。

 明治44(1911)年、山内家の養女となったが、翌年に離籍。この頃には須磨子と改名している。24歳となった翌年の大正元(1912)年、深尾贇乃丞(ひろのすけ)と結婚した。彼は京都帝国大学出身の鉄道技師で役所勤めをしていたが文学や芸術に造詣が深く、須磨子が音楽や語学を習うことに理解を示した。

 ところが、大正9(1920)年、須磨子32歳の時に贇乃丞は病死。須磨子は彼の遺稿に彼女自身の詩を合わせ、『天の鍵』(アルス)を出版した。これが与謝野晶子に認められ、以後、詩集を立て続けに刊行、詩人として名前が知られるようになった。

 夫と死別後は声楽家の荻野綾子と同棲したが、彼女の結婚により二人の同性愛的な関係は破綻する。また、未来派を日本に紹介した年下の詩人、平戸廉吉へ強い想いを抱いたが、彼もまた夭逝した。

 大正13(1924)~昭和3(1928)年にかけて荻野綾子と一緒に渡欧。夫の遺産を整理して費用を捻出し、主にパリで暮らす。パリでは著名なフルート奏者マルセル・モイーズのレッスンを受けたほか、小説家のコレット(Sidonie-Gabrielle Collette)に私淑し、彼女から短編小説を書いてみたらいいとアドバイスを受けた。

 「マダム・Xの春」をはじめとした短編小説をいくつか読んでみると、貧しい幼少期に親戚のもとへ養子にやられたこと、夫と死別した後にすべてを吹っ切るようにパリへ渡ったことなど、自身の経験をもとに想像をふくらませて、彼女の心中に流れる激しい感情の動きが軽やかにつづられている。叙情的で、暗さはない。また、性の喜びをおおらかに肯定する姿勢から性科学に関心を持って学び、後に『葡萄の葉と科学』(現代文化社)という本を出版した。帰国後、コレットの作品の翻訳に打ち込んで『シェリ』(“Cheri”)を『黄昏の薔薇』(角川書店)というタイトルで世に出した。

 昭和14(1939)年に外務省派遣の文化使節としてヨーロッパへ行く。この時、ムッソリーニと握手して感激し、その気持ちを詩にうたい上げたため宮本百合子からファシストの烙印を押され、絶縁された。戦争中には皇国賛美の詩を書いていたが、そのことを戦後になって悔やみ、平和運動・婦人運動に積極的に関わるようになる。

 詩集『真紅の溜息』『斑猫』『呪詛』『焦燥』『牝鶏の視野』『イヴの笛』『永遠の郷愁』『神話の娘』『哀しき愛』『洋燈と花』『詩は魔術である』『パリ横町』『列島おんなのうた』、小説集『マダム・Xと快走艇』『ホルモン夫人と虚無僧』、翻訳小説集『動物の会話七つ』『母の手』『黄昏の薔薇』『砂漠の息子』、散文集『侯爵の服』『丹波の牧歌』『旅情記』『ローマの泉』『赤道祭』『むらさきの旅情』『君死にたまふことなかれ──人類の母与謝野晶子』など作品多数。

【参考文献】
武田隆子『深尾須磨子の世界』宝文館出版、1986年
紅野敏郎「『学鐙』を読む110 深尾須磨子」『学鐙』第95巻第4号、1998年4月
藤本寿彦「深尾須磨子点描──両性具有の文学性」『昭和文学研究』第40集、2000年3月
川本三郎「深尾須磨子」『文學界』第56巻第2号、2002年2月
森まゆみ「大正快女伝22 深尾須磨子〈ファナティックな魅力の詩人〉」『本の話』97号、2003年6月

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2008年2月 1日 (金)

中河與一について

 いつだったか、友人から薦められて中河與一『天の夕顔』(新潮文庫、1954年)を読んだことがある。年上の女性への秘めたる憧れを描いた、ストイックに美しい純愛小説だ。その友人のがさつな風貌を思い浮かべ、こういうロマンティシズムが分かる奴なのかとそのギャップが意外だったが、それはさておき。永井荷風はゲーテの『若きウェルテルの悩み』に比較して絶賛し、後に海外にも紹介されてアルベール・カミュから賛嘆の手紙が寄せられるなど大きな反響があったという。荷風はともかく、カミュが関心を持ったというのはどういうわけだろう。その女性とは結ばれないと分かってはいても、それを虚しいこととは思わず、敢えて自らの想いを貫こうというところに、実存主義的な何かを読み取ったのだろうか?

 中河與一は明治30(1897)年、香川県坂出で代々医者を営んできた家系の長男として生れた。旧制中学に通っていた頃から、船乗りに憧れたり、画家を志したりと夢見がちな性格であったという。北原白秋の主宰する『ザンボワ』に短歌を投稿しており、早くから文学的な関心が強く芽生えていたことが分かる。

 22歳の時、画家になろうと上京。岡田三郎助の絵画研究所に通ったが、やがて挫折。早稲田大学の英文科に入学した。在学中に同郷出身で女子英学塾(現・津田塾大学)に通う幹子夫人と結婚(彼女もまた歌人として活躍し、戦後は共立女子大学教授)。

 そうした中、中河は初の歌集『光る波』を出版して早熟な才能を示す。しかし、狂的な潔癖症や幻覚に悩まされ、「埃っぽい教室がいやでたまらない」と言って大学を中退。この潔癖症は生涯にわたって続いた。対人関係にも支障を来たし、人から色々と誤解されて文壇の中で孤立してしまう原因となる。

 大正10(1921)年、『新公論』に掲載された「悩ましき妄想」(後に「赤い薔薇」と改題)で文壇デビュー。大正13(1924)年に金星堂から『文芸時代』が創刊され、稲垣足穂、川端康成、片岡鉄平、横光利一、今東光、岸田国士、佐々木茂索らと共に同人として加わった。彼らは、私小説的なリアリズムを追求するあまり物語としての魅力を失った旧来型の自然主義文学とは訣別し、その一方で勃興しつつあるプロレタリア文学のような階級闘争という図式の中に人間を押し込めて描こうとするかたくなな態度とも一線を画し、「新感覚派」と呼ばれた。

 中河はその後も『早稲田文学』『文芸春秋』『新思潮』『新潮』『中央公論』『太陽』『キング』など様々な誌面に作品を発表、小説集も続々と刊行された。また、評論にも健筆をふるい、偶然文学論を提唱して議論を巻き起こした。昭和13(1938)年に代表作『天の夕顔』を発表。

 昭和10年代には保田與重郎たち日本浪漫派の後見人的な立場となっていた。中河の伝統文化論の中には国家主義と結び付きやすい側面があるとみなされ、また戦時下にあって戦意鼓吹の政治的言動を展開したこともあって、敗戦後は公職追放の対象となった。『天の夕顔』が映画化された際に原作者名が削られたり、戦争協力の過去を理由にいくつかの雑誌から執筆を断られるなど不遇をかこつ中でもコツコツと筆を執り、昭和41(1966)年には角川書店より『中河与一全集』全十二巻が刊行された。平成6(1994)年に永眠。

【参考文献】
中河与一『天の夕顔』新潮文庫、1954年(保田与重郎による解説)
笹淵友一編『中河與一研究』右文書院、1970年
森下節『ひとりぽっちの戦い──中河与一の光と影』金剛出版、1981年
『近代浪漫派文庫30 中河与一・横光利一』新学社、2006年

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2008年1月31日 (木)

赤瀬川原平『老人力』

赤瀬川原平『老人力 全一冊』(ちくま文庫、2001年)

 はい、突然ですが『老人力』。ひところ話題になりました。

 ところで、みなさん、この言葉を正しく使ってますか? たとえば、タフで元気なおじいちゃんを見て「老人力だよなあ」ともっともらしくうなずく人がいますが、間違ってます。もちろん、赤瀬川さんは間違ったからって怒るような心の狭い方ではございません。ただ、まじめくさった顔してフルスイングで見当違いな空振りをされると、傍らで見てて、こそばゆいというか、こっちまで恥ずかしくなっちゃってすごくイヤなんですね。

 もの忘れが激しくなったら、余計なものを頭からドンドン捨てて身軽になってるんだと考えてみる。“記憶力が落ちた”のではなく、“忘却力が強まった”という感じに。今ある自分の状態を肯定的に捉えなおしてみると、意外と新発見がある。それが“老人力”。

 こうあらねばならぬ、こうせねばならない、と思いつめると疲れるし、生きづらい。要は発想の切り替えです。“老人力”という呪文を唱えると、あら不思議、マイナスが瞬く間にプラスに大変身! 自分に与えられたあるがままを、そっくりそのまま面白がっちゃえばいいのです。つきつめれば、“悟り”の境地ですな。

 赤瀬川さんが犬連れてボーっと散歩してるのとすれ違ったことが何回かありますが、実に良いお顔です。“老人力”をしっかり実践されてるのでしょう、“仙人”と呼びたくなるようなオーラが漂ってます。脱力的に意外と真理をついてるって感じで、私は好きです。

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2008年1月30日 (水)

「ジェシー・ジェームズの暗殺」

「ジェシー・ジェームズの暗殺」

 19世紀後半のアメリカ中西部、南北戦争が終わり、そろそろ“フロンティア”も消滅(世界史の教科書では1890年代とされる)しようという時代。南軍のゲリラ出身だがいまやギャングとして勇名を馳せていたジェームズ兄弟は最後の列車強盗に乗り出そうとしていた。ジェシー・ジェームズ(ブラッド・ピット)に憧れる青年ロバート・フォード(ケイシー・アフレック)が仲間入りを頼み込むところから物語は始まる。

 グループは解散し、メンバーは散り散りになって身を隠した。ところがジェシーは、自身にかけられた懸賞金目当てに裏切ろうとしたと疑った元の仲間を殺す。逃亡生活の中、誰も信用できない孤独、そしてそれを隠そうとする感情の激しい振幅。傍らでジェシーを見つめるロバートの心中には、憧ればかりでなく、恐れ、懸賞金への欲と功名心、何よりもジェシーその人になりきる以上に乗り越えたいという野心、様々な思惑が渦巻いていた。

 ジェシー・ジェームズが西部劇のヒーローとして繰り返し描かれていたのは知らなかった。しかし、この映画には銃弾の飛びかうようなアクション・シーンはない。西部の荒涼たる山野にミニマル的な音楽がかぶさる。その荒々しい美しさが詩情をもって浮かび上がり、人々の孤独な心象風景が胸に迫ってくる感じがする。ブラッド・ピットは貫禄たっぷり。ケイシー・アフレックもひ弱そうだが繊細な表情の揺れを好演している。

【データ】
原題:The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford
監督・脚本:アンドリュー・ドミニク
2007年/アメリカ/160分
(2008年1月26日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2008年1月29日 (火)

「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」

「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」

 制服美少女が謎のチェーンソー男と夜な夜な闘うという意味不明なイメージは意外と私のツボにはまった。まあ、アニメやゲームでありがちなパターンなのかもしれないが。関めぐみは「鴨とアヒルのコインロッカー」や「包帯クラブ」ではあまりパッとした印象はなかったが、この映画での武器を構えたスラリとした立ち姿はきつめの顔立ちも相まってなかなか凛々しくて目を引く。高校生活の倦怠感と、そこから逃げ出そうとするかのような夜の闘いという二本立てで物語は進む。戦闘シーンにいまいち迫力がないのが残念。もっと激しく闘って映画全体にメリハリをつけて欲しかった。微妙に青春映画しているので、ダラダラと陳腐でそんなに面白くはない。

 原作の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(角川文庫、2004年)は滝本竜彦のデビュー作。“ひきこもり”やってた時に無我夢中で書き上げたらしい。人生の無意味に立ちすくむ倦怠感・虚無感、そのくせ自意識過剰、そういった諸々を振り払うように突っ走って死んでしまいたいという心理を、ライトノベルのタッチによく汲み取っていて面白いと思う。

 『NHKにようこそ!』(角川文庫、2005年)はまさに“ひここもり”生活そのものを、『超人計画』(角川文庫、2006年)はその後のリハビリ過程(?)をパロディめかして描写。“ひきこもり”文学と言ったらいいのか。自分をパロディ化できるってことはつまり、自分の状況が客観的に分かっているということ。自分の恥ずかしくてコンプレックスを抱えている部分を突き放して書いてしまうのも一つの手だ。なお、前者はNHK=“日本ひきこもり協会”だが、この“NHK”に様々な意味を持たせるところにストーリー上のカギがある。後者では綾波レイが進行役で登場。いまや美少女キャラのスタンダードですな。

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2008年1月28日 (月)

アマルティア・セン『アイデンティティに先行する理性』

アマルティア・セン(細見和志訳)『アイデンティティに先行する理性』(関西学院大学出版会、2003年)

 ひょっとしたら不利益を被るのは自分かもしれない──個人主義を前提としつつも“無知のヴェール”という仮設によってこうした可能性に注意を促すことにより社会的不利の幅を出来る限り小さくしようというのがロールズ正義論のざっくりしたところ。しかしながら、そのような想像力がはたらくこと自体、一定の共同体的結びつきが暗黙のうちに存在しているからではないのか、その意味で個人主義的自由主義では社会的公正は維持し得ないのではないか、というのがコミュニタリアニズムからの批判であった。センはそれを認めつつも、しかしながら共同体外におけるコンテクストにおいて正義論は有効だと反論する。

 確かにコミュニタリアンの言うように、自らの共同体への帰属意識は構築するのではなく、すでにあるものを “発見”するということなのかもしれないし、それは自由に選ぶことは出来ないのかもしれない。しかし、現実的な選択肢として限定されているとはしても、選択の余地はゼロだと断定してしまうのは、自らのアイデンティティへの態度の取り方を熟考する責任を放棄してしまうことだ。「すべての支配的なアイデンティティ──国家組織あるいは国民の一員──に服従させてしまえば、多様な人間関係が持っている力や幅広い関係性が見失われてしまう」(本書、46ページ)。

 帰属意識を固定化・単純化する議論に対してセンが批判の矛先を向けるのには彼自身の生い立ちが背景にある。つまり、インドとパキスタンが分離独立した際、それまでガンディーに導かれていた“インド人”意識が崩れ、ヒンドゥー教徒・ムスリムそれぞれに細分されたアイデンティティをもとに血みどろの抗争が繰り広げられるのを目の当たりにしたからである。先日取り上げたバウマンのコミュニティ批判にしても、やはりバウマン自身の亡命ユダヤ人(ポーランド→イギリス)としての背景がある。センも認めるように何らかの形での共同体的帰属意識を否定することはできない。同時に、それが政治的過激主義の温床となり得ることを考え合わせると、多元的なありようを模索する必要がある。

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2008年1月27日 (日)

覚書③安楽死と尊厳死について

(さらに続いて、安楽死と尊厳死の問題についてです。)

 ALS患者は人工呼吸器を装着するかどうかの決断をいつかは下さねばならない。その際に、①装着をしないで尊厳死を迎えることの是非、②いったん装着した後で取り外すことの是非が問題となる。ここを考える上で、安楽死・尊厳死についてどのような議論が進められてきたのか確認しておく必要がある。

◆定義
 安楽死と尊厳死、この二つの言葉は人によって使い方が異なり、どこで意味上の線引きをしているのか曖昧なことが多い。
 一つの考え方として次のように分類されるだろう。
①純粋安楽死
 死を迎えるにあたって麻酔等で苦痛を緩和・除去し、しかも生命短縮の危険を伴わない安楽死。この場合には何の問題も生じない。
②間接的安楽死
 生命短縮の危険を伴う安楽死で、治療型安楽死とも言われる。つまり、苦痛を緩和するために使用した薬剤の副作用として死期が早まった場合である。意図的な行為の結果として死に至らせてしまう点で殺人行為とみなされかねないが、医学的正当性、患者の同意がある場合には治療行為として違法性は阻却される。
③消極的安楽死
 苦痛を長引かせないように、生命延長のための積極的措置をとらないことによって死期を早める安楽死。狭義で尊厳死という言葉を使う時はこのケースを指すことが多い。
④積極的安楽死
 苦痛の除去を目的として、意図的な手段を以って生命を終わらせることである。殺人罪、嘱託殺人罪等として刑法上の責任が問われる。

 安楽死をめぐる議論では、第一に苦痛からの解放、第二に本人の意思を尊重、以上の2点が共通しているが、具体的には以下のポイントを挙げることができる。
①現代の医学知識や医療技術では治癒が不可能であり、なおかつ極めて近い将来に確実に死が訪れる。
②患者は激しい苦痛を訴え、症状が確実に進行しており、その様子が傍目にも分かる。
③回復不能にもかかわらず行われる治療行為に対して、あらかじめ患者自らの意思として拒否の姿勢が示されている。
④その意思を再確認し、さらに患者本人の同意を得て、医師はその苦痛を除去することを目的とした治療を行う。
⑤その治療とは結果として患者の死期を早める医学的処置である。

 宮川俊行は『安楽死の論理と倫理』(東京大学出版会)の中で安楽死を他者との関わりから次のように分類している。
①非理性的、非人間的生命のあり方を拒否する尊厳死的安楽死
②厭苦死→鎮痛の可能性のない身体的苦痛に伴われた生命の拒否
③放棄死→人間は共同体の他者との関わりをもって生きるが、苦痛を伴う患者のために共同体が崩壊し、放棄されていく中での死
④淘汰死→共同体存続のために患者の生命が淘汰された状態に追い込まれた死

◆日本での経緯
 安楽死に類した行為は歴史上様々な場面で行われてきた。日本で安楽死というテーマを明確にした最初の例は森鴎外『高瀬舟』であろう。
 法律上の議論として安楽死に焦点が当てられた最初のケースは、昭和24年におこった母親殺害事件である。被告となったのは在日朝鮮人の青年。母親が脳溢血で倒れて全身不随となってしまった。当時、在日の人々の間では北朝鮮への帰国運動が盛り上がりつつある時期だったが、この母親も帰国を希望していた。しかし、身体的に不自由になったばかりでなく、法的手続きもうまくいかず、帰国できない状況となってしまった。身体的苦痛に加えて絶望感が深まり、「こんな状態なら死んでしまいたい」「殺してほしい」と息子に向かって訴える。青年は親孝行と考え、青酸カリを飲ませて死に至らしめた。当初は尊属殺人で起訴されたが、検察は事情聴取しながら嘱託殺人へと切り替えた。安楽死とする場合には死期が切迫しているかどうかを確認する必要があり、この点で青年の行為は軽率であったとして、一定の情状酌量をしつつも懲役1年、執行猶予2年の判決が下された。
 この裁判を通して、安楽死を論ずる枠組みとして以下の点が明確になった。
①現行の法律では安楽死の判断ができない。
②安楽死の医療処置ができるのは医師のみである。
③疾病上の苦痛が対象であって、精神的苦痛は安楽死の対象外とする。

 安楽死についての法的基準を初めて明示したのは昭和37年に出された名古屋高裁判決、いわゆる山内判決である。本件では、脳溢血で倒れて半身不随となった父親を殺したとしてその息子が起訴された。父親は「苦しい」「殺して欲しい」と訴え続けており、主治医からは余命は7日から10日くらいだと聞かされていたので、被告は牛乳に有機リン殺虫剤を混入させて死に至らしめた。
 判決では安楽死が認められる場合の基準として以下の要件を示し、本件では⑤と⑥を満たしていないとして懲役1年、執行猶予3年が宣告された。安楽死について法的な基準が明示されたのはこの判決が初めてであり、その後の論争の画期点となった。
①病者が、現代医学の知識と技術から見て不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
②病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
③もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
④病者の意識が、なお明瞭であって、意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
⑤医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には、医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること。
⑥その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。

 次いで東海大学付属病院事件について平成7年に横浜地裁判決が下された。本件は名古屋の事件とは異なり、家族ではなく医師が起訴されていた。死亡した患者本人にガンの告知はされておらず、なおかつすでに意識がなかったため、本人の自発的な意思は示されていない。それにもかかわらず、家族から「楽にしてやって欲しい」と繰り返し迫られた医師が塩化カリウムを注射して死亡させたことの是非が問われた。以下の要件を示した上で、懲役2年、執行猶予2年の有罪判決が下された。
①耐え難い肉体的苦痛があること。
②死が避けられずその死期が迫っていること。
③肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと。
④生命の短縮を承諾する明示の意思表示があること。

◆海外の事例
・カレン・アン・クインラン事件→個人が死を選ぶ権利が認められた。意思表示ができない場合には父親に認められた。回復不能の判断が医師と倫理委員会の二重のチェック。
・契約社会のアメリカでは、医師の説明不足や一方的な裁量で行われた医療に対して患者側から自らの権利を侵害されたとして法的な対抗措置。
・キヴォキアン医師の自殺装置。
・オランダの安楽死法。

◆問題点
 仮に安楽死が社会的に容認されて何らかの形で法制化された場合、様々な問題があり得ると指摘されている。
①コスト面で社会的弱者切捨ての懸念
 長期療養が必要となる難病では、医療費ばかりでなく、生活面での影響が深刻となる。特に家族のメンバーが少ないとき、稼ぎ手本人が倒れたケースは当然だが、パートナーが倒れたときにも仕事を辞めてつきっきりで介護をせねばならない事態が考えられ、いずれにせよ生活費をどのように確保するかで頭を悩ませることになる。そうした場合、患者本人はもう少し生きたいという意思を持っていたとしても、コスト上の問題を理由として安楽死を選ばざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
②家族が本人の意思を代位することへの懸念
 家族が信用できないということではない。患者が死を迎えるにあたっては、家族もまた動揺が激しい。患者本人の意思をあらかじめ確認しないまま意識不明の状態に陥ってしまい、かつ苦悶の表情を浮かべていると、家族としてはやはり正視に堪えない。「かわいそう」というその場の雰囲気で、本人は安楽死を望んでいるものと家族は安易に受け止め、延命打ち切りの判断を下してしまうおそれがある。
③「自ら意思決定する能力」とは何か
 ②とつながる問題だが、物事の判断能力をどこに求めるかという問題。
④高齢化社会で悪用されることへの懸念
⑤優生学上の見地から不必要とみなされた者への適用。ナチスの安楽死政策。
 以上は、自分の意思とは全く関わりのない理由によって死を強制されてしまうことへの不安が見られる点で共通している。
⑥安楽死は患者本人だけの問題ではない
 仮にリビングウィルが用意され、患者本人の安楽死へ向けての態度が明らかにされていたとする。しかし、実際に安楽死の手続きを進めるのは医師である。患者本人は自分が死ぬことを納得しているのかもしれないが、医師が自らの価値観と相違して不本意な形で安楽死を手伝わねばならない立場に置かれてしまうことも考えられる。それは医師ばかりでなく、患者の周囲に集う家族や友人たちにも同様の精神的な葛藤を強いることになる。自分の死はあくまで自分一人の出来事だと思い込みがちだが、実は周囲の様々な人々を巻き込んでしまっていることについてどのように考えるのか。

(参考文献)
ハーバート・ヘンディン(大沼安史・小笠原信之訳)『操られる死─「安楽死」がもたらすもの』時事通信社、2000
保阪正康『安楽死と尊厳死』講談社現代新書、1993
宮川俊行『安楽死の論理と倫理』東京大学出版会、1979
三井美奈『安楽死のできる国』新潮新書、2003
ジャネット・あかね・シャボット『自ら死を選ぶ権利─オランダ安楽死のすべて』徳間書店、1995
入江吉正『死への扉──東海大安楽死殺人』新潮社、1996年

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