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2008年11月16日 - 2008年11月22日

2008年11月22日 (土)

押村高『国際正義の論理』、マイケル・ウォルツァー『戦争を論ずる』他

 国境外の出来事について日常的に“知る”ことが可能となった現在、飢餓やジェノサイドをはじめ深刻な人道問題を他人事として放置できるのか?という問いが政策決定上の要因として無視できなくなっている。以前、このブログでもソマリア、ルワンダ、ダルフールの問題を取り上げたことがあるが、究極的なアポリアにぶつかってしまうのが軍事力の扱い、人道的介入の問題だ。

 軍事力=絶対悪とみなす傾向がかつて日本の進歩的左翼に顕著に見られたが、現在、そうした絶対平和主義は少なくとも国際法・国際政治学などの分野では稀だと言える。人道目的の武力行使が必要であることについては一定のコンセンサスが得られている。ただし、“平和”という大義名分の下で恣意的な侵略行為を正当化しかねない危険は常に存するわけで、武力行使を可能にする要件を厳しくするのか、それとも緊急対応できるよう緩くすべきなのか、そうした要件設定の幅をめぐって議論がかわされているのが現状である。最上敏樹『人道的介入』(岩波新書、2001年→参照)や押村高『国際正義の論理』(講談社現代新書、2008年)を読むと、安易な結論を下すことの出来ない難しさにもどかしい戸惑いを禁じ得ない。

 押村『国際正義の論理』を読んで興味を持ったのは次の二つの論点。第一に、“戦争の違法化”が本当に“正義”にかなうのか?というカール・シュミットの問題提起(90~93頁)。第一次世界大戦後、ケロッグ=ブリアン協定によって戦争違法化の努力が進められたが、戦勝者が中心となって規範化を行なってしまうと、戦争という一時的・偶然的出来事による戦勝国・敗戦国の図式が固定化されてしまう。戦勝国の論理が国際法という普遍性を身にまとう→規範の絶対性のゆえに反発もより強く、苛烈な闘争状態に陥るおそれがある、という(同じ頃に書かれた近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」という論文を思い浮かべた)。

 第二に、格差原理を国際社会にまで広げて適用するのをためらったジョン・ロールズの議論(170~176頁)。彼のいわゆる“公正としての正義”論は主権国家の枠内においての社会政策の義務化を意図している(後述)。だが、他国にまで社会正義の名の下で踏み込んでしまうと、相手国内におけるコンセンサスの秩序を揺るがしてしまうおそれがある。主権国家の多元性を所与の条件としている以上、格差原理の適用はあくまでも国内限定で、国境の外に広げることは正当化しがたい、という。私はロールズ『万民の法』は未読だが、『公正としての正義 再説』でも自分の議論はあくまでも自分たちの社会に限定されるという趣旨の但し書きがされていたように記憶している。

 ともすると、世界政府のような統一体の中で一元的な法体系→警察的抑止が可能となればいいと夢見たくなることもある。しかし、シュミットやロールズの議論をみるにつけ、思惑の異なる様々なロジックがせめぎ合う中で辛うじて危ういバランスを保とうとしている国際法のダイナミズムそのものに興味がひかれてくる。

 国益追求のため没価値的に戦争を肯定するリアリズムに対して、人道目的限定でルールを定めた上でなら手段として武力行使を容認する考え方を正戦論という。正戦論は決して戦争を肯定してはいない。ただ、現実に人間は戦争をしている。武力を抑止できるのは武力以外にない。この端的な事実に我々は一体どのように向き合えばいいのか? マイケル・ウォルツァー『戦争を論ずる』(風行社、2008年)は、こうした正戦論の立場による論考を集めている。

 ウォルツァーはコミュニタリアニズムの代表的論客として知られている。ジョン・ロールズの公正としての正義論は、アトム的個人を前提→無知のヴェール→自分が不利益を被る可能性→不利益を最小限に食い止めようという動機が働く→配分的社会政策を正当化できる、という論理構成をとる。これに対して、何を不利益と感じるのかはその人の属する共同体の価値観によって異なってくる、抽象的な“負荷なき”個人など現実にはあり得ず、ある共同体における価値意識が共有されていてはじめて他者への配慮があり得る、と批判したのがコミュニタリアニズムである。特定の共同体の価値意識を排他的に称揚するというのではなく、様々なレベルにおいて共同体が共存することを模索しており、その共存の調整原理が“寛容”だとされる(マイケル・ウォルツァー『寛容について』みすず書房、2003年)。エスニシティの多元性を特徴とするアメリカ社会において、コミュニタリアニズムはマイノリティ擁護の論陣を張った。

 正戦論とコミュニタリアニズムとの関わりでいうと、「緊急事態の倫理」という論文に興味を持った。ウォルツァーの議論では、祖先から継承される生活様式の維持、そこにおいて一人の個人は共同体に分かちがたく組み込まれている、ということが前提となっている。彼の議論はマイノリティ擁護という点ではリベラル左派だが、時間軸における共同体と個人との一体性を重視する点では保守主義的である。日本の論壇における政治図式とは必ずしも重ならないので要注意。

 価値観のそれぞれ異なる共同体の多元的共存が破られる状態、“寛容”が成り立たない状態、たとえばナチスによるホロコーストのような最高度の緊急事態においては、個人を前提とした功利計算による考え方では対応できない。第一に、無辜の民を守るために自らの命を投げ出すリスクを負わねばならない。第二に、自分たちの共同体の絶滅の危機を回避するための反撃において、相手側の非戦闘員を巻き込む可能性を排除できない。その際、無辜の民を殺す可能性のある政治判断を行なう指導者は、自らの「汚れた手」の罪悪を自覚せねばならない。自分というものを超えたレベルで共同体に価値的なコミットメントをしていなければ、命を投げ出すリスクと「汚れた手」の引き受け、プラスマイナス両面における道徳的強靭さに耐えることはできない、という。

 緊急事態において通常の功利計算的な権利概念は乗り越えられるという考え方はカール・シュミットの例外状態の議論も想起させる。例外は、我々が普段目を背けて考えようとしない問題を明瞭に突きつけてくる。だからこそ、例外がすべてを説明する、とカール・シュミットは言っていた。正戦論は戦争についての現実的な認識とそれを何とかしようという理想主義的な情熱とが絡まり合っており、そこにはらまれた逆説からは政治のより本質的な問題が浮かび上がってきて目が離せない。

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2008年11月20日 (木)

新保祐司『信時潔』

新保祐司『信時潔』(構想社、2005年)

 田沼武能によって撮影された信時潔の写真が本書カバーを飾っている。和服姿、ゴツイ面構えに短く刈り込んだ頭髪。大工の棟梁というおもむきで、近現代西欧音楽を摂取した作曲家とは一見したところではわからない。

 信時は「海ゆかば」の作曲者として知られている。軍国主義礼賛と受け止められ、戦後、この曲が演奏される機会はほとんどなくなった。私自身、名前は知っていてもメロディーは思い浮かばない。そもそも、母校の校歌の作曲者が実は信時なのだが、そのこと自体最近まで知らなかったくらいだ。同年代の山田耕筰の場合、彼の戦争協力を批判する声が現在でもあるにしても、一応、近代日本音楽の先達として確固たる位置を占めているのに対し、朴訥な信時は山田のように器用に立ち回ることはできなかった。

 “軍国主義”というレッテル貼りによって彼の音楽性そのものを無視してきた戦後の安易な風潮に対しての著者の憤りには賛成できる。ただ、その一方で、信時のメロディーの根柢から政治的なものを超越した精神的な歴史性・民族性を感じ取ろうとするところは、私には正直なところよく分からない。著者は1950年代の生まれだから戦後世代で、戦前・戦後という区分を越えて連綿と続く感性を取り戻したいという情熱があるのだろう。文芸批評ではなく国学と称したいと著者は言っているが、意識下の集合的心性を汲み取ろうとしていると考えるなら、何となくユング的な感じもする。否定するつもりは全くないのだが、共感のとっかかりが私にはつかめない、その意味で私自身の感性が歴史的な“日本”なるものからかけ離れてしまっているのかとつくづく思ったりもした次第。

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2008年11月19日 (水)

石田一志『モダニズム変奏曲──東アジアの近現代音楽史』

 ここしばらく、江文也という作曲家に興味を持って少しずつ調べている。侯孝賢監督「珈琲時光」が私は大好きで、この映画で彼の名前を知って以来ずっと気にかかっていた。戦前の台湾出身。日本で名を成し、戦中に北京に行ったまま日本の敗戦を迎え、文化漢奸の容疑をかけられたものの中華人民共和国に仕える、が、文革に巻き込まれたり、と彼の人生そのものが東アジア現代史の一側面を体現している。

 今年、彼が戦争中に刊行した『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)が復刊された。解説として付された片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」という論文が秀逸だった。江は亡命ロシア人音楽家チェレプニンに引き立てられ、彼の影響で中国の伝統に目を開かされたこと、同様にチェレプニンに見出された伊福部昭と並べているあたりなど非常に興味深い。江文也のことはまた機会を改めて。

 江文也について文献検索をしているうちに、石田一志『モダニズム変奏曲──東アジアの近現代音楽史』(朔北社、2005年)を知った。先日このブログでも取り上げた片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)にしてもそうだけど、従来はマイナーだった日本や東アジアの近現代音楽史研究からまとまった成果が現われつつあるのが嬉しい。

 私は高校生の頃から現代音楽には興味があって、CDのライナーノーツで石田一志という名前は見かけていた(確か、ショスタコーヴィチの交響曲だったと思う)。大学に入って石田先生が講師で来ているのを知り、迷わず受講した。ポール・グリフィス『現代音楽小史』(音楽之友社、1984年)をテキストに、楽曲を聴かせて適宜解説を加えるというオーソドックスな進め方だったけど、私にはとても面白くて休まずに出席していた。スティーヴ・ライヒやグレツキを好きになったり、ジョン・ケージの有名な「4分33秒」を初めて聴いた(?)のもこの授業だった。いつの間にか東アジア音楽史なんていう分野を切り開いていたとは知らなかった。

 日本・中国(補章として香港・台湾を含む)・韓国の三部構成、それぞれ19世紀から現代に至る音楽史を時系列に従ってまとめている。作曲家を中心に事典的な項目を通史的に並べたという感じで、分析の切り口に特に斬新さがあるわけではない。しかし、旧満洲国が中国に残した音楽的影響、文革の問題、朝鮮半島なら親日派や南北対立など、東アジアには音楽だからと言って政治的にナイーブでは済まされない難しさがある。本書の一見無味乾燥な叙述は、そうした政治評価から距離を置く姿勢にもなっており、安心して読める。500ページを超す大著だが、眺めているだけでも色々なつながりが見えてくるのも面白い。たとえば、チェレプニンは日本で江文也や伊福部昭などを発掘する一方、中国でもその後の音楽界をリードする人材を育成していることなど初めて知った。知らない音楽家の名前が出てきたときにすぐ調べられるようレファレンス本として手もとに置いておきたい。

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2008年11月18日 (火)

ステファン・コルキュフ『台湾外省人の現在──変容する国家とそのアイデンティティ』

 今年の正月は台北にいた。1月1日は中華民国の建国記念日にあたり、この日を期して、蒋介石の銅像の鎮座する中正紀念堂は台湾民主紀念館と改称された。いわゆる“正名運動”の一環だが、立法院・総統選挙を間近に控えた政治の季節、政権腐敗で支持率低下に悩む陳水扁が族群対立を煽って挽回しようとする意図にも合致するタイミングだった。宿舎でテレビをつけたら、独立派と統一派がつかみ合わんばかりに激論をかわす姿が映し出されていた。

 翌日午前、私も台湾民主紀念館に足を運んだ。自由広場と改称されたそこは、前日の喧騒とは打って変わって静かだった。長い階段のふもとのあたり、車椅子の老人が一人ひっそりと佇み、扁額の架け替えられた紀念堂をじっと見上げている。私がちょうど通りかかったとき、日本人観光客がこの老人に話しかけるところだった。一瞬の間があった。観光客が「日本語、わからない?」と言うのとほぼ同時に、その老人は中国語で何やらまくし立て始めた。老人は外省人なのだろう。くだんの日本人観光客には、ある年齢以上の台湾人なら日本語教育を受けているはずだという考えがあったのだろうが、本省人と外省人との微妙な関係について配慮する用心を欠いているのは軽率だと思った。すぐ隣の国なのに、“親日的”な台湾に好意を抱く日本人がこれだけ多いにも拘わらず、台湾社会の多元的な複雑さは意外と理解されていない。

 その老人は、彼ら外省人が台湾にいることの“正統性”が一つ一つ消し去られていくことに様々な思いをかみしめていたのだろう。前日テレビで見た声高に議論する人々とは異なり、この老人の無表情な静けさが印象に残っている。

 外省人、と一言でいっても、台湾の外から来たことを意味するだけで、その出身地は様々だ。大陸は広い。国民党の進めた国語政策には、台湾人だけでなく、この方言的にバラバラな外省人をも統合しようという目的もあった。外省人というエスニック・グループが初めから鮮明だったのではなく、二・二八事件や白色テロで本省人が国民党への不信感を募らせる中、その敵愾心から逆規定される形で外省人として一括りにされたと言える。

 いわゆる本省人には、日本→中華民国と支配者が交代する歴史の中で、自分たち自身の政治的アイデンティティを定位できなかったという揺らぎがある。そうした本省人と対立的に捉えられがちな外省人もまた彼らなりに自己認識を見出せない困難を抱えている。ステファン・コルキュフ(上水流久彦・西村一之訳)『台湾外省人の現在──変容する国家とそのアイデンティティ』(風響社、2008年)は、外省人へのアンケート調査を踏まえ、理念的には大陸志向でありながらも、生活レベル・感性レベルではむしろ台湾に根を下ろしつつあるという乖離に外省人自身が戸惑っている姿を読み取ろうとしている。

 外省人の話す中国語にも時折閩南語のフレーズが混じり、彼らが台湾に土着化しつつある特徴の一つとして指摘される。政府に期待する政策項目としても経済や社会問題に関わるものが上位を占め、当面の生活には直結しない両岸関係のプライオリティーは最も低い。それに、親族訪問で大陸に行っても、生活意識の違いからもはや故郷にはなじめないことに気づいてしまうケースも多いらしい。

 両岸関係が膠着状態にある現在、もはや台湾から離れて暮らすことはできない現実に外省人もうすうす感づいている。他方で、台湾本土化の政治的趨勢が不可避な中で疎外されていると感じ、また生活面でも挫折を味わっている彼らにとって、両岸統一というスローガンは一つの精神的拠り所となっている。たとえそこで言う祖国が観念的に想像されたものに過ぎないとしても。

 彼らの抱えている葛藤は統一か否かという単純な二項対立に収斂するものではない。現実としての土着化傾向と、それを自ら否定したい理念性というアンビヴァレンスは明確に割り切れる性質の問題ではないが、政治争点化されることで、この無理が外省人を苛んでいるという。言説化→実際の生活感覚を押し殺してしまうという矛盾。その点で、著者は個人的見解とことわりながら、外省人庶民を苦しめているのは他ならぬ外省人政治家たちだと指摘する。著者の結論に賛成するかどうかは別として、外省人の抱える感性面での相克に焦点を合わせた研究は少ないとのことで、現代台湾社会を理解する上で本書は必読の文献であろう。

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2008年11月16日 (日)

奥中康人『国家と音楽──伊澤修二がめざした日本近代』、山東功『唱歌と国語──明治近代化の装置』

 伊澤修二がらみで掲題書2冊がほぼ同時に書店に並んでいたので取りあえず買ってあったのだが、例によって“積ん読”状態。奥中康人『国家と音楽──伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社、2008年)がサントリー学芸賞受賞とのことで、慌てて引っ張り出す。どうでもいいけど、サントリー学芸賞4部門8点のうち5点までは刊行時に入手していました(他に、日暮吉延『東京裁判』平松剛『磯崎新の「都庁」』堂目卓生『アダム・スミス』片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』)。ついでに言うと、先週授賞式のあったアジア・太平洋賞も4点のうち3点まで同様(若林正丈『台湾の政治』水谷尚子『中国を追われたウイグル人』園田茂人『不平等国家 中国』)。

 奥中『国家と音楽』では、久米邦武『特命全権大使米欧回覧実記』の記述を踏まえ、欧米のコンサートホールで大勢の人々が一つの音楽に熱狂的な拍手を送り、みんなで一斉に歌うというシーンに岩倉使節団は感嘆したのではないかと指摘する。国家と国民とを有機体として捉え、その関係性を有効に機能させるための装置として伊澤は音楽を重視したのだという。忠君愛国=近代天皇制を軸とした国民形成の手段として西洋音楽による感性的な規律化が行なわれた。伊澤については、第一に西洋音楽の普及→文明開化の役割→開明派として肯定、もしくは第二に天皇制と結びついた封建主義教育→否定、という形で従来は評価が二分されていたらしい。本書は、現代の我々の価値観をいったん保留した上で、この分裂的なイメージを一つに集約して伊澤の教育思想を捉え返している。

 山東功『唱歌と国語──明治近代化の装置』(講談社選書メチエ、2008年)は、日本語学の立場から唱歌教育に注目、その立役者の一人として伊澤が取り上げられる。学校教育で子供たちに暗誦させるための手段として唱歌が使われたが、国語・唱歌・体操(たとえば、行進曲やラジオ体操)という三教科によって身体レベルでの規律化が重視されていた。手段として西洋的な音感が基盤となりつつ、その西洋的なものを覆い隠しながら“日本”なるものが演出されたという指摘が興味深い(たとえば、信時潔作曲の「海行かば」)。

 以前、台北市内を歩き回ったとき、芝山巌学堂の跡地まで足をのばしたことがある(→参照)。日本が清から台湾を割譲されたばかりの頃、ここに起居していた日本人教師たちが原地民によって殺害されるという事件があった。伊藤博文の揮毫による碑文が現在でもたっている。この教師たちの取りまとめ役だったのが伊澤修二なのだが、彼はたまたま、台湾で病死した北白川宮の遺体に随行して一時帰国中だったので難を逃れた。伊澤修二というと私にはまず植民地に派遣された学務官僚としてのイメージが先にあって、近代音楽教育の確立者としての姿とは切り離して捉えていた。上掲2冊とも伊澤の台湾時代については具体的には触れられていない。しかし、近代日本が国民国家形成にあたり、音楽教育による規律の身体化が不可欠な要素とされていたこと、そこで主導的な役割を果したのが伊澤であったことを知り、彼の台湾派遣が持った意味合いもトータルで納得できる。日本と植民地との関係を考える上でも示唆的な論点が提示されていると思う。

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