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2008年11月9日 - 2008年11月15日

2008年11月14日 (金)

片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』

片山杜秀『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング、2008年)

 『レコード芸術』に連載された批評エッセイをまとめたもの。著者の『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ、2007年)は読んでいた。政治思想史畑の人とばかり思っていたので、掲題書を書店で見かけたとき、なぜに現代音楽?と不思議に思ったのだが、パラパラめくると二〇世紀を彩る数多くの音楽家たちの話題がちりばめられている。この手の本で読みやすいものは意外と少ないので、取りあえず買ってあった。積ん読状態になっていたのだが、サントリー学芸賞受賞とのことで引っ張り出したところ──いやいや、これが実に面白い!

 第一に、一般的な認知度の低い近現代日本音楽史の人物群像がこまめに掘り起こされている。山田耕筰の島国的せせこましさを批判した團伊玖磨に中国・シルクロードと大陸的なものへの思いを見出したり、信時(潔=「海ゆかば」の作曲者)楽派に坂本龍一を絡めたり、松村禎三の宗教性に淫靡なエロスを感じ取ったりとイマジネーションを豊かにふくらませているのも面白いし、伊福部昭への愛着などなかなか読ませる。一見自由人らしい山田一雄が、日本人は本当に西洋音楽を理解できるのかという問いで堂々巡りしていたのに対し、古き謹厳実直さ=保守的にイメージされやすい朝比奈隆が、芸術そのものへと向き合う姿勢からとっくに“日本人”を超えてしまっていた、その意味で実は新しかったのではないかという対比は興味深い。

 第二に、音楽エッセイという形を取りつつ、実は全体的なライトモチーフとして近代思想史が語られている。たとえば、アイヴズの不協和音にエマーソンを結びつけてアメリカの個人主義を論じたり。シュトックハウゼンなんて私にはワケワカメだったけど、中心となる音程を欠いた彼の総音列主義に、ナチズムから解放されたドイツ青年の思い入れを感じたり。近現代日本の作曲家たちの系譜の後景に、西洋を模倣しつつもお国訛りが出てしまう“近代”の葛藤や、岡倉天心の呪縛を読み取ったり。とにかくテーマは尽きない。音楽という感性的なものをとっかかりに視点を変えてみると、かたくなりがちな思想史的テーマもヴィヴィッドなものとして立ち現れる。そこが新鮮だ。

 軽妙な筆致、縦横無尽な話題の引っ張り方には博識な才人ぶりがうかがわれる。音楽と思想史、こういう聴き方、論じ方があるのかと、いちいち目からウロコを落としてワクワクしながらページをめくった次第。

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2008年11月12日 (水)

『憤れる白い鳩 二〇世紀台湾を生きて──六人の女性のオーラルヒストリー』

 陳水扁が逮捕されましたが、そのことはまた機会を改めて。

周芬伶・編著(藤目ゆき・監修、馮守娥・監訳)『憤れる白い鳩 二〇世紀台湾を生きて──六人の女性のオーラルヒストリー』(明石書店、2008年)

 六人の女性からの聞き取りをもとに、戦後の台湾を女性史という観点から語らせていく。

 元“皇民作家”で戦後も作家として書き続けた龍瑛宗の妻・李耐、彼女の気の強さは学者肌の夫を悩ませ、息子夫婦とも折り合いがつかない。どうでもいいけど、ソクラテスは悪妻がいたからぐれて哲学に走ったのか、それともソクラテスが変な奴だったからクサンチッペは悪妻になったのか、という卵が先か鶏が先かみたいなことを土屋賢二が書いていたのを思い出した。あまり関係ないけどね。

 本書の監訳者ともなっている馮守娥は二二八事件後の白色テロで連行され、政治犯を収容したことで悪名高い火焼島(緑島)へ送られた経験を持つ。もう一人、労働運動で検挙された許金玉にしてもそうだが、出獄後も警察に付きまとわれるため職がなく、それでも懸命に生きてきたことを語る。

 黄家瑞は対照的に、上海の豊かな名家の生まれ。張愛玲のいとこにあたる彼女の語りには、ヴィスコンティの映画を思わせるような黄昏た頽廃感もどことなく漂う。

 伊蘇はブヌン族の巫女。少数民族の保護という問題意識や、彼女の語りから言葉を超えた精神性を感じ取ろうとするかのような書き方は、ネイティヴ・アメリカンとその調査をする白人の文化人類学者というのと同じ構図だな。

 楊秀卿は台湾の伝統歌謡・念歌をなりわいとする盲目の女性。今ではラジオ番組の人気者となっているらしいが、不遇だった頃の放浪生活を回想する。採録されている話は切り詰められていて短いのだが、韓国のパンソリ唄いの親子を描いたイム・グォンテク監督「西便制──風の丘を越えて」のイメージと二重映しになって、この人が私には一番印象的だった。

 語り手の配置には台湾社会の多元的なありようが見えるように配慮されている。女性の生活レベルから見た台湾戦後史として興味深い。注のつけ方や監修者のあとがきをみると、訳者グループには中台統一派の色合いが濃い(日本の進歩的・体制批判的な知識人には、こと中国問題になると、“中国”の不可分一体性という言説に疑いを持たない人が多いのが本当に不思議)。そのあたりは割り引いて読む方がいいでしょう。

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2008年11月10日 (月)

喜田貞吉のこと

 私は高校生の頃、江上波夫に憧れを持っていた。大学に入って考古学の授業を受けたとき、テキストの鈴木公雄『考古学入門』(東京大学出版会、1988年)に、いわゆる騎馬民族説は戦前における喜田貞吉の日鮮同祖論の焼き直しとも言えるという趣旨の一文があって、それ以来喜田の名前が気にかかっていた。

 喜田はいわゆる法隆寺再建論争で一方の論陣を張ったほか、国定教科書の編纂にあたっていたとき南北朝並立の記述をしたため右翼から攻撃されて休職に追い込まれたことでも知られる(いわゆる南北朝正閏問題)。歴史記述は公正な立場から行なわねばならないという姿勢がうかがわれるし、もう一つ彼には、歴史学は社会問題の解決に役立たなければならないという熱意もあった。具体的には、被差別部落の問題に歴史学の立場から取り組んだ先駆者とされている。

 彼は、日本人は混合民族であるという見地に立っていた。大陸系、マレー系、様々な種族が日本列島に渡来する中、“天孫民族”がそうした異民族を融合しながら現在の日本人が形成された(この点で、単一民族という純血主義は否定されている)。何らかのきっかけで取りこぼされた人々が、たとえば山窩、アイヌ、被差別部落などとして残存した、とされる。現在では考えられないことだが、当時、被差別部落は異民族であって日本人ではない、という考えが割合と強く、それが差別の根拠ともされていたらしい。喜田は、被差別部落もまた本来は融合されていておかしくなかった人たち→同じ日本人である→だから差別に根拠はない、というロジックをとった。

 韓国併合が強行される時代状況の中、喜田は同様のロジックを朝鮮半島に対しても適用した。それが日鮮同祖論である。彼の場合、朝鮮半島出身者が日本人によって差別されてしまうことへの憤りが動機であって、膨張主義とは本来的に異なる。その点では彼なりの善意であった。しかしながら、被差別部落問題とは異なり、独立別個の民族意識を持つ朝鮮半島の人々にとって彼の善意は到底受け入れられないものであった(以上、小熊英二『単一民族神話の起源──〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社、1995年、を参照)。

 第一に、民族的境界線の内側に取り込むことで同朋意識を強調するのか、それとも民族的プライドを維持するため境界線を強化すべきなのかという問題。第二に、たとえ動機が純粋な善意であっても、その善意の置かれたコンテクストによってはかえって相手への知的暴力となりかねない困難。こうした二重の困難が喜田の議論に見え隠れする。

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2008年11月 9日 (日)

大谷渡『台湾と日本──激動の時代を生きた人びと』

大谷渡『台湾と日本──激動の時代を生きた人びと』(東方出版、2008年)

 日本統治時代に青春期を過ごした世代の台湾の人々からの聞き書きをもとに当時の時代を描く。著者には戦前の女性ジャーナリスト北村兼子の評伝があるが(私は未読)、彼女が台湾民族運動穏健派の指導者・林献堂を訪れた経緯を調査するために台湾へ行き、当時を知る人々から話を聞いたことが本書のきっかけになっている。

 取材相手は男女を問わず医師が多い。医師もしくは弁護士など技術的な分野に台湾人の人材を限定しようとした日本の植民地政策が反映されている。台湾社会の中でも裕福で恵まれた階層の人々がほとんどで、年代的に学校生活での話題が多い。

 日本人教師には熱意があって公平な人も多かったようだし(中学校で物理・化学を教えていた屋良朝苗の名前を挙げる人が複数いた)、日本人が自分たちに教育を授けてくれたことには感謝していると一様に語られる。だが同時に、みんな日本人による差別で悔しい思いをしたとも語っており、耳が痛い。台湾人生徒がトップの成績をとっても、成績優秀者の表彰を受けさせないように成績を改竄して日本人を一番にするなんてことも行なわれ、悔しくて泣いた、などという話もある。

 特に台湾育ちの日本人に差別意識が強かったそうだ。その一方で、日本の学校に留学すると、遠いところからわざわざ、という感じに暖かく迎え入れてくれて、むしろ台湾を知らない人たちの中にいた方が差別を感じなかったというのが興味深い。これとパラレルな話だが、田村志津枝『台湾人と日本人──基隆中学「Fマン事件」』(晶文社、1996年→参照)で、台湾育ちの日本人が日本に行くと、台湾人がやっているような泥臭い仕事も日本人がやっているのを見て驚いた、という話が紹介されていたのを思い出した。

 なお、この世代への聞き書きとしては平野久美子『トオサンの桜──散りゆく台湾の中の日本』(小学館、2007年→参照)も面白かった。

 この世代のご老人たちはもはや“絶滅危惧種”なわけで、もっと色々な肉声を聞き取るのは今をおいて時期はないように思う。

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胎中千鶴『葬儀の植民地社会史──帝国日本と台湾の〈近代〉』

胎中千鶴『葬儀の植民地社会史──帝国日本と台湾の〈近代〉』(風響社、2008年)

 “政治”レベルの問題というのは言説化しやすく、従って明快に整理しやすい。しかし、日常生活に根ざした変化というのは、当事者にとってごく当たり前の空気のようなものだが、それだけに、その社会にとって本質的なものをはらんでいる。本書は葬儀というテーマに着目し、抵抗・妥協・流用と様々な受容のあり方を通して日本の植民地支配が台湾にもたらした葛藤、“台湾でありながら日本化する”という方向性の抱えた困難を捉え返そうとしている。

 もともと台湾社会に火葬の風習はなかった。日本の台湾統治初期において衛生対策にも力を入れようとしたが、日本人=火葬=衛生的/台湾人=土葬=不潔、という図式が出来上がってしまった。当時、日本内地においても火葬が必ずしも一般的ではなかったこと、台湾社会において土葬は不潔とはみなされていなかったことを考え合わせると、こうした差異化が両者の文化的意味づけを作り上げてしまう一助となった可能性がある。1915年の西来庵事件で道教的民間信仰が核となっていたことに衝撃を受けた総督府は宗教政策にも力を入れ始めるが、日本仏教界が台湾在来の仏教寺院を取り込む形で乗り込んできた。1930年代以降の皇民化政策において火葬も含めた“葬儀改善”=内地化が進められたが、その際には仏式が主流となり、神道系は入り込めなかったというのも面白い。

 抗日民族運動指導者たちの直面した葛藤に私は関心を持った。彼らは高度な近代的教育を受けた知識人として、伝統的な“陋習”は台湾の近代化を阻む要因となっているという認識を持っていた。たとえば蒋渭水が亡くなったとき(1931年)、迷信打破という考え方から伝統色・宗教色を排して簡素な“大衆葬”が行なわれたが、これは当時の台湾社会の中でも先鋭的で、結局は根付かなかった。彼ら知識人にとって、近代化という軸において“陋習”は否定されねばならない。他方、民間信仰や伝統的習俗は民衆生活レベルでは大きな精神的支柱となっており、台湾人アイデンティティーの皮膚感覚的根拠になっていたとも言える。民族運動指導者としてそれを否定することができるのか。近代化が、統治者である “日本経由の近代”を意味してしまう植民地社会にあって、近代化志向の知識人たちは、近代をとるのか、民族的アイデンティティーの根拠としての伝統をとるのか、というアポリアにぶつからざるを得なかった。そうした“政治”という次元では抽象化されて見えづらくなってしまう葛藤が、葬儀という社会生活レベルで具体的に表面化したことを本書は明確に浮き彫りにしており、非常に興味深い研究である。

 また、“日本経由の近代”にどれほどの実体があったのかも分からない。植民地の統治階層としての在台湾日本人は、台湾人の視線にさらされながら“近代的”たるべく振舞わざるを得なかった。しかし、そうした日本人自身にも心情的揺らぎがあったのではないかという本書の指摘も示唆深いように思う。

 話を広げると、朝鮮近代文学の祖とされる李光洙にしても、“日本経由の近代”を軸として朝鮮社会の後進性を批判するというロジックをとっており、統治者への阿諛追従としての“親日派”とは言えない。本書でも台湾の“皇民作家”に触れられているように、皇民化政策を通して“近代”と“日本”とを分かちがたく内面化せざるを得なかった彼らは、抗日/親日という単純な図式では捉えきれないもっと複雑なアイデンティティーの葛藤を抱えていた。そうしたあたりを汲み取ろうとする研究動向が近年ようやく進んでいることに私は関心がそそられている。

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