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2008年11月2日 - 2008年11月8日

2008年11月 8日 (土)

エロシェンコのこと

 エロシェンコといえば、私はまず中村彝のあの有名な肖像画を思い浮かべる。もう一枚、鶴田吾郎による肖像画もあるが、エロシェンコを匿っていた中村屋の相馬黒光の自伝『黙移』(平凡社ライブラリー、1999年)によると、この二枚の絵は二人同時に描いたものらしい。中村彝の描く穏やかな詩人らしい風貌、対して鶴田の描いた野生的な自我の強さ。同時に描いたのに、図らずも彼の性格の半面ずつが描き分けられていることに驚いたと黒光は記している。

 「せまい檻」という作品がある。動物園の檻に閉じ込められた虎、彼は夢の中で、垣根に囲われた羊やインドのラージャの妻妾たちを解き放とうとするが、羊も女たちも立ちすくんで失敗する、そんな想像をめぐらす。目覚めると、相も変らぬ檻の中。阿呆面下げた人間どもは「虎が吼えているぞ!」と下品な笑い声をあげている。自由へのもがきも結局ひとり空回りするだけ、そのみじめさ自体が格好な見世物となってしまう。エロシェンコの童話について、子供にとっては真面目すぎるし大人にとっては不真面目すぎる、と言った人があるらしい。子供の読み物としては現実世界の厳しい醜さがにじみ出ているし、一方で、彼の純粋さを求める心情は大人の目からすると陳腐にも感じられてしまう、そうしたアンバランスを彼も自覚していたのかもしれない。彼の作品には韜晦がないだけに、その分、説教くささも否めない。しかし、その潔癖な理想主義は、居場所が得られずに転々とした彼自身の人生の軌跡と重ね合わせたとき、どこか痛々しくも感じられる。どこの国に行っても、この人は放っとけない、という気持ちを会う人ごとにわきおこさせたであろうことは想像に難くない。

 エロシェンコの評伝としては、高杉一郎『夜明け前の歌──盲目詩人エロシェンコ』(岩波書店、1982年)が同じエスペランチストとしての共感を以てつづられているほか、生国ロシアではハリコウスキー(山本直人訳)『盲目の詩人エロシェンコ』(恒文社、1983年)がある。また、藤井省三『エロシェンコの都市物語──1920年代 東京・上海・北京』(みすず書房、1989年)は、エロシェンコの移動に合わせ、東京・上海・北京それぞれにおける彼への反応をたどりながら当時の時代的雰囲気を描き出している。横の視点で国境を越えた同時代的な空気を知りたいというとき、エロシェンコという人はうってつけのトリックスターになってくれる。彼の作品は、高杉一郎編集『ワシリイ・エロシェンコ作品集1・桃色の雲』『同2・日本追放記』(みすず書房、1974年)で読める。1は日本語作品、2は中国・ロシアで書かれたエスペラント作品を収録している。

 ハリコウスキー書では、著者が若い頃に参加した世界学生祭で、中国人学生が「“アイロシャンケ”は中国語で書いていた」と言うと、日本人学生が「いや、“エロさん”は日本語で書いていた」と議論しているのだが、肝心のロシア人である著者自身は彼の名前を知らなかったというエピソードから始まる。日本や中国での知名度に対し、生国ロシアではほとんど知られていなかったらしい。なお、“アイロシャンケ”とは愛羅先珂。日本人は彼のことを“エロさん”とか“エロくん”と呼んでいた。どうでもいいが、北京滞在の折、周作人の幼い子供からまだよく回らぬ口で“エロチンコ”と呼ばれ、さすがの彼も「困った、困った」と苦笑いしていたそうな。

 エロシェンコは1890年生まれ、4歳のときに麻疹の高熱により失明。モスクワやロンドンの盲学校に在学中、エスペラントを学ぶ。日本では盲人でもマッサージ師として立派に生計を立てているという話を聞き、広い世界を知りたいという情熱も相俟って東への夢をふくらませ、1914年に来日。タイ・ビルマ・インド放浪をはさんで、1921年、社会主義者の疑いをかけられて日本を追放される。アタマン・セミョーノフ支配下の沿海州を経て中国へ行き、はじめは上海に滞在、次いでエスペラントの教授として蔡元培から北京大学に招聘され、魯迅・周作人兄弟の家に起居する。彼らとは日本語で会話していたようだ。中国にはなじめなかったらしく、「時のおじいさん」という作品には北京生活の寂しさがうかがえるし、中国人学生の演劇を酷評したため猛反発を受けてしまうという騒動もあった。結局、中国語はマスターしないまま、1922年、ロシアに戻る。盲人教育に熱意を持ち、チェコト、トルクメン、ヤクート、ウズベクへ行く。なお、トルクメンにいた頃、兄がバスマチの襲撃で殺されてしまい、必死になってその遺体を捜したという記述が高杉書に見えるが、ハリコウスキー書にはない。旧ソ連体制下で書くと何か差し障りでもあったのだろうか。ガンを宣告されて、1952年、故郷で死去。

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2008年11月 5日 (水)

若林正丈『台湾の政治──中華民国台湾化の戦後史』

若林正丈『台湾の政治──中華民国台湾化の戦後史』(東京大学出版会、2008年)

 本年度アジア・太平洋賞大賞受賞作。書店に並び始めた時点で買い求めてはいたのだが、なにぶん分厚い本なので断続的に読みつぎ、時間がかかってしまった。著者には『台湾──変容し躊躇するアイデンティティ』(ちくま新書、2001年)や『蒋経国と李登輝──「大陸国家」からの離陸?』(岩波書店、1997年)など一般向けの著作もあるが、これらで示された論点も網羅し、“中華民国台湾化”というキーワードを軸に戦後台湾を動かしてきた政治力学を詳細に分析。台湾ナショナリズム・中国ナショナリズムそれぞれの質的変容をたどりながら、原住民族や客家なども含めた多文化主義の進展を捉え返していく。

 台湾はおおむね親日的とされる。その通りではあるのだが、それを日本による植民地時代への郷愁と結びつけて語ってしまうと妙な具合になってくる。清→日本→アメリカという“帝国”において周縁化されてきた国際関係的位置。省籍矛盾→族群政治→多文化主義という国内的政治力学。こうした現在進行形の台湾独得な政治的コンテクストの中でいわゆる親日的なものも現われているわけだが、台湾への親近感を語る日本人でもこうした背景を理解していない人が意外と多いように思う。いわゆる親日感情には、国民党支配へのアンチとして国民党以前への高評価がシーソーのように傾いた点が無視できないし、他方で、台湾における抗日運動評価にも、国民党による押し付けイデオロギーに対して本省人の主体性を強調する立場からの異議申し立てという側面があった。

 いずれにせよ、この小さな島国には、国内的にも国際関係的にも複雑な政治力学が幾重にも絡まりあっており、一面的な理解を許さない。私などはそうした複雑さに一つのドラマを見出して興味が尽きないのだが。本書は浩瀚かつ緻密な研究書ではあるが、だからこそ、現代台湾について基本的な見取り図を身につけるには、まず本書を一読するのがむしろ近道であろう。

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2008年11月 4日 (火)

炭鉱がらみで色々と

 ジョン・フォード監督「わが谷は緑なりき」(1941年)はなかなか好きな映画だ。イギリスの炭鉱町を背景とした少年の成長譚。久しぶりに観なおしてみると、(モノクロではあるが)映像も、ストーリーも、古典的にすっきりとした美しさにしみじみと感じ入るのだが、その分、現実の炭鉱現場における生々しい泥臭さは完全に捨象されているとも言える。

 炭鉱を舞台にとった映画には、閉山間際の哀感を背景にしたヒューマン・ドラマが多いという印象がある。イギリス映画「ブラス!」はロンドンのコンクールを目指して奮闘する炭鉱町のブラスバンドの話。李相日監督「フラガール」は閉山後の村おこしで観光客誘致のためフラダンスに頑張る姿を半ばユーモラスに描く。両方とも見ごたえはあるし、イギリス・日本と舞台は違えども、ストーリーも何となく似ている。台湾の呉念真監督「多桑」(→記事参照)や韓国のチョン・スイル監督「黒い土の少女」(→記事参照)のように、坑夫として働きながらも報われず、社会に適応できない自身の不甲斐なさへの苛立ちから自暴自棄となってしまう父親を見つめるという筋立ても印象に強く残る。

 ジョージ・オーウェル(土屋宏之・上野勇訳)『ウィガン波止場への道』(ちくま学芸文庫、1996年)は「わが谷は緑なりき」より少し前の頃、イングランド北部における炭鉱労働者の生活実態を書き留めようとしたルポルタージュである。彼らの苛酷な生活環境への憤りが動機ではあるのだが、その客観的な筆致には、むしろ書き手と坑夫たちとの距離感も窺われてくる。実際、オーウェル自身、社会主義にシンパシーを寄せる者として階級の垣根を飛び越えたいと言いつつも、自らに体感としてしみついているブルジョワ臭・知識人臭にどうしてもぶつかってしまうことを率直に打ち明けている。自分の限界を変に“正義感”で糊塗してごまかさないところは、書き手としてむしろ真摯な態度だと思う。

 上野英信の本を何冊か立て続けに読んだ。旧満洲・建国大学を経て召集され、広島で被爆、その後、京都大学を中退して筑豊の炭鉱地帯に身を投じたという経歴の人である。最近、M先生から上野の『天皇陛下萬歳──爆弾三勇士序説』(洋泉社modern classic新書、2007年)をご教示いただいた。上海事変で爆弾を抱えて突撃し、“勇士”とされた彼が死に際して本当に「天皇陛下万歳」と言ったのかどうか分からない、仮に言ったとしても、そこには世間一般で受け止められているのとは違ったものとして彼なりの万斛の想いが込められていたのかもしれない。彼は炭坑労働者の出身であった。かつての仲間たちが、これを“誇り”と受け止めたことをどう考えるか。同じく上野の『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年)とあわせて読むと、それだけ彼らが自尊心も剥奪された絶望的状況にあったことの裏返しでもあるだけに、その二重の哀しさには複雑な気持ちになってしまう。M先生からはもう一冊、西里龍夫『革命の上海で』(日中出版、1977年)もご紹介いただいたが、西里にしても、上野にしても、渦中に入って体当たりでぶつかっていく。激しく、そして不器用ではあっても、相手に対して誠実である。そうしたあたりには、M先生ご自身の研究対象との向き合い方に相通ずるものが確かに感じられ、改めて襟を正した次第(M先生の謦咳に接してかなり深刻なカルチャーショックを受けています)。

 上野英信『地の底の笑い話』(岩波新書、1967年)は炭鉱労働者たちから聞き取った話を集めている。妙におかしくも、ペーソス漂う話をもとに、彼ら彼女らの生活世界を見つめていく。たとえば松谷みよ子の『現代民話考』に採録されていてもおかしくないような怪異譚に私はひかれる。不思議な話に仮託される形で、生きていく上で胸に去来する感情や切実な智慧が浮かび上がっている。上野にしても、一緒に筑豊で文学活動を行なった森崎和江にしても、それを迷信として切って捨てるようなことはしない。不思議を、近代的懐疑に由来する戸惑いと同時に、受け容れていこうとする。

 坑道を掘り進めていく一番の先端、いわゆる切羽、真っ暗闇の中でつるはしを振るう先山とその助手としての後山との関係の緊密さは、一挙手一投足が命に関わっているだけに尋常なものではない。夫婦や親子で入ることが多く、他人同士の男女がコンビを組んだときには性愛の営みも含めて親密さを確かめ合った。地上の人間としてはどうしても卑猥な目で見てしまうが、そういうのとは位相が異なる。坑内のことは地上には持ち出さないのが掟となっており、それだけ、地下と地上とで世界観の違いをはっきりさせていることが窺える。そこには幽霊譚もある。地上の我々からすれば不可解に思えるタブーもある。何よりも、近い親族がまさにここに埋まっているという鎮魂のいとおしさもある。森崎和江『奈落の神々──炭坑労働精神史』(平凡社ライブラリー、1996年)はそうした話を丹念に聞き取りながら、炭鉱が開かれて以来紡がれてきた地下の精神世界を掘り起こそうと努める。炭鉱の閉山は単なる失職を意味するのではなかった。そこは生きるにはあまりに過酷な世界ではあったが、それ以上に、彼ら彼女らにとって体感的に切り離せない共同体ともなっていた。炭鉱で働いた人々は「地上の人には分からんだろうけど」と前置きする。森崎もやはり地上の人間として得心しがたいというもどかしさを感じつつ、階級闘争史観のような図式的な理解ではどうにもならない一つ一つの話を受け止めていくところがとても魅力的な本だと思う。

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2008年11月 2日 (日)

国立ハンセン病資料館

 国立ハンセン病資料館へ行ってきた。西武新宿線・久米川駅からバスで20分くらいか、畑や分譲住宅が交互に現れるよくある東京郊外の風景の中、武蔵野の雑木林もそこかしこに見え隠れする。下車したものの、資料館がどこにあるのか分からなかったので、取りあえず目の前にある多磨全生園の敷地内に入り込んだ。

 正門を入ったところに“史跡”の位置を示す案内地図があったので、無断で申し訳ないが園内を散策させてもらう。正門とはまた別に、外に通ずる脇道があるのが目に入った。そこにあった説明板によると、患者は正門を使えず、消毒室のあるこちらから入らされたらしい。北條民雄『いのちの初夜』で、まさにここを通るときの戸惑いが描かれていたのを思い出す。近くには“監獄”跡というのもあった。園内のあちこちにあるスピーカーからは「チチチ…」と鳥の鳴き声を模した電子音が流れている。交差点ごとに、目の見えない人の手掛かりとなるよう設置されている。昔は鈴を鳴らしていたそうで、資料館内に展示してあった。

 企画展示は「ちぎられた心を抱いて──隔離の中で生きる子どもたち」。写真や展示品と共に、入所した子供たちが文集に寄せた文章や手紙、後になってからの回想などをパネルで示している。強制的に家族から切り離されてしまった寂しさ、消毒される自分に、そういう人間になってしまったんだとスティグマをおされる悲しみ、もう社会には戻れないという絶望、そういったことが幼い文章でつづられているだけにいっそう切なく感じられてくる。

 ハンセン病の感染力が極めて低いのは周知の通りである(はずだ)。個人的免疫力・栄養状態・衛生環境などの条件はあるが、幼少時に多量のらい菌を吸い込まない限り感染はしないし、仮に発症したとしても特効薬が開発されているので現在では完治する(日本での発症例は年間1桁台)。ただし、特効薬開発以前に病が進行したことによる身体上の障害、容貌にまつわる社会的偏見、長期入所していたことによる社会復帰の困難などの理由で現在も入所している方々がいる。

 明治以来、隔離がハンセン病対策の基本方針とされていた。当初は故郷を追い出されて放浪する人々の収容に重点が置かれていたが(資料館の前には四国遍路に出た親子の像があった)、1920年代後半から全国各地で“無癩県運動”がおこされ、1931年成立の癩予防法によって警察力も動員した患者の強制隔離が進められた。園内だけで通用する金券が資料館に展示されていたが、これも現金を持たせないことで脱走を防ぐという意味合いがあったようだ。所長には懲戒検束権、つまり言うことを聞かない患者を処罰する権限が与えられた。監禁室が各療養所に設けられ、とりわけ草津にあった栗生楽泉園の重監房は二十数名の死者を出したことで悪名高い(詳細は宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書、2006年)を参照のこと。資料館にも楽泉園の重監房が模型で復元されている)。当時におけるハンセン病の権威・光田健輔の方針で、所内で患者が結婚する際には断種が条件とされたが、反抗的な患者に対する懲罰として断種が行なわれたケースもあったという。療養所は世間から隔絶されているため、不法行為が行われやすかった。また、療養のためには本来、安静が必要なのだが、所内の人手不足から患者も作業に動員され、ますます病状を悪化させてしまった。

 “らい予防法”は1996年に廃止された。厚生省内部からこの法律の廃止に尽力してきた大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』(勁草書房、1996年)は、国のハンセン病政策について資料をふんだんに示しながら廃止に至るまでの経緯をまとめている。沖浦和光・徳永進編『ハンセン病──排除・差別・隔離の歴史』(岩波書店、2001年)は歴史や宗教から現代の問題まで多面的な論考を集めており、入門的に読みやすいのではないか。強制隔離は植民地でも徹底されたが、韓国南部の離島・小鹿島(ソロクト)にあった療養所については滝尾英二『朝鮮ハンセン病史──日本植民地下の小鹿島』(未来社、2001年)を参照のこと。台北近郊にも楽生院という療養所があった。本橋成一監督「ナミイと唄えば」で、ナミイおばあが台湾を再訪してここの患者さんたちと交流するシーンがあったのを思い出した。

 強制隔離の方針を示してきたいわゆる“らい予防法”に科学的根拠が乏しいことは早くから言われていた。大谷藤郎はその例として自ら私淑していた小笠原登の名前を挙げる。小笠原は京都帝国大学に勤務する医者だが、実家は浄土真宗のお寺で、祖父の代からハンセン病患者の治療に携わっており、その感染性の低いことは経験則から知っていた。そうしたことを戦争中に学会で発言したところ、大バッシングを受け、結局沈黙せざるを得なくなってしまったらしい(小笠原登については八木康敞『小笠原秀実・登──尾張本草学の系譜』リブロポート、1988年を参照)。

 強制隔離を推進した光田健輔は、断種手術を進めたことから分かるように当時流行の優生学思想の持ち主であり、癩者の存在は文明国の恥である、という彼の物言いが私は以前から気にかかっていた。外づらを気にして、あるべき理想像に向けて対内的な“民族浄化”を進めることが、結果として排除の論理につながってしまう。

 戦前・戦中期日本において優生学思想が制度化されるにあたっての犯人として彼を糾弾する議論は多い(たとえば、藤野豊『日本ファシズムと医療──ハンセン病をめぐる実証的研究』岩波書店、1993年)。他方、たとえば神谷美恵子は長島愛生園で会った光田の旺盛な仕事ぶりに尊敬を示しているし(「光田健輔の横顔」『神谷美恵子著作集2 人間をみつめて』みすず書房、1980年)、患者一人ひとりへの向き合い方は熱心だったので一部には光田を慕う患者もいたという。徳永進は光田の負の側面を踏まえつつ、時代的制約の中でもヒューマニスティックな熱意も共存していたことにある種の困難を感じ取っている(「隔離の中の医療」沖浦和光・徳永進編『ハンセン病──排除・差別・隔離の歴史』岩波書店、2001年)。武田徹『「隔離」という病い──近代日本の医療空間』(中公文庫、2005年)が指摘するように、彼個人の問題に帰してしまうのではなく、その両義性も含めてもっと大きな枠組みから捉え返す視点が必要となるのだろう。

 蛇足ながら、“文明国の恥”という表現がナイーブに語られてしまうところには、西洋という外の視線を気にする明治以来の妙なコンプレックスを感じてしまう。先日、いわゆる“からゆきさん”について触れたときも、外交当局が取り締まる姿勢に同様なものを感じた(→参照)。私は相互扶助の情緒的根拠としてナショナリズムを一概には否定してはいないのだが、こういう冷たいナショナリズムは嫌いだ。

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