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2008年10月26日 - 2008年11月1日

2008年11月 1日 (土)

溥儀とその周辺のこと

 大人が鑑賞するような文芸映画を私が初めて観に行ったのはベルナルド・ベルトルッチ監督「ラストエンペラー」だった。中学一年生のとき、同じく歴史が好きな同級生と一緒に。

 手もとに溥儀の『わが半生』(小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳、筑摩叢書)がある。カバーやオビに映画の写真が使われた1988年の第20刷。「ラストエンペラー」を観た前後の時期に買って読んだものだ。最初、清朝崩壊から満州国建国にいたる波乱に満ちた政治史への興味から読み進めていたが、その辺りの叙述は退屈で、むしろ戦犯として拘留中の生活記録の方が面白く感じた覚えがある。生活上は完全な無能力者である溥儀が、日常の雑事にいちいち驚いている様子が印象的だった。引き続き、レジナルド・ジョンストン(入江曜子・春名徹訳)『紫禁城の黄昏』(岩波文庫、1989年)を買ったし、エドガー・スノー(梶谷善久訳)『極東戦線』(筑摩叢書、1987年)を図書館で借りて読んだ記憶もある。

 日本による対外侵略という不幸な時代を背景にしつつも、多様な人々が動機も様々に、国境を越えてぶつかり合っている姿に大きなドラマを感じて、漠然とではあったがこの時代のあり様に興味が尽きなかった。

 自伝や回想録の類いではどうしても避けられないことだが、溥儀の『わが半生』も肝心なところでは曖昧な箇所、虚偽の箇所がある。戦後の“人民中国”において更生した証とせねばならなかったわけだし、皇后たちとの関係については再婚した女性への慮りもあったらしい。何よりも溥儀自身の自己顕示的な韜晦癖も難物で、ゴーストライターだった李文達も史実の確定という点では色々と苦慮したようだ。入江曜子『溥儀──清朝最後の皇帝』(岩波新書、2006年)はそうした辺りも踏まえた史料批判の上で彼の人物像を描き出していく。

 溥儀の戦後における“韜晦”の一例として、満州国で御用掛を務めた吉岡安直のことが挙げられる。第三夫人・譚玉齢の病死は吉岡たちによる毒殺だ、と溥儀は東京裁判で証言した。しかし、入江曜子『貴妃は暗殺されたか──皇帝溥儀と関東軍参謀吉岡の謎』(新潮社、1998年)や中田整一『満州国皇帝の秘録──ラストエンペラーと「厳秘会見録」の謎』(幻戯書房、2005年)によると、溥儀に仕える吉岡の態度は実直で、むしろ溥儀と関東軍との間で板ばさみになってしまうような立場にあった。溥儀はそうした吉岡に信頼を寄せていた。溥儀の証言は保身のための濡れ衣だったようである。

 「厳秘会見録」とは、満州国皇帝として日本の要人に謁見した際、外部には流出させないという条件でつけられていた会見録。溥儀から信頼を得ていた通訳・林出賢次郎によって記録されており、戦後も林出家で保管されていた。波多野勝『昭和天皇とラストエンペラー──溥儀と満州国の真実』(草思社、2007年)もこの会見録に依拠している。なお、林出は、関東軍参謀長として赴任してきた東条英機の圧力により解任され、その後は母校・東亜同文書院に戻り、戦後は昭和天皇の中国語通訳も務めたらしい。

 映画「ラストエンペラー」での皇后・婉容とイースタン・ジュエルこと川島芳子との絡みにはいかにもベルトルッチらしい官能的な退廃感があって、まだ中学生だった頃の私には結構強烈だった(もちろん、フィクションだが)。入江曜子『我が名はエリザベス──満州国皇帝の妻の生涯』(ちくま文庫、2005年)は、婉容のモノローグという形式で、アヘンに耽溺していく彼女の心の動きを語らせる。視座を彼女に置いたことで、溥儀を取り巻く権力闘争もどこかニヒルに相対化されていくところが面白い。なお、寺尾紗穂『評伝 川島芳子──男装のエトランゼ』(文春新書、2008年)は、日中の狭間にあった川島の不安定な葛藤がよく整理されており、興味深く読んだ。

 戦後中国において、溥儀の関係者もそれぞれに多難な人生を送らねばならなくなった。入江曜子『李玉琴伝奇──満州国最後の〈皇妃〉』(筑摩書房、2005年)は、庶民から溥儀の妃に選ばれた第四夫人・李玉琴の生涯を、とりわけ戦後に焦点を合わせて描く。溥儀自身の“性的”問題もあって関係はあまりしっくりしていなかったようだが、やはり“人民の裏切者”の妻であった過去は文革期において深刻だ。自らの身の“潔白”を証明するため、彼女は溥儀を糾弾せねばならなくなる。溥儀自身は文革の成り行きに怯えつつも、これといった被害も受けないまま病死した。

 蛇足ながら満州国関連では、外交部長や駐日大使も務めた謝介石という人物の存在が気にかかっている。台湾出身で日本の明治大学に学んだ後、中国に渡る。溥儀の復辟を画策した張勲に仕えた。謝介石が満州国の高官となったのをきっかけに台湾出身者で満州国へ仕官を求めてやってくる者が増えたという。田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年→こちらの記事を参照のこと)でも指摘されていたが、当時の台湾人は植民地という立場的曖昧さを逆利用される形で、“日中の掛橋”として汪兆銘政権や満州国など日本の傀儡政権で重用されたらしい。

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2008年10月31日 (金)

ブリヂストン美術館「都市の表象と心象──近代画家・版画家たちが描いたパリ」

 職場から歩いて行ける距離にブリヂストン美術館があるので、昼、ちょっと抜け出した。

 特集展示は「都市の表象と心象──近代画家・版画家たちが描いたパリ」。ナポレオン三世の第二帝政下、オースマンによって大改造が進められたパリ。近代的都市計画の先駆とされる一方で、古き詩情こもる景観が壊されていく時代の移行期、芸術家たちが徘徊しつつ目の当たりにしていたパリの姿を感じさせようとした展示。

 とりわけメリヨンのエッチングが展示の中心をなす。私は初めて見る名前なのだが、ボードレールからも高く評価された人らしい。大きく俯瞰するように描かれたパリの建築群、銅版画の鋭角的な線はスッキリとして格好良いが、同時にどことなく冷たさも感じさせる。屍体公示場のシーン、行き倒れ人だろうか、死体を引きずる人々も小さく描きこまれており、そうした細部から当時のパリの生活光景も垣間見させてくれる。アンリ・ブテという人の絵は雑誌の挿絵という趣きだが、例えば女性のたたずまいの描き方になかなか情感があってとても良い感じ。

 ブリヂストン美術館の常設展示は、近代絵画以降なら何でもあるが、テーマ的なまとまりがないのでもの足りない。ただ、古代オリエントの遺物、たとえばエジプトやメソポタミアの彫像とか、ギリシアの壷とかを集めた一室があるのはすっかり忘れていた。大学生の頃、(名目上に過ぎなかったけど)古代オリエント史のゼミに所属していたこともあって、今でもこういうのを見るのは好き。東京なら、上野の東京国立博物館東洋館や池袋の古代オリエント博物館などはたまに訪れる。中近東文化センターはちょっと不便な所(ICUの近く)にあるのであまり行けない。むかし、飯田橋に古代地中海美術館というのがあって学生の頃よく寄っていたのだが、いつの間にか消えてしまった。どこかの企業がメセナとして運営していたようだから、景気の落ち込みと共に閉鎖されたのだろうな。

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2008年10月30日 (木)

からゆきさんのこと

 矢野暢『「南進」の系譜』(中公新書、1975年)および、同『日本の南洋史観』(中公新書、1979年)を読み返した。明治期の「南進」論は、体制に容れられず、悲憤慷慨し、絶えず夢を追う者たちの、いわば在野の思想であり、以後の時代における国策としての「南進」論とは明らかに断絶がある。明治のロマンチストたちの楽観性には、彼ら自身が無自覚なところに政治的なスキがあり、昭和に入ってからの国策としての南方進出論においてシンボル的英雄として祭り上げられてしまった。また、戦後、賠償目的の技術協力という形で日本企業が進出したが、あくまでも国策としての関係であって庶民レベルまで含めた人的交流が乏しいという点で、戦前の日本軍進出時と類似した構図を見出している。

 庶民レベルでは、「南進」論なる政治的議論とは関係なく、東南アジアへ渡る無名の人々がいたことにも矢野は目配りを忘れていない。とりわけ注意がひかれるのは、いわゆる「からゆきさん」のこと。なお、「からゆきさん」とは本来、唐(から)の国=外国へ出稼ぎに行く人々を総称した九州北部の方言らしいが(「からゆきさん」はとりわけ島原・天草出身者が多かったという)、いつしか、海外で売春をせざるを得なくなってしまった底辺女性を指すように意味が狭められるようになった。

 山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文春文庫、2008年)はこの分野で筆頭に挙げるべき古典的著作だろう(なお、この文春文庫版には、表題作とその続編である『サンダカンの墓』の両方が収録されている)。日本に戻り、孤独と貧窮の中で暮らす元「からゆきさん」のおさきさん。この老婆としばし共同生活を送りながら、ほとんど肉親に近い情を通わせつつ聞き書きした記録を読んでいると、単に歴史の証言というばかりでなく、その肉声の生々しさに何とも言いがたい気持ちになってくる。森崎和江『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)も、たとえば若い頃のあまりに無残な記憶をひきずって時にフラッシュバックで狂気に駆られてしまう老女を見つめるときの静かな眼差しに、詩的な、しかし抑えたやさしさが感じられて、とても魅力的な作品だと思う。

 日本の外交当局は海外における日本人娼婦廃絶に動き出すが、それは彼女たちを思ってのことではなかった。醜業につく日本人女性の存在は国家的威信を汚すというのが理由である。シンガポールなど西洋人の多い都市以外では徹底されなかったため、辺鄙な地方へ追いやられてますます悲惨な境遇に落ち込んでしまった女性たちもいた。そうした事情で孤独な人生を送ってきた女性への聞き書きが山崎『サンダカンの墓』にある。

 思いあたることがあって、本棚から山室軍平『社会廓清論』(中公文庫、1977年)を引っ張り出した。本書でも「海外醜業婦」に1章が割かれている。救世軍のリーダーとして廃娼運動に尽力した山室だが、その動機は無論ヒューマニスティックなものであることに疑いはないけれども、「日本国民の恥」という表現をしているのが気にかかった。

 『サンダカン八番娼館』のおさきさんは、見知らぬ女性が転がり込んできても、彼女の事情を一切詮索しない。人それぞれに都合がある、話したければ自分から話すだろうし、話したくないならそれなりのわけがあるのだろう、と言う。彼女自身がつらい思いを重ねてきたからこそ自然とにじみ出てくるやさしさ、それが読んでいて、山崎ならずとも胸が衝かれる思いがする。『からゆきさん』に出てくるおヨシさんは、きつい境遇の中にあっても刻苦勉励して、自分で事業を起こし、財をなす。成功者、のはずだが、結局彼女は自殺してしまう。死後の始末を自分できっちり整えた上で。どんな思いを秘めていたのか、分からない。いずれにせよ、二人ともタイプは全く異なるが、その人なりの強さを持って生きてきたことに頭が下がる。

 同時に、まだ十代のうちに、異国で悲惨な境遇に打ちひしがれて死んでいき、思いを語ることすらかなわなかった少女たちのことも思う。そして、これは過去のことというばかりでなく、ひょっとすると今現在にあっても、この地球上のどこかでそうした過酷さに苦しんでいる人もいるはずだということにも。

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2008年10月27日 (月)

西川満という人

 先日、西川満『ちょぷらん島漂流記』(中公文庫、1986年)という本を古書店で見つけ、珍しく思って買った。“ちょぷらん”というのは、秀姑巒の訛音。秀姑巒渓という川が台湾の花蓮県南部を流れているが、江戸時代後期、その河口あたりに漂着した日本人船乗りを主人公とする冒険譚。旧台湾総督府図書館所蔵の「享和三年癸亥漂流台湾チョプラン島之記」写本に基づき、原住民アミ族の習俗を織り込みながら空想を広げている。面白いかと言われれば微妙で、まあ、物珍しさで読んだというところ。セオリー通りにエキゾティシズムぷんぷんという感じ。

 西川満という人は、日本統治期の台湾を考える上で逸することのできないキーパーソンの一人だろう。1908年生まれ、台北一中を経て、西條八十に憧れて早稲田大学仏文科に入学。卒業後、恩師の一人である吉江喬松から「地方主義文学に一生をささげろ」と言われて、台湾に戻る。彼の父親は昭和炭鉱という会社の社長で台北市会議員も務める裕福な名士。そうした金銭的には不自由しない立場をいかして、出版社を経営したり、『文芸台湾』を創刊したほか、自らも多くの作品を発表、台湾における文芸運動をリードした。

 彼の基本的な態度は、美しい作品、読んで面白い作品を書こうというところにあり、本土の文壇に負けないものを台湾から発信していこうという意気込みを持っていた。それは、台湾という植民地の異国情緒をことさらに強調する傾向につながった。だが、これを裏返すと、台湾自体が当面する問題を文学として取り上げる契機がなかったとも言える。こうした西川のスタンスに在台湾の日本人作家・台湾人作家から反発の声があがり(文学上の方針ばかりでなく、西川個人への反発も強かったらしい)、張文環らが『台湾文学』を創刊、こちらはリアリズムを標榜する。なお、西川の『文芸台湾』が川端康成・横光利一など文壇の名士を名誉会員にそろえる一方で、『台湾文学』もやはり中央のプロレタリア文学運動と結びつきを示したあたり、植民地体制下において中央─辺境という構図を脱することの難しさが見て取れる。

 戦後、西川はどのように評価されているか。たとえエキゾティシズムが目的であったとしても台湾の歴史や民話の掘り起こしに努めたこと、たとえ御用文学的な傾向があったとしても台湾在住の作家たちに執筆の場を広く提供したこと、こうした点は肯定的に受け止めることができる。さらにもう一つ、戦後台湾独特な微妙さをはらむ問題がある。西川の台湾への愛着について、台湾ナショナリズムの立場からは“台湾意識”形成に貢献したと肯定的に評価される(たとえば、西川は“美麗島”という表現を好んで使ったが、これは戦後台湾における民主化運動の担い手となった政治雑誌のタイトルと同じである)一方で、中国ナショナリズムの立場からは所詮植民地主義に過ぎないと否定的に捉えられる。戦後台湾における“省籍矛盾”が西川評価にも大きな振幅をもたらしている(以上、フェイ・阮・クリーマン『大日本帝国のクレオール──植民地期台湾の日本語文学』慶應義塾大学出版会、2007年を参照)。

 西川は、1946年に日本へ引き揚げた後も作家活動は続けたが、ほとんど注目を浴びていない。1999年に逝去。

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2008年10月26日 (日)

山崎柄根『鹿野忠雄──台湾に魅せられたナチュラリスト』

山崎柄根『鹿野忠雄──台湾に魅せられたナチュラリスト』(平凡社、1992年)

 先日、ぶらりと立ち寄った古書店で本書を見かけ、鹿野忠雄という人は以前から気にかかっていたので買い求めた。鹿野の名前を初めて知ったのは辻原登「四人の幻視者(ボワイヤン)」というエッセイ(日本経済新聞2006年1月22日朝刊)。小説のモデルになりそうな人物四人を取り上げているのだが、ちょっと面白かったので切り抜いてある。

 鹿野は1906年、東京生まれ。小さい頃から無類の昆虫好き。台湾に採集遠征に出かけた帝大生から昆虫標本を見せられ、原地民の風習の話を聞き、未開拓の熱帯への憧れをつのらせていた。台湾へ行きたい!と念じていたちょうど折りしも、台北に総督府立の高等学校が設立され、一も二もなく彼は台湾へと渡る。

 高等学校生の頃から彼は一人で山地へ分け入り、昆虫採集にいそしみ、そして気軽に原住民の懐に飛び込んでいった。まだ首狩りの風習が残り、台湾総督府の統治が全島にいきわたってはいなかった頃である。タイヤルの若者たちを引き連れて歩いている姿を目撃され、驚かれたという逸話も残っている。タイヤルの少女に恋をして、彼女の写真はいつまでもとっておいたらしい。

 その後、彼は動物学者として身を立てるが、民族学・考古学・地理学と脱領域的な関心の広がりを示した。当時の官学アカデミズムにおける縄張り意識の中では立場が悪くなってしまったようだが、渋沢敬三をはじめ鹿野の行動力を認めた人々の庇護で調査を続け、彼の業績は世界的にも認められるようになった。

 1941年、太平洋戦争勃発。陸軍の命令で嘱託としてフィリピンへと渡り、マニラの博物館の保全に尽力。日本の敗色が濃くなりつつある1945年、助手を連れて北ボルネオの山地へと入るが、そのまま消息を絶った。台湾にいた時から原住民社会に溶け込むことができる人だったので、いつかひょっこり姿を現わすのではないかとも言われたが、軍律違反で憲兵隊に殺された可能性もあるらしい。まだ38歳という若さであった。

 鹿野忠雄の著作としては、『山と雲と蕃人と―台湾高山紀行』(文遊社、2002年)が復刻されている。なお、鹿野の他にも台湾の魅力に惹かれて飛び込んでいった学者たちがいた。柳本通彦『明治の冒険科学者たち──新天地・台湾にかけた夢』(新潮新書、2005年)でも魅力的な群像が描かれている。

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