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2008年1月20日 - 2008年1月26日

2008年1月26日 (土)

覚書②医療現場での“自己決定”について

(覚書の続きで、医療現場で患者自身の自己決定はできるのかという問題です。)

 ALSの患者にとって、人工呼吸器をつけるかつけないかの選択は、生きるか死ぬかの問いと直結するため、非常に厳しい決断を迫られることになる。もちろん、難病患者にとっての切実さは、他の健康な人の安易な想像を許すようなものではない。しかし、極端なまでの厳しさは、“自分で決める”にはどのポイントが核心として問われるべきなのかを鮮明にするとも言える。そうした意味合いで、単にALS患者の問題であるばかりでなく、他の人々にとっても考えるべき示唆が含まれている。
 
◆インフォームド・コンセント
 医療における意思決定というテーマは、まずインフォームド・コンセントをめぐる問題である。患者がこれから受ける医療行為について十分に納得できるような説明を医師は行わなければならない。こうした考え方は、最近では当たり前のものとなっている。
 インフォームド・コンセントの考え方が初めて明記されたのは、第二次世界大戦直後、1947年に制定されたニュルンベルク倫理綱領である。かつてナチスは、障害者や社会的マイノリティー、戦争捕虜など、弱い立場にある人々に対して組織的に人体実験を行ったが、これに対する反省が込められている。この考えをさらに確認するために、1964年にはヘルシンキ宣言が採択された。
 医学の進歩のためには何らかの形で人体実験も必要となる。しかし、弱い立場の人間に押し付けるのは人道に反する。そこで、人体実験の被験者となる場合には、自発的な同意が必要であることを定めた。言い換えると、マイナスの効果を及ぼす医療行為をされない権利として出発したのであり、当初は治療の現場で選択肢を提示するという患者の主体性に主眼を置いたものではなかった。

◆自己決定権
 近年では、むしろ自己決定権という積極的な側面においてインフォームド・コンセントは話題となる。どのような医療を受けるか、さらには自分の生死に関わる場面でどのような決定を下すか。医師の言うままになるのではなく、自分のことは患者自身が決めるという要求が社会全般から強まった。そのために必要な情報開示としてインフォームド・コンセントは位置づけられるようになった。
 医療技術の進歩によって延命治療が可能となり、身体的自由がきかないまま療養生活を送るケースが多くなった。“スパゲティ症候群”という言葉に象徴されるような延命治療への懐疑が広まったことが背景としてある。つまり、“生きがい”の確保できない生命は「生きるに値しない」という見解を表明する人が多くなったのである。

◆医療現場での問題点
 医療現場においては以下が問題となり得る。
①インフォームド・コンセントの考え方にそって十分な運用がされているのか。
 たとえば、医師の側の態度として、患者が理解したかどうかは顧慮せず医師は一方的に説明をする。とにかく説明はしたんだから、あとは患者の問題だ。そうした態度で、何か問題が起こったとしても、これは患者の自己決定よるものだとして責任を押し付けてしまうのを正当化する口実にもなりかねない。
②生死のぎりぎりの場面でどこまで自己決定があり得るのか。
 インフォームド・コンセントでは、自分にまつわることは他人頼みにはせず、すべて自分で取り仕切るという人生観が前提となっており、納得して決定を下すために十分な情報を医師は提供すべきことが要求される。つまり、個人主義的な色彩の強い「自律」という観念が出発点になっていると言える。
 従来、日本は家族共同体的で他者への依存傾向が強く、医療現場においては医師という権威者に対してパターナリスティックな人間関係が色濃いと言われてきた。日本が国際化する上ではこの「自律」の観念を受け容れなければならないという議論が様々な分野でなされ、そうした動向の一環としてインフォームド・コンセントの話題も位置づけられた。また、実際に「自律」の観点からインフォームド・コンセントをうまく活用している人も多い。
 しかし、以下の問題もある。第一に、文化風土から規定された思惟形式は一朝一夕には変わらない。したがって、自己決定の重さに耐えられない人も多い。ビジネスの現場では「自律」的な人生態度を取ってきた人であっても、いざ生死に関わる究極の場面にぶつかると、それまでの人生態度を貫き通せないこともある。第二に、「自律」というのはあくまでも理論上のフィクションに過ぎず、実際には欧米であっても「自律」に耐え切れないケースが多いという指摘がある。個人主義的な傾向の強いアメリカ社会でも心理カウンセラーにかかる人が多いのはその証拠であって、アメリカでも自律的人間モデルに耐えられるのか疑問も投げかけられている(たとえば、コフート)

◆苦痛の緩和
 真に問題となるのは何か。個々のケースに応じて違うだろう。
 まず、苦痛の問題。あまりに激しい痛みに耐え切れない場合。第一に、苦痛を和らげる処置が、結果として縮命につながる場合。これはやむを得ないと考える人が多い。第二に、苦痛回避のために意図的に死を選ぶ場合。積極的安楽死。道義上、刑法上の問題となる。

◆精神面での耐え難さ
 ただし、医療技術の進歩により、苦痛そのものを和らげることは可能となりつつある。そのため、「安楽死」という言葉には苦痛回避という意味合いが強いが、かわって「尊厳死」という表現が用いられるようになっている。
 苦痛そのものよりも、気持ちの取り方をどのように考えるかが次の問題となる。第一に、意識はあるのに身体的に動けない場合の精神面での耐え難さ。第二に、他人に依存した生活を送らざるを得ない場合のプライドの傷つき。こうした精神面での耐え難さから死を選ぶ傾向が強まってきた。

◆純粋な決定はあり得るのか
 ここで問題となるのは、患者が鬱状態に陥っている場合である。気分がふさぎこんでしまった時に発する「死んでしまいたい」という言葉は素直に受け取ることはできない。したがって、信頼のある人間関係の中で患者自身の真意を探りとる必要がある。
 一切のノイズを排して純粋に「自分」の「意思」で「決定」するということはあり得るのか、もしあり得るとしたらどのような条件が必要なのか。もしあり得ないなら、どこまでなら妥協できるのか、その妥協する場合に比較の対象となる自己決定の純粋形モデルは一体どのようなものなのか。こうした点を吟味しておく必要がある。しかし、純粋な「自己」なんてものがそもそもあり得えない以上、影響を被るノイズとしての要因をどこまでなら許容できるのかという話になるだろう。

◆決定の際の周囲の態度の取り方
 欧米では「自律」の考え方が確立されているのに対して日本では遅れているという文化論的な話題がよく見られる(「近代的個」の確立を主張した丸山真男政治学をはじめとしてあらゆる分野で)。医療における自己決定というテーマにおいても、この話題が議論の中心テーマの一つとなる。しかし、この考え方がそのまま通ずるのであろうか。
 たとえば、欧米における尊厳死のイメージを見ると、家族や友人達と囲まれる中で死を迎えることが強調されている。それが日本で報道されると、本人の決定を周囲が暖かく受け止めたという筋立てになる。
 だが、別の見方をすれば、家族や友人など信頼のある人間関係の中で長い時間をかけながら考え抜くというプロセスがあったからこそ、決定を下すことができたと言えるのではないか。つまり、アトム的に孤絶した「個」という立場で判断したのではなく、周囲からの様々な反応も見ながら、自身も周囲も納得できる形で最終的な決断が下されている。言い換えると、ノイズを排除した自己決定の純粋モデルなどはあり得ない。
 そこで、次に焦点が絞られるのは、周囲からの反応の取り込み方、決定に際してのコミュニケーションのとり方をどのようにすればいいのかという問題である。それは、「サポート」という性格のものではない。決定しやすい条件整備をするにしても、どんな条件があり得るのか分からないし、下手すると周囲から外堀を埋めることで不本意な方向に患者本人を追い詰めることにもなりかねない。また、本人に一人で考える負荷を必要以上に大きくしてしまう。
 そうではなく、周囲の人々それぞれとの個別的な関係の中で意思を通じさせる。反対の意見があるなら正直に反対してもらう。そうした意見交換の積み重ねを経て、周囲の人々の本心を見極める、それは本来的にできないことであっても見極めたように自身が納得する、そうした作業が前提として必要となるだろう。つまり、本人の意思を尊重する=本人の意思だけで押し通すということではない。本人の意思だけでなく、周囲の人々と納得した感覚を共有できたときに、本人もまた安心する。
 患者が不安になるのは、近い将来に予想される苦痛や死ばかりではない。仮に介護を受けねばならないとする。家族に負担がかかるが、それを家族はどのように受け止めるだろうか。ひょっとしたら顔では笑っていても、内心いやがっているのではないか。そうした周囲の人々に対する気兼ねが療養生活においても心理的にマイナスの作用を及ぼすことになる。自分の決定を周囲が嫌がると介護において不利益を受けるということではなく、そもそも周囲との関係があってはじめて自分がいるということ。周囲との具体的なあり方は文化によって違うだろうが、何らかの形での関係があることに変わりはない。つまり、関係を考慮しながら決定するのではなく、決定もまたそうした関係性の中の一環として組み込まれているということ。 

◆本人の意思と家族の意思、どちらを優先させるか?
 立岩真也と清水哲郎とで次のような見解の相違がある。
 告知の際、家族と一緒に知らせるか、それともまず本人だけに知らせるか。患者自身にとってのQOLの問題と家族の負担とがぶつかってしまうとき、具体的には経済的コストやケアの肉体的負担、生活上の時間拘束によるストレスなどが考えられる場合にどうするのか?という問題につながる。
 清水は、患者本人と家族との共同決定が望ましいという見解。立岩は、それだと家族に遠慮して本人のQOLが犠牲にされるおそれがあるから、まず本人の意思に即して、という主張。本来ならば清水の見解が妥当だろう。一方、立岩の批判には、共同決定というベールの下、家族への遠慮などで本人が言いたいことを言えない立場にあったとき、本人の意思が犠牲にされてしまうことへの懸念があり、なかなか難しい。

【参考文献】
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学』勁草書房、1997
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学2 ことばに与る私たち』勁草書房、2000
・立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院、2004
・『思想』2005年8月号、特集「医療における意思決定」岩波書店。
・水野肇『インフォームド・コンセント─医療現場における説明と同意』中公新書、1990
・森岡恭彦『インフォームド・コンセント』NHKブックス、1994
・星野一正『インフォームド・コンセント─患者が納得し同意する診療』丸善、2003

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2008年1月25日 (金)

覚書①ALSについて

(パソコン内の文書を整理していたら、ALSという難病について3年ほど前に書いたメモが出てきたので掲載します。内容的に若干古くなっているかもしれませんし、私の誤解もあるかもしれませんので、間違いがありましたらご指摘ください。)

1.相模原事件

◆事件の経過
 介護に疲れた母親(60歳、以下H)が、ALS患者である長男(当時40歳、以下S)の人工呼吸器を止めて窒息死させ、本人も自殺を図るという事件があった。
 事件が起こったのは神奈川県相模原市。長男は2000年にALSを発症。01年3月にALSと診断された。病状の進行は早く、診断の2週間後には気管切開を行って人工呼吸器を装着。同年8月に退院して在宅療養を開始。03年3月からホームページを開設して患者同士の情報交換も行っていたが、04年4月頃からパソコンが使いづらくなり、意思伝達は文字盤に頼るようになった。Sは人工呼吸器をつけたことを後悔。次第に「呼吸器を外して」「死にたい」などの意思を示し始めたが、Hは訪問看護師やかかりつけ医と共に懸命にケアを続けていた。そうした中、04年8月26日深夜、HはSにつけられた人工呼吸器のスイッチを停止した。Sは窒息死。Hは自殺を図ったが、明け方になって夫が変事に気付き、一命をとりとめた。
 同年9月22日、Hは刑法199条による殺人罪として横浜地方裁判所に起訴された。翌05年2月14日に判決。「長男の日ごろの懇願を受け入れて呼吸器を停止させた」として、被告側の主張通りに法定刑の軽い嘱託殺人罪(刑法202条)を適用。懲役三年、執行猶予五年(求刑懲役五年)が言い渡された。検察側は控訴せず、判決は確定した。介護者がALS患者の呼吸器を止める行為に関して司法判断が示されたのはこれが初めてである。
(以上、日本ALS協会のHPを参照しながら要約)

◆本事件からうかがえる問題点
(患者本人が抱えた問題)

・運動機能の萎縮により、会話はおろか、パソコンを使ったコミュニケーションも物理的に困難となっていた。体は全くきかないのに意識だけは鮮明という、いわゆるロックトイン(locked-in)の状態に陥りつつあったため、絶望感の強かったことが想像される。
・ALS患者は、いずれ呼吸器の運動機能も失われるため、ある時点で人工呼吸器を装着するか、それとも自然死を迎えるか、という判断を迫られる。装着すれば延命は可能。ただし、一度装着すると取り外しはできない。本事件の場合、病状の進行が早かったため、S本人が気管切開・人工呼吸器装着について納得の上で判断する余裕がなかった。

(介護者側が抱えた問題)
・患者の運動機能が限りなくゼロに近づいて最終的には眼球の微妙な動きまでなくなるため、彼は生きているのに、気持ちの上でつながれないというもどかしさがあった。
・窒息死を防ぐために30分から1時間おきに痰を吸引するなど、24時間態勢での介護が必要となる。医療費負担の減免、ヘルパーの派遣などの支援はあるが、やはり家族の負担が重い。
・本事件の場合、介護は家族だけで背負ってしまい、孤立した状況にあった。行政を中心とした地域の支援体制が必要だ、という指摘がある。

2.ALSの概略

 ALSとはAmyotrophic Lateral Sclerosisの略語であり、日本の医学用語としては「筋萎縮性側索硬化症」と訳されている。通称、アミトロ。運動神経だけが選択的に侵されて筋肉が萎縮してしまう進行性の難病である。ベストセラー『モリー先生との火曜日』が有名だが、他にも往年の大リーガー・ゲーリックや宇宙物理学者ホーキング博士を思い浮かべる人もいるだろう。
 症状を大雑把に言うと、①運動障害、②コミュニケーション障害、③嚥下障害、④呼吸障害、の4点にまとめられる。感覚神経や頭脳に影響はない。つまり、意識ははっきりしているにもかかわらず、身体的運動機能が失われる。それも一時で失うのではない。まず、手足の自由がきかなくなることから症状が自覚される。その後も病状の進行につれて、舌や咽喉部の麻痺により会話や食事ができなくなり、さらには肺機能が麻痺して呼吸困難に陥る。こうしたプロセスを、ゆっくりと、しかし確実に、時間をかけてたどることとなる。失いゆくものの手ごたえを一つずつ実感し、かつ回復する見込みはないため、精神的なストレスが著しく、病の受容が難しい。
 ALSそのもので死ぬわけではない。しかし、呼吸器の故障や舌が垂れ下がってのどを詰まらせたことによる窒息死、体力の衰弱に伴う肺炎などの合併症で死に至る。
 10万人のうち1人の割合で発症するといわれている。この割合は世界的にも一律であり、地域差や人種差は認められない。発症後数年で死ぬ場合もあれば、進行の遅い場合、進行が止まってしまう場合もあり、患者によって異なる。年齢・性別を問わず発症例があるが、特に40代・50代に多く発症し、男女比率は約2:1で男性に多い。
 原因については諸説あるが解明されていない。遺伝性のケースも約1割前後あるようだがよく分かっていない。治療方法も不明であり、身体的機能の喪失をいかに遅らせるかに主眼を置いて療養生活を送ることとなる。
 呼吸器の普及や介護技術の向上、栄養状態の改善により、ALS患者は長生きするようになったが、病状の進行を止めることはできない。意識はあっても一切のコミュニケーション手段を失ってしまったいわゆる“閉じ込め”状態、TLS(Totally Locked-in State)に陥った人は日本全国で120人前後(ALS患者全体の約15%)いると言われている。

3.人工呼吸器

(装着の問題)
 最終的には、横隔膜などの筋肉の萎縮により、呼吸器の機能が停止してしまう。そこで、人工呼吸器を装着するかどうかの選択を迫られる。装着しない場合は、そのまま死を迎えることになる。
 装着を選んだ場合には、気管切開して管を通し、人工呼吸器につなぐ。この時、①自分の声を失う。②喉を切開されることに対するイメージとしての抵抗感。③いったん装着してしまうと取り外しはできない、などが問題となる。
 いったん人工呼吸器を装着したら、なぜ取り外しはできないのか? 呼吸器をつけないのは、あくまでも「しない」ことである。自然の経過に委ねることなのだから、その結果死に至ったとしても責任は誰にも問われない。ところが、呼吸器を外すのは意図して「する」ことである。その行為の結果として死に至るであろうことが事前に分かっている以上、殺人、自殺幇助、積極的安楽死など刑法上の問題として責任の所在が問われることとなる。前掲の相模原事件で呼吸器を停止させた母親は殺人罪で起訴され、情状酌量の結果、嘱託殺人罪(つまり、自殺幇助)で判決が下されている。

(自己決定の問題)
 呼吸器装着の決断は、問題の不可逆的な性質から、ぎりぎりの時期まで先延ばしされることが多い。土壇場であっても自分の判断として装着したのならば構わない。しかし、逡巡していると、そのぎりぎりの一線を越えてしまって後悔する事態を招いてしまう。具体的には、呼吸困難に陥って救急車で運ばれ、意識不明になったまま人工呼吸器を装着、延命療養に入ってしまうケースだ。呼吸器装着者の42%はこうした緊急時対応のため主に医師の判断によっている(日本ALS協会調査)。この場合、装着の決断に本人の意思は反映されていない。自らの意思に反して“無理やり生き延びさせられた”と悔恨や怒りの感情を抱き、家族を責め続けるという不幸なケースもある。
 仮に呼吸器装着の判断を“自分の意思”に基づいて表明したとしても問題は残る。家族に迷惑をかけることへの後ろめたさから、本当は生きたいにもかかわらず延命拒否する場合がある。逆に、静かに死を受け容れたいと思っていても、家族の悲しみに後ろ髪が引かれ、不本意ながらも言葉の表現としては“自分の意思”で呼吸器装着を選ぶこともある。この場合、装着後の生活がつらくて後悔しても、形式上は“自分の意思”で選んだことなのだから文句は言えない。つらさと後悔が内攻して精神的な葛藤がマイナス方向に振れてしまう。家族としては献身的に介護しているのにどうして認めてくれないのか分からない。患者と家族との不幸なすれ違い。こうした心理的な機微には、機械的な自己決定論で割り切れない難しさがある。
 QOL重視の立場から、ALS患者の人工呼吸器に関しては取り外し可能な方向で法制化を進めればいいのではないか。そうすれば、呼吸器装着の選択にも気持ちの余裕が生まれるのではないか、という指摘もある。これは当然ながら尊厳死をめぐる議論に直結する。たとえば次の場合を考えてみよう。その患者が、自分の介護によって周囲の人々に迷惑をかけているという自覚を持っている、あるいは経済的コスト面での不安がある、とする。周囲からは明示的に言わなくとも、そうした雰囲気そのものが暗黙の圧力となり、本人の気持ちを呼吸器取り外しの方向へと誘導してしまうおそれが出てくる。つまり、介護してくれる周辺、具体的には家族への気兼ねが必ず判断の足かせとなる。ここでも安易に自己決定論で割り切ることのできない問題をはらんでいる。
 日本のALS患者のうち人工呼吸器装着者の割合は、厚労省調査では25%、日本ALS協会調査では40%とされる。ただし、医療機関によって数字は大きく上下し、個々の担当する医師の考え方によって患者の意思決定のあり方も左右されているのではないかとも想像される。
 なお、欧米では呼吸器装着よりも尊厳死を選ぶ傾向が強い。たとえば、『モリー先生との火曜日』のモリー・シュワルツもそうした一人である。

(拡張する生)
 人工呼吸器を着けることについては、寝たきりの身体に医療機器のチューブが張り巡らされた状態、いわゆる“スパゲティー症候群”を思い起こさせ、イメージとして受け容れがたい側面がある。
 しかし、人工呼吸器を緊急避難的なやむを得ない手段として消極的に捉える意見ばかりではない。たとえば、ALS患者の母親の介護を経験した川口有美子は、ノーバート・ウィナーの「人体の構造の柔軟性は人間の知能のほとんど無限の拡張を可能にするものである」という指摘を引用しながら、機械的手段を人間の肉体的機能と接合、さらには融合させることは、むしろ生命活動の拡張であるとして積極的に肯定している(川口「人工呼吸器の人間的利用」『現代思想』2004年11月号)。
 人工呼吸器をはじめとする機械的手段の機能面に注目すれば、ALSという病の暗い側面ばかりでなく、生命科学や機械工学の知見を踏まえて生命観・身体観を根本から問い直す新たな議論へと結びつける可能性も十分にある。

4.在宅療養

 ALS患者は全国で約6800人いる。そのうち8割が在宅療養をしている。住み慣れた場所がいい、という理由もあるが、長期入院を受け容れてくれる施設が少ないという背景も見逃すことはできない。病院側としては、治る見込みのない患者を病室に入れておくことは経営効率上望ましくないという事情がある。
 在宅療養を行う場合には、窒息死を防ぐために30分から1時間おきにたんを吸引する、呼吸器が外れていないかチェックするなど、24時間態勢での介護が必要となる。医療費負担の減免、ヘルパーの派遣などの支援はあるにしても、やはり介護の主体となる家族の負担は重い。
 医療費そのものについては、特定疾患研究治療事業の対象としてほとんどを公費負担(国と都道府県がそれぞれ2分の1)としてまかなえる。ただし、実際に介護の担い手となるのは家族であり、しかもフルタイムによる介護者が最低一人以上必要となるため、医療費以外の生活面での余裕がないと困難な場合も考えられる。

(たん吸引)
 前述のように、ALS患者に対しては窒息死を防ぐためにたん吸引を行う必要がある。これは比較的高度な技量を要するケアなので医療行為にあたるとされ、医師や看護師が行わねばならない。しかし、実際には人手不足であるため難しい。自動吸引装置も現在のところ開発されていない。そこで、介護者である家族がたん吸引を行っている。
 医師以外の者が医療行為を行うことは本来ならば違法行為であり、違反者は医師法により3年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金、保健師助産師看護師法により2年以下の懲役もしくは50万円以下の罰金に処される。つまり、医療資格保有者以外がALS患者のたん吸引を行うと罪を問われる可能性がある。
 ただ、厚生労働省は、インシュリンの自己注射を例にとって家族が医療行為を行う場合についての法的な考え方を整理している。実質的には違法なのだが、
①患者の治療目的のために行う(目的の正当性)
②十分な患者教育及び家族教育を行った上で、適切な指導及び管理のもとに行われる(手段の正当性)
③自己注射と通院との患者の負担解消との比較衡量(法益衡量)
④侵襲性が比較的低い行為であること(法益侵害の相対的軽微性)
⑤医師がインシュリン注射の必要性を判断(必要性・緊急性)
以上の5要件を満たしていれば構わないとされている。これは、法的に認められるということではなく、緊急処置的に黙認するというグレーゾーンとして当面の問題は先送りするということである。いずれにせよ、ALS患者に対して家族がたん吸引を行うケースでも、以上の考え方を準用して違法性は阻却されるという。つまり、「本当は違法なのだが、現実問題としてやむを得ないから黙認しますよ」という論理でかろうじて容認されている。
 ところで、ALS患者に対しては30分から1時間おきにたん吸引を行う必要があるため、24時間フルタイムで介護にあたらねばならない。家族の負担が重いため、ホームヘルパーや介護福祉士など家族以外の第三者にもたん吸引を代わってもらえるようにできないか、という要望が強い。しかし、たん吸引という医療行為可能な範囲を家族以外にまで広げることについては異論がある。例外的であってもヘルパー等に医療行為を認めるきっかけとなり得るため、技量水準への懸念だけでなく、国家資格制度に関わる問題としての風当たりも強い。
 2003年、厚生労働省に「看護師等によるALS患者の在宅療養支援に関する分科会」が設置され、最終報告書では家族以外の者によるたん吸引について次のような条件が示された。
①吸引はカニューレ(気管切開後に挿入された管)内部のみとする。
②吸引はヘルパーの業務としない。
③ヘルパーと利用者との個人的な契約で文書によって同意を取り交わし、事業者の責任は問われない。
④在宅療養中のALS患者に限定。
⑤医師と看護師の指導を受ける。
以上の条件の下でヘルパーによるたん吸引を当面は認め、制度的な検討は先送りされた(川口有美子「人工呼吸器の人間的利用」『現代思想』2004年11月号を参照)。
 本来は医師法違反だが、当面は仕方ないから黙認するという論理が継続されている点では家族による吸引行為の位置づけと同じである。しかし、ヘルパーは家族以外の第三者であり、もし事故が起こった場合には訴えられるケースが考えられる。法的根拠の埒外にある以上、ヘルパーを守りきれないためALS患者介護に躊躇する福祉事業所もある。

5.QOL

(WHOによるQOLの定義)
 「文化や価値観により規定され、その個人の目標、期待、基準および心配事に関連づけられた、生活状況に関する個人個人の知覚であり、その人の身体的健康、心理状態、依存性レベル、社会関係、個人的信条、および周りの環境の特徴とそれらとの関係性を複雑に含んだ広い範囲の概念である。この定義はQOLが文化的、社会的、環境的な文脈に組み込まれた個人の主観的な評価として参照されるものであるという観点を反映している。単に“健康状態”、“生活様式”、“生活の満足”、“精神状態”、と等価ではなく、それら以外の生活側面をも含む多元的概念」(中島孝訳)
 ALSのような難病については、疾病自体を治療して症状の改善を目指すことは現時点では困難である。診断・告知の時点から緩和ケアが始まっているものと考え、心理的サポートを含めた総合的な神経難病リハビリテーションの臨床的な有効性を検討する必要がある。

6.告知

 医師は、診断を告げるだけでなく、積極的にセカンドオピニオンの診断を受けるよう配慮することが重要である。
 告知に際しては次のことに配慮すべきである。
①告知は最初から患者と家族に同時に行う。家族に最初に話すと、家族が患者に知らせなかったり、医師が患者本人に告知するのを妨げるように働く場合もあり、そのため本人への告知が遅れるようなことがあってはならない。
②最初に話すべきことは何か。緩徐進行性であること、治らない疾患であることを正しく認識させることが重要。将来出現する症状について具体的に説明する必要あり。運動、コミュニケーション、嚥下、呼吸それぞれの障害について。なるべく早期に、症状に合わせて段階的に告知すること。
③コミュニケーション障害により患者のQOLは大きく左右される。そこで、パソコンを早期に習得させ、将来の機能低下によるコミュニケーション不全に備えておく必要あり。
④嚥下障害については、経鼻経管栄養や胃ろうの説明が必要。
⑤呼吸障害については、特に人工呼吸器装着の意味を理解させること。延命についてだけでなく、将来の病態の予想や、呼吸器の取り外しは不可能である点について説明。人工呼吸器を使って社会参加を積極的に行っている患者も増えていることを伝えると同時に、病院の一角で天井だけを見つめる生活が耐えがたくて後悔する人がいることも伝える。現在の医療環境では、年単位での療養可能な病院は限られており、在宅療養を選択せざるを得ない。在宅療養の場合、常に介護者(多くは家族)が必要なこと、介護保険を含めて利用できる福祉サービスについても説明すること。いずれも、本人の強い意志と家庭的、医療的、経済的、社会的環境を整えることが不可欠であることを伝える。専門医ばかりでなく、医療機関、看護師、ソーシャルワーカー、患者会、ボランティアなどと連携して医療チームを組んでサポートしながら告知することが望ましい。
(以上、日本神経学会ホームページを参照)

7.安楽死をめぐる議論

 ALS患者の安楽死については、人工呼吸器装着前と装着後との2つの時点に分けて考える必要がある。装着前には、衰え行く身体機能に見切りをつけて安楽死を選ぶことの是非が問われる。装着後では、人工呼吸器のスイッチを切ることの是非が問われる。
 日本ではいずれも違法行為となる。装着前の安楽死については当然ながら認められない。ただ、装着後については、前掲の相模原事件のような事態も起こっており、議論を煮詰めておく必要はある。
欧米ではALS患者の安楽死について積極的な議論が進められている。
 アメリカの事例。自殺装置を開発したことで有名なキボキアン医師の事件。男性のALS患者を致死薬の注射により殺害したとして第二級殺人罪並びに統制薬品の使用の罪により起訴されていたキボキアン医師に有罪判決が出された。患者の麻痺が進行しており、患者自身の手によるマーシトロン(自殺装置)の作動や致死量の薬の服用が不可能だったため、本人にかわってキボキアン医師が投与した。対世間的に問題提起を図るため、医師はその場面をビデオで撮影しておき、後にCBSで放映された。なお、キボキアン医師の自殺幇助した事例47人中、ALS患者は9人であった。
 カナダの事例。あるALS患者が、身体的な麻痺により自殺しようにもそれだけの体力がないため医師に自殺幇助してもらう権利を認めて欲しい、という訴えをおこした。1993年9/30、最高裁判所では9人の裁判官中5:4で否決された。
 このカナダの事例と同様な論争を巻き起こしたのが次に掲げるイギリスの事例。あるALS患者が自身の尊厳を守るための安楽死の権利を主張。ただし、身体的に麻痺が進行しているため自殺することができない。夫の手助けが必要であり、自殺幇助をしたとしてもその罪を問わないよう公訴局に訴えた。しかし、公訴局は却下、もし自殺幇助をした場合には起訴するとの姿勢を明らかにした。患者側は、これは人権保護法違反であるとして高等法院に訴えた。その後、患者は自殺幇助を受けることなく死去。
 オランダでは、1994~99年に死亡したALS患者で医師が調査に応じた203例のうち、35例(17%)が安楽死を選択。6例(3%)が医師による自殺幇助で死亡した。宗教を重要と考えていた患者は、そうでない患者に比べて、安楽死もしくは医師による自殺幇助の割合が低かった。また、これらの選択をした患者としなかった患者とを比べて、収入や教育水準との関係は認められなかった。これらの選択をした患者は、しなかった患者と比べて、障害の程度は重度であった。
 なお、オランダで安楽死を選んだALS患者についてのドキュメンタリー番組「依頼された死」が1994年11/16にTBSで放映された。ALS患者から「自分も死にたい」という反響があった一方、介護を懸命に続けていた家族からは「自分たちの努力はいったい何なのだろう」とむなしさを訴える声も寄せられた。オランダでは100年以上もの時間をかけて安楽死についての議論を積み重ね、国内的なコンセンサスを得るために努力がなされてきた。しかし、この番組ではそうした背景を紹介せず、単に「難病患者が死を選んだ」という一面的な捉え方がされかねない作り方であったことには批判がある。オランダのいわゆる「安楽死法」、(正式には埋葬法改正法)に関しても日本では印象論的に受け止められる傾向があり、正確な理解を促す必要があろう。
 いずれにせよ、死生観をめぐる文化的土壌の違いも当然ながら考えねばならない。日本での動向をみる場合には、日本尊厳死協会や超党派の国会議員グループが進めている「尊厳死法案」についての議論も考慮する必要がある。

8.難病患者の社会参加

 体を動かすことのできない人々を社会的にどのように位置づけ、受け容れるのか。これは、ALS患者を治療の対象としてではなく“病を抱えながら生き続ける人”と捉える点では、障害者の社会参加とテーマは共通する。ただし、身体的な運動機能がゼロに近づきつつあるという場合にどのような社会参加の形があり得るか、模索する必要がある。

【主要参考文献・HP】
・立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院、2004
・植竹日奈・他『「人工呼吸器をつけますか?」 ALS・告知・選択』メディカ出版、2004
・清水哲郎『医療現場に臨む哲学』勁草書房、1997
・『現代思想』2004年11月号、特集「生存の争い」青土社
・『思想』2005年8月号、特集「医療における意思決定」岩波書店
・日本ALS協会ホームページ
・神経難病情報サービス(国立療養所神経難病研究グループのホームページ)
・難病情報センター((財)難病医学研究財団のホームページ)
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2008年1月24日 (木)

ジグムント・バウマン『コミュニティ──安全と自由の戦場』

ジグムント・バウマン(奥井智之訳)『コミュニティ──安全と自由の戦場』(筑摩書房、2008年)

 覆水盆にかえらず、という言い方が適切かどうか分からないが、いったん崩れてしまったら二度と取り返しのつかないものがある。たとえば、“コミュニティ”といわれる人間関係がそうだろう。感覚的に自明なものは議論の対象とはなり得ない。語られた時点で、もはやそれは存在しない。もちろん想像することはできるが、再現的に組み立てたところで、まったくの別物になり下がる。“コミュニティ”の再構築を試みたとしても、それは本来、自発的な帰属意識を意味していたにも拘わらず、不自然な強制を伴うという矛盾を必ずはらんでしまう。私自身はコミュニタリアニズムにどちらかというと好意的だが、このアポリアはどうにもならない。

 ここしばらく、個人化、民営化、規制緩和といった言葉は日本でも当たり前になってきた。“近代化”という社会的動向の最大の特徴は、政治的・経済的・思想的に個人を括り付けてきた束縛を解きほぐすことにある。その果てには、経済効率性の向上による豊かさなり、自律的個人が対等に睦みあうユートピアなり、何らかの究極目標が了解されていた。しかしながら、「解放のために制限を打ち破るという、すぐれて近代的な情熱によって絶えず突き動かされながら、わたしたちはもはや、最終的な意図や目的についての明確なヴィジョンをもってはいないのである」(本書、106ページ)。ヴィジョンの明確だった“近代”を“solid modernity=堅固な近代”とするなら、ヴィジョンの不明瞭な現段階における“近代”をバウマンは“liquid modernity=液状的な近代”と呼ぶ(バウマン『リキッド・モダニティ──液状化する社会』森田典正訳、大月書店、2001年→参照)。

 リキッドな社会において、個人レベルでの自由は格段に広がったように見える。しかし、“自由”は常に逆説をはらむ。“自由”な個人としての力を行使できるのはほんの一握りの人々に限定される(“事実上の個人”)。多くの人々は生物的に人間であるという一点において“自由”の可能性を持つとみなされるが、実際には困難である(“権利上の個人”)。成功者は容易に国境を越えてコスモポリタンと呼ばれるが、実際には他国の同様の人々と付き合っているだけで、意外と人間関係は閉ざされている。彼らは自分たちの地位を守るため“ゲーティド・シティ”に象徴されるような壁を周囲にめぐらす。他方、貧困層・難民など経済生産性の剥奪された人々は成功者の眼に触れない所に追いやられ、“ゲットー”に押し込められる(バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』中島道男訳、昭和堂、2007年→参照)。“グローバリゼーション”という美しい響きとは裏腹に、それぞれ閉ざされた空間が並存することになる。

 理念としての“自由”と実際の“自由”との間には大きなギャップがある。成功者は自身の努力によって独立独歩でやっていると思っていても、その実、親の世代からの恩恵を受けているが、「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくこと」で自分たちの特権的地位を正当化する。“自由”な社会では機会の均等が大前提だが、実際には“見えない格差”によって競争以前の選別が生じている。経済的にだけではなく生活環境も含めて親から有形無形の遺産を受けついでいるにも拘わらず受験=実力本位というフィルタリングを通して事実上の機会不均等が覆い隠されているという佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000年→参照)の指摘を思い出す。すべては自分の力なのだからエリートは“ノブレス・オブリージュ”の弁えを欠き、すべては自分のせいなのだから貧困層はじっと耐えるよう迫られる。バウマンがしばしばウルリヒ・ベックから引用するように「人は伝記的な解決を求められる」。こうして社会的な分断は正当化され、拡大・固定化する。

 “コミュニティ”への帰属意識が共有されておれば相互扶助の可能性は保てるが、それを崩してきたのが他ならぬ“近代”であった。個人を取り巻く不安定な波に巻き込まれていることに気付いても、一人の努力ではどうにもならない。関係性の回復を求め、“コミュニティ”を再評価する動きが始まるのも当然である。しかしながら、「現実にある個人の弱さやもろさを、コミュニティの(想像上の)潜在力に作り替えることで、保守的なイデオロギーや排他主義的な語用論が生み出される」(本書、138ページ)。もはや失われてしまった共同性を復活させようとしても、外への排外主義、内なる個人への抑圧というまた別種の問題が生じ得る。アイデンティティ・ポリティクスの陥穽がぽっかりと開いており、“コミュニティ”への忠誠心を利用して一定の政治目的に人々を動員操作する可能性が現われることにバウマンは注意を促している。

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2008年1月23日 (水)

新井一二三『中国語はおもしろい』

新井一二三『中国語はおもしろい』(講談社現代新書、2004年)

 先日、台北でぶらぶらと書店を歩き回っていたら、新井一二三という人の本が平積みされているのをよく見かけた。タイトルからすると日本文化論、東京論といった感じ。訳者名は併記されていなかったから中国語で書かれたのだろう。その時はとりたてて気に留めなかったのだが、帰国してから調べたら本書があるのを知った。経歴をみると、香港・台湾など中国語圏で文章を発表しているジャーナリストのようだ。

 語学の入門書的な本というのは、分かりやすく書かれてはいてもどこか無味乾燥になってしまうのは否めない。本書の場合、中国語圏の概略から生活事情まで著者自身の体験談を織り交ぜて語るうちに、さらりと発音や文法、中国語の勉強法に触れてくれるので呑み込みやすい。「通じないからこそ通じる」という逆説が面白い。“中国語”と一言で言っても上海語、広東語、閩南語、客家語などなど、それぞれに方言どころか別言語と言ってもいいくらいのバリエーションがある。普通話(プートンホア=標準語)をしゃべっても、なまりがあって当たり前。だからこそ、互いに分かり合おうという意志が強く働くから、外国人にとっても参入障壁は低いというのは勇気づけられるじゃないか。なまりを隠そうとする日本人(大阪人は除く)とは言語世界が明らかに違う。普通話─各省ごとの共通語─故郷の方言、という具合に多層的なアイデンティティ構造となっているという指摘も興味深い。

 私は中国語は苦手なくせに、台北でも書店をみつけてはもぐり込んで本をごっそり買い込んでいた。とりわけ、本書の著者がお薦めする誠品書店は私もお気に入り。台湾の書店をうろついていると、村上春樹をはじめ日本の文学作品がおびただしいまでに翻訳され、それが新刊・ベストセラーのコーナーでしっかり売られているのがすぐ目につく。このあいだなど、島田清次郎という大正時代のマイナーな作家の翻訳が新刊で出ていて驚いた。本書の著者が指摘するように日本文化は輸入一辺倒ばかりではなく発信力をきちんと持っていると言える。それと同時に、同じ小説を読めるということはそれだけ感性面での共通性があるという証拠でもあって、その点に私は強く関心を持っている。

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