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2008年9月21日 - 2008年9月27日

2008年9月27日 (土)

木村幹『韓国現代史──大統領たちの栄光と蹉跌』

木村幹『韓国現代史──大統領たちの栄光と蹉跌』(中公新書、2008年)

 本書は、韓国歴代大統領10人のうち、李承晩、尹潽善、朴正煕、金泳三、金大中、盧武鉉、李明博という7人のキーパーソンに焦点をしぼり、彼らの同時代体験に適宜目配りしながら戦後の韓国政治史を描き出していく。著者の前著『民主化の韓国政治──朴正熙と野党政治家たち 1961~1979』(名古屋大学出版会、2008年→記事参照)では世代によって政治家として活用できるリソースが大きく異なっていたことが分析されていたが、本書はそうした世代の移り変わりを意識した人物中心のストーリー立てとなっているので興味深く読める。『自民党戦国史』なんてたとえに出すと古臭いかもしれないが、理念的な分析ではなく、人的な離合集散からうかがえる政治力学の分析に専念しているので、政治史として説得力を持つ。

 韓国の政治史においては権威主義体制から民主化への移行が比較的スムーズに進んだ点が大きな特徴であると言えよう。理由としては、第一に、軍事政権側が先手を打って民主化宣言を出したこと。第二に、野党側の分裂(具体的には、金大中と金泳三)により慮泰愚が当選したため、光州事件に関わった一部の勢力が排除された他は温存されたこと。第三に、金大中追い落としのため、金泳三が軍部系の流れを汲む勢力と共に民主自由党を結成するというウルトラCをやってのけたこと。政党政治家として老練な金泳三は民自党内で軍部系の政治家たちを軽く手玉にとって主導権を確保する。つまり、金泳三というトリックスターの権力欲が、図らずも権威主義体制の軟着陸を成功させたとも言えるわけで、これも歴史の狡知と言うべきか。その後、金大中も旧KCIA長官だった金鍾泌と手を組むというやはりウルトラCでもって大統領に当選する。政治史というのは意外などんでん返しがつきもので、それがドラマとして面白い。

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2008年9月26日 (金)

福田恆存「一匹と九十九匹と」

福田恆存「一匹と九十九匹と」(千葉俊二・坪内祐三編『日本近代文学評論選【昭和篇】』岩波文庫、2004年、所収)

 先日、何で読んだのだったか、社会科学が対象とするのは多数であり、一人を対象とするのが文学だ、という趣旨の記述があった。その通りだと思う。そんなことをむかし誰かが書いていたなあ、と喉元まで出かかってわだかまっていたのだが、今週、ふと思い出した。福田恆存「一匹と九十九匹と」だ。

 福田は『新約聖書』「ルカによる福音書」から「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」という一節を引く。彼は正統的なキリスト教解釈とは違うのだろうと自覚しつつも、このイエスの言葉は政治と文学との役割の違いを示したものだと感じ取った。

「…かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか──イエスはさう反問してゐる。…ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかゝづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も──いや、文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。」(347頁)

 福田のこの文章は1947年、まだ敗戦のショックが覚めやらぬ中、当時勢いづいていたプロレタリア文学派の政治性に対する批判として発表された。もちろん、左翼・右翼の別など問題ではない。ある政治目的の下、人的にも動員され、作品内容としても図式化された文学なんて代物では、この失われた一匹を、この人間の救われがたい矛盾を見つめていくことはできない、そうした憤りに衝き動かされていた。

 政治は具体的に目に見える形での解決を求める。物理的・定量的な問題に還元され、目に見えない人間の心情などはすべて無視される。政治の論理にデリカシーなんて期待すべくもない。だから悪い、と決め付けるのも早計だ。現実には、政治でなければ解決できない問題がたくさんある。ただし、

「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。…善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。」「…こゝに「ひとりの罪人」はかれにとつてたんなるひとりではない。かれはこのひとりをとほして全人間をみつめてゐる。善き文学と悪しき文学との別は、この一匹をどこに見いだすかによつてきまるのである。」(347~348頁)

 だいぶ以前のことだが、知人から誘われてホームレスの実態調査というのに一度だけ参加したことがある(頭数を揃えるためで、私など何の役にも立ちませんでしたが…)。「役所にさあ、あんたから何か言ってくれよ」と屈託なく話してくれる人はまだいい。一人、いまだに忘れられない人がいた。まだ40歳にもなっていないのに見た目はかなり老けていた。こちらから色々と話しかけても一問一答に終わってしまい、話の接ぎ穂がなく困ってしまった。それでも、ポツリポツリと語る断片から、すべて自分のせいなのだから仕方がない、という諦めが窺えた。

 衣食住の問題、医療上の問題(内臓疾患等で、見た目は元気そうでも、体のだるさから激しい労働はできない人が多い)、法制度上の問題(たとえば、夜逃げした人には住民票はないし、保証人もいない→就職先が見つからない)など、立てるべき対策はある。財源等がネックとなるが、その調整は政治の問題である。しかし、こういう境遇に落ち込んでしまった自分自身を許せないという自尊心の傷つきにはどのように向き合えばいいのか。それに対して私などまるで無力であるのがショックだった。もし手を差し伸べようとしたら、同情を見せる素振りそのものが彼の傷ついた自尊心にさらに塩を塗りこめることになってしまう。もちろん、カウンセリング等の方法もあるにはあるが、なかなか難しい。究極的には、彼自身が自分の人生をどう捉え返すのかという問題に尽きるのであって、他人に手出しはできない。心の中に根を張った傷つきに対して、他人の力=政治など無力なのである。

 自分が無力であることを感じ取れるかどうか、それだけでも違ってくると思う。感じない人は、善意という大義名分の下、彼の心の傷をさらに広げてしまいかねない。それに、無力であることが悔しいという自覚は、今の私には何もできなくても、いつか別の機会に、別の形で、自分のできることをやろうというバネにつながる。少なくとも、声高に騒ぎ立てて何かをやった気になってしまうよりかははるかにましだと思う。

 “文学”とか言っても、別に大仰なことではない。社会的に公式化されたロジックによって見失われてしまう“最後の一匹”のことを常に気に留めておくこと、“正しい”人生経路から外れてしまった一つ一つを見つめていくこと、そうした感性を忘れてしまわないように努力していくこと、それが広い意味で“教養”(文学も含めて)なのだと思う。

 なお、福田恆存と言えば、『人間・この劇的なるもの』は私の愛読書の一冊だ(→記事参照のこと)。魔女の予言に翻弄されるマクベスと、メランコリックに逡巡するハムレットとを対比しながら、“自由”の真意義は“必然”に身をさらしていることの自覚にあると喝破したあたりなど私には衝撃的だった。最近、新潮文庫で復刊されたようでうれしい。

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2008年9月25日 (木)

ジグムント・バウマン『アイデンティティ』

ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『アイデンティティ』(日本経済評論社、2007年)

 ポーランド出身でイギリスに亡命した社会学者ジグムント・バウマンが、イタリアのジャーナリストのベネデット・ヴェッキから“アイデンティティ”というテーマで出されたメールによる質問に応答するという形で交わした対話。

・「私のユダヤ性は、他の国が犯す残虐さよりもイスラエルの不正の方が私に苦痛を与えることで確認されます」(36ページ)。
・“アイデンティティ”、とりわけ“ナショナル・アイデンティティ”は“自然な”ものではなく一つのフィクション→“われわれ”と“彼ら”との間に境界線を引き、強化、監視。
・「「出生による帰属」が自動的にまた明白に一つのネーションへの帰属を意味したという想定の「自然さ」は、必死の努力によって作り上げられた決まりごとであり、見かけの「自然さ」にもかかわらず、少しも「自然」ではないのです。…ネーションは、概念操作に媒介されて初めて生活世界に入り込むことができる、想像される実体でした。自然さの外見、そして主張される帰属の信頼性も、長期に及んだ過去の戦いの最終産物にほかならず、また、その永続性は、来るべき戦いによってしか保証できなかったのです。」(51ページ)
(※→ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』と同様の議論)

・新たに登場したグローバルなヒエラルキーにおいて二極化。地球規模で自由気ままにアイデンティティを構成・分解できる人々がいる一方で、アイデンティティを選ぶ選択肢のない人々がいる→屈辱感の中でスティグマ化、非人間化、周辺化(71~73ページ)(※→バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)の議論)

・リキッド・モダニティの流動性→アイデンティティのありかをその場その場でかけかえる→“クロックルーム・コミュニティ”(※→バウマン『リキッド・モダニティ』(大月書店、2001年)の議論)
・民営化・規制緩和→国家による救済には頼らず、自助努力→失敗したら自らの怠惰を責められる。
・リキッド・モダニティにけるアイデンティティの構築は、望みたいポイントに行き着くために何が必要か(道具的合理性の論理:既定の目標への正しい手段の選択)ではなく、手持ちのリソースでたどり着けるポイントはどこなのかを探すこと(目的合理性の論理:既定の手段で達成できる目標がどれほど魅力的かを知ること)。
・人々の関心のスパン、とりわけ何かを始める際の見通しや計画作りのタイムスパンが短くなっている。

・婚姻関係→関係の開始に当っては二人の合意が必要だが、終結には片方の決断だけで十分→私が飽きる前にパートナーが飽きてしまったらどうしよう?→容易に関係から抜け出せる可能性そのものが愛の成就に対する障害。

・近代科学→「神の心が計り知れないのなら、読みとれないものを読むことに時間を費やすのは止めて、われわれ人間が理解できて実行できることに集中しようではないか」という発想。
・「近代の戦略は、人間の力を超える大問題を切り刻んで、人間が処理できる小さな作業に置き換えることから成り立っています。「大問題」は解決されずに棚上げにされ、脇に置かれ、争点から外され、忘れられてしまって、めったに思い出されることはありません。「今」についての悩みで頭がいっぱいで、永遠なものについて思い悩む余裕がなく、それについて省みる時間もありません。液状の絶えず変化する環境の中で、時間の流れに左右されない永遠や永久的な持続、不朽の価値は、人間の経験の中にみられません」。「変化のスピードが永続性(耐久性)という価値に対する必殺の一撃となっているのです」(115~116ページ)。

・アイデンティティの強固な核、「私はだれ」という疑問への回答と、その回答への信頼→自己を他の人々に結び付けている絆と、そうした絆がやがて信頼がおけて安定したものになるという想定がなければ作れない→そうした関係はリキッド・モダニティにおいて両義的
・規制緩和の中での予測不可能な選択者の不安→選択者に「著しく欠けているものが、信用や信頼という価値であり、自信という価値です。原理主義(宗教的原理主義も同じ)は、そうした価値を提示しています。それは、あらかじめすべての競合する主張を無効にし、反対者や「異教徒」との対話を拒むことで、確信の感情を浸み込ませ、自らが提示する単純で吸収しやすい行動規範から、あらゆる疑念を拭い去ります。それは、外部に広がっているカオスを遮断する、高くて通り抜けできない壁の内側で得ることができ、享受することができる、心地よい安全の感覚をもたらしてくれます」(133ページ)。「これらの集まりは、社会国家の後退によって放棄されてしまった職務や義務を拾い上げています。それはまた、社会が拒んでいる、人間らしい生活という、残念ながら失われてしまった要素を彼らに提供しています。つまり、目標や有意義な人生(あるいは有意義な死)、全体的なものごとの枠組みの中での正当で尊厳のある場という感覚を与えているのです」(134ページ)。

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2008年9月24日 (水)

ジークムント・バウマン『近代とホロコースト』

ジークムント・バウマン(森田典正訳)『近代とホロコースト』(大月書店、2006年)

 アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントが、ナチスによるホロコーストのおぞましさと、その実行責任者であったアイヒマンのあまりに凡庸な人物像とのギャップから“悪の陳腐さ”という表現を使ったことはよく知られている(『イェルサレムのアイヒマン』新装版、大久保和郎訳、みすず書房、1994年)。こうしたアレントによる問題提起に対して、バウマンは社会学の立場から考察を行なう(彼自身もユダヤ人であり、またゲットーから生き残った妻ヤニーナの手記を読んだことが本書執筆の動機となっているらしい)。彼はユダヤ人問題の歴史的特殊性としてホロコーストを片付けてしまうのではなく、“合理性”を特徴とする近代文明そのものが構造的に内包している問題が、ホロコーストという極限状態を通して浮かび上がったのだという論点を示す。

・“官僚制”を理念型とする組織の第一の特徴は分業性。いま自分が取組んでいる仕事が最終的にどのような結果をもたらすのか分からない、仮に分かっていても自分には関係ない、そのように思える距離感→目の前にいない者に対して同情はわかないし、憎しみもない。道徳的麻痺。ホロコーストにおいて必要だったのはユダヤ人に対する敵意ではなく、道徳的睡眠剤。
・第二の特徴は効率追求。自分に与えられた仕事を効率よくこなすこと自体に職業的達成感→最終的にもたらされる結果への道徳的責任が、自分が果すべき当面の仕事への技術的責任に置き換えられる。各自が自分の仕事に一所懸命に取り組む→殺人組織そのものが自己展開。
・このように、行為と(最終的な)目的との分離→すべてが量的な問題に還元される→ユダヤ人という対象の非人間化(※アイヒマンがいみじくも言ったように「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計上の問題に過ぎない」)。
・組織経営の効率性によって現代の我々は大きな利便性を得ているが、それが使い方によってはホロコーストを可能にしてしまうし、また制度内在的にホロコーストの出現を食い止める手段を我々は持っていないという不安。「合理性が行動の能率的調整手段として成功するための根本条件は、道徳性の抑圧であった。また、そこからは、日常的な問題解決行動を完璧な形でおこなうために使われる一方で、合理性にはホロコースト型の解決行動を生む能力があることもはっきりする。」(39ページ)
(※いま公開中の映画「わが教え子、ヒトラー」では第三帝国の“官僚制”が戯画化されているが、こうした視点を踏まえるとそのブラック・ユーモアぶりが際立つ)

・つまり、非合理的な価値が目的であっても、いったんインプットされてしまうと、それを合理的かつ大規模に遂行してしまう組織。その目的価値となった人種主義理論や衛生思想すらも当時にあっては“科学的”とされていた。“より良い”社会をつくるための社会工学としての大量虐殺。バウマンは“造園文化”という表現を使う。何が害虫・雑草であるのかを選別した上で理想的社会へ向けての技術的アレンジとしてホロコースト。

・以上の手段としての“合理的”組織行動にユダヤ人自身も組み込まれていた。アイヒマン裁判において、ユダヤ人協会の上層部が社会的地位の低いユダヤ人をナチスに引き渡すことで自分たちの延命を図っていたことが明かされたが(ドキュメンタリー映画「スペシャリスト」で怒号の飛び交うシーンがあったし、アレントはこの問題を敢えて取り上げたためにユダヤ人社会の中で孤立することになってしまう)、それも目的合理性を持った行動。「ユダヤ人たちは生き延びるための合理的目的に従った行動をとりながら、自ら抑圧者の手中に飛び込み、抑圧者の行動を容易にし、そして、自らに破滅をもたらしたのだ。」「自らの決定的利益に反するものであっても、あえてそうした行動を行為者にとらせる官僚組織の近代的・合理的能力である。」(157~158ページ)

・「人類の記憶に残るもっとも驚異的な悪は秩序の消滅でなく、秩序による安全で、完璧で、絶対的な支配の結果として現れることが、突然、明瞭となった。それは理性を失った暴徒の所業でなく、制服を着用し、従順で折り目正しく、規則に従い、指示を一字一句守る男たちの仕業であった。この男たちも制服を脱げば、けっして悪い人間ではない。彼らもわれわれと同じようにふるまう。彼らにも愛する妻がおり、大事にする子どもがおり、そして、悩めるときには助け、慰める友人がいる。制服に袖をとおした瞬間、彼らは殺し、ガス中毒死させ、銃殺に立ち会い、誰かの愛する妻である女、誰かの大事にする赤ん坊の子どもを含む、何千人をもガス室に送るという信じがたい行動にでる。…ホロコーストとその実行者にかんする知識から得られる戦慄の結論は、「これ」が場合によってはわれわれにも起こるかもしれないということでなく、われわれもこれをおこないうるということである。」(197~198ページ)

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2008年9月23日 (火)

最近読んだ新書

 最近(1、2ヶ月くらい)読んだ新書の備忘録。だらだら並べるのも芸がありませんが、なんか面倒くさくて…。◎印をつけた本などきちんとコメントしたいところですが、また気が向いたときにでも。ここしばらく、だいぶ気分がふさぎこんでいるというか、精神的に憔悴しています。空白が続いたかと思うと、箇条書きや抜書きのオンパレードで手抜きしたりと、ちぐはぐな印象を与えているかもしれませんが、あまり気にはなさらずに。

◎園田茂人『不平等国家 中国』中公新書、2008年
・渡辺浩平『変わる中国 変わるメディア』講談社現代新書、2008年
・本田善彦『人民解放軍は何を考えているか──軍事ドラマで分析する中国』光文社新書、2008年
◎渡辺将人『見えないアメリカ──保守とリベラルのあいだ』講談社現代新書、2008年
・飯山雅史『アメリカの宗教右派』中公新書ラクレ、2008年
・近藤健『反米主義』講談社現代新書、2008年
・テレーズ・デルペシュ(早良哲夫訳)『イランの核問題』集英社新書、2008年
・廣瀬陽子『コーカサス 国際関係の十字路』集英社新書、2008年
・山内昌之『帝国のシルクロード──新しい世界史のために』朝日新書、2008年
・宮田律『人物で読むイスラム世界』日経プレミアシリーズ、2008年
・重村智計『金正日の正体』講談社現代新書、2008年
◎宮城大蔵『「海洋国家」日本の戦後史』ちくま新書、2008年
・保阪正康『東京裁判の教訓』朝日新書、2008年
・清永聡『気骨の判決──東條英機と闘った裁判官』新潮新書、2008年
◎服部龍二『広田弘毅──「悲劇の宰相」の実像』中公新書、2008年
・高田里惠子『学歴・階級・軍隊──高学歴兵士たちの憂鬱な日常』中公新書、2008年
・高田里惠子『男の子のための軍隊学習のススメ』ちくまプリマー新書、2008年
・小島英俊『文豪たちの大陸横断鉄道』新潮新書、2008年
・塩見鮮一郎『貧民の帝都』文春新書、2008年
◎堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』岩波新書、2008年
◎湯浅誠『反貧困──「すべり台社会」からの脱出』岩波新書、2008年
◎雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について──貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』光文社新書、2008年
◎仲正昌樹『〈宗教化〉する現代思想』光文社新書、2008年
・中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書、2008年
◎堂目卓生『アダム・スミス──『道徳感情論』と『国富論』の世界』中公新書、2008年
・亀山郁夫『ドストエフスキー──謎とちから』文春新書、2007年
・鈴木伸子『TOKYO建築50の謎』中公新書ラクレ、2008年
・吉見俊哉『博覧会の政治学──まなざしの近代』中公新書、1992年
・川添裕『江戸の見世物』岩波新書、2000年

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2008年9月22日 (月)

カール・シュミット『パルチザンの理論』

カール・シュミット(新田邦夫訳)『パルチザンの理論──政治的なものの概念についての中間所見』(ちくま学芸文庫、1995年)

・スペインでナポレオン軍に対して行なわれたゲリラ戦争→非正規的な戦争→パルチザンの理論の出発点。
・古典的な国際法:戦闘員と非戦闘員の区別、交戦権を持った主権国家同士のルールを持った戦争。主権国家の動員する正規軍の条件は、責任を負う指揮官、制服等の目印、武器の公然携帯、戦争法規の遵守。
・パルチザンはこうした枠づけの外にいる。制服がない→非正規性。盗賊とは違う→政治的性格。神出鬼没の遊撃性。土地的性格。

・非正規な闘争者としてのパルチザン→戦闘員の権利と特権なし。通例の法によれば犯罪者であり、略式な刑罰および報復的措置で除去され得る。「正規の軍隊が、厳格に訓練され、軍人と市民とを正確に区別し、制服を着用する相手のみを正確に敵とみなせばみなすほど、正規の軍隊は、相手側において制服を着用しない一般住民までもが闘争に参加した場合には、ますます敏感に、また神経質になる。そのさい軍人は、苛酷な報復、銃殺、人質、村落破壊という手段で反応し、そのことを詭計に対する正当防衛と考える。正規の、制服を着用する相手が敵として尊敬され、血なまぐさい闘争においても犯罪者との区別が明確化されればされるほど、逆に非正規の闘争者は犯罪者としてますます苛酷に取り扱われる。このすべては、軍人と市民とを、戦闘員と非戦闘員とを区別し、また敵をそのようなものとして犯罪者と宣告しないという珍しい道徳的な力を育て上げた、古典的なヨーロッパ戦争法の論理からの当然の帰結であった」(77~78ページ)
(※こうした形で、日中戦争やヴェトナム戦争などにおいて一般市民の虐殺が行なわれたわけです)

・古典的な国際法は主権国家を主役として戦争を枠づけ→20世紀以降、戦争から枠づけがなくなり、革命的な政党が主役の戦争となった。
・パルチザンの基本的立場は、本来、自分たちの土地から侵略者を撃退することなのだから防御的→相手はあくまでも“現実の敵”(はねかえして引き下がってくれればそれで済む敵)であって、“絶対的な敵”(殲滅すべき敵)ではない。
・しかし、レーニンはこの概念の重点を、戦争から政治へ、すなわち友と敵との区別へと拡大。
・戦争は政治の継続であるというクラウゼヴィッツの公式→簡潔なパルチザンの理論、レーニン、毛沢東によって拡大される。レーニンがクラウゼヴィッツから学んだのは、「友と敵とを区別することは、革命の時代においては、第一次的なものであり、また、戦争および政治をも規定するものである」という認識。「絶対的な敵対関係の戦争と比較して、古典的なヨーロッパ国際法の、承認された規則にしたがって行なわれる枠づけされた戦争は、決闘申込みに応じうる騎士の間の決闘と同じである。レーニンのような、絶対的な敵対関係によって鼓舞された共産主義者には、このような種類の戦争は、単なるゲームであると思われたのは当然であった。」「絶対的な敵対関係の戦争は、いかなる枠づけも知らない。絶対的な敵対関係をきわめて明確に作り上げることが、その戦争に意味と正義とを与えるのである。…すなわち絶対的な敵は存在するのか、またそれは具体的に誰なのか?…敵を識ることが、レーニンの巨大な衝撃力の秘密であった。…すなわち現代のパルチザンは本来的に非正規なものになり、またそれによって既存の資本主義的秩序の最強の否定になり、そして敵対関係の本来的な執行者に適したものになった、ということにもとづいていた」(110~113ページ)→友・敵関係において、革命イデオロギーに基づいて“絶対的な敵”を認識。
・レーニンの革命性に、毛沢東は土地的基礎付け(農村に基盤を置く)を行なった。

・技術工業的発展により核兵器等の絶滅兵器の登場→相手を絶滅し得る→相手に対して絶滅に値する道徳的無価値な存在と宣言せねば自分たちの正当性を確保できない→相手を“絶対的な敵”と規定。

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2008年9月21日 (日)

ハンナ・アレント『政治の約束』

ハンナ・アレント(ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳)『政治の約束』(筑摩書房、2008年)

 アレントが計画していたが結局未完に終わってしまったという「政治入門」の草稿を中心に再編集した論文集。編者序文にある、アレントがセミナーで学生たちに語ったという次の言葉が印象的。「理論は要りません。一切の理論を忘れてください」。すぐに言葉をついで「それは私たちが考えることをやめるという意味ではない、なぜなら思考と理論は同じものではないからです」。

・過剰な暴力→自分たち自身を破滅させかねないのに、それでも政治とは何なのか?
「原子爆弾が発明されてこの方、私たちの不信感は、政治と政治が行使しうる暴力手段が人類を滅亡させるかもしれないという、著しく正当な恐怖に基づいている」(184ページ)。政治とは手段の領域で、その目的は政治の外部にあるという考え方→「本来そうした考え方は、政治にとって周縁的な、どちらとも決めがたい問題──すなわち政治を守るために時として必要になる野蛮な暴力とか、政治的自由が実現される前に最初に確保されねばならない生命維持のための糧食とか──なのだが、いまや生活(=生命)の維持と組織化を第一の目的とする手段として暴力を用いることによって、すべての政治的活動力の中心に躍り出たのである。危機は、いまや政治的領域が、かつては唯一それ自身を正当化するように思えたものを脅威に晒しているという点にある。このような情況では、政治の意味をめぐる問いそのものが変わってしまう。今日その問いは「政治の意味とは何か?」では、まずありえない。政治に脅かされていると感じている世界中の人々にとって、自他に向けて発するはるかに適切な問いは次の通りだ。「政治はいまなお何らかの意味を持っているか?」」(182ページ)。

・複数性→多様な視点、その前提として自由
古代ギリシアのポリスにおける討論→「…決定的な要素は、人が議論を一変させたり主張を覆したりすることができりょうになったということではなく、話題をさまざまな側面から──すなわち政治的に──偽りなく見る能力を身に着けたということであり、またその結果として、人々は現実世界から与えられる多数の可能な観点を引き受ける仕方を理解して、まったく同一の話題がそれらの観点から考慮されうるようになり、それらの観点において、それぞれの話題が、それぞれ同一であるにもかかわらず、非常に多様な見解のもとに見えてくるということである。…同一の事柄を多様な立場から見る能力は人間世界の内部に在り続けるのだ。つまり、それは生まれつき(by nature)持っている立場を、同一の世界を共有している他の誰かの立場とやりとりすることに尽きるのである。…説得を通して他者に影響を与えること、それこそポリスの市民が互いに交流するやり方だったが、そのためには、精神的にも身体的=物理的(フィジカル)にも自分自身の立場や視点に絶対的に縛られてはいない、ある種の自由が前提とされていたのである。」(199ページ)

・複数性=世界→政治の意味
(※以下の引用は長くなりますが、とりわけ感銘を受けながら読んだ箇所です)
「…ある事柄は、それがすべての側面で現れ認識されうる限り、感覚的世界と歴史的‐政治的世界の双方においてリアルであるというのがほんとうなら、リアリティをさらに真実らしくさせ、たしかに長続きさせるためには、個人や民族の複数性、そして立場の複数性がつねに存在しなければならない。言い換えるなら、世界は複数の観点(パースペクティヴズ)が存在するときに限って出現するのだ。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、または世界におけるそれ独自の位置──その由来はともあれ、簡単には複製されえない位置──から発するユニークな世界観を持っているある特定の人間集団が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族なり国民なりが、あるいは一定数の個人が死滅するということではなく、むしろ私たちの「共通世界」の一部が破壊されるということであり、今まで現れていた世界の一側面が二度と再び現れえなくなるということなのである。それゆえ、絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもあるのだ。厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。…互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊かになるだろう。ある国家の中に世界を──すべての人々に公平に見え隠れする同一の世界を──見るための観点の数が多くあればあるほど、その国家は世界に対してますます意義深く開かれたものになるだろう。他方で、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにはたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的‐政治的意味では、終焉したことになるだろう。…掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえないのである。」(206~207ページ)

 編者序文によると、アレントは、ある事件について考えることは“それを思い出すこと”であり、忘却は私たちの世界の有意味性を危険に曝すことになる、とも語っていたという。もちろんホロコーストが念頭に置かれているわけだが、ユダヤ人に限らず、どんな民族もどんな個人も、それぞれがかけがえのない有意味な存在=複数性として世界を構成しているというメッセージとして理解できるだろう。

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