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2008年9月14日 - 2008年9月20日

2008年9月20日 (土)

ウイグル問題についてメモ④

 長くなったので二つに分けました。

 水谷尚子「胡錦濤が最も恐れるウイグル人、激白す」(『諸君!』10月号)は中国政府によって投獄され、トルコに亡命したアブドゥカディル・ヤプチャン氏からの聞き書き。同じく水谷尚子「ウイグルの襲撃事件はテロか──民族運動を知らない日本人の知的怠慢」(『Voice』10月号)では、北京オリンピック前後に新疆で相次いだ事件を分析している他、東トルキスタン民族運動の内部事情が整理されている。だいぶ問題含みのようで、読みながら少々複雑なわだかまりを感じてしまった。

 アブドゥカディル氏の話を読んでいると、中国の公安当局による苛酷な弾圧と、それへの反発としてますます漢人への憎悪が深まってしまう負のスパイラルに暗澹とした気持ちになってしまう。同時に感じたのは、“暴動”という形を取らざるを得なかった人たちのやむを得ない心情の哀しさ。

 エリート層のように抗議の意志を洗練された方法で表現できる立場にないがために、直接行動を取るしかない人たちがいる。人は、置かれた立場の中で自分のできることしかできないから、良いか悪いかとはまたレベルの異なる問題だろう。しかし、“暴動”という形を取ると、当局から“テロ”とレッテル貼りされるきっかけになってしまう。やむを得ない怒りが動機であっても、政治の論理に絡め取られてしまい、彼らの心情は完全に脱色されて、私たちのもとにニュースとして届く時にはテロ云々という一般論の中に埋没してしまう。“暴動”という表面的な形だけがクローズアップされて、ではなぜそうならざるを得なかったのかという背景や心情までは外にはなかなか伝わりづらい。

 聞き書きは、研究上の第一次史料としてもちろん重要だが、それ以上に、スカスカした一般論に押し込められてオミットされかねない肉声の微妙なニュアンスを伝えていく、そうすることで政治を考える視点に奥行きを持たせていく。肉声が聞こえてこないと、妙な観念論ばかりが遊離して(場合によっては政治的思惑も絡んで)、当事者の思いとは全く違う方向に事態がそれてしまう恐れがある。「ウイグルの襲撃事件はテロか」の最後、右・左を排して、小さき声を丹念に拾い続けながら仲介者の役割を果たしたい(「梶ピエールの備忘録。」で引用されています。普段は『Voice』なんて読まないのですが、こちらで水谷論文のことを知りました)という水谷氏の決意はまさにそこにあるのだろう。とても貴重な仕事だと思う。

 なお、水谷氏が以前に研究されていた栄一六四四部隊(南京にあった、いわば七三一部隊の兄弟部隊)についての論考を読んだことがある。人体実験に関わった医師のもとにインタビューに行くのだが、彼は核心的なことは何も語らない。ただ、彼がふと漏らした言葉から、この人はこの人なりにひょっとしたら後悔を抱えているのかもしれない、そう感じたというところが私には印象的だった。人体実験は無論忌むべきことである。だが、そのこととはまた別に、一律な判断基準で相手を断罪してしまわないで、一人一人の抱えているものを見つめようとしている。水谷氏はそうした感性を持っていればこそ、偏見を持たずに相手の話を聞き取ることができる。ウイグル人とも漢人とも話し合えるし、仲介者として漢人側に問題の理解者を増やしていくことはできるはずだ。地道な努力が必要だが、そこにこそ可能性を見出せると思う。

 酒井啓子「ウイグル問題を歴史の視点から見る──大陸の進出のためだった日本のイスラーム研究」(『週刊東洋経済』2008年9月20日号)は、「回教」という表現に込められた戦前期日本のイスラーム認識に着目。この表現で対象とされているのは主として中国のイスラームであり、“大日本帝国”のアジア進出のためのコマとして「回教徒」を動員するという国策上の思惑からイスラーム研究が進められていたことを指摘する。

 同様の問題意識を持つ研究として、坂本勉編著『日中戦争とイスラーム──満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』(慶應義塾大学出版会、2008年)がある。戦前期日本においてイスラーム認識が格段に深まった点では画期的でありつつも、同時にその調査・研究が国策的支援を受けたものであった二面性をテーマとした論考を集めている。

 メルトハン・デュンタル「オスマン皇族アブデュルケリムの来日」によると、1931~1934年の新疆反乱(→東トルキスタン・イスラーム共和国成立)に際して、日本側にはオスマン皇族を“トルキスタン皇帝”に擁立して傀儡国家とする計画があったという。溥儀を連れてきて満州国(1932年)をつくったり、デムチュクドンロブ(徳王)を押し立てて蒙古連合自治政府(1939年)をつくったりというのと同じ発想だ。ただし、トルコ政府はこうした動きがオスマン帝国の復活につながることを懸念しており、在日トルコ系コミュニティにおけるアブデュルケリム招請派の分断を図ったり、東トルキスタン共和国崩壊後にアフガニスタンへ亡命した関係者に日本との関係を慎むよう勧告したりと、対抗策をめぐらしていたらしい。

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ウイグル問題についてメモ③

 ウイグル問題関連で最近読んだ論考についてメモです。

 加々美光行『中国の民族問題──危機の本質』(岩波現代文庫、2008年)。『知られざる祈り──中国の民族問題』(新評論、1992年)の改訂版だが、大幅に書き換えられているようだ。ウイグル問題にも多くのページが割かれている。読みながらとったメモを箇条書きすると、
・二十世紀初頭、梁啓超が「中国民族」「中華民族」概念を提唱、これを受けて孫文も「中華民族」形成を主張→「中華=中国世界=天下」観念と近代的「国民国家」観念が重ねあわされる→他民族の「漢人化」
・漢人以外の民族の離脱は、「中国国家」からの離脱というよりも、「天下=中国世界」からの離脱を意味し、漢人の世界を否定されたように受け止められる。
・イスラームもチベット仏教もそれぞれ普遍的な「世界」観念を持つ。また政教合一の傾向→中国政府は大量動員を恐れて政教分離を求める→内発的契機を欠いた強制的な政教分離には厳しい監督・干渉が伴う
・少数民族は居住区域での自治のみ許される(区域自治)→分離権なし(ソ連邦型とは異なる)→連邦制の主張は「分離主義者」として糾弾される
・1954年から、新疆生産建設兵団(屯田兵みたいなもの)→漢人の入植→摩擦
・百家争鳴・百花斉放→トルコ系民族幹部も民族自決権を含めた要求を出した→「地方民族主義」批判→再び漢人大量入植、遊牧民の定住化、人民公社化→トルコ系民族の相次ぐ反乱、ソ連領への越境逃亡
・中ソ対立、越境逃亡者の増大(→ソ連領カザフ共和国で自由トルキスタン運動)→中国政府は新疆への圧力を強化
・階級史観→「遅れた」地域に先進的プロレタリアートを派遣→実際には、「先進的な」漢人が「後進的な」他民族を「指導」という図式→民族的差異解消とは言いつつ同化圧力
・中国国内で、先進民族(漢人)と前近代的な少数民族という対比→実は、近代化論と同じ図式があるからこそ、少数民族の伝統が無視されている
・現在の中国ではもちろん階級史観などとらないが、国民市場的統合という形で同化圧力
・上海協力機構→「反テロリズム」という名目で周辺諸国と安保協力→東トルキスタン独立運動の「国際問題化」を防止

 『環』第34号(2008年夏、藤原書店)で「多民族国家中国の試練」の特集。チベット関連の議論が目立つ。

星野昌裕「国家統治システムの再検討を迫られる中国」から民族問題の論点をメモ。
・当初、毛沢東は「中華民主共和国連邦」も考えていたが、対外的安全保障優先のため連邦制の考えを放棄→民族区域自治制度(“民族自治”と、その区域内で漢族も含めた諸民族の平等を強調する“区域自治”のバランス)→実質的な権限は漢人→形骸化
・中国政府は、自国の民族問題を内外の民族運動が連携して国家統合に挑戦する意図を持つ「敵対矛盾」と認識
・少数民族も中華民族の一部であることを強調、漢語学習の強制

若林敬子「人口から見た多民族国家中国」からウイグル問題絡みの論点をメモ。
・旧ソ連圏での独立国家誕生→中国政府の懸念
・新疆には、開発・国境防衛の名目で大量の漢族移住(とりわけ北疆)、正規の人民解放軍の他にも「生産建設兵団」→実質的に漢族支配
・漢族とトルコ系民族との通婚はほとんど見られない
・イスラーム系民族にとって産児制限政策への反発が強い
・南疆の和田(ホータン)地区では、高出生率・高離婚率・初婚年齢の若年齢などの人口動態上の特徴が目立つ

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2008年9月19日 (金)

ジョルジョ・アガンベン『例外状態』

ジョルジョ・アガンベン(上村忠男・中村勝己訳)『例外状態』(未来社、2007年)

・カール・シュミットの有名なテーゼ「主権者とは例外状態に関して決定を下す者」→『政治神学』の記事参照。
・公法と政治的事実とのあいだ、また法秩序と生とのあいだにある、この無主の地の探究が本書の目的。
・グアンタナモに捕らえられたタリバーンの兵士→戦争捕虜でもなく、囚人でもない→事実としての無限定な拘留者であるに過ぎない、という問題点。例外状態は、政治システムに統合できない人々の物理的除去を可能にしてしまいかねない。合法的内戦、世界的内戦。
・例外状態について公法学者たちは検討してこなかった→政治の問題と考えた。「必要は法律をもたない」という格言。
・「近代の例外状態は、事実と法=権利とが合致するような未分化の領域を創り出すことによって、例外それ自体を法秩序のなかに包摂しようという試み」(55ページ)。「法秩序の外にあり、しかしまた法秩序に属している。これこそは例外状態の位相幾何学的な構造」(70ページ)
・例外状態→法的規範と現実的な強制力とを分離、アノミー(規範の弛緩・欠如した状態)→法的規範の保留、無効→むき出しのありのままの現実を規範化してしまう。
・「…例外状態というのは、そこにおいて適用と規範が互いの分離を提示しあい、ある純粋な法律‐の‐力によって、その適用を停止されていたある規範を実現する──すなわち、適用を停止することによって適用する──ことがなされるようなひとつの空間が開かれている状態である。このようにして、規範と現実の不可能な結合、そしてその結果としての規範的な領域の創出が、例外という状態において、すなわち、それらの連関を前提することをつうじて、操作されるのである。このことは結局のところ、ある規範を適用するためにはその適用を停止し、ひとつの例外を創り出す必要があるということを意味している。いずれにせよ、例外状態は、論理と実践が互いを決定不能状態にし、ロゴスをもたない純粋の暴力がいかなる現実的指示対象ももたない言表内容を実現するふりをしている、ひとつの閾の存在を印づけているのである。」(82ページ)
・例外状態は独裁ではなく、法の空白。イタリアのファシズム体制も、ドイツのナチズム体制も、いずれも現行憲法(アルベルト憲法、ヴァイマル憲法)を存続させたまま、法的には定式化されなかったが、例外状態のおかげで合法的憲法と並立する第二の構造物をつくり上げた。「法学的観点からこのような体制を正当化するのには「独裁」の用語はまったくふさわしくないし、そのうえ、今日支配的となっている統治パラダイムの分析にとっても、民主主義‐対‐独裁という干からびた対立図式は道をまちがったものと言わざるを得ない。」(97ページ)

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2008年9月18日 (木)

カール・シュミット『政治的なものの概念』

カール・シュミット(田中浩・原田武雄訳)『政治的なものの概念』(未来社、1970年)

 箇条書きメモ。カール・シュミットの議論に賛成するかどうかは別として、盲点に容赦なく切り込んでくるところが刺激的で興味は尽きません。

・政治現象固有の指標は何か? 有名な“友‐敵”概念。「政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的区別とは、友と敵という区別である。…それが他の諸標識から導き出されるものではないというかぎりにおいて、政治的なものにとって、この区別は、道徳的なものにおける善と悪、美的なものにおける美と醜など、他の対立にみられる、相対的に独立した諸標識に対応するものなのである。…政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとはかぎらず、敵と取引きするのが有利だと思われることさえ、おそらくはありうる。敵とは、他者・異質者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質者であるということだけで足りる。…友・敵といったような特殊な対立を、他の諸区別から分離し、独立的なものとしてとらえることができるという、この可能性のなかにすでに、政治的なものの存在としての事実性、独立性があらわれているのである。」(15~17ページ)

・「敵とはただ少なくとも、ときとして、すなわち現実的可能性として、抗争している人間の総体──他の同類の総体と対立している──なのである。敵には、公的な敵しかいない。なぜなら、このような人間の総体に、とくに全国民に関係するものはすべて公的になるからである。敵とは公敵であって、ひろい意味における私仇ではない。…政治的な意味における敵とは、個人的ににくむ必要はないものであり、私的領域においてはじめて、「敵」、すなわち自己の反対者を愛するということも意味をもつのである。」(18~19ページ)

・“敵”概念があるかぎり、戦争は常に現実的可能性をもつ→重大事態をふまえての結束だけが政治的→例外事態も含めて常に決断が必要→“主権”をもつ単位(例外状況における決断については、カール・シュミット『政治神学』の記事を参照のこと)

・異常事態において規範なし→対外的には国家の交戦権は自国民に死の覚悟、敵の殺戮という二重の可能性を命じる。対内的には内敵宣言。生殺与奪の権。

・ある個人なり国家なりが、自分たちに敵などいない、と宣言して武装解除しても無意味→「もしも、一国民が、政治的生存の労苦と危険とを恐れるなら、そのときまさに、この労苦を肩代わりしてくれる他の国民が現れるであろう。後者は、前者の「外敵に対する保護」を引き受け、それとともに政治的支配をも引き受ける。このばあいには、保護と服従という永遠の連関によって、保護者が敵を定めることになるのである。…一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないしは意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消え失せるだけにすぎないのである」(59~61ページ)

・あらゆる政治理論は、性悪説にせよ性善説にせよ、何らかの形での人間本性を前提している。

・“自由主義”“平和主義”と言っても、非好戦的なのは用語法だけにすぎない。「…このいわゆる非政治的な、さらには一見反政治的でさえある体系は、既成の友・敵結束に奉仕するか、さもなければ新たな友・敵結束にいきつくものなのであって、政治的なものの帰結からのがれることなど不可能なのである。」(102~103ページ)

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2008年9月17日 (水)

アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』

アンソニー・ギデンズ(松尾精文・小幡正敏訳)『近代とはいかなる時代か?──モダニティの帰結』而立書房、1993年

 ここのところ色々と面倒くさいので、前回同様に箇条書きメモです。ギデンズの議論は、“脱~”→“再~”という循環性の中で錯綜する状況を捉え返していこうとするところに特徴がありますね。

脱埋め込み
・時間と空間の均質化・分離→個人一人一人の活動が地域ごとの特定の脈絡に「埋め込まれていた」状態から解き放たれる→無限に拡大された時空間の中で社会関係を再構築。
・抽象的システム・専門家システムへの“信仰”(なぜ飛行機が飛ぶのかという原理を知らなくても、我々は飛行機を利用する)や貨幣(時間・空間の括弧入れ)→時空間拡大の手段

再帰性
・「再帰性は、システムの再生産の基盤そのもののなかに入り込み、その結果、思考と行為とはつねに互いに反照し合うようになる。日常生活で確立された型にはまった行いは、「以前なされた」ことがらが、新たに手にした知識に照らして理に適うかたちで擁護できる点とたまたま一致する場合を除けば、過去とは本来的に何の結びつきももたない。あるしきたりを、それが伝承されてきたものであるという理由だけで是認することはできない。伝統は、伝統によってはそれ自体の信憑性が検認できない、そうした知識に照らしてのみ正当化することが可能である。この点は、習慣自体がもつ惰性とあいまって、たとえ近代の最も進んだ社会においてさえ、伝統が引きつづき何らかの働きを果していることを意味する。しかし、伝統の果たす役割は、現代の世界での伝統とモダニティとの融合に着目する論者が想定するほどには、概して大きくはない。なぜなら、正統と認められている伝統は、見せかけの衣をまとった伝統であって、その存在証明(アイデンティティ)を近代の有する再帰性からのみ得ているからである。」(55ページ)
(※エリック・ホブズボームたちの『創られた伝統』も同様の議論)
・社会科学の研究成果は一般の人びとにも摂取される→「モダニティの示す再帰性は、体系的な自己認識が絶えず生成されていくことと直接関係するため、専門家の知識と一般の人びとが行為の際に用いる知識との関係を固定化しない。専門的観察者の求める知識は(何らかに、また多様なかたちで)その認識対象と再び一体化し、それによって(原理的にも、また通常、実際にも)その認識対象を変えていく。」(63ページ)
(※エコノミストが年頭の景気予測がはずれた時、自分の予言が適切だったからこそみんな違う投資行動を取った、その結果としてはずれたのだと言い訳をする小話を思い浮かべた)

信頼と存在論的安心
・確かにあり得る不安であっても度を越した不安(いわゆる“杞憂”ってやつですね)→精神分裂的にも見えるが、他の「普通の人びと」がこれを変だと思うのは、幼少期から“信頼”という予防接種を受けているから。
・「…人間以外の対象の信憑性にたいする信頼は、一人ひとりの人間の信憑性や養育にたいする、もっと原初的な信仰にもとづいている。他者にたいする信頼は、絶えず繰り返して生ずる心理学的欲求である。他者の信憑性や高潔さから確信を引き出すことは、熟知している社会的、物質的環境で経験に付随して生ずる、いわば情緒の再成型である。存在論的安心と型にはまった行いは、習慣という浸透性の強い影響力を介して、本質的に結びついている。…日々の生活の(一見)こまごました型にはまった行いの予測可能性は、心理学的安心感と深く関係している。そうした型にはまった行いが──いかなる理由からであれ──損なわれた場合、不安は、洪水のように押し寄せて、一人ひとりのパーソナリティの揺るぎなく確立された諸側面をさえ剥ぎ取って、つくり変えていくかもしれない。」(124ページ)
・前近代において偶然的なリスクを伴う環境→“信頼”を伴う関係状況で対処:①親族、②地域共同体、③宗教、④伝統(時間的な連続性を生活パターンとして定式化→存在論的安心感に寄与)→これらは脱埋め込み・再帰性により弱体化→モダニティにおいてリスクは査定可能で、不可避的運命とは捉えない。
・脱埋め込みと同時に、再埋め込み→近代は非人格的システムが生活世界を覆いつくしていくというイメージは正しくない(176ページ)。他者との親密性はかつて場所的特性の中にあったが、現在は距離を隔てても可能。
・モダニティにおいては、自己実現がアイデンティティの基盤。

ジャガノート、ハイ・モダニティ(ポスト・モダンではない)
・モダニティは、操縦の極めて困難な大型トラック・ジャガノートが暴走しているようなもの。
・グローバル化したリスク→専門家知識の限界。
・社会的知識の循環性→社会的環境の機能に対して次々と新たな知識が投入されてくる(現状分析→新しい理論という形で。たとえば、投機市場なんか特徴的でしょう)→安定不変の社会的環境は形成できない。
・「近代という時代を創りだした人びとは、先在するドグマにとって代わり確信できるものを捜し求めたとはいえ、近代の時代気質のなかには、実際上、懐疑心が制度化されている。…近代においては、知の主張はいずれも本来的に循環していく。」(218ページ)
・「…グローバル化のもたらす不安定な帰結は、モダニティの示す再帰性が循環的なものであることと相まって、リスクと偶然性がいまだかつてない特質を呈するような事象世界を形づくっていく。…グローバル化は、ローカルな極とグローバルの極の両端で、人びとを、変動の複雑な弁証法の構成要素として、規模の大きなシステムに結び付けていく。しばしばポスト・モダンというレッテルを貼られている現象の多くは、実際には歴史上類例をみないかたちで目の前にあるものとないものとが混在する世界に生きることの経験と関係している。モダニティの示す循環性が定着していくにつれて、進歩は内容を欠いていき、また、横のレヴェルでは、「ひとつの世界」に生きることが必然的にもたらす日々流入する情報の量は、時として圧倒的なものになりうる。しかし、それは、文化の崩壊や、自我が中心性を欠いた「記号世界」のなかに分解していくことの表出では《ない》。それは、重大な帰結をもたらすリスクにみちた、気のもめる舞台背景のもとで展開する、自我と地球規模の社会組織との同時変容の過程である。」(219ページ)

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2008年9月16日 (火)

ジョック・ヤング『後期近代の眩暈──排除から過剰包摂へ』

ジョック・ヤング(木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳)『後期近代の眩暈──排除から過剰包摂へ』(青土社、2008年)

文章にまとめるのが面倒くさくなったので、以下、だいぶ雑ですが箇条書きでメモ。

日常生活の脱埋め込み(ギデンズやバウマンの著作を読むとよく出てくるキーワード。disembeddingの訳語らしいが、ちょっとイメージがわきづらい)
・文化・諸制度への埋め込み(ある枠組みの中に自分自身が組み込まれているという感覚)から外れて流動化。選択肢が増えた、自由だという感覚と同時に、存在論的不安、アイデンティティの基盤が崩れた感覚。
・「後期近代を貫くのは、社会的な場所が喪失されたイメージ、物語(ナラティブ)が崩壊し構造が不安定になるイメージである。つまり空間と文化がもはや一致しないような断片化された世界のイメージであり、ある空間が別の時空間や個々人の想像の産物と結びついたような融合物のイメージである。…いわばアノミー、無関係、無関心の荒野であり、互いを意識せず、関心ももたず、ただ勝手に漂流する原子たちの荒野である。そんな断片的かつ分断された分裂性の世界にあって、社会的連帯と人びとの結びつきの感覚はどのように生まれうるだろうか。」(328ページ)(※こうした“後期近代”のイメージは、バウマンの言う“リキッド・モダニティ”と同じ)

他者化・社会的排除
・保守派は移民や貧困層という他者に否定的な属性を投影、悪魔化、文化本質主義→反転的に自己の肯定的属性を確認→貶め
・リベラル派は、貧困層を物質的・道徳的に不利な立場に置かれたものと考えるが、隔離された対象として救済の対象→懸隔
・保守派もリベラル派も、逸脱者を周辺化→自分たち中心層の強化→二項対立という図式では変わらない。
・社会学的調査でも、被調査者に対する客観性→こうした懸隔が再生産される(ひび割れの政治学)
・他者化された人々→社会から受けた屈辱や排除に対抗するため、自己を硬化させる。自己強化の循環構造→スティグマ化と他者化のアイデンティティ・ポリティクス、否定的なアイデンティティの構築。
・二項対立を強化するのではなく、二項対立を脱構築するのが合理的な対処法。

過剰包摂
・社会的排除された人々→社会全体から空間的・社会的・道徳的に切り離されているわけではない。後期近代社会の過剰包摂的性質こそ、社会構造の最底辺にある不満を説明する上でのカギとなる。境界が曖昧になり、価値観が共有され、なおかつ生きることが報われないという矛盾が社会全体に存在。「満ち足りたマイノリティ」とそうでない人の思いとがよく似ていて、同じような欲望や情熱をもっていて、差異は本質的なものではなく、小さいからこそこうした不満が出てくる。
・「アンダークラスの生活と文化的抵抗を形づくるのは、貧困と尊重の欠如という二重のスティグマである。…社会の過剰包摂には、主流社会の成功の価値観、アメリカン(あるいは先進国)ドリームの一身の受容、消費主義的な成功とセレブリティの崇拝を伴う。まさにこの文化的統合こそが排除の屈辱という傷口に塩を塗り込めるのだ。」(96ページ)
・アンダークラス→社会の主流から排除されることで生じる相対的剥奪感→尊厳の剥奪、負け組み感覚、何者でもないこと、アイデンティティの日常的侵害。
・貧困層は富裕層から他者化されると同時に、富裕層に似てくる。貧困層がそうでない人々に近づけば近づくほど、貧困層は排除への憤りを募らせる。

・自己実現の達成こそが理想だとする個人主義。フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行→労働世界の解体→非正規労働市場の拡大、不安定性、アンダーグラスの増加→市場の力はより不平等で非能力主義的な社会を生み出し、市場の価値観は万人に自己責任の精神を奨励。
・脱埋め込みの感覚→アイデンティティの揺らぎ
・存在論的不安の個人的感情を修復しようとすること→本質化の訴えかけに結びつく。つまり、存在論的不安に対する解決法として本質主義(つまり、民族・宗教等の属性を自分たちの“本質”とみなす形で排他的なアイデンティティを形成してしまうこと)。
・自己が他者によって定義される→他者化された集団もまた態度を硬化させて、その押しつけられたアイデンティティを強化してしまう。
・「コミュニティの構築、あるいはその創造は、ある一面を称揚しこれ幸いと受け入れる一方、別の面を罵り、排除する物語(ナラティブ)を構築することでもある。」(333ページ)
・「アイデンティティと文化が次々と生みだされる後期近代の世界にあっては、多文化主義は、自分たちのルーツ探しや「本当の」自己の発見というまったく逆の結果をもたらす。そのような固定的な本質は、ひいては大文字の他者(プロテスタント教徒に対するカトリック教徒、非イスラム教信者に対するイスラム教信者、黒人に対する白人)と対比され、固定した差異という観念から偏見が生じるのを許してしまう。実に皮肉なことに、寛容性を求める多文化主義は、偏見と不寛容性を生みだしてしまうのである。(274ページ)
(※たとえば、マイケル・ウォルツァーなどのコミュニタリアニズムが、そのリベラルな動機とは裏腹に、かえって相互懸隔を拡大・固定化・不寛容化してしまうという批判と理解できる)
・「屈辱を受けた他者は悪魔化や劣等地位という他の場所へと追いやられ、望ましい自己は、国、宗教や階級、ジェンダーいずれかにおいて原理的に優越しているという空想の他の場所にあてがわれる。最終的にもたらされるのは自己欺瞞つまり人間らしい自発性、再帰性(リフレキシビリティ)、営為からの離脱である。だからこそ、われわれがアイデンティティの問題に注意を払い、自己の価値や自己実現化という感覚を保証しつつも他者に体系的に屈辱を与え侮辱する、本質主義の偽りの根拠に身を委ねない政治について論じることが決定的に重要なのだ。」(370~371ページ)

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2008年9月15日 (月)

適当に社会学の入門書

 見田宗介『社会学入門──人間と社会の未来』(岩波新書、2006年)。越境性(なんて言うとしかめっつらしいが、つまり本当に大切なことを考えようとしたとき、分野の障壁なんて無意味ということ)、自明なものへの疑い、“魔術からの解放”(ヴェーバーの有名なテーゼだけど、直訳するとかたい。むしろ、ある種の魅惑がなくなっていくことでそっけない近代化が進むことの両義性に見田は焦点を合わせる)、理想(→リアリティを目指す)と虚構(→もはやリアリティなんて愛していない)、自我、関係の絶対性、交響圏などのキーワードで社会学を語る。感傷的であまっちょろい感じもするが、実感のこもった語り口にしようという姿勢には好感が持てる。同『現代社会の理論──情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波新書、1996年)は、情報化・消費化をキーワードに、資源と環境、世界の半分の貧困などの問題の把握を試みる。

 内田隆三『社会学を学ぶ』(ちくま新書、2005年)は、著者自身の読書遍歴を通して大所の社会学理論を読み進める。正攻法という感じで少々かたい。

 竹内洋『社会学の名著30』(ちくま新書、2008年)。名著解説本にはつまらないものも多いが、本書はそれぞれの社会学関係書の勘所を簡潔におさえてくれていて参考になる。これは読んでみたいと思う本もいくつかあった。

 そのうちの1冊が、P・L・バーガー(水野節夫・村山研一訳)『社会学への招待』(新思索社、2007年)。物事は見かけ通りのものではない→現実暴露による幻滅が社会学の特徴。その点でで体制批判的にも見えるが、だからといって社会革命志向とも異質、なぜなら革命幻想の背景をも見破ってしまうから。社会的諸力の交差する位置に個人→社会的制度の中でアイデンティティを付与され、外圧的にも内面的にも個人は制約を受けている。しかし、そうした社会という劇場を動かしている論理を客観的に理解できるところにこそ、他ならぬ私自身の自由の可能性が見出せる、その意味でヒューマニスティックな学問なのだという結びに勇気づけられる。

 若林幹夫『社会学入門一歩前』(NTT出版、2007年)。自分があって社会があるのではなく他社とのつながりの結び目として“私”を把握すること、目的合理性のこと(ヴェーバー理解社会学の考え方ですね)、魔術化した科学技術への“信頼”によって社会システムが成り立っていること、カリスマ、欲望の模倣→他者の欲望を内面化したものとしての主体、等々と社会学の基本的な視座が平易に語られている。社会学は何の役に立つのか?→「役に立つこと」を基軸とする社会のあり方そのものを捉えかえすという指摘、学問にも取り組む人それぞれの個性が抜きがたく刻印されているから相性がある、といった指摘に関心を持った。

 『橋爪大三郎の社会学講義』(ちくま学芸文庫、2008年)。要素分解⇔綜合、この繰り返しでテーマを分析していく橋爪の語り口そのものが社会学的思考方法の生きた見本。一見当たり前な前提から出発しても論理の運び方がクリアなので説得力を持つ。単に入門書というのではなく、社会科学の小難しい議論に頭がなじんでしまって行き詰まり感があるときなど、こういう本を読み返してみると頭が解きほぐせて良いように思う。本当に良い入門書というのは、初学者にとって分かりやすいというだけでなく、その分野についてある程度分かったつもりになっている人にとっても原点に立ち返って考えさせてくれる、そういう本じゃないかな。

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2008年9月14日 (日)

「わが教え子、ヒトラー」

「わが教え子、ヒトラー」

 総統の心身は病み果てて威厳が失われている。このままでは新年の演説で国民を熱狂させることはできない──考えあぐねた宣伝相ゲッベルスにあるアイデアがひらめいた。ユダヤ人としてザクセンハウゼン収容所に入れられている往年の名俳優アドルフ・グリュンバウム教授を総統の演技指導者としてベルリンに連れてくる。“下劣な”ユダヤ人の指導を受けねばならないとなれば、総統の心中に憤怒がわきおこり、演説に再び迫力が出るはずだという計算。ところが、ゲッベルスの思惑とは裏腹に、グリュンバウムの演技指導で孤独な内面を吐露し始めたヒトラーは、むしろ彼に信頼を寄せるようになる。原題、Mein Führerには、「我が総統」という意味合いと同時に、ヒトラーのグリュンバウムに対する「Mein Führer=私の先生」という呼びかけとが重ね合わされている。

 第三帝国の官僚制が戯画化されていたり、ゲシュタポのヒムラーが変な格好していたり(脇役だが、俳優さんはこの演技で何か受賞したらしい)とコミカルなテンポで進む。偽者ヒトラーの演説で最後をしめくくるのはチャップリン「独裁者」の本歌取りか。ヒトラーもの映画で定番のテーマは、独裁者の孤独(悪逆非道な奴の人間性を肯定するなんてけしからん、という意見もありますが、とりあえずおいておきましょう)。この映画でも、独裁者としての威厳を求められて内面をさらけだせない彼の苦悩、それをマジックミラーごしに見る側近たちのある者は笑い、ある者は心配から憤るというシチュエーションを通して浮き彫りにされている。「ヒトラー 最期の12日間」(2004年)では敗戦を目前にして、部下たちが次々と離反していく孤独が描かれていた。アレクサンドル・ソクーロフ監督「モレク神」(1999年)で描かれていたのは、独裁者でもどうにもならぬ死にひとり恐れおののく姿(ただし、ソクーロフの映画は史実としてのヒトラーというよりも、彼に仮託して神話世界的なイマジネーションを広げているものと私は受け止めた。昭和天皇をモデルにした「太陽」についても同様に考えている)。

 ヒトラーもの映画ではメノ・メイエス監督「アドルフの画集」(2003年)が私は好きだ。W.W.Ⅰ終結直後のバイエルン。不器用で傷つきやすい芸術家崩れの青年アドルフ・ヒトラーと、彼の才能に目をつけたユダヤ人画商とのすれ違ってしまった愛憎を描く。アドルフのスケッチを見た画商は「マリネッティなんて目じゃない、君こそ新しい未来派だ!」と絶賛。そこにあるのは、十数年後に具現化することになるナチスの衣装や建築などのイメージ。アドルフの傷つきやすさと、それが反転したルサンチマンが放っておけない感じで、ユダヤ人画商とのすれ違いには、歴史のイフのような話以前に哀しさが身につまされた。

 なお、「わが教え子、ヒトラー」の主演ウルリッヒ・ミューエは惜しくも昨年に亡くなられたという。「善き人のためのソナタ」(2006年)での渋い感じに私は好感を持っていたので残念。

【データ】
原題:Mein Führer: Die Wirklich Wahrste Wahrheit über Adolf Hitler
監督・脚本:ダニー・レヴィ
2007年/ドイツ/95分
(2008年9月14日、渋谷、Bunkamura ル・シネマにて)

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