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2008年8月24日 - 2008年8月30日

2008年8月30日 (土)

平松剛『磯崎新の「都庁」──戦後日本最大のコンペ』『光の教会──安藤忠雄の現場』

平松剛『磯崎新の「都庁」──戦後日本最大のコンペ』(文藝春秋、2008年)

 鈴木都政が都庁を丸の内から新宿へ移転しようとするにあたり、1985年、新都庁舎コンペの話が磯崎新アトリエにももちかけられた。説明会に出席しようとした磯崎は、エレベーターで師匠・丹下健三と図らずも鉢合わせ、磯崎の姿を認めた丹下の不機嫌そうな態度に驚く。会場には前川國男もいた。前川はル・コルビュジエに師事、1931年の帝室博物館(現在の東京国立博物館本館)コンペで敢えてモダニズム様式のデザインを提出して落選した“近代建築の闘将”である。丹下は前川事務所に勤務していたことがあり、前川・丹下・磯崎と三世代の大物建築家が揃い踏み。東京都の財政規模は優に一国レベルに匹敵する。戦後日本最大のコンペが開幕。

 磯崎は海外での経験を踏まえて「コンペは、たったひとつの極端に突出したアイデアを捜しているのだ」と語るが、この都庁コンペはいわば減点消去法で審査が進められ、特徴のあるプランは早々に落とされてしまったらしい。丹下案が通ったことについて政治的背景があったかどうかは分からない。ところで、磯崎の提出した超高層を避けた立体格子、巨大球形の浮かぶデザインは、その後、お台場のフジテレビ本社ビルとして現出する。手がけたのは磯崎ではなく、なんと丹下であった。本書の主役はもちろん磯崎だが、“敵役”となる丹下健三という人物の魅力もしっかり描かれている。専門的な話題はかみくだかれているし、文体もユーモラス。磯崎・丹下、二人の愛憎を軸に据えた日本建築史としてとても面白かった。

平松剛『光の教会──安藤忠雄の現場』(建築資料研究社、2000年)

 茨木春日丘教会、いわゆる“光の教会”は以前にテレビで見たことがある。安藤忠雄といえばすぐに思い浮かぶのがコンクリート打ちっぱなし。十字架状に切り込まれたすき間から差し込む光は実に荘厳だった。ただし、ギリギリの低予算で工夫しなければならなかったという事情がある。安藤の創造への意気込みと施主側の期待とが必ずしも一致するわけではないし、何よりも、実際に現場に携わる人々の苦労は並大抵ではない。安藤の人柄や彼の示したイメージの魅力はもちろんのこと、現場でのせめぎ合いを通して一つのイメージが形を成していく過程を描き出したノンフィクション。

 著者自身も建築家のようだが、ノンフィクション作家としての筆力は高くてなかなか読ませる。建築というテーマで何か取っ掛かりとなる本を探している場合には、まずこの2冊から手にとることをおすすめする。

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2008年8月29日 (金)

ル・コルビュジエ『伽藍が白かったとき』

ル・コルビュジエ(生田勉・樋口清訳)『伽藍が白かったとき』(岩波文庫、2007年)

 1935年、初めてアメリカを訪れたル・コルビュジエはニューヨークの摩天楼に生々しい矛盾と活力──“仙境的破局”を見出して驚嘆する。一方では、大規模な消費文化のただ中で人々の神経はすり減らされて疲れた顔が見られ、スラムの貧困も看過しがたい。他方で、加速度的に高まるカオスに疾風怒濤の精神的爆発をも感じ取っている。

 摩天楼を見たル・コルビュジエの第一声は「小さすぎる」。住宅事情・交通事情・健康的環境の悪さ、都市の抱える様々な矛盾に対して都市行政のまずさを指摘。摩天楼をもっと高く! そうすれば居住空間は格段に広がり、交通網や緑地を整備できる。集中的かつ簡潔に都市のあり方を根本から再編成せよと言う。機械文明とカオティックな活力、両方をあわせ持った若いアメリカならできると期待を寄せる。彼の理想とする都市プランの詳細は『輝く都市』(坂倉準三訳、鹿島出版会、1968年)にまとめられている。

 中世のカテドラル(伽藍)は今では煤けて観光名所として死んだ相貌を見せるだけだが、かつて建てられた当時には溌剌とした活力に満ちあふれていたはずだ。「伽藍が白かったとき…」というリフレインが文章全体にリズミカルな勢いを持たせている。

「伽藍が白かったとき、石工たちは魅力的であろうとは思わなかった。彼らは、緊張、危険、活力、根気、偉大な理想への忠誠の高揚する中で、最も品威ある聖堂を建て、さらに建てつつあった。…基本的なこと、測りえない未知のものと取組む男たちの厳しい運命は、彼らの心や手を、頑健な、実に悲劇的な感情へと向わせたのである。それは力強い時代、新しい時代であった。人々は世界を建設していた。そして、人々が野蛮で原始的であった以上に、その建築は大胆であり、知識と力と運動、増加、生成の支配の具体的なしるしであった。こうして至上権が、聳え立つ石と技術の力によって空に刻み込まれるのだ。一致した感情が企てを支え、人々は信じていた。…死ぬ前に、なにか生き生きとした変化するものに参加したい。私は魅力的であろうとは望まない、しかし強くありたい。私は凝り固まりたくない、保存したくない、行動したい、創造したい。」(本書、78~79ページ)

 都市生活の矛盾を解決しようというヒューマニスティックな動機と、芸術としての創造への意気込み、両者の結節点として都市計画の壮大な理想を繰り広げるところが魅力的だ。もっとも、後にル・コルビュジエ以降の大規模都市計画志向は都市の雑多性を押し殺してしまうと批判されることになるが。

 ル・コルビュジエの建築は、“白い箱”という形態、外壁ではなく柱がすべてを支える(従って、壁はあってもなくても構わない→自由自在なデザインが可能な)構造といった特徴が目立つ。それは、幾何学的な立体が大地から離れて宙に浮いているような印象すら受ける。全面ガラス張りも現代の我々にはすでに見慣れたものだ。技術的進歩を積極的に活用して過去の束縛から飛翔しようというイメージは、20世紀初頭、たとえば未来派などとも共通する精神的雰囲気も感じさせる。

 越後島研一『ル・コルビュジエを見る──20世紀最高の建築家、創造の軌跡』(中公新書、2007年)は、彼の作品一つ一つの持つ意味と魅力を語りつくす。とりわけ、ロンシャン教会堂が漂わせている聖性の理屈では説明しがたいオーラについての語り口には好感を持った。ル・コルビュジエには坂倉準三、前川國男、吉阪隆正などの直弟子がいたほか、丹下健三、磯崎新、安藤忠雄、伊東静雄をはじめ彼を意識している建築家は日本でも非常に多い。越後島研一『現代建築の冒険 「形」で考える──日本1930~2000』(中公新書、2003年)は日本の現代建築の流れをたどっているが、随所でル・コルビュジエとの対比に言及されるのが興味深い。

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2008年8月27日 (水)

松本仁一『アフリカ・レポート』『カラシニコフ』他

 最近でもジンバブエのムガベ大統領による強権的な政治抑圧が世界中の注目を集めた。指導者の腐敗、絶え間ない内戦、経済効率の悪さ、そして捨て鉢になってしまう人々──。松本仁一『アフリカ・レポート──壊れる国、生きる人々』(岩波新書、2008年)やロバート・ゲスト(伊藤真訳)『アフリカ──苦悩する大陸』(東洋経済新報社、2008年→記事参照)は、ジャーナリストとして歩き回りながらアフリカ諸国の抱える問題をスケッチしている。

 こんな言い方をすると語弊があるかもしれないが、国家という枠組みへの帰属意識や公共意識がないがために人々がバラバラになって収拾がつかなくなっている状況が見て取れる(私が単純にナショナリズムを礼賛しているわけではないことは上掲書を読めばわかる)。国民のためという自覚がないから政治指導者は平気で汚職に手を染めるし、国家への帰属意識よりも部族意識を優先させるため内戦が終わらないし(植民地支配によって不自然な国境線を引かれてしまったという問題がある)、遵法精神がなければ経済も治安も悪化するばかり。アフリカ各国の政治家たちは問題点を指摘されると「それはレイシズムだ、すべては白人が悪いんだ」と論点をすりかえて建設的なことは何もやらない。それでも、崩壊国家ソマリア(→ソマリア情勢の背景についてはこちらの記事を参照のこと)内部で事実上の独立国家となっているソマリランド共和国が伝統的な部族長老たちの合議によって秩序が保たれているケースも紹介されており、決して希望がないわけではない。

 アフリカの内戦では少年・少女たちが拉致されて兵隊に仕立て上げられてしまう問題が報告されている。弾除けに使われ、仮に生きて逃げることができたとしても、精神的に安定していない時期に残酷な体験をさせられてしまったことから難しいリハビリに直面している。なぜ年端のいかぬ少年少女でも兵隊になれるかといえば、カラシニコフ銃のおかげ。構造がシンプルでパーツの組み立てがラク、悪条件でも弾詰まりしない、それに安上がり。松本仁一『カラシニコフ』(Ⅰ・Ⅱ、朝日文庫、2008年)はカラシニコフ銃の世界的な流通に着目して、暴力に翻弄される人々の姿を報告してくれる。
 
 なお、エレナ・ジョリー(山本知子訳)『カラシニコフ自伝──世界一有名な銃を創った男』(朝日新書、2008年)は、この銃を開発した男からの聞き書き。職人技としてこの銃を開発したことへの誇りが見えるだけでなく、彼自身、もともと富農の息子として共産主義体制においては不遇な生い立ちであったこと、ナチス・ドイツ軍を撃退するためにより簡便・高性能の銃を開発したいという熱意があったことなどが語られる。カラシニコフという悪名高い響きとは裏腹に、技術者としての彼が生真面目な老人であることのギャップが印象に残った。

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2008年8月26日 (火)

竹井隆人『集合住宅と日本人──新たな「共同性」を求めて』

竹井隆人『集合住宅と日本人──新たな「共同性」を求めて』(平凡社、2007年)

 人間関係の希薄さによる社会不安に対しての処方箋としてコミュニティの復活を求ようとする議論では、たとえば農村や長屋のような顔の見える関係性がなつかしげに語られることがある。私自身、東京の無味乾燥な郊外住宅地に育ったこともあり、そうした自分自身の経験したことのないウェットな共同体に憧れを持ちやすい。ただし、所詮“憧れ”に過ぎないと自覚はしているが。このようなコミュニティ復活論が単なる精神主義に陥りやすいことは本書の指摘する通りである。そもそも、自発性を基とするコミュニティを政策として作り上げようという発想自体に矛盾をはらんでいることは以前にも触れた(→ジグムント・バウマン『コミュニティ──安全と自由の戦場』の記事参照のこと)。

 安易なコミュニティ復活論に対して、住民自身による一定のルール形成を通したガバナンスによって共同性を構築しようとするところに本書の眼目がある。第一に、都市における見知らぬ他者との共同性を組み立てるために個人対個人ではなく個人対集団社会という関係を保証するルールが必要であり、第二に、妙な住民エゴに陥らないよう自分たちの集団内部で自分たち自身に制限をかけていく必要がある。両方の問題の結節点として、本書は集合住宅における自治に着目している。

 住民自身によるしっかりとした自治的共同体が並立していくというイメージを本書は持っているのだろう。住民全員の参加、熟議、私的政府といった表現を見ていると、ルソーが社会契約論の理想としたスイスのカントンを思わせる。また、いわゆる“ゲーテッド・コミュニティー”の保安機能についての少々異様なまでに積極的な擁護はカントンにおける住民全員による共同防衛も連想させる。ただ、本書で主張されている直接民主主義がどこまで可能なのか私にはよく分からない。そもそも集合住宅という生活形態はたとえその意味内容を広げたとしても果たして一般性を持つものだろうか。何よりも、個人一人一人の共同参画→自治という政治モデルは、結局、民主主義論の永遠の理想に終わってしまうだけではないだろうか。前提とされる自律的な個人主義を如何に根付かせるかという問題意識は分かるが、これもまた別種の“べき”論に終わるだけで、それほど有効な議論とも思えない。

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2008年8月24日 (日)

「胡同の理髪師」

「胡同の理髪師」

 北京、紫禁城裏手の胡同(フートン)、下町の路地裏と言ったらいいのだろうか。いまや近代的な高層ビルの建ち並ぶ北京の中で、エアポケットのように残された古い街並。役人がやって来て、一軒一軒取り壊しの印をつけて回っている。理髪師のチンじいさんは、どうせ自分が火葬場の煙となった後の話だ、と意にも介さないが、息子たちは立ち退き料が気にかかる。テレビでは北京オリンピックを控えた特別番組がうるさい。

 チンじいさんは実在の人物、素人ながらも漂々としたマイペースぶりが実に魅力的だ。じいさんのキャラクターを活かしたドキュメンタリー風の物語となっている。民国2年、1913年の生まれというからすでに90歳を超えている。民国期の軍閥指導者・傅作義や京劇の往年の名優・梅蘭芳などの散髪もしたというから年季の入りようは相当なものである。民国、中共、そして改革開放以降の高度経済成長期と文字通り一身にして三世を経ているわけで、その閲してきた星霜はじいさんの暮らす胡同と分かちがたく溶け込んでいる。

 年齢の割にはかくしゃくとしたもので規則正しい生活を送っている。午前は自転車をこいで、すでに足腰の立たなくなったお得意さんのもとを回り、午後は近所の年寄り仲間と麻雀卓を囲む。一人欠け、二人欠けていく知己のことが自ずと話題にのぼる。死顔の不精髭は仕方がないと誰かが言うと、死に際こそ身だしなみはきちんとしておかなければいけないと力説するチンじいさん。

 この人情味のある街並がギスギスとした近代化の波に呑み込まれ、崩されてしまうのは何とも残念なことである。しかし、そうした成り行きを、意志の強そうな、同時に落ち着きのある眼差しで淡々と受け止めているチンじいさんの佇まいには、諦めというのとは対極的な潔さが感じられる。街と共に、こうしたじいさんもいなくなってしまうことの方が寂しい。

 岩波ホールで上映していたのは知っていたがうっかり観そびれてしまい、シネマート六本木で上映されているのを知って慌てて駆け込んだ次第。情感のしっとりとしたなかなか味わい深い映画で、観逃さなくて本当に良かったと思う。

【データ】
監督:哈斯朝魯
2006年/中国/105分
(2008年8月24日、シネマート六本木)

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「この自由な世界で」

「この自由な世界で」

 ポーランドで人材派遣の面接を行なっているシーンから映画は始まる。人材派遣会社で働くアンジーはシングルマザーだが、子供は両親に預け、学歴はあってもコールセンターの仕事に甘んじているローズとルームシェアリングしている。ある日突然解雇されたアンジーはローズを説得して職業紹介の会社を立ち上げた。東欧からの移民労働者を工場に送り込む世話師のような仕事。子供と一緒に暮らすため生活を安定させたいと焦るアンジーは、不法移民の雇い入れに手を染めていく。

 市場原理、雇用の流動化という形でいわゆる新自由主義経済が進む中、働き方の多様性と言ってしまえば聞こえはいいが、社会的底辺に落ち込んでしまった人々が外国人労働者と職を奪い合うという状況がよく指摘される(これは往々にして排外主義に結びつきやすい)。この映画はロンドンの中でも第三世界を形成している移民たちの生活圏を舞台としている。生活を安定させようとなりふり構わず仕事を進めるアンジーが、彼女自身の意図とは別に、結果として移民たちを食い物にしてしまう姿に、そうした新自由主義経済のしわ寄せされている問題が描き込まれている。「この自由な世界で」(原題:It's a free world…)というタイトルには、人間の尊厳としての自由と、それを踏みにじりかねない自由経済という矛盾が二重写しにされている。

 同じくケン・ローチ監督の映画で不法移民というテーマとの関わりでいうと、「レディバード、レディバード」(1994年)も観たことがある。男をとっかえひっかえして他人の目には自堕落に見られてしまう女性が、南米からの亡命者と出会い、精神的に立ち直ろうとした矢先、社会福祉当局から保護者失格の宣告を受けて子供が取り上げられ、出会った男性も国外退去通告を受けてしまうというストーリー。せっかく立ち直ろうとしていたのに、不条理に見舞われてしまうやりきれなさが印象に残っている。

 ただ、ケン・ローチの映画は私にはちょっと肌が合わないという感じもしている。良心的な社会派映画を作り続けていることには敬意を持っているし、問題意識にも共感できる。ただ、図式がはっきりし過ぎて、余韻というか含蓄が感じられないというか。以前、知人から、ケン・ローチは良いよ、と薦められ、レンタルビデオ店で「大地と自由」(1995年)を借り出して観たのが私のケン・ローチ初体験。テーマはスペイン内戦。反ファッショ陣営の中でも内訌が生じて、純粋に自由を求めるアナキストたちが、スターリン主義的なコミュニストによってつぶされていく話。まあ、言いたいことは分かるんだけど、全体主義vs.自由みたいな政治図式がどうにも陳腐に感じられて退屈してしまった。くだんの知人に文句をつけたら、「バカ! 「大地と自由」は駄作だ。「ケス」を観ろ」と言われたのだが、まだ観ていない。最近、「麦の穂を揺らす風」(2006年)がカンヌで賞をとったが、アイルランド独立闘争がテーマとのことで、何となく「大地と自由」のにおいを感じて結局観に行かなかった。初体験の呪縛というのは恐いものです(苦笑)

 とは言っても、これはあくまでも私の感じ方の問題なので、ケン・ローチ作品を全否定するつもりはない。興味のある人は是非観に行けばいいと思う。

【データ】
原題:It's a free world…
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
2007年/イギリス・イタリア・ドイツ・スペイン合作/96分
(2008年8月23日、渋谷、シネアミューズにて)

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「歩いても 歩いても」

「歩いても 歩いても」

 野菜を刻み、鍋がコトコトと煮立つ音。年老いた母(樹木希林)が「あなたはいつまでたっても覚えないわねえ」と言うと、長女(YOU)がまぜっかえす、とりとめないおしゃべりが台所から聞こえてくる。開業医だったがすでに引退した父(原田芳雄)は落ち着かなげに散歩に出かける。夕方、カナカナ…と鳴く蝉の声はもう秋の近づく気配を知らせている。ふんだんに用意される料理は子供や孫たちを待ち受けているが、お盆の帰省というわけではなさそうだ。

 電車で実家へと向かう良多(阿部寛)の表情は憂鬱で、さっさと切り上げて帰っちまおうと妻(夏川結衣)にブツブツ愚痴っている。子連れで再婚した彼女の方がよっぽど緊張しているのだが、そんなことはお構いなしだ。新しい息子とのギクシャクした距離感、そして彼自身の父に対してわだかまった葛藤。

 久しぶりに一堂に会した家族、母はせっせと料理をもてなし、父は所在なげに顔を見せる。他愛ない世間話が交わされる中から、この日は15年前に事故死した長男の命日であることが徐々に窺えてくる。そして、出来の良かった長男と常に比較されてきた良多がコンプレックスを抱えていることも。

 家族といっても、一人一人が別の人格の持ち主であるのは当然のことで、それぞれに他には窺い知れぬトゲも心のうちに秘めている。だが、そうしたわだかまりは日常の中に自然に溶け込んでいるもの。それをことさらに特筆大書すればいっぱしの心理ドラマに仕立て上げることもできるが、この映画はそんな安易なことはしない。一見とぼけて人の良さそうな母が本音まじりにふともらす言葉の毒々しさが印象に残ってしまうが、それは裏表のある性格と解すべきではなく、もっと自然に受け流せるものだろう。わだかまりもひっくるめて家族の付き合いがあり、わだかまりも溶け込みながら家族の歴史がつむがれている。

 何の変哲もないおしゃべりが続くだけでストーリーに起伏はない。しかし、会話の端々から垣間見える感情が襞をなすように奥行きを持ったところにはむしろ濃縮されたドラマを感じさせ、それがこの映画の本当に良いところだ。もともと私は是枝映画のファンではあるが、この作品が一番好きかもしれない。

【データ】
原作・脚本・監督:是枝裕和
出演:阿部寛、夏川結衣、樹木希林、原田芳雄、YOU、高橋和也、寺島進、他
2007年/114分
(2008年8月17日、シネカノン有楽町二丁目にて)

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「百万円と苦虫女」

「百万円と苦虫女」

 短大を出たものの就職できず、アルバイト生活中のスズコ。ひょんな事件がもとで警察の厄介になってしまい、家にも居心地のわるさを感じた彼女は「百万円貯まったら出て行きます」と宣言。とにかく知っている人の誰もいない所へ行こうと、海の家、山間の桃畑農家と百万円貯まるたびに転々と移る。そして、ある地方都市のホームセンターのバイトで自分を理解してくれそうな青年に出会うのだが──。

 スズコは「自分探しなんてむしろしたくない」と言う。色々なしがらみをことごとくリセットして、自分自身も含めてすべてがゼロの状態のまま生きていきたいという願望に突き動かされそうになることは私などにもよくある。しかし、どこへ行ったも人間関係はできる。しがらみ、なんて言ってしまうとマイナスの意味合いになってしまうが、スズコの行く先々で彼女自身の思惑とは別に図らずも良い信頼関係ができていく様子は観ていて安心感がある。

 それこそ苦虫を噛み潰したような感じにスズコはあまり笑顔を見せない。明るくはないが、かと言って陰気でもない、所在なげに佇む姿が自然になじんでいるのは、やはり蒼井優の演技力なのだろう。最初、岩井俊二監督「リリィ・シュシュのすべて」で彼女を観たときにはあまりパッとした印象はなかった。ところが、李相日監督「フラガール」での彼女の表情の取り方を観てハッとして、「リリィ・シュシュ」を観なおし、さらに熊澤尚人監督「ニライカナイからの手紙」、大友克洋監督「蟲師」、井口奈己監督「人のセックスを笑うな」と観た。以前、宮台真司がラジオの番組で、日本映画ファンは宮崎あおい派と蒼井優派に分かれる、と話していた記憶があり、その頃の私は宮崎あおい派だったが、今では完全に蒼井優びいきだ。

【データ】
監督・脚本:タナダユキ
出演:蒼井優、森山未来、ピエール瀧、笹野高史、佐々木すみ江、他
2008年/121分
(2008年8月3日、シネセゾン渋谷にて)

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