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2008年8月10日 - 2008年8月16日

2008年8月15日 (金)

岡田恵美子『イラン人の心』

岡田恵美子『イラン人の心』(NHKブックス、1981年)

 先日、あるイラン料理店に行く機会があった。とても居心地の良いお店で、何よりもマスターの奏でる音楽が素晴らしい。生粋のイラン人だが、日本に帰化したそうで、お名前をヒロシさん(!)とおっしゃる。気さくに楽器の説明をしてくれた。サントゥールは船の形を模した一種の打弦楽器で、鍵盤を撥で弾いて音を出す。「大きな古時計」なども弾いてくれたが、どこかもの悲しい響きが心地よい。ネイという笛はリードがなく、笛を歯に直接合わせて吹くようで、見るからに難しそう。ダーフというタンバリンのような太鼓を絶妙な手さばきで叩きながら朗々と歌い上げる声には思わず聞きほれてしまった。サービス精神旺盛で、「涙酒~」なんて歌ってくれたが、それなりにサマになるから面白いものだ。

 帰ってから思い立ち、本書を読み返した。まだイスラム革命の起こる前の王政期、日本人の姿など皆無だったテヘランに女子学生一人で留学した体験記。イラン人のアクの強さに四苦八苦する奮闘ぶりが率直に書かれているが、読んでいて嫌な感じは全くしない。そういう文化なんだな、と自然に納得させてしまうのは、やはり著者自身がイラン文化に深く愛着を持っていることが行間の端々からうかがえるからだろう。イランといえば、“原理主義”政権や核査察問題などがすぐ頭をよぎる。本書はイスラム革命前の話という点では古いのかもしれない。しかし、生活光景や文学作品から垣間見えるメンタリティーというのは、個々の政治的事件とはまた別に、長いタイムスパンの中では一貫したものがあるはずで、それが実感を込めて描かれている点ではとても良い本だと思う。

 以前に本書を読んだときに一番印象に残っていたのが、大学での古典文学の授業風景。壇上に立った教授は、講釈をたれるのではなく、古典作品を朗々と歌い上げる。学生たちはうっとりと聞きほれ、朗誦が終わるやいなや、口々に賛嘆の声を上げる。コンサート会場で熱狂するファンという形容がぴったり。イランといえば詩と歌の国なのか、とヒロシさんの歌声を聞きながら思い返していた次第。

 イランの文学といって、オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』を思い浮かべるのは安直に過ぎるかもしれないが、この四行詩そのものが私は好きなので勘弁されたい。私はもともと厭世的な気質が極めて濃厚な人間なので、『ルバイヤート』にみえる虚無の雰囲気にひかれていた。ただし、“東洋的無”みたいな妙な一般論に結び付けてしまおうとするのが私のいけないところなのだと思う。翻訳を通して理屈で読もうとすると、どうしても独りよがりになってしまう。ヒロシさんの歌声を聞きながら、たとえばこんな感じに歌い上げていけば、『ルバイヤート』の虚無感も、それと表裏一体をなすおおらかな現世肯定の明るさも同時に醸し出されてくるのだろうか、そんなこともとりとめなく考えていた。

 なお、私の手もとにある『ルバイヤート』は古くからある小川亮作訳の岩波文庫版。確か、陳舜臣さんが若き日に訳したものが最近、集英社から出たはずだが、こちらは未見。

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2008年8月11日 (月)

「敵こそ、我が友──戦犯クラウス・バルビーの3つの人生」

「敵こそ、我が友──戦犯クラウス・バルビーの3つの人生」

 フランス占領地域でゲシュタポとしてユダヤ人移送、レジスタンス摘発に辣腕を振るい、“リヨンの虐殺者”と呼ばれたクラウス・バルビー。彼が捕らえられ、“人道に対する罪”で裁判が行なわれたのはようやく1987年になってからのこと。戦後40年以上もの間、彼はなぜ逃げおおせることができたのか。アメリカ情報部門の協力者、ボリビア軍事政権の顧問(ボリビア潜入中のゲバラ捕殺にも関わったらしい)として第二、第三の人生を歩んだバルビーの軌跡をたどるドキュメンタリー。

 バルビー裁判をめぐって取りあえず指摘できるポイントは、第一に、フランス国内における戦争の“記憶”の問題。いわゆる“レジスタンス神話”は戦後フランスにおける国民統合の基柱をなしていたが、他方でヴィシー政権についてはタブーであったことは周知の通り。バルビー裁判の弁護人は、ヴィシー政権もまた積極的にナチスに協力していたこと、その意味でバルビー個人だけでなくフランス国家も免罪されてはならないと主張。

 第二点。終身刑の判決が出た後、バルビーがもらした「みんなが私を必要としたのに、なぜ私一人だけに責任が負わされるのか」という発言をどう捉えるか。もちろん、バルビーの犯した残酷な所業は憎むべきものである。ただ、ここで考えるべきは、ナチスという政治システムの中で彼は自らを“尋問のプロフェッショナル”として磨き上げ、その技術的ノウハウを必要とする政治体制が戦後においても存在していたこと。需要があって供給がある。従って、バルビーがいなくとも別の人間がこうした犯罪に必ず手を染めたであろうことを考えれば、彼個人の犯罪として断罪して終わらせてしまっても意味がない。

 バルビーの娘は、父は優しい人でした、と言う。普通の常識人としてのパーソナリティーと政治システムに組み込まれた犯罪行為とが残念ながら両立し得ることは、ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』で“悪の陳腐さ”という表現で指摘されていた通りだ。また、やはりアイヒマン裁判をテーマとしたドキュメンタリー映画「スペシャリスト」のサブタイトルが“自覚なき殺戮者”となっていたことも思い返される。

【データ】
原題:Mon Meilleur Ennemi
監督:ケヴィン・マクドナルド
フランス/2007年/90分
(2008年8月10日、銀座テアトルシネマにて)

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「スカイ・クロラ」

「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」

 この世界から戦争がなくならないのは、いわば人間の本性として考えるしかないのだろうか。戦争があって、はじめて平和のありがたみが実感される。“平和”な社会──この地球のどこかに悲惨な現実があるからこそ、それをニュースとして見る人々は“平和”の価値を謳いあげる。他者の痛みによって担保された逆説的な“平和”。

 戦争請負会社によってショーとして仕組まれた代理戦争。戦闘は“プロジェクト”と呼ばれる。戦闘機に乗るのは“キルドレ”──大人になることのできない、つまり戦死するまで永遠に生き続けることを宿命付けられた子供たち。映画全体の詳密にリアルな映像とは裏腹に、彼ら彼女らの表情はのっぺりと無機的な感じ。終わらない日常。生きることそのものの倦怠感。永劫回帰の実存的意味は想像するだけでも恐ろしい。

 映像が実に素晴らしい。広々とした空を後景にした奥行きのある立体感は人間の小ささを否が応でも際立たせる。大編隊の航空シーンなど圧巻ではあるが、いわゆる手に汗にぎるタイプの戦争アニメとは全く異質だ。この美しく雄大な空のイメージは、映画全体に漂っているかわいた透明感、空虚感を感傷的にまで強めてくる。

 原作は森博嗣の『スカイ・クロラ』シリーズ(中央公論新社)だが、私は未読。“平和”の虚構性というテーマへのこだわりが押井守にはあるのか、東京が事実上の戒厳令状態に置かれるシミュレーションを行なった「機動警察パトレイバー2 the movie」(1993年)なども思い出した。

【データ】
監督:押井守
原作:森博嗣
脚本:伊藤ちひろ
声の出演:加瀬亮、菊地凛子、谷原章介、栗山千明、竹中直人、他
2008年/121分
(2008年8月10日、新宿バルト9にて)

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