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2008年1月13日 - 2008年1月19日

2008年1月19日 (土)

シベリウスはお好き?

 いや、何となくこんなフレーズが思い浮かんだだけで、サガンの小説と絡ませようとかいう意図はございません。あしからず。

 NHK交響楽団1611回定期演奏会に行った。NHKホールにて。考えてみると、NHKホールは本当に久しぶりだ。高校生のとき、大野和士指揮によるショスタコーヴィチ交響曲第十番を聴きに来て以来だから、もう15年も経つのか。意外と変わってないな。

 当日券で自由席、1,500円。さすがにN響でほぼ満席。15:00開演だが、その前にロビーで楽団員による室内楽演奏をやっていた。P・ガベイという人の曲「レクリエーション」。ホルン、トランペット、トロンボーン、ピアノの四重奏という変わった編成。軽快で、なかなか楽しい曲だった。

 今回のプログラムはシベリウスの交響詩「四つの伝説」から「トゥオネラの白鳥」、交響詩「タピオラ」、そして交響曲第二番。N響の名誉指揮者、ヘルベルト・ブロムシュテットの指揮。N響アワーをみていればおなじみだ。穏やかでやさしそうな笑顔にいつも好感を持っているのだが、今回、3階の奥まった席なので、遠くてお顔はよく見えず。

 私はクラシックを聴くようになった中学生の頃からシベリウスの交響曲第二番は大好きで、繰り返し聴いている。とりわけ第四楽章、弦楽のメロディーがなめらかに、かつ高らかに響きわたるあたり、胸の奥にじんわりとしみこんでくる感じで何とも言えず素晴らしい。大好きなメロディーを聴いていると体が我慢できず、かすかながらも手でリズムをとってしまう。斜め前に座っていたおじさんもやはり自然と手が動き出していて、連帯感を覚えた。

 シベリウスはフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に題材をとった交響詩を多く作曲している。中高生の頃、カラヤン指揮のCDで「トゥオネラの白鳥」や「タピオラ」を聴いて、そうした神話的ファンタジーの音楽的表現に興味を持った。もっと聴きたいと思ったものの、その頃はシベリウスの曲でもマイナーなCDは入手が難しかったように思う。「トゥオネラの白鳥」はよく単独で演奏されるが、これを第二曲とする連作交響詩「四つの伝説」の全体は、FM放送でのネーメ・ヤルヴィ指揮による演奏をテープに録音して、これを繰り返し聴いていた。第一曲「レミンカイネンと島の乙女たち」の出だしが好きだった。北方の森林や沼沢が広がる風景を脳裏にイメージして、清潔感を湛えた静寂に憧れを抱いた。

 「トゥオネラの白鳥」でのイングリッシュ・ホルンの響きが実に良い。ホルンとは言っても、見た目は大きめのオーボエといったところか。交響曲第七番でもイングリッシュ・ホルンのソロとオーケストラとの掛け合いが胸がすくように美しく、イングリッシュ・ホルンと言うと私はシベリウスを思い浮かべる。〔追記:確かめてみると、第七番のソロはトロンボーンでしたね(苦笑)。オーケストラの音がたゆたう中で管楽器の音色が孤高に響く感じが良い、と言い換えておきます。〕

 N響の広報誌『Philharmony』2008年1月号でシベリウス特集が組まれていたので、休憩時間に買い求めた。神部智「幻の《交響曲第8番》とシベリウス晩年の美学」でシベリウスに交響曲第八番の構想があったことを初めて知った。十九~二十世紀にかけてのヨーロッパは中小国でナショナリズムが大きく盛り上がった時代だが、リョンロートによる『カレワラ』採集と共に音楽がそのシンボルを果たした背景を新田ゆり「祖国と自然への想いを今につないで」は簡潔に教えてくれる。池田和秀「シベリウスの国は小さな音楽教育大国」によると、そうした音楽のシンボリックな位置付けから、弱小国としての立国の道として音楽も一つの柱となっているそうで、人口に比した音楽の活況ぶりに驚いた。

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2008年1月18日 (金)

白川静『孔子伝』

 私は中学生の頃から『荘子』が好きだった。言葉は絶対ではない。『荘子』に見える逆説に満ちた寓話を通して、言葉では決して示し得ない何かに目を向けるという発想に早くから馴染んだことは、私の乏しい読書体験の中では唯一と言って良いくらいの収穫だったと思っている。もともと中国史に興味があったのだが、中国の古典を現代日本語訳したシリーズが徳間書店から出ており、それを読み漁っているうちに『荘子』と出会った。儒家のものは読まなかった。儒家は体制派、老荘は反体制という単純な先入見があったからだ。大学生になって『論語』を初めて読んだ。一つ一つのセンテンスが短いので、漢文の勉強のつもりでノートに書き写しながら。意外と違和感はないのがむしろ驚きだった。

 白川静『孔子伝』(中公文庫、1991年)は漢字についての徹底的な考証を踏まえて、倫理道徳の権化のような孔子像を崩し、古代世界に生きた生身の彼の姿を描き出そうとする。とりわけ私が興味を持ったのは、「孔子の精神は、むしろ荘周の徒によって再確認されているように、私は思う」(本書、270ページ)という指摘だ。「儒教のノモス化は、孟子によって促進され、荀子によって成就された。それはもはや儒家ではない。少なくとも孔子の精神を伝えるものではないと思う。儒教の精神は、孔子の死によってすでに終っている。」「イデアは伝えられるものではない。残された弟子たちは、ノモス化してゆく社会のなかに、むなしく浮沈したにすぎない。」

 孔子の思想の核心は“仁”という一言に尽きるのだろうが、「他人への思いやりの心」と言い換えてしまうと陳腐だし、無意味だ。要は人それぞれが心の中に秘めている純粋さ、誠実さを呼び覚まそうということで、それは具体的に定義できるものではない。そうした心情的な何かを形式として表出させれば“礼”となる。孔子は伝統的古俗を探りながらその“礼”をまとめ上げるわけだが、人としてのあり方を形式規範で縛りつけることを意味するのではない。天地の間に生きる者として、私は私であって私ではないという確信が得られれば、“仁”といい、“礼”といっても、ごく自然な感覚で体現できるのだろう。

 結局、“仁”の表われ方は人それぞれだと思う。「人それぞれ」と言っても、自分勝手な放恣を指すのではない。人は所与の条件の中で生きるしかない。様々な制約がある中でも、自分なりの純粋さ、誠実さを追求してみる。ただし自分を甘やかして独りよがりになりかねないから自己批判的に。古の伝統に“礼”を求めるのは、思いつき程度の独りよがりな思い込みを常に相対化するためだろう。その結果として、こういうあり方が自分にとって自然だと感じられれば、それこそが“道”であるとしか言いようがない。

 このような試行錯誤は手がかりがないだけに難しい。手がかりを外に求めたくなる。孔子の言葉に注釈を施し、規範化する動きが生まれる。規範に従うことで何かが分かったような安易な納得を求め、他人にもその規範を押し付けようとする。自身の生身の感覚を総動員した試行錯誤を欠いた場合、規範への順応は空疎となる。注釈と規範とによる一大秩序体系=ノモスがこの世を覆いつくし、個々人それぞれの可能性を平均化しようという抑圧が生ずる。しかしながら、「『論語』は、特に孔子の語を、一貫して流れているものは、そのようなノモス的社会とは調和しがたいものである。」(本書、254ページ)

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2008年1月17日 (木)

澁谷由里『馬賊で見る「満洲」』『「漢奸」と英雄の満洲』

 太平天国の動乱以降、清朝末期から中華民国初期にかけて中央権力を欠いた中国では各地で武装勢力が割拠する混乱状態に陥っていた。世界史の教科書的に整理すると、淮軍を率いて太平天国を鎮圧した李鴻章系が洋務運動の担い手として中央政界に重きをなし、その中から新建陸軍を築いた袁世凱が台頭。彼が辛亥革命時に孫文と取引きして清朝に引導を渡して中華民国の大総統となったが、帝政運動に失敗して失意のうちに死ぬ。袁の部下たちは北洋軍閥として抗争。蒋介石率いる国民革命軍による北伐及び張学良の易幟(1928年)によっていったん中国は統一されたものの、今度は国共内戦に突入、という流れになる。こうした混乱期には、当然ながら各地で自衛の動きが出てくる。たとえば“馬賊”という言い方がされるが、その中には一定の保険料を徴収していわば必要悪的に形成された自衛武装集団(保険隊)などもあった。

 澁谷由里『馬賊で見る「満洲」』(講談社選書メチエ、2004年)はこうした“馬賊”出身者の中でも張作霖に焦点を当てる。張作霖といえば日本の傀儡となったなり上がり者というイメージも強いが、本書はそうした定説的な理解に疑問を呈し、むしろ彼の政権の自立的な性格に注目する。とりわけ、張作霖政権下、奉天という一地域ではあっても警察行政の刷新、税務機構の整備、財政再建、鉄道の敷設、大学の創立など内政改革を進めた王永江という人物を高く評価している。中央派遣のキャリア官僚(科挙官僚)がいなくなって、地元の中下級官吏たちのモチベーションが上がったこともこうした改革が成功した一因であったとも指摘する。

 中国近代史では康有為や孫文などの革命家が名高いが、彼らには理想はあっても混乱を終息させるだけの実行力がなかった。国家を秩序だってまとめ上げるには財政と軍事力とが不可欠であり、その点で着実な実行力を示そうとした人物として本書は袁世凱を評価。小規模ながら張作霖も同様の方向を目指していたという位置づけも興味深い。

 「保境安民」、つまり一定の秩序を保って民生を安定させるのが第一の目的であり、そのためには清濁併せ呑む。王永江はそうした態度で日本軍とも妥協を重ね、バランスをとった。澁谷由里『「漢奸」と英雄の満洲』(講談社選書メチエ、2008年)は、張作霖と張学良、張恵景と張紹紀、王永江と王賢湋、袁金鎧と袁慶清、于沖漢と于静遠という五組の父子それぞれを主役とする五章構成。張作霖・張学良親子と王永江を除けば、みな満州国に関わっており、彼らを“漢奸”として断罪して終わらせてしまうのが戦後歴史学のスタンダードであった。しかし、彼らとても「保境安民」という一線を持っており、抗日派とは方法論の違いに過ぎなかったと考えることもできる。

 満洲国の初代国務総理・鄭孝胥は洋務官僚出身の知識人で二代目国務総理・張恵景は“馬賊”あがり。二人とも日本側のスキを見て主導権を取り戻そうという思惑では共通していたが、出身階層の違いからソリが合わず協力することはできなかった。こうしたあたりから中国社会における庶民と知識人との断絶が見出せる。

 山海関の東、いわゆる“満洲”は清朝発祥の地としてかつては漢族の移住は禁止されており、漢族にとってなじみは薄かった。しかし、この地が“満洲国”として分離されたためにこそ、かえってここもまた中国の一部のはずだと意識化されたという指摘は、日本への対抗意識をもとに中国ナショナリズムが形成されたことを考える上で興味深い。

 日本の大陸進出は現地の人々の受け止め方を考えれば決して美化できないが、かといって中共の公式見解である人民史観も不自然だ。そうしたもどかしさが著者の動機となっている。特定の史観ですっきり整理してしまうのではなく、矛盾をはらみつつも試行錯誤していた人物群像を、上記二著はエピソード豊かに表情も浮かぶように描き出しており、とても面白かった。

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2008年1月16日 (水)

台北を歩く⑪誠品書店信義店にて

(承前)

 最後のお目当て、誠品書店信義店へ向かった。2006年に開店した新しい旗艦店である(写真84)。2~5階までを書店が占めている。店舗面積は実に広々としており、池袋のジュンク堂書店よりも広いのではないか。本店は24時間営業だが、ここも遅くまで開店しているはずで、正確な時間は確認していないが、少なくとも店内にある喫茶店の閉店時間は夜中の0:00だった。

 上から、まず5階は児童書フロア。中国語ばかりでなく、日本語、ヨーロッパ諸語の絵本が取り混ぜて置かれている。4階は洋書と芸術のフロア。日本語専門コーナーがある。芸術・ファッション・旅行関係が多い。換算レートにもよるが、日本で買うよりも1割ほど高くなってしまう。3階は人文関係。ちょうど、台湾大学の心理学の教授によるトークセッションが行なわれていた。それから、社会科学・ビジネス。2階が新刊・雑誌フロア。6階はレストラン街。

 ジュンク堂と同様、店内に座れるスペースがある。座り読みどころか堂々と調べ物や勉強をしている姿も目立ち、中には本の開きを手で平らにならしている人がいたのには驚いた。部数の多い新刊や雑誌はビニール包装されており、平積みの一番上に1冊だけ見本用が置かれているので、それを読んでいたのだろう。立ち読み・座り読みには日本よりも寛容な社会のようだ。

 台湾の書店で娯楽小説をみると、金庸などいわゆる武侠小説という中国独特の小説ジャンルがある一方で、現代小説や推理小説、それから漫画のコーナーをみると日本語からの翻訳が圧倒的に多い。日本の名だたる作家のものはほとんど翻訳されているし、漫画に至っては9割以上が日本作品だ。誠品書店信義店のような巨大書店をみても、これだけの出版物が出ているというのは台湾の人口から考えて驚異的だろう。読者需要というだけでなく、書き手という供給源の点からも一定の人口は必要である。台湾は人口比率からいって日本の約五分の一だが、娯楽作品については日本からの翻訳という形で供給源を補っていると言えるのだろう。

 日本のファッション雑誌は誠品書店などの大型書店に限らず街中の中規模店でも普通に置かれている。中国語版も装丁の雰囲気はまったく変わらず、ひらがな・カタカナが装飾的に使われたりカバー表紙で日本のアイドルが微笑んでいたりするので、並んでいてもどちらが日本語版でどちらが中国語版なのか、一瞬、見分けがつかないくらいだ。

 4階に大陸から輸入された簡体字本の専門コーナーがあった。台湾では民主化によって大陸からの輸入制限が緩和されている。西欧の学術的成果を摂取する際、かつては台湾独自で翻訳するか、もしくは日本語経由で読んでいた。ところが、近年は大陸の経済水準、そして文化水準が向上するにつれて、大陸でも西欧文化の翻訳出版が盛んになり、人口が多いだけに翻訳のペースもはやい。しかも、台湾や日本の本よりも廉価で入手できる。そのため、台湾では近年、簡体字本の需要が高まっているという。

 新刊のベストセラーでは、安妮宝貝(アニー・ベイビー)『蓮花』(繁体字版)が一位となっていた。安妮宝貝は上海を舞台とした小説を書き、ネット発で大人気、中国語圏の若者世代から広く支持されている(なお、帰国してから神保町の内山書店で大陸刊行の『蓮花』簡体字版を手にとって見たら、本の作りは台湾刊行の繁体字版の方が断然きれいだった)。これと合わせて興味を持ったのが、誠品書店でも張愛玲の小説がたくさん平積みされていたことだ。前にも述べたように、戦前の上海でラヴ・ストーリーを書いた女流作家である。張愛玲の原作をもとにトニー・レオン主演で映画が製作されているという事情がある。新旧両世代で大陸作家の小説が売れているというのが興味深い。

 同じ中国語(北京語)を公用語とする国として台湾は大陸と文化的土壌を共有している。他方、先に触れたように、娯楽小説や漫画の大半は日本語からの翻訳である。最近は韓国語からの翻訳も増えてきているようだ。娯楽作品は難しい思惑はとりあえず関係なく、自然な感覚で読むものだから、それだけ日本や韓国との共通した感性を台湾の一般読者は持っていると言える。つまり、言語的な共通性によって大陸に開かれつつ、同時に大陸からは独立した政治単位として、大陸と日本や韓国との結節点としてのポジションをとる。書籍事情からみても、そのように台湾が今後とるであろう方向性は考えられるのではないか。

 やはり本をごっそり買い込んでから宿舎に戻った。翌四日目、24時間営業の誠品書店敦南本店に早朝から足を運び、さらに何冊か買い足す。中国語は苦手なくせに、結局、合わせて20冊以上の本を買い込んでしまった。ついでに近くの国父紀念館にも寄る(写真88)。孫中山先生でございます(写真84)。儀仗兵の交代式(写真85写真86)。蒋介石は否定される一方で、孫文については国父としての地位は剥奪されていない。写真87は国父紀念館から見た台北101。昼12:00に集合場所で観光会社のバスに拾ってもらい、桃園国際空港へ行き、帰国の途に着いた。

(了)

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2008年1月15日 (火)

台北を歩く⑩行天宮・台北101

(承前)

 宿舎にいったん戻り、荷物だけ置く。16:00なので、時間を無駄にせずすぐ外出。今まで歩いたことのない東方向へ足を向けた。まっすぐ行くと何嘉仁書店というそこそこの大きさの書店があったので中をひやかした。この店から交差点を挟んだ向かい側に行天宮がある。交差点下には地下道があり、占い師の店が並んでいる。「日本語できます」という札のかかった店も多い。アロエ美肌療法をやっているおばさんもいて、日本人観光客が何人か集まっていた。

 行天宮に行った(写真80)。中に入っても、さてどうしていいものやら分からない。とりあえず、脇に並ぶベンチに腰かけ、メモをとりながら観察することにした。弁当を食べてるおばさんもいるから無作法ではないだろう。ただ、気がとがめるので写真は撮らなかった。

 老若男女を問わず、背広の男性も、バッチリ着こなした若い女の子も、とにかく人出が多い。長い線香を四、五十本ほどもあろうか束になって赤い紙にくるまれたのを宮の外で買ってから中に入ってくる。広場の中央と廟堂の前とに一つずつ火おこしがある。まず、中央の火おこしで線香に火をつける。一本を火おこしに放り込み、もう一本を両手で頭上におしいただき、線香を少ししならせるように振りながら一礼。人によっては、四、五回くらい礼をしており、敬虔そうな感じを受ける。人ごみでよく見えなかったのだが、さらに廟堂の前に行ってもう一度同じ礼を繰り返しているようだ。

 廟堂の前には青い衣を身にまとったおばさんたちが並んでいる。巫女さんだろうか。人々が行列して待っており、順番にお清めしてもらっている。巫女さんは火のついた線香を持っており、参拝者の頭上、前、後の順で線香をかざして煙を体にかける。これを何回か繰り返す。子供用の衣服を持ってきて、これに煙をかけてもらっている人もいた。無病息災の願いが込められているのだろうか。

 人がワサワサする中、時折、カタン、カタンと何かが石床にあたる音が響き渡る。廟堂の前で参拝者がふるサイコロの音だ。サイコロの入った両の掌を頭上に捧げ、体全体で勢いをつけてゆっくりと床に落とす。おみくじみたいなものか。道教の知識は皆無なので、作法の意味付けがさっぱり分からない。とりあえず手を合わせ、一礼して立ち去った。

 行天宮からさらに東へまっすぐ15分ほど歩いただろうか。途中、榮星公園の前を過ぎた。辜顕栄一族の別宅だった所らしい。しばらく行くとモノレールにぶつかる。MRT木柵線である。中山國中駅で乗車。現在はここが終着駅となっているが、建設中の路線が北の松山空港に向けて延びている。モノレールといっても、台北の街は高層建築が密集しているので視界はあまり開けない。微風広場というショッピングセンターの脇を通りかかった。紀伊国屋書店がここにあるのは帰国後に知った。忠孝復興路駅で地下鉄に乗り換え、市政府駅で下車。

 市政府駅の南側、信義地区は再開発されたばかりで、デパートやシネコンが集まっている(写真81写真82)。新光三越デパートのスカイロードをまっすぐ渡り、台北101の前に出た(写真83)。正式名称は臺北國際金融大樓。金融機関が集まったビジネスの最先端らしい。101階の高層ビルだが、最近、ドバイに抜かれてアジア第二位となったという。1~5階は太平洋そごうデパート。ここにページワンというシンガポールの書店グループが店舗を構えていることはやはり帰国後に知った。

 5階から直通エレベーターで89階の展望台まであがる。チケット売り場では中国語の分からない東洋人とみると日本語で話しかけてくる。時間は19:00を過ぎている。夜の台北の街に光の斑点がびっしりと広がっている様子は実に美しく、しばし時を忘れて見とれてしまった。

(続く)

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2008年1月14日 (月)

台北を歩く⑨台湾大学にて

(承前)

 歩いてMRT芝山駅に出た。淡水線に乗り、台北中心部を突っ切って南の公館駅で下車。ここは学生街である。

 台湾大学に行った。写真72は正門。衛視室は古い写真で見るのと全く変わらない。キャンパスは広々としており、学生は自転車で移動している。図書館までまっすぐにのびる椰子並木道が実に壮観だ(写真73写真74)。写真75は並木道沿いにあった建物。「国家科学委員会/人文学研究中心」となっている。赤レンガの風合いがレトロに重々しい。戦前の台北帝国大学の時の建物を現在でもそのまま活用している。撮影に失敗してしまったが、写真76は傅斯年ベル。戦後、新制の国立台湾大学初代学長を記念した鐘である。キャンパス内にまで路線バスが入ってきており、その停留所が鐘の前にあった。写真77が並木道の突き当たりにある図書館。

 理学部の校舎の前を通りかかったら、教室で原子物理学について展示をしているのでお気軽にどうぞ、という看板を見かけた。これを口実に校舎に入ってみた。展示教室では年配の女性が一人見ているだけ。あまり興味はないのですぐに退室。廊下をぶらぶら歩く。私は見た目として院生くらいの年齢なので、学生たちとすれ違っても不審がられることはない。日本でも戦前から続く大学のキャンパスだと古い校舎を直し直し使っていることがあるが、内装はそうした校舎と全く変わらず、外国の大学にいるという実感がわかない。歩いている学生の顔立ちも服装も日本人と見分けがつかないし。弁当を手にした学生が教室を覗き、「あ、ここ使ってる」という感じに場所探しをしている姿もなつかしい。

 台湾大学前の大通りは羅斯福路という。ルーズベルトのことらしい。正門からこの通りを挟んだちょうど真向かいに吉野家があった。話のタネにでもと入ってみる。カウンターで頼み、トレーに出た牛丼を持って席に着くのだが、内装はちょっとしたファミレス風。時間帯がずれていたのか空いており、何人か勉強している台湾大学生を見かけた。

 豚汁は甘めだが問題はない。キャベツの浅漬けは甘すぎる。紅生姜はなく、代わりに生姜の甘酢漬けがテーブルに置いてあった。牛丼そのものは米も普通で特に問題はない。ところで、中国や韓国と同様、台湾でも器を手に持って食べることは不作法とされる。一応気にしているので丼を置いたまま箸でこぼしながら米粒をすくっていたのだが、非常に食べづらい。牛丼はやはりガーッとかきこむのでないと、食べたという爽快感がない。周囲を見回すと、まず牛肉を箸でつまんで口に入れ、それからレンゲでご飯をすくって食べていた。微妙なところだが、食習慣の違いが見えて面白かった。

 台湾大学の周辺には書店が多いと聞いていたのでぶらぶら散歩。大学正門前の交差点脇には誠品書店の支店。店内はきれいだし、書棚の揃えも充実している。新生南路沿いに北へ行くと、日本式家屋を見つけた(写真78)。この家の前から横丁に入ると、台湾e店という書店がある。“e”にあたる文字を変換できないのだが、台湾語で“の”を意味するらしい。つまり、“台湾の店”。台湾人アイデンティティーをコンセプトとしており、台湾の歴史や文化についての本が充実している。5冊ほど買い込んだ。

 裏手の通りに入ると、宅地の中にカフェなどの店が混在している区域。喫茶店の窓越しに、勉強している台湾大学生の姿が見えた。羅斯福路を南に渡ると、にぎやかな商店街。“挪 威森林”という喫茶店(写真79)。つまり、『ノルウェーの森』。村上春樹好きが開いた店らしい。

 古本屋があったので入ってみた。店先のダンボール箱に二束三文の漫画やライトノベルが詰め込まれていた。店内に並べられているのが中国語の本であるということを除けば、日本でも見かける昔ながらの古本屋のイメージそのまま。ほこりっぽい空気が実になつかしく、落ち着く。丸川哲史「台北書店めぐり」(『未来』463号、2005年4月)によると、台湾の古書店には戦前に刊行された日本語の古書もかつてはたくさんあったらしいが、噂を聞きつけた日本人研究者がごっそり買いあさったため、今ではまったく見かけないという。

 南天書局も台湾関係の書籍が充実しているらしいので探したのだが、見つからず。校園書局はなぜか宗教書が多い。金石堂書店は標準的な書店という感じだろうか。外国文学の棚をみると、日本が2棚、韓国・美国(アメリカ)・英国が1棚ずつ、その他で2棚という配分。新刊・ベストセラーのコーナーでは日本語からの翻訳ものが目立つ。携帯小説の『恋空』まで平積みされていた。映画は台湾でも上映される予定らしく、オビに新垣結衣の写真があった。

 日本にいたときに台湾文学について調べて朱天文・朱天心姉妹、李昂、白先勇、舞鶴といった名前を頭に入れておいたのだが、実際に街中の新刊書店をひやかしてみると、あまり見かけない。棚ざしで1冊ずつあればいい方だ。書店では網路文学(ネット文学?)・励志文学(ライトノベル?)の藤井樹や九把刀(Giddens、ギデンズ)の本がよく目立った。中国文学を専攻する大学の先生たちと実際の一般読者とでは大きな乖離があるようだ。文学としてのクオリティーはひょっとしたら低いのかもしれないが、それもひっくるめてトータルに紹介してくれないと、現代台湾事情が見えてこない。なお、藤井樹はペンネームらしいのだが、“ふじい・いつき”と読んでいいのだろうか? 岩井俊二監督「LOVE LETTER」の主人公の名前だ。

 リュックサックに詰め込んだ本の重みで肩が痛いので、いったん宿舎に戻ることにした。公館駅でMRT淡水線に乗り、民権東路駅で下車。

(続く)

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2008年1月13日 (日)

台北を歩く⑧圓山・忠烈祠・芝山巖

(承前)

 三日目の朝。快晴。昨日は台北市の中心部を歩いたが、今日はその北のはじと南のはじを回る予定。

 宿舎を出て北上。朝食を摂れる店が見当たらず、コンビニでメロンパンを買ってぱくつきながら歩いた。台湾のコンビニでは包装済みの菓子パン、それからおにぎりは置いてあるのだが、サンドイッチ(三明治)など惣菜パンはない。その代わり、朝、駅の近くなどでは三明治を売っているおばさんを見かける。棲み分けをしているようだ。また、飲み物の自動販売機は公園など一部の区域を除き、街中で全く見かけなかった。ただし、コンビニ密度が極めて高いので、飲み物はちゃんと買える。台湾の水道水は硬水なので、うっかり飲むと腹を下してしまうから要注意。

 林安泰古暦へ行ったが、朝早いので閉まっていた。松山空港へと降りる飛行機が轟音を立てて頭上を通り過ぎる。台北市立美術館へ出た(写真56)。「海洋堂與御宅族文化」(海洋堂とオタク文化)展を開催中。海洋堂というのはフィギュア人形で有名な日本の会社である。こんなところでお目にかかるとは驚いた。

 ここから圓山へ向かって基隆河を渡るつもりだったのだが、橋は自動車専用らしく歩道がない。排気ガスを浴びながら立ちつくす。やむを得ず、最寄りの圓山駅へ行ってMRTに乗り、次の剣潭駅で下車。たいていの観光客は北口から出て士林夜市へと行くが、私は南口から出る。

 MRTは中心街では地下鉄だが、この辺りまで来ると高架路線となっている。かつて勅使道路と呼ばれた大通りと並行している。皇太子時代の昭和天皇が台湾神宮に詣でた道である。朱天心『古都』でこの高架路線は無粋だと文句をつけていたのを思い出した。この小説に時折“宮の下”という駅名が出てくるのが気になっていた。以前は北の淡水まで線路が敷かれており、現在の剣潭にあたる駅にそう名づけられていたらしい。つまり、台湾神宮参詣者のための駅であった。

 目の前に小高い山がそびえている。ふもとの大通りに面した道観の脇に階段があった。のぼると、圓山大飯店の駐車場に出る。かつての台湾神宮の故地である。戦争中、1944年に飛行機墜落事故で焼失、そのまま再建されることはなかった。祭神は大国主命・大己貴命・少彦名命、それから北白川宮能久親王。北白川宮は1895年の台湾進駐時に近衛師団長として上陸、陣中で病没したためここに祀られた。彼は彰義隊に擁立されて上野の寛永寺に立てこもった経歴もあり、皇族ながら数奇な人生が興味深い。

 日本の植民地支配でいつも不思議に思うのは、支配地に必ず神社を建てることだ。信仰の押し付けの無理という問題ばかりでなく、明治憲法体制下において国家神道は宗教ではないという見解が取られていたことも含め、現代の我々の感覚とはだいぶ距離を感ずる。当然ながら、そうした植民地の神社はすべて取り壊された。以前にソウルに行ったことがあるが、朝鮮神宮の跡地には抗日運動のシンボルとして安重根紀念館が建てられている。台湾神宮の跡地に建てられたのが圓山大飯店(写真57)。別に政治的理由はない。景色がいいからと宋美齢が蒋介石にせがんだから。トイレを拝借しようとロビーに入る。日本人観光客のざわめく日本語があちこちから聞こえてきた。

 ふもとに降りると、車の流れが激しい大通りに出た。圓山大飯店を見上げるように撮影(写真58)。剣潭旧址という碑文があった(写真59)。基隆河に降りてみた(写真60写真61)。高速道路の向こうに台北101がかすかに見える。川沿いにはサイクリングロードが整備されていた。

 忠烈祠まで歩く。圓山大飯店からはそんなに離れてはおらず、15分くらいか。日本統治時代、ここには護国神社があった。それをつぶした上に国民党軍の戦死者を祀るメモリアル・パークがあるというのが面白い。入口から廟堂に向かって3本の筋が続いている(写真62)。一時間ごとに儀仗兵の交代式が行なわれるのだが、その際に行進する跡がくっきりと正確に残っている。

 交代式まで時間があったので霊廟に祀られている位牌を一つ一つ確認した。女性革命家として知られる秋瑾の名前がすぐ目に入る。台湾での抗日運動で命を落とした人々の名前もあり、台湾を中華民国の歴史に組み込もうという意図がよく窺える。羅福星の名前が見えるのは当然だが、莫那魯道(モーナルダオ)や花岡一郎まであった。モーナルダオは1930年の霧社事件(こちらを参照)で原住民族の反乱を指導したタイヤル族の族長。花岡一郎はタイヤル族出身だが日本名を与えられて警官となっていて、霧社事件に際して日本人と出身部族との板ばさみに悩んだ挙句、自殺した人物である。何人か際立った人物の紹介文があったのだが、烏斯満(オスマン)というカザフ人族長が目を引いた。1951年、伊寧にて81歳で戦死。人民解放軍が新疆に進駐し、多数の国外脱出者を出した時である。

 そろそろ観光客が集まってきた。交代式の様子(写真63写真64)。基隆河を渡るときにまごついて予定がくるってしまっているので、次の目標地・芝山巖まではタクシーで行くことにした。「我想去這個…」と怪しげな中国語を口に出しながらメモ帳を見せる。運転手さんは了解!という感じに大きくうなずいた。タクシーの初乗りは70元。一定距離ごとに5元ずつ上がる。原油価格の高騰を受けて去年の10月に料金設定が改定され、メーターの5元ずつ上がるペースが速められているそうだ。それでも東京で乗るのに比べると安いと思う。

 芝山巖も小高い山だ。息を切りながら傾斜の急な石階段をのぼった。日本の台湾領有後間もなく、教育問題担当として台湾総督府に派遣された伊沢修二のイニシアティブでここに芝山巌学堂が開設されたのだが、1896年、地元民に襲われて六人の日本人教師が殺害されるという事件が起こった。伊沢は北白川宮の遺体に付き添って一時帰国していたので難を逃れた。その後、この事件は“芝山巖精神”として称揚され、植民地教育の格好な宣伝材料となる。なお、伊沢修二は日本の初等教育、とりわけ音楽教育の基礎を築いたことで知られる。弟の伊沢多喜男は民政党の加藤高明内閣の時に文官として台湾総督に就任した。

 伊藤博文の揮毫による「学務官僚遭難之碑」が今でも残っている(写真65)。戦後は倒されたまま放置されていたが、陳水扁が台北市長の時に立て直されたという。台湾では六氏先生事件といわれているが、その経緯を示すパネル(写真66写真67写真68)もある。碑文の後方に雨農閲読室というガラス窓の小さな建物が見えた。事件に関わる紀念館なのかと思って入ってみたが、自習室として利用されているようだ。法曹資格か公務員試験か、弁当持参の男性二人が熱心に勉強していたので、邪魔にならないよう静かに退室。抗日運動のシンボルとなっているはずだが、同時に教育の聖地としての意味合いも保たれているのだろうか。

 この山は現在、自然公園として整備されている。太極拳の練習を終えたジャージ姿のおばさんたちが歩くのものどかな雰囲気だ。近所の小学生たちが先生に連れられてワヤワヤと通り過ぎた。四阿(あずまや)があったのでしばし休息。まだ11時、空は青く澄みわたり、そろそろ陽も南中しようかという頃合。木立に囲まれた中に座る。風は少し強い。日本でいうと晩秋を思わせる冷気を浴び、それがかえって清々しく心地よい。

 石階段を降りる。戦前は芝山巖神社があったそうだが、確かに鳥居が似合いそうな石段である。降りきって大通りを挟んだ向かい側にも芝山巖事件についての大きな碑文があった(写真69写真70)。山のふもとでは石器時代の遺跡がドームに覆われて資料室となっている(写真71写真72)。入口の看板は馬英九の筆による。陳水扁の次の台北市長で現在は国民党の総統候補である。また、恵済宮という道観もあった。道教も日本の神道と同様に民間信仰としてのアニミズムが混淆しているという印象があるのだが、こちらでも山が崇拝対象になるのだろうか?

(続く)

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