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2008年5月11日 - 2008年5月17日

2008年5月13日 (火)

ポール・ルセサバギナ『An Ordinary Man』

Paul Rusesabagina, An Ordinary Man, Penguin Books, 2007

 先日、ロメオ・ダレールShake Hands with the Devil(→参照)を取り上げたが、引き続きルワンダもの。映画「ホテル・ルワンダ」(→参照)は本書の著者ポール・ルセサバギナの実際の体験に基づいて製作された(ただし、本書が執筆されたのは映画公開後しばらくしてからのこと)。顔つきは穏やかだがスレンダーな体型がいかにも機敏そうな名バイプレイヤー、ドン・チードルがルセサバギナ役として主演していた。

 ルセサバギナはもともと神父になるつもりだったらしいが、ひょんなきっかけからホテルマンとして働くようになった。大虐殺が起こったときには、ルワンダで一番の高級ホテルでマネージャーを務めていた。

 本書のタイトル、An Ordinary Man──ただの人、普通のごくありふれた人といった意味合いになるだろうか。「ホテル・ルワンダ」公開後、彼はいわば英雄扱いされるようになったが、かえって居心地が悪かったようだ。それは単に謙遜ということではない。ホテルのマネージャーの仕事は、好きな客だろうが嫌いな客だろうが関係なく、彼らに話しかけ、ホテルに滞在する限りは精一杯のおもてなしをすること。フツ族過激派の血にまみれた手から逃れたツチ族難民がホテルに押し寄せてきた。彼らもホテルの中に入った以上は大切なゲストであり、最大限の安全を図ることがマネージャーとしての責務となる。彼自身の妻がツチ族だという事情があるにせよ、それ以前の問題として、一人一人が自分の仕事の筋を通して自分の置かれた立場の中で最大限の努力をすること、英雄的かどうかではなく自分自身のごく当たり前な責任を果すこと、そうした積み重ねがなければ狂気を押しとどめることはできない。そこにこそ、An Ordinary Manというタイトルに込められたメッセージがある。

 彼は名門ホテルのマネージャーとしてルワンダ国内のVIPに顔が広い。過激派指導者の中にも知己はいる。過激派民兵がホテルをすっかり取り囲み、いつ突入されてもおかしくない状況の中、過激派指導者や警察にワイロを惜しまず、国連や全世界に電話を掛けまくって一日一日と時間稼ぎを続ける。使える手段はすべて使う。金、酒、何よりも言葉が彼の武器だ。

 隣人が殺戮者に変貌し、同じ学校に通っていたクラスメートが襲い掛かり、果ては夫が妻を手斧で切り刻んでしまう。そうした描写の凄惨な有り様は言うに及ばず、紛争が終わった後も社会全体に影を落とす記憶の闇は深刻だ。ルセサバギナは亡命先のベルギーで、かつてルワンダの自宅の近所に住んでいた男を見かけた。大虐殺の始まった夜、彼もまた戦闘服に身を包んでうろついていたのを目撃していた。その彼は、いまや異国の地でスーツを着こなしたビジネスマンとして談笑している。ルセサバギナはふさぎ込んで言葉も出なかった。ジェノサイドで手を下した者たちがルワンダの内外で平穏な生活を続けていること自体が、生き残った人々の心に言い知れぬ闇を深めている。

 ルセサバギナは現在、ベルギーでタクシーの運転手をしているという。反政府軍・ルワンダ愛国戦線(RPF)がフツ族過激派を敗走させ、首都キガリを制圧して大虐殺が終わってから2年後、彼は利権絡みの政治的陰謀で亡命せざるを得なくなってしまったのだ。RPFの指導者でツチ族出身のポール・カガメが大統領となったが、彼もまた強権的な独裁体制を敷いている。踊り手は代わっても、同じ音楽が流れ続けている──ルセサバギナの使うレトリックは優雅だが、ここに込められた基本的な問題は何も変わっていないという憤懣には一体どのように向き合えばいいのだろうか。

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2008年5月12日 (月)

ロメオ・ダレール、伊勢﨑賢治『戦禍なき時代を築く』

ロメオ・ダレール、伊勢﨑賢治『戦禍なき時代を築く』NHK出版、2007年

 ロメオ・ダレールはルワンダにおける平和維持軍司令官として大虐殺を目の当たりにし、その時の無力感と自責の念から平和構築の必要を訴える活動を続けている(→ロメオ・ダレール『悪魔との握手』の記事を参照のこと)。伊勢﨑賢治は東チモール、シエラレオネ、アフガニスタンでDDR(武装解除、動員解除、社会再統合)の指揮を取った経験を持つ(→伊勢﨑賢治『武装解除』の記事を参照のこと)。NHK・BSの番組での二人の対談(私は未見)をまとめた短い本だが、現場を踏んだ人たちならではの具体的な話は傾聴に値する。

 ルワンダのようにちっぽけな国には戦略的にも資源的にも見るべきものがないという判断基準で介入をためらうのは、そもそも人命の平等、“人権”という概念に反するというのがダレール将軍の考え方だ。国際社会には“保護する責任”がある。これは、内政不干渉の原則に基づき国家主権の不可侵性を尊重し合いながらパワーゲームを展開するという近代的な国際政治観を乗り越えようという方向に進む。20世紀初頭のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺や、その後のナチスによるホロコーストをはじめ、国際社会がジェノサイドを目の当たりにしながらも国家主権という壁にぶつかって介入できないというもどかしさを抱いて以来、現在に至るも提起されつつある問題意識である(たとえば、Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007を参照)。

 ダレール将軍は中堅国家(ミドル・パワー)の連携を提唱する。つまり、日本、カナダ、ドイツ、オランダ、北欧諸国、場合によってはインドといった国々が共同歩調を取って、超大国、とりわけアメリカに圧力をかけること。単なるアメリカ批判に意味はない。アメリカの力がなければできないことがたくさんある。しかし、そのアメリカのスーパーパワーが単独行動主義に突っ走らないように牽制し、軌道修正させること。

 “人間の安全保障”という概念がカギとなる。実は、日本でも小渕政権の時に外交課題の柱として大きく打ち出されていた(アマルティア・セン『人間の安全保障』集英社新書、2006年でも引用されている)。こうした方針は、リアリスティックな外交路線と決して矛盾するものではない(→添谷芳秀『日本の「ミドルパワー」外交』の記事を参照のこと)。

 ダレール将軍の著書Shake Hands with the Devilでは、国連憲章第6章に基づく停戦監視に任務を限定されたPKOでは対処できないほどに現在の紛争の性質が大きく変わりつつあるという問題意識が読み取れる。“保護する責任”においては、場合によっては軍事介入も必要となる。しかし、日本は現在でも、自衛隊は違憲か否かという不毛な神学論争に絡め取られて、現実に何が出来るのかという視点が抜け落ちていると伊勢﨑氏は批判する。

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