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2008年1月6日 - 2008年1月12日

2008年1月12日 (土)

台北を歩く⑦北門から大稲埕へ

(承前)

 1895年、日清戦争後の下関条約によって日本の台湾領有が決まった。台湾にいた人々の間ではこれを不満に感じ、台湾巡撫として赴任していた唐景崧を総統に立てて台湾民主国の独立を宣言する動きがあった。ところが、基隆に日本軍が上陸すると民主国首脳はさっさと大陸に逃げてしまい、統制のとれなくなった軍隊が台北府内で略奪を始めるなど混乱した状況を呈する。そこで秩序回復のため日本軍を城内に導き入れようと、豪商の辜顕栄が代表として基隆に赴いた。日本軍が北門に到着すると、城内にいた陳法という老婆が梯子をおろして手引きし、日本軍は台北への無血入城に成功する。

 北門以外の城門は日本によって壊されたり、放置されて崩れてしまい、戦後になって復元されたものだが、この北門のみは辛うじて清朝時代から残っているらしい。ただし、高速道路が頭上をかすめており、史蹟というには意外なそっけなさ(写真39写真40)。東京の日本橋と同じ状況である。

 北門のあるロータリーに面して台北郵局の堂々たる姿(写真41)がある。戦前からずっと郵便局として使われている。北門前の忠孝路は台北で一番のメインストリートで車の流れが激しく、横断するだけでも一苦労だ。道路中の島状になった中継点から台北駅方面を撮影(写真42)。左、水色の頂きのある赤い屋根が台北駅。右のノッポビルが台北市内で二番目に高い新光人寿保険摩天大楼。このビルに新光三越百貨店が入っている。

 道路を渡りきった所に鉄道局がある(写真43)。日本統治時代から鉄道局として使われてきた建物だが、改修作業の最中のようでドームに覆われている。現在、ここで業務は行なわれておらず、中に入ろうにも立入禁止となっていた。入口だけ撮影(写真44)。裏手に回ると、やはり戦前からある鉄道工場の保存・改修工事の様子が見えた(写真45)。北門近辺一帯で再開発のプランがあり、鉄道局の保存・改修工事もその一環らしい。

 鉄道局の裏手には日本統治時代から日本人の鉄道職員用に戸建て住宅があり、敗戦後六十年もの星霜を閲した現在でもひっそりとしたたたずまいを見せている。庭の木々が大通りの喧騒や排気ガスを遮って、静かな別世界。ただし、街並みは荒れている。人の気配がほとんどない。北門近辺の再開発エリアに組み込まれているようで、この一帯は近いうちに更地になる予定らしい。日本人住宅には国民党と共に台湾へ来た軍人や公務員が住み、そうした住宅街を眷村という。ほんの二、三軒ばかり、洗濯物を干している家があった。転居を頑強に拒んでいるのだろうか。行き場のない孤独な老後を過ごす外省人なのかもしれない。侯孝賢監督「童年往時」(1985年)は高雄近郊の眷村を舞台として大陸の故郷を想いつつ亡くなっていった家族の姿を静かに描き出していたが、その孤独で淋しげなたたずまいをふと思い出した。

 写真46は日本式住宅街の一角。ボヤをおこしてそのままの家がある。右奥に見えるのが台北駅前の新光人寿保険摩天大楼。人の姿を見かけない代わり、犬や猫が闊歩している。屋根の上から猫がこちらを見ていたので一枚撮った(写真47)。

 鉄道局を後にさらに北上して、座標軸の西北ブロックに入る。大稲埕と呼ばれた地域である。もともと萬華・大稲埕ともに台湾人がつくった街だが、日本統治時代には商業の中心はこちら大稲埕の方に移っていた。車が一台ようやく通れるくらいの路地の両脇には四、五階くらいはある建物がすき間なく建ち並んでいる。問屋が集まっており、ちょっとうろついただけでも繊維問屋街、薬種問屋街、乾物問屋街をくぐり抜けた。観光スポットとしては迪化街が知られている。

 日本統治時代から実力を蓄えていた台湾人豪商の邸宅もこの大稲埕に散らばっていた。写真48は李春生紀念教会である。李春生は台湾の代表的豪商の一人。クリスチャンだったことにちなみ、彼の住んでいた所にこの教会が建てられたらしい。

 植民地支配は被支配者に対する抑圧構造を内包させる。日本による台湾の植民地支配が軌道に乗る一方、1920年代になって、台湾人の権利を合法的に向上させようという動きが始まった。台湾人の参政権を求める知識階層が集まり、台中の名望家・林献堂を総理、大稲埕で医院を開業していた蒋渭水を幹事として台湾文化協会が結成された。活動の一環として「港町文化講座」が開設されたが、それは現在の李春生紀念教会の斜め向かいあたりだったという。

 この教会前をさらにまっすぐ北上すると、古くてどっしりとした構えの建物が右手に現われた(写真49写真50)。陳天来という茶商の邸宅である。路地が狭いので正面からの撮影はできない。表札を見ると現在の持主の名字は異なっていた。日本統治時代に港町と呼ばれたこの通りには茶商が集まっていたらしい。李春生も茶の貿易で巨富をなした一人である。

 港町という名前から分かるように、淡水河に面した港がすぐ近くにある。河畔に出てみようと道を曲がると大通りにぶつかった。車の流れが激しく、横断するのに躊躇してしまう。濛濛たる排気ガスにせきこむ。朱天心『古都』でも、旧大稲埕を歩き回った最後にこの淡水河岸に出ようとするが、やはりトラックにひき殺されそうになりながら慌てふためくシーンがあった。写真51が淡水河畔への入口。写真52の碑文には淡水河沿いの港の位置が記されている。対岸は三重市で、台北近郊圏が河を越えて広がっている。

 街中に戻った。次の目標は辜顕栄の邸宅である。ガイドブックを参考に狭い路地に入り込む。現在は彼の号をとった榮星幼稚園があるが、その奥の方はよく見えなかった。前にも述べたように、辜顕栄は日本軍の台北入城に積極的な役割を果たし、その後も日本と協調することで事業を拡大させた。1934年には貴族院議員に勅撰されている。息子の辜振甫も実業家として活躍し、中台間の交流機関である海峡交流基金会会長を務めたことで知られている。

 迪化街を横切って帰綏街を東に進み、日本統治時代に遊郭があったという場所に出た。戦後は公娼地区となっていた辺りを歩いてみたが、つぶされて新しく公園となっており、それらしい雰囲気は跡形もない。

 日本の敗戦後、台湾は中華民国の統治下に入ったものの、国民党の放漫な経済政策のため人々の生活は壊滅的な打撃を受けていた。1947年2月27日のこと。闇タバコを売って女手一つで子供を育てていた女性が専売局の闇タバコ摘発隊につかまった。タバコを没収されたばかりか、殴られて金品を巻き上げられ、彼女の泣き叫ぶ姿を見て常々の不満を爆発させた人々が摘発隊員を取り囲んだ。言葉が通じないことも騒ぎを一層大きくしてしまった。摘発隊員が威嚇発砲したところ、群集の一人に命中して死亡。翌2月28日、抗議デモが大稲埕にあった専売局分室に押しかけたのをきっかけに、台湾全島で反国民党運動が沸き起こる。これ以降一ヶ月もの間にわたって続いた国民党軍による武力弾圧を二・二八事件という(→参照)。

 写真53が、二・二八事件のそもそものきっかけとなった、女性が殴られた辺りの現在の風景。この近くには、日本統治下において台湾人の権利向上のための運動を組織した蒋渭水の医院もある。

 波麗路西餐廳(ボレロ・レストラン)の前を通りかかった。1934年に開店した歴史の古いカフェである。当時は台湾人知識人がこの店に集まり、台北帝国大学の人類学者・金関丈夫や民俗学者・池田敏雄などもよく訪れたという。現在は洋食屋として知られているらしい。まだ夕方の16:00なので食事には早い。さっきの餃子がまだ腹にたまっているし。明日また来ようと思って通り過ぎたのだが、結局行けなかった…。
 
 旧大稲埕を後にして東へ歩く。書店をいくつかひやかすことにした。まずは、中山北路沿いにある永漢書局。邱永漢が経営する書店である。雑居ビルの四階にあり、フロアの半分は日本語書籍専門の売場となっていた。やはりビジネス書が多い。長い間置きっぱなしなのか背の茶けた本が目立つ。同じビルの三階は永漢日語という日本語教室となっており、これは街中を歩いていても時折みかける。エレベーターで降りる時、“開”ボタンを押して年配の男性を先に通そうとしたら、私の眼をまっすぐ見て丁寧に「謝謝」と言われたので、かえって恐縮してしまった。自然にやっていたのだが、台湾では珍しいことなのか?

 MRT中山駅地下に降りた。この地下街の北側は書店街となっている。ただし、特価本が多いようで、興味をそそられる本はそんなにない。せっかく来たので、朱天心の短編集を一冊買った。

 夕食は鼎泰豊本店に行くことに決めていた。永康街という所にあるのだが、近くに駅はなく不便。しかしながら、今回は台北の街をとにかく歩くことが目的。タクシーは使わず、MRT忠孝新生駅から大通り沿いに歩いた。駅を出ると、もう外には黒い帳が降りている。迷わないかと少々不安もあったが、台北の街並は整然とした碁盤目状なので歩きやすい。それに、私は意外と方向感覚が悪くない。鼎泰豊に着くと、店前では大勢の客が待っている。日本語がとびかい、店員さんも日本語を使うので、どこの国にいるのか一瞬分からなくなった。予約してあったので、意外と早く入れた。

 帰りは信義路をまっすぐ歩く。道路のあちこちで工事をしている。近いうちにここにもMRTが通るようだ。30分もしないうちに台湾民主紀念館の横にさしかかった。入ってみると、ライトアップ用のライトの前で少年たちが踊って影絵遊びをしている。敷地内にある国家音楽庁へと急ぐ人々とすれ違った。時計を見ると、19:30。ちょうどコンサートが始まる時刻のようだ。

 写真54はライトアップされた総統府。その隣にある台湾銀行にも元旦を祝うイルミネーションがまばゆい(写真55)。こちらは戦前も台湾銀行といった。鈴木商店への不良融資で金融恐慌をおこしたあの台湾銀行である。もちろん、現在の台湾銀行と組織的なつがなりはない。

 台北駅前、重慶北路の書店街をぶらぶらひやかし、誠品書店台北駅地下店で何冊か買いこんでから宿舎へと帰った。第二日目終了。

(続く)

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2008年1月11日 (金)

台北を歩く⑥西門町から萬華へ

(承前)

 中華路に沿って西門町へ行く。ここは若者が闊歩する繁華街、日本でいうと原宿、渋谷のような雰囲気と言ったらいいだろうか。

 もう昼過ぎだ。北平一條龍餃子館という店で食事をとることにした。チンジャオロウスー、焼き餃子、野菜入りのスープを頼んだ。餃子は大きく細長いのが一皿に十本あった。細長いのは華北風らしい。こってりとして、これだけでもお腹いっぱいだ。一人なので色々な料理を注文できないのがつらい。

 西門町は映画街としても知られる。蔡明亮監督「楽日」(2003年)では台北の古い映画館が閉鎖される最後の一日が描かれていた。この映画に出てきたような昔ながらの映画館は取り壊されてもはや見当たらず、みなシネコンに生まれ変わっている。どのシネコンも24時間営業。今は「國家寶蔵」(ナショナル・トレジャー)、来週公開予定の台湾のSF大作「長江七号」、金城武などが主演する時代劇「投名状」の看板が目立った。

 ぶらぶら歩きながら西門紅楼へ行った(写真35)。八角形の赤レンガが目を引く味わい深い建物だ。もともとは市場、映画館などとして使われたが、現在は建物そのものを保存しようと記念館として開放されている。館内にはこの建物の来歴が記されており、それによると近藤二郎という人が設計したそうだ。また、古い映写機が置かれていた(写真36)。二階はレトロになかなか洒落た感じのシアター・スペースとして利用されている。

 西門紅楼の裏手に出て萬華の旧市街地の方向へと歩く。萬華は台北で最も早くから開けた場所だが、現在では中心地としての賑わいはない。たとえて言うと、東京・山手線の東側に広がる下町のような雰囲気だろうか。家具問屋街を抜けてしばらく行くと、艋舺青山宮というお堂があった(写真37)。「宮」とつくのは道観、つまり道教のお寺である。こうした所に庶民の古い信仰形態もよく残っているようだ。

 萬華区の真ん中あたりを華西夜市が南北に走っており、その北の入口まで来た。この近辺に戦前は遊郭があり、戦後は公娼地区となっていた。かつて日本人の買春ツアー客が台湾にやって来て問題となっていたが、この辺りまで足を運んだのだろうか。そうした類の悲喜劇は、たとえば黄春明(田中宏・福田桂二訳)『さよなら、再見』(めこん、1979年)で描かれている。又吉書によると、以前は少数民族系の顔立ちをした年端のゆかぬ少女たちも見かけたという。陳水扁が台北市長だった頃に条例で禁止されたため、売春は現在では、少なくともおおっぴらには行なわれていない。公娼地区だったと思しき場所を歩いてみると、軒並みシャッターが閉まっていて、文字通りのゴーストタウンだ。辛うじて一軒だけ「情趣商品」という看板を掲げた“大人のおもちゃ”を売る店があったくらいで、狭い横丁に入っても誰一人として人影を見かけなかった。

 華西夜市を歩いた。もちろん夜にならないと夜市の賑わいは分からないが、ここはアーケード式商店街としての体裁が整えられているので、それなりに買い物客が出てきている。夜市街の南の端まで来たが、大通りを隔ててさらに南に路地が続いているのでそのまま歩き続けた。

 夜市街の延長線上にあるはずなのだが、雰囲気がちょっと違ってきた。夜市街は当然ながらきちんとしていない雑然とした空気が魅力なわけだが、この辺りはそういうのとは違って、まだ陽も高いので危ない感じはないにしても、明朗な感じもない。女性が寄って来て、何か言いながら私の腕を取ろうとしたので振り払った。辻立ちの客引きだ。ちょっと隠微な影を落とす横丁に入るといかにもそれらしい置き部屋があり、窓越しに女性たちが座っているのが見えた。公娼制度が廃止されたので、こちらに移ってしぶとく生き残っているようだ。路地は短く、まっすぐ突き抜けると、龍山寺近くの大通りに出る。普通に人々が歩いている。車が激しく行きかう喧騒が別世界のように感じられた。

 龍山寺に行った(写真38)。台北でもよく知られた観光スポットの一つで、東京でいうと浅草寺のような位置づけだろうか。“寺”だから当然ながら仏教のはずだが、私には道教との区別がつかない。実際、ここには関帝(関羽→商売の神様)や媽祖(航海の神様)も祭られており、仏教も道教も渾然一体となった民間信仰として考える方がいいのだろう。お香のかおりが立ち込める中、人々がお祈りしている。作法が複雑で、すぐには真似できない。とりあえず、後ろの方でそっと手を合わせて立ち去った。これが今年の初詣で。なお、又吉書によると、尾崎秀実や秀樹たちの父である尾崎秀真による碑文がこの寺のどこかにあるらしいのだが、見つけられなかった。

 龍山寺駅からMRTに乗って西門駅で下車。先ほど歩いた西門町に戻った。中華路を北上、忠孝路との交差点がロータリーとなっており、そこに北門がある。

(続く)

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2008年1月10日 (木)

台北を歩く⑤官庁街を歩く

(承前)

 台北の官庁街にある主だった施設はみな、戦前に日本が建てた建物をそのまま現在でも活用している。ふらふらうろつきながら、そうした建築物を一つ一つチェック。

 総統府の前を通る。かつての台湾総督府である。前回旅行時の総統府についての記事はこちらを参照のこと。小銃を構えた憲兵が眼を光らせており、重々しい。門前の大通りは凱達格蘭(ケタガラン)大道である。かつては蒋介石の長寿を祈って介寿大道と言われていたが、陳水扁が台北市長の時代に改称された。ケタガランとは、昔、台北盆地に住んでいた原住民族のことである。原住民族復権政策であると同時に、蒋介石の記憶を街中から消し去ろうという動きの表われでもある。ただし、大道脇の介寿公園は残っている(写真26)。奥の銅像は戦争中に中華民国総統だった林森。この介寿公園から大道を挟んだ向かい側が二・二八和平公園である。

 総統府前から南へ移動。左手に台北第一女子高等中学校。右手に司法院、つまり最高裁判所である(写真27)。司法院裏手の横丁をのぞくと、日本式家屋がまだ残っていた。また、清朝時代の台北府の役所があったことを示す碑文も立てられている(写真28写真29)。真新しくて鏡のように光っている。

 さらにまっすぐ進むと南門にぶつかる(写真30)。かつての城壁跡の大通りを渡って向かい側にあるのが日本統治時代の専売局(写真31)だ。戦後、政権が変わっても専売局として使われ続けたが、近年になって民営化され、現在は台湾菸酒股份有限公司となっている。

 この近辺には軍事関係機関の役所が多いので警備の空気がものものしい。大通りの南側に面した一画に大きな日本式家屋があった。補修工事が行われているらしく大きなドームに覆われている。歴史的な建築物なのかと気になって近寄ってみると、警官が歩哨に立っていた。門の脇に説明板があって読んでみると、どうやら厳家淦の邸宅らしい。厳家淦といってもその名を知っている人は少ないと思うが、蒋介石の死後、息子の蒋経国が昇格するまでの中継ぎとして総統の地位にあった人物である。蒋家のイエスマンとして仕え続けたご褒美としてこの一等地にある大邸宅をもらったのだろう。監視の視線が厳しくて、写真は撮りづらい雰囲気なのでさっさと立ち去る。この辺りには他にも大きな日本式家屋が並んでいる(写真32)。日本統治時代の高級官僚が住んでいたのかもしれない。日本人が引き揚げた後、こうした家屋は国民党や軍隊の要人に与えられた。

 大通りを渡って再び官庁街に戻る。国防部の横に細い道があったので入っていったら東呉大学のキャンパスにいつの間にか入り込んでいた。学生たちが歩き回る中を横切り、北の方向へと向かう。しばらく行くと、中山堂に出た(写真33)。日本統治時代の台北公会堂である。昭和天皇即位記念で建てられたモダンな建築で、台湾決戦文学会議など様々なイベントが行なわれた。日本の敗戦後、1945年10月25日には台湾省政府主席として派遣された陳儀と台湾総督兼台湾軍司令官・安藤利吉との間で降伏調印式が行なわれたのもここで、その記念として抗日戦勝利記念の碑文が中山堂の前にある(写真34)。なお、台湾では降伏調印式の行なわれた10月25日を以て光復節としている。

 中山堂の裏に行くと中華路という大通りに出た。現在、台北市中心部の台湾縦貫鉄道は地下化されているが、以前はこの通りに沿って線路が敷かれていた。その分もつぶして道路にしているからだろうが、かなり広い。

 台湾はちょうど政治の季節だった。一月十二日には立法院選挙、三月には総統選挙が控えている。大通りを歩くと選挙宣伝カーが頻繁に行きかう。そればかりか、選挙の広告規制は日本よりもゆるやからしく、繁華街にあるビルの商業看板やバスの車体広告にも選挙宣伝が大きく目立つ。

 立法院選挙は今回から選出方法が変わり、小選挙区・比例代表並立制を採用した上、議席数は半減された。比例代表では5%以上という要件が設定されている。投票用紙には候補者・候補政党の名前ではなく番号を記入するらしく、選挙広告には必ず数字が大きく記されている。台湾団結連盟が3、民進党が5、新党が6、国民党が10。街中でもテレビ・コマーシャルでも頻繁に見かけるので覚えてしまった。テレビ・コマーシャルでは民進党と国民党が互いにネガティヴ・キャンペーンをやっていた。

 台湾のテレビ・ニュースで報道されていた世論調査によると、少数政党の台湾団結連盟(李登輝派)と新党(中台統一派)はいずれも3%で議席獲得が難しい情勢のようだ。野党・国民党は50%を越えており、第二野党・親民党(宋楚瑜派)との選挙協力もうまくいっているので、総統選挙までこの勢いが続けば政権交代はほぼ間違いない。与党・民進党は29%で、小選挙区では同じく台湾独立派である台湾団結連盟との選挙協力にも失敗して厳しい情勢だ。

 国民党と民進党との対立では台湾独立問題が一つの焦点となっているのは周知の通りだろう。ただし、実際には、地方に張り巡らされた利権構造を地盤として国民党や親民党の立法委員は当選しており、国民党に投票はしても大陸との統一には反対という人々が多いらしい。たとえば、中台統一派の宋楚瑜までも台湾語を使ってスピーチをする努力をしており、統一問題に触れようとはしない。地元民は身近な経済問題から投票しているため、外交論は争点から外される。従って、立法院選挙と中台問題に直結する総統選挙とで選挙結果が異なることが台湾では珍しくない。陳水扁政権は立法院では少数与党としての運営を強いられていた。国民党が優勢ではあるが、だからといって大陸との統一を求める世論が強まっているわけでもない。今回の総統選では“TAIWAN”名義での国連加盟を求める住民投票が同時に実施されることでも注目されている。

(続く)

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2008年1月 9日 (水)

台北を歩く④台湾民主紀念館にて

(承前)

 1947年2月28日。闇タバコ摘発隊の行き過ぎた暴力に不満を持った台湾人が専売局前に集まって抗議、そして現在の行政院(当時は台湾省行政長官公署)前までデモ行進を行なった。台湾行政長官は陳儀。警備隊は厳戒態勢をしいており、集まった台湾人に向けて機関銃を掃射、多数の死傷者を出す。憤った台湾人群衆は近くの公園(現在の二・二八和平公園)内にあった放送局を占拠して「台湾人よ、立ち上がれ!」と全島に向けてメッセージを発した。

 これ以降、一ヶ月に及んで続いた国民党軍による武力弾圧を二・二八事件という。公式発表として2万8千人が殺されたとされているが、正確な数字は分かっていない。とりわけ知識階層が狙い撃ちされたため、台湾人の指導的な人物がいなくなり、政治に関わると命が危ないという恐怖心を植えつけられてしまったという。この事件によって本省人(台湾人)と外省人(国民党と共に台湾に来た大陸の人々)との間に生じた亀裂は戦後の台湾史に複雑な影を落とし、現在に至るも大きな政治的争点として激しい論争が繰り返されている。放送局の建物は現在、二・二八紀念館となっている(→参照)。

 台北駅南側のブロックは日本でいうと永田町・霞ヶ関といった地域である。中山南路を南下。監察院の横には立法院、つまり台湾の国会がある。このすぐ隣に古くて風格のある教会があった。台湾基督長老教会・済南教会となっている(写真11写真12)。李登輝もここで礼拝したそうだ。戦前は日本基督教団の台北幸町教会といったらしい。こんな官庁街のど真ん中に教会があるというのは驚いた。裏手をみると、日本式家屋が残っていた(写真13)。クリスマスの飾りがまだ片付けられていない。牧師さんの住まいだろうか。

 中山南路の西側にはやはり古い大型建築がどっしりと構えている。現在の台湾大学医学部附属病院、日本統治時代には台北帝国大学附属病院だった所である。中山南路を挟んで向かい側には新館が高くそびえており、門柱の銘文は総統の時の李登輝の筆になる。台大病院旧館の隣には台北賓館、つまり迎賓館がある。戦前の台湾総督官邸である(写真14)。

 台大附属病院・台北賓館の南はロータリーとなっている。清朝時代の東門が復元されており、それを円型に道路が囲む(写真15)。東門からのぞくと向こうには総統府が見える(写真16)。総統府・東門を結んだラインのこちら側には大きなビルディング(写真17)。比較的新しい。張榮發紀念基金とある。実は、この建物はもともと国民党本部だったのだが、野党に転落後、党財政が悪化、やむを得ず財閥のエバーグリーン・グループに売却したらしい。張榮發とはエバーグリーン・グループの創始者である。国民党は在台湾の旧日本資産をすべて接収したおかげで世界一の金持ち政党と言われたらしいが、歴史は着実に変わっているようだ。

 東門の南側に大きな広場がある。戦前は日本の台湾軍第一連隊の駐屯地だった場所だが、現在は大きなお堂のような建物が鎮座している。去年までは中正紀念堂という名前だった。中正とは蒋介石の号である。改修工事が行なわれ、つい昨日、私がまさに台北に降り立った今年の元旦(中華民国の建国記念日にあたる)、新しい名前でリニューアル・オープンしたばかり。その名も、台湾民主紀念館。かつての中正国際空港が桃園国際空港と名称が変更されたように、陳水扁の民進党政権による台湾化政策は蒋介石にまつわる名前を次々と消し去っていく。広場の入口には大きな門があり、以前は「大中至正門」という扁額が掛かっていた。中正にちなんだ言葉だが、こちらも「自由広場」と書き換えられた(写真18)。

 昨晩、宿舎でテレビ・ニュースをみていたら、この台湾民主紀念館開館について大きく取り上げられていた。紀念館の前で激しく口論する人々の姿が映っていた。台湾と大陸とでは蒋介石の扱いが対照的だという報道もあった。蒋介石の否定と台湾の独立志向とが密接に結びついているので牽制するつもりなのか、共産党にとっては仇敵であるはずの蒋介石だが、中国統一という観点から見直しが進んでいるという。他方、蒋介石の孫にあたる有名なファッション・デザイナーが「蒋家が台湾に与えた苦痛を深刻に受け止めるべきだ」と発言して驚かせてもいるらしい。複雑なねじれが興味深い。

 紀念堂には長い階段があり、蒋介石の享年にちなんで八十九段ある。そのたもとに、車椅子に乗った80代くらいのおじいさんがポツンと佇んでいた。傍らを通りかかったとき、日本人観光客とおぼしき60代くらいの男性が「ここは昔、蒋介石紀念館といったんですか?」と声をかけていた。一瞬、間があった。男性が「日本語、分からない?」と言ったら、やおらおじいさんは中国語で何かまくし立て始めた。おそらく、蒋介石と一緒に台湾にやって来た外省人なのだろう。台湾化政策が進むにつれて、彼ら外省人の立場は苦しくなっている。大陸に残した家族とは切り離され、かといって台湾社会にもなじめず、孤独な生活を送っている老人たちの存在は一つの社会問題となっている。そうした老人にとって蒋介石の名前を冠した紀念館の変わり様はやはり複雑な感慨があるはずだ。くだんの日本人男性は、年配の台湾人はみな日本語教育を受けているはずだという考えがあったのだろうが、本省人と外省人との関係について配慮する用心を欠いていたのは軽率なことのように思った。

 写真19が紀念堂。かつて「大中至正」と書かれていた扁額は「台湾民主紀念館」と書き換えられた(写真20)。蒋介石の大きな座像が正面をまっすぐに見据えている(写真21写真22)。かつてはこの両脇を儀仗兵が警護していたのだが、今では代わりにたくさんの凧が舞っている。有名な現代アーチストによる演出らしいが、昨晩のニュースによると賛否両論だという。また、「還我民権」という言葉が見える。我に民権を還せ──国民党政権による人権抑圧の歴史を示したパネルがあり、座像の両脇には犠牲者の名簿が置かれている。本来は蒋介石の“偉業”を褒め称えるための施設だったが、座像は壊さずそのままに、評価を180度転回させ、人権弾圧の歴史を忘れないためのシンボルとして位置づけられるようになった。

 一階に降りると展示室となっている。全く対照的な解説展示で完全に半分に分けられている。片方では、以前のままに蒋介石の生涯を紹介する資料が陳列されている。写真23は執務室を再現した部屋の様子。蒋介石の蝋人形が置かれている。また、写真24は広東蜂起の頃、孫文と若き日の蒋介石が向かい合った大きな絵である。この一月から三月までにかけて台湾は選挙の季節で、テレビでは各政党のCMが繰り返し流されている。民進党のCMには、この絵のオリジナルとなった写真をCGでアニメーションのように動かし、孫文が蒋介石を叱り飛ばすというものがあった。

 展示のもう半分では二つの特集展示。一つは、「台湾人権之路」展。ロック、モンテスキュー、ルソー以来の基本的人権の歩みの中で台湾の歴史を位置づけるという趣旨である。日本統治時代はオランダ、清朝の時代と共に一章にくくられているのに対し、国民党による弾圧については三章にわたって詳細に説明されているのが目を引いた。この隣では「報禁解除二十周年紀念」展が行なわれていた。1987年、晩年の蒋経国によって報道規制が解除されたのを記念した展示で、それまでに弾圧を受けた報道機関や作家・学者・ジャーナリストたちを詳細に紹介している。

 こうした全く相異なる二種類の展示が向かい合っているところに、現在でも台湾社会が引きずっている政治的亀裂が垣間見える。

(続く)

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2008年1月 8日 (火)

台北を歩く③台北歩きはじめ

(承前)

 台北市内のおおまかな位置関係は、東西に走る忠孝路を横軸、南北に走る中山路を縦軸にとって、四つの象限に分けてみると把握しやすい。この二つの大通りの交点を境にして、忠孝路は東路・西路、中山路は南路・北路と呼び分けられている。なお、中山とは孫文の号である。座標軸の西南ブロック、忠孝西路沿いにある台北駅の南側には総統府をはじめ行政機能が集中している。ここは19世紀の終わり頃、清朝統治時代には台北府として正方形に城壁で囲われていた。日本統治時代に入って城壁は崩されたが、城門の跡は現在でもロータリーとして名残りを留めている。

 西南ブロックのうちでも旧台北府の西側、淡水河とに挟まれた地区は萬華という。かつては艋舺(もうか)と呼ばれ、台北盆地で最も古くから栄えていたのはこの辺りである。その後、淡水河沿いに北側に移住する人々が増え、それにつれて商業の中心も北に移った。こちらが大稲埕(だいとうてい)で、現在の行政区分では大同区となっている。座標軸の西北ブロックにあたる。以上、旧台北府、旧艋舺、旧大稲埕をコアとして、時代をくだるにつれて東側へと市域が広がることで現在の台北市が形成されている。

 私の宿泊先は座標軸でいうと東北ブロックにある。台北歩きの二日目は、ここから南下して旧台北府に出て、さらに旧艋舺、旧大稲埕と順番に歩くことにした。ガイドブックとしては『地球の歩き方』の他に、又吉盛清『台湾 近い昔の旅 台北編―植民地時代をガイドする』(凱風社、1996年)及び朱天心の小説『古都』(国書刊行会、2000年)の計3冊を参考にした。『古都』の後半では日本人になった視点で台北の街を歩く話法が現れるが、その際のガイドブックとして使われていたことから又吉書を知った。

 中山北路と並行する林森北路をしばらく南下すると、道路の両側に公園が広がるところに出た。東側は林森公園(写真2)、西側は康楽公園(写真3)となっている。ここにはかつて日本人の共同墓地があった。乃木希典の母親や明石元二郎もここに葬られたという。乃木も明石も台湾総督経験者である。明石は在職中に世を去った。日本人が引き揚げた後、住む家のない外省人が住みつきスラム街となっていたが、その後つぶされて公園として整備されたらしい。又吉書には明石の墓の鳥居がそのまま不法住宅の柱に使われている写真が掲載されているが、現在ではあとかたもない。ジョギングや太極拳をしているジャージ姿のおじさん、おばさんをちらほら見かける。すぐ横にはシネコンがあり、日中にはにぎわう繁華街のようだ。事情を知らなければ広々と快適な、都会の中のオアシスといった感じの公園だ。なお、林森とは戦争中に中華民国の総統だった人物である。

 林森北路から西側に並ぶ横丁に入ってみた。旧共同墓地の南側、中山北路の東側はかつて大正町と呼ばれ、日本人の一戸建て住宅が並んでいたという。現在では飲み屋街となっており、雑然とした雰囲気が漂う。飲み屋の看板には日本語が目立つ。肥前屋というウナギの蒲焼屋があり、ここの味は評判が良いらしいが、まだ朝早いのでにおいは漂ってこない。四、五階以上はある雑居ビルが立ち並ぶすき間に二階建ての日本式家屋がまだ残っている(写真4)。かつての日本人街のたたずまいを微かにしのばせる。いくつか教会をみかけたが、いずれも屋根に瓦を葺いているのが目を引いた(写真5写真6)。

 この写真を撮っていたら、不意に後ろから犬がバウワウと野太い声で吠えかけてきたので驚いた。振り返ると、片目のつぶれた大きな犬。少しびびった。よく見ると尻尾をパタパタ振っているので、おそらく構って欲しかったのだろう。

 まだ朝食を摂っていなかったので、そろそろお腹がクレームをつけ始めている。ガイドブックを見て朝食はここにしようと決めていた台湾料理の店・青葉餐庁は8:30開店。ちょうどいい時間にたどり着いた。切り干し大根入りオムレツを注文。ちょっと甘めだが、決してまずくはない。お粥はおかわり自由。私はサツマイモ入りのお粥を頼んだ。さっぱりとして、朝の胃袋によくなじむ。

 中山北路を南下。林田桶店の前を通った(写真7)。まだ朝早いので開いていないが、日本統治時代に修行をしたおじいさんがここの店主で、日本人が来ると日本語で気さくに話してくれるらしい。台北の街を歩いていると、そろそろ都市としての新陳代謝が働く時期なのか、古い建物を取り壊した跡をよく見かける。写真8写真9には三角形の跡がついているが、隣に日本式の建物があったのが分かる。

 高速道路の下をくぐると、国父史蹟紀念館が目に入った。通称、梅屋敷。日本統治時代の旅館で、孫文がたびたびここに逗留したことにちなんで紀念館として保存されている(→参照)。中山北路の交差点を挟んだ斜向かいに行政院がある。かつて台北市役所だった建物だ。ここの南側で中山路と忠孝路が交わっており、前に述べた座標軸の基点をなす。宿舎からここまで、寄り道したり食事したりしたにもかかわらず二時間余りで来られた。行政院の南側、忠孝東路を挟んだ向かい側にあるのが監察院(写真10)。こちらは日本統治時代の台北州庁だった建物である。玄関上に張られた赤いラインは元旦を祝う飾り幕。

(続く)

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2008年1月 7日 (月)

台北を歩く②台北駅近くの書店街

(承前)
 台北駅近くの書店街を歩く。神保町の東京堂書店くらいの規模の店がいくつか並んでいる。新刊書店ばかりで古本屋はない。近くの南陽街に予備校が集中しているためか、学習参考書を売っている店も多い。写真1は東方出版社。日本統治時代には台湾で一番大きな書店だった新高堂書店のあった所だ。ぶらつきながら、いくつか適当な店に入ってみた。台北の書店はどこも夜遅くまでやっており、誠品書店敦南本店などは24時間営業している。

 商務印書館といえば近代中国で最も古い由緒ある出版社である。中華人民共和国の成立により、台北の商務印書館は分立したらしい。直営の書店があり、学術書を専門に置いている。日本の雅子妃についての新刊が出たらしく、それに合わせて平台で特集が組まれていた。日本研究書の棚を見ていたら、石原慎太郎『国家的幻影』(国家なる幻影)と家永三郎『戦争責任』の翻訳が同じシリーズで並んでいた。しかも奥付をみると出版されたのは両方ともここ二、三年のこと。意図がよく分からない。

 世界書局は大陸で出版された簡体字の輸入本を専門に扱う書店。古典が多い。店の中央の大型テーブルに平積みされた張愛玲特集が目立った。張愛玲は戦前から上海で活躍していた女流作家で、メロドラマ的な小説で人気を博した。近年、リバイバルの動きがある。平積みされている中に胡蘭成の伝記もあった。やはり戦前から有名な文人で、一時期、張愛玲の恋人だったことでも知られる。彼は汪兆銘政権に参加した経歴があるので台湾に逃れ、さらに日本へ亡命した。日本語でも作品を発表しており、数学者にして熱烈な日本主義者・岡潔と親しくしていた。なお、侯孝賢映画の脚本で知られる朱天文やその妹・朱天心たち姉妹の父親である朱西甯も胡蘭成と家族ぐるみで付き合いがあり、朱姉妹は彼を訪れて日本に滞在した経験がある。

 金石堂書店は三フロアある。店内の雰囲気が、日本でも地方のターミナル駅前にある書店のような感じで、どことなく懐かしい感じがした。新刊コーナーには『ぼく、オタリーマン』とか島田洋七『佐賀のがばいばあちゃん』などの翻訳が並んでいた。『佐賀の~』のオビには有名な脚本家・呉念真の推薦文があった。新刊小説には日本の作品からの翻訳が多い。荻原浩『明日の記憶』が新刊棚に積んであった。

 ウロウロしているうちに夜の八時。さすがに腹がへってきた。ガイドブックを見たら魯肉飯が安くてうまそうなので、丸林魯肉飯という店に行った。再びMRTに乗って、宿泊先の最寄り駅、民権西路站で下車。この店は自助餐、つまりセルフサービスである。カウンターに料理が並び、その後ろに店員さんが立っている。これをくれと指示してお皿に盛り付けてもらう。もちろん日本にもセルフサービスの惣菜屋はあるが、日本とは違って客にはよそわせない。いちいち計量器に載せて計るのが面倒なのだろうか。牛肉の細切りとサヤエンドウの炒め物、小エビまじりの野菜の炒め物を注文した。最後にご飯ものと湯(スープ)を頼んで席につく。

 魯肉飯はご飯の上に刻んだ豚の角煮をかけた素朴な料理。肉の煮込み料理には台湾独特のクセがあるが、タレのしみこんだご飯をかきこむとなかなかうまい。おかず二皿にご飯、スープというのが一人当たりの基本形で、人数が一人増えるごとにおかずを一皿ずつ足していくものらしい。精算したら140元。安上がりだし、手軽だし、自助餐は旅行者にもおすすめだ。

 自助餐はテイクアウトもできる。お店の看板に「便當」と書かれていることがあるが、つまり「弁当」のこと。もともと日本語だが、かつての国民党の国語政策で日本統治時代を思い出させる言葉は排除されたため、「弁」を「便」に変えて、発音はそのままに台湾の人々はこの言葉を使い続けているそうだ(平野久美子『台湾 好吃大全』新潮社、2005年、を参照)。

 自助餐を利用しながら反省したこと。私は中国語を話せないので、カウンターの料理を無言で指さし、「魯肉飯」のピンインだけは予め確認しておいたので“lǔròu fàn”と最後に一言口をきいただけで注文した。しかし、ほとんど無言というのはものすごく感じが悪いだろう。指さす時に、「這個」(Zhège=これ)と言うとか、日本語で「これ」と言ってもジェスチャーで通じるのだから、とにかく何でも声を出すほうがいい。とりあえず声を出しておけば、何か言いたいんだなという最低限の意思は伝わるが、無言はコミュニケーションの拒絶を意味してしまうのだから。

 風邪気味なのか、少し熱があった。そういえば、空港に到着して検疫ゲートをくぐるとき、ピンポンと鳴ってはねられた。体温の高さで第一次チェックをしているようだ。センサーをかざされ、問題はなかったらしくすぐに放免してはくれたが。睡眠薬代わりに機内でワインを2本あけたので余計に熱が高くなっていたのだろう。21:00過ぎには宿舎に戻り、持参したバファリンを飲んでグッスリと寝た。

(続く)

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2008年1月 6日 (日)

台北を歩く①台北に到着

 去年の11月にも台湾に行ってきたばかりで、故宮博物院、総統府、二・二八紀念館などをピンポイントで回り、台湾高速鉄道に乗って高雄へ行くなど充実はしていた。ただし慌しく、じっくりと街の雰囲気を観察する余裕はなかったのが心残りだった。今回は台北に焦点を定め、とにかく足を使って歩きまわることを目的とする。

 一人旅。トラブルに備え、旅行会社を通じて飛行機と宿舎のパックで申し込んだ。当初は6日間くらい行ってくるつもりだったが、12月に入ってから探し始めたので飛行機がなかなか確保できず、結局、元旦から4日まで3泊4日のプランに落ち着いた。名目上はツアーという形式を取っているが、現地で空港と宿舎の間をガイドさんが送迎してくれる以外は完全自由行動。

 2008年元旦、午前11:40成田空港発のエアー・ニッポン2109便で出発、現地時間14:30頃に桃園国際空港に到着。現地ガイドさんの案内でバスに乗り、途中、義務的に土産物店に寄ってから、宿舎で降ろされた。豪爵大飯店(Aristocrat Hotel)。ビジネスホテルという感じで、フロントの人はみな日本語が使える。部屋は細部を見るとあまりきれいとは言いがたいが、広々としているので居心地は必ずしも悪くはない。

 荷物を置いて時計をみると、もう17:00だ。外も暗くなっている。時間がもったいないので早速外に出た。このホテルは交通アクセスがあまりよろしくない。空港直通のリムジンが近くから発着してはいるのだが、最寄のMRT駅までは歩いて30分ほどかかる。

 台北は寒かった…。寒波が来ているらしく、台北の人々はみなダッフルコートやマフラーに身をくるんで重武装。私はセーターを着込んでいるとはいえ、その上にはジャケットを羽織っているだけ。一月でも平均気温は14度くらいとガイドブックに載っていたので、寒い東京を出発する時にも我慢して少々薄めの服装で来た。ただし、過ごせないほどでもない。この日、台北の気温は8度。夜、宿舎でテレビをつけたら、この寒さ自体が大きなニュースとなっていた。

 台湾の人口は約2,300万人、そのうち一割強の260万人が台北市に住む。近隣の市を合わせた大台北圏では600万人規模となる。西に淡水河、北・東・南を山に囲まれた盆地に人々が密集している。市域はそれほど広くはないが、その分、人口密度は極めて高い。縦横に走る碁盤目状に整然とした街路によって区切られている。大通りは路、小さい通りは街。垂直に交わる街路の交差点と交差点とでブロックが形成され、一段、二段という町名がつき、さらに数字をふって住所表示がされている。普通の街並でも5階から10階建てくらいの建物がすき間なく並んでいるのが壮観だ。

 特徴的なのが、停仔脚と呼ばれるアーケードだ。建物はそれぞれ独立して建てられているのだが、道路に面した一画は歩道用にくり抜かれ、それがつながってアーケードを成している。建物ごとに歩道の高さも異なるので、足もとに気をつけないと転んでしまう。大通りでは、停仔脚のさらに外側にも歩道が確保されていることもある。お店の前ではこのアーケードの歩道にまで商品や飲食用のテーブルがせり出しており、お店の一部をくぐりながら歩いている感じがする。お店のない場合には、停仔脚の柱と柱との間にスクーターがびっしりと駐められている。

 台北はスクーターが大活躍する町で、自転車は少数派。そのせいか、ちょっとした修理工場を街中のあちこちで見かける。交通マナーはよろしくない。青信号なので横断歩道を渡ろうとすると、スクーターや車がブレーキもかけず平気で曲がってくる。見ていると、左右確認もしないでハンドルをきっている。歩行者優先ではなく、自動車優先。道路を歩くときは常に気を張っていないと本当に命に関わる。最初は地元の人が歩くのに合わせて横断歩道を渡っていたが、三日目になるともう慣れた。

 街行く人を眺める。おじさんはジャンパーに野球帽というのが定番だ。蒋経国や李登輝が地方視察をするときはいつもこの格好だったのを思い出す。若い人は男女共に服装では日本人と全く見分けがつかない。野良犬や放し飼いの犬を街中でよく見かける。車が激しく行きかう通りで、犬もタイミングを見計らいながら渡っている。時折、片足をひきずった犬をみかけるが、おそらくはねられたのだろう。

 MRT淡水線の民権東路站に出た。ここから三つ目の台北站で下車。エスカレーターで歩く人は左側通行。駅構内のエスカレーターや車内の扉のあたりに「よりかからないでください」という注意書きを見かける。ホームから乗り込んできて奥の方に行きたがる人が多いので見てみると、車両の連結部の前後の壁に乗客が背中をもたせかけていた。そういう習慣があるのか。車内でガムを噛んでいるのがみつかると罰金。おそらく、もともとは檳榔の吐き捨てを防ぐためなのだろう。私は普段からガムを噛む習慣があるので、ガムを口にふくんだまま電車に乗り込んでしまったことが何回かあり、そのたびに内心ビクビクしていた。

(続く)

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