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2008年4月20日 - 2008年4月26日

2008年4月26日 (土)

ジェフリー・サックス『貧困の終焉──2025年までに世界を変える』

ジェフリー・サックス(鈴木主税・野中裕子訳)『貧困の終焉──2025年までに世界を変える』(早川書房、2006年)

 世界の全人口60数億人のうち、6分の1が高所得の先進国だとすれば、残りの6分の5を貧困にあえぐ発展途上国として一くくりにしてしまうイメージがかつてはあった。しかし、いわゆるBRICS、とりわけ中国に顕著なように、各国での大きな経済発展の動きは現在では珍しくない。極貧国のパーセンテージは全体としては低くなり、世界人口の6分の5までが経済開発の梯子に、程度はそれぞれ違うにせよ、何らかの形で手をかけている。

 しかし、残りの6分の1、とりわけアフリカ諸国は依然として極度の貧困にあえいだままだ(ポール・コリアーの著作のタイトルでいうと、The Bottom Billion=最底辺の10億人)。また、中国やインドのように一国内で経済格差が極端に開いてしまったケースもある。すべての国が、すべての人々が、経済的にテイク・オフするにはどうすればいいのか? 経済成長は、奪ったり奪われたりのゼロサム・ゲームではない。必ず方法があるはずだ。

 IMF・世界銀行は、経済開発に失敗した国々の問題として、ガバナンスの腐敗・非効率、市場に対する政府の過剰介入、財政赤字、国有企業の多さといった点に注目し、開発計画の条件として政治改革、経済自由化、緊縮財政、民営化を求めた。もちろん、基本的に間違ってはいない。ただし、前提条件がそれぞれ異なる国々に対して一律の対策を押し付けたことで大混乱をきたしてしまったケースは枚挙に遑がない。また、援助にしても、援助国側が拠出する金額が初めにありきで、個々の事情はあまり考慮されていない。

 経済開発の梯子の端っこでもとにかく手をかけることさえできれば、あとは自力で何とかできる。しかし、様々な罠に足を絡めとられてしまって、その梯子に手が届かないというのが極度の貧困にあえぐ国々の問題なのである。何よりも、貧困そのものが泥沼となっている。食うに精一杯、いや食うことすらできない飢餓状態にあっては、貯蓄など問題外。余剰がなければ投資はできない。地理的制約による高い輸送コスト、厳しい気候条件、エイズやマラリアなどの病気。基本条件が全く備わっていないのだから、経済開発のための手段などあるはずもない。こうした基本条件は市場競争の前提であって、市場競争そのものが供給することはできない。

 援助を与えて、食わせて依存状態にさせて現状を固定化させてしまうのではなく、経済開発の梯子に彼らの手が届くように助けることが課題である。戦略的・集中的投資・援助によって、一人あたりの資本蓄積について余剰を貯蓄に回せるレベルまで一挙に押し上げる。戦力の逐次投入は何の結果ももたらさないことは兵法の常識だ。援助国側の負担は一時的に増加するが、それは最貧国が経済開発を自力で行なえるようになる基礎条件を整えるまでのこと。トータルで考えれば現状維持よりも負担額は少なくなる。目的は、彼らが自力脱出できるように極度の貧困をなくすことであって、すべての貧困をなくすことではない。

 急患に対応する臨床医学をヒントに、臨床経済学を提唱しているところに本書の特色がある。国によって抱えている事情は千差万別なのだから、一律の対策を押し付けるのではなく、まず個別に診断する必要がある。一つの問題は別の問題と絡み合っており、その複雑さを解きほぐさねばならない。また、先進国側の貿易障壁によって産品を輸出できない、巨額な負債が重圧となっている、隣国から流入してきた難民が足かせとなっている、など、一国だけでは解決できない問題もあるため、その国の置かれた環境的条件にも注意を払わねばならない。そして、取られた手段がどれだけ有効であったか、臨床治験的に観察と評価を行なうことも欠かせない。

 人口爆発によって、一人あたり資本蓄積が低くなっているという問題がある。しかし、経済開発の進展は出生率の低下につながる。乳児死亡率が改善されれば、子供が死ぬ可能性に備えてたくさん産むという傾向に歯止めがかかる。女性のエンパワーメントが大切だ。女性自身が働いて稼ぐようになれば、子育てに要するコストと比較して、子供を産まないという選択肢も現実的になる。避妊手段も普及する。

 本書には、ボリビア、ポーランド、ロシア、中国、インド、そしてアフリカ諸国の問題に著者自身が関わったエピソードが盛り込まれており、話題の展開は具体的だ。ジェフリー・サックスは29歳でハーヴァード大学教授となった俊英。もともとは国際金融論を専門としていたが、ボリビア政府の経済アドバイザーとなったときに貧困の問題に目を開かされ、開発経済学へ転身したという。現在はコロンビア大学地球研究所所長。国連のミレニアム開発プロジェクトの取りまとめ役でもある。新刊として、Common Wealth: Economics for a Crowded Planet(Penguin Press, 2008)が刊行されたばかりで、一応入手はしたのだが、来年くらいまでには翻訳が出るのではないか。

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2008年4月24日 (木)

『ラ・ロシュフコー箴言集』

 本棚の手に取りやすいところに、折に触れて目を通す古典を並べてある。『ラ・ロシュフコー箴言集』もそうした一冊だ。邦訳も色々とあるが、私の手もとにあるのは吉川浩訳『ラ・ロシュフコー箴言集 運と気まぐれに支配される人たち』(角川文庫、改訳・1999年)。

 読んだ年齢に応じて注目する箇所が違ってくる。たとえば、「われわれに足りないのは、力よりも意志である。われわれが、物事を不可能と思い込むのも、とかく、自分自身に言い訳するためだ」(22ページ)とか、「われわれは、自分の真価によって、心ある人に認められ、星の回り合わせによって、世間に認められる」(54ページ)とかに赤線を引っ張ってあるのは、壁にぶつかってもがいていた頃だな。古典は、その読み方によって、その時々の自分を映し出す鏡のようにもなるのが面白い。読み方の間口が広いからこそ、時代や地域を超えて読みつがれてきた。それが、古典というもの。

 先日、レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』を読み、人間の虚栄心に着目したホッブズの視点はラ・ロシュフコーとも共通するという趣旨のことが書かれていて、それで思い出して久しぶりにひもといてみた次第。モンテーニュの『エセー』にしてもそうだが、いわゆるモラリスト文学に時折見られるシニカルな寸言は心に結構深くグサッとくる。

 私は、社会科学でも、思想や文学でも、毒気のあるニヒリズムをどこか感じさせる作品でないと、食い足りないという不満が残ってしまう(その反動なのか、あまっちょろい感傷に逃げたくなることもあるが)。

 斜に構えたニヒリストがイヤな奴かと言えば、そんなことはない。彼らは心の奥底では理想主義者でもある。ただ、見たくないと思うものがあっても、目を背けることができない。楽観論を額面通りに信じ込める人は、単に思慮が足りないというだけのこと。その最たるものが虚栄心。耳に心地よい理想論と虚栄心は同類だと思っている。
「他人をだまして気づかれないのは困難だが、自分をだまして、それに気づかないのは簡単だ」(42ページ)
 自分自身をだまくらかすというも、生きていく上での一つの知恵だとは思うが、虚栄心にしても理想論にしても、押し付けがましいので周囲の人間にとっては迷惑この上ない。

 理想論は、言ってしまえば理屈でこねくり上げたもの。他人から与えられたもの。本来の生身の自分を否定して、空想の鋳型にはめこもうとする結果、永遠に埋まることのないギャップに怨嗟の声をあげるのが関の山。プロクルステスのベッド。何か、ニーチェだね。
「人は、自分の持って生まれた性質によって物笑いになるのではない。自分にありもせぬ性質を真似て物笑いになる」(47ページ)
「ありもせぬ自分を見てもらおうとするより、ありのままの自分を見てもらった方が、ずっと自分のためにもなるのだが」(124ページ)

「人間一般を知るのはた易いが、一人の人間を知るのは難しいのだ」(119ページ)
 普段の人付き合いでも、それから社会科学の議論をフォローするときにも、この言葉は忘れないようにしておきたいな。

「人間とは惨めな存在である。なんとかして 情念を満足させようと努めながら、絶えず情念の横暴に苦しんでいる。人間は、情念の暴虐にも、情念の束縛から脱するためなすべきことにも耐えられないのだ。情念もいやだし、それを直す薬もいやなのだ。病気の苦痛も、それを直す努力も辛抱できないのだ。」(145ページ)
 人間の意識領野の深みに自分自身ではコントロールできないエネルギーを措定して、その変容として善悪是非とは違うレベルにおいて人間行動を把握しようというところにフロイトの議論の勘所があるとすれば、精神分析学の知見は特に真新しいものでもなかったことが分かる。ま、よく知られていることですが。

「われわれは、人生のどの年齢にも、全くの新人として到達する。だから、いくら年を取っても、その年齢においては、とかく経験不足、ということになってしまう。」(112ページ)
 年長者と雑談していたときに、この言葉をさり気なく口に出したら、えらく感心されたことがある。ちょっと気の利いた表現を探してストックしておけば、社交術にも役立つかもしれない。

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2008年4月21日 (月)

「ニライカナイからの手紙」

「ニライカナイからの手紙」

 竹富島の明るい陽光が良い感じだ。風希(蒼井優)のもとに、東京の病院に入院している母親(南果歩)から誕生日ごとに手紙が届く。会いに行きたいと言っても、おじい(平良進)は許してくれない。20歳の誕生日になったら理由を説明してくれると母の手紙にはあるが、写真の勉強をしたい風希はおじいの制止を振り切って東京へ行く。

 生まれ故郷の濃密な人間関係があり、何よりも亡き母からの手紙があるからこそ、これらが足場となって風希は東京でも頑張れる。風希がおじいの態度に不満たらたらだったように束縛もあるが、他方で、帰ればいつでも暖かく受け容れてくれる人々がいる安心感。もちろん、現実にはあり得ない美化された“故郷”観ではあろうが、私は嫌いじゃない。私はコミュニタリアニズムにどちらかというと同情的だが、それは理屈としてではなく、こうした良い意味での共同体への憧憬があるからだ。

 以前、宮台真司がラジオ番組で、最近の日本映画ファンは宮崎あおい派と蒼井優派に分かれる、と言っていたように記憶している。宮台は蒼井優派だという。その頃の私は断然、宮崎あおい派だったが、最近は蒼井優派に傾きつつある。実は、蒼井優がそんなにかわいいとは思っていない。ただ、私の興味を引く映画によく出演しているので目に馴染んできた。最初に「リリィ・シュシュのすべて」を観たときは少々がっかりしていた覚えがあるのだが、改めて見直してみると、一体何を観ていたのかと自らの盲を恥じる。「フラガール」での演技で一挙に蒼井優ファンになったし、最近では「人のセックスを笑うな」で見せたのびやかなあどけなさも良かった。顔立ちとしては今でも宮崎あおいの方が好きなのだが、最近は、青山真治作品を除けば、私が観たいと思う作品に出てこないんだよなあ。「篤姫」なんて一度も観たことがない。

【データ】
監督・脚本:熊澤尚人
113分/2005年
(DVDにて)

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雑談と、最近観たDVDの備忘録

 ここ一週間ばかり、頭が疲れていて、書き込みする気力がなかった。とりあえず生きてますよ、ということで適当に。

 この土日には、ジェフリー・サックス『貧困の終焉』、Paul Collier“The Bottom Billion”、フロイト『幻想の未来/文化への不満』『人はなぜ戦争をするのか』、それから小説(宮部みゆき『誰か somebody』、朱川湊人『花まんま』)など読んだが、また機会を改めて。

 数日ぶりに自分のブログを見て、アクセス数がピョンと跳ね上がっているので驚いた。松井冬子でガンガン検索されているらしく、私の過去の記事(→「日本画家、松井冬子」)にも多数のアクセスが続いている。そういえば、昨晩、帰宅が遅くなって、テレビをつけたらNHK教育テレビで松井冬子特集をやっていた。もう終わる間際だったが、松井の対談相手の上野千鶴子が、幸せがどうたらこうたらと間抜けなこと言っており、妙な違和感あり。布施英利や山下裕二とはどんな話をしたのだろうか? 再放送するのかな。

 それはともかく、最近観たDVDの備忘録です。

「レイクサイド・マーダーケース」(青山真治監督、2004年)

 中学お受験のための合宿先で起こった殺人事件をめぐるサスペンス・ドラマ。登場人物のエゴイズムがぶつかり合う心理劇としてもなかなかよく出来ているし、犯人探しの意外な展開にも目をみはる。原作は東野圭吾。

「それでもボクはやってない」(周防正行監督、2007年)

 劇場に観に行こうと思いつつ観そびれていた。電車内で痴漢と間違われて法廷に立つ羽目になってしまった青年(加瀬亮)の話。多様な登場人物それぞれの立場で語られるセリフを通して法律上の論点や制度運営上の問題点がよく整理されているので、刑事事件に限定はされるが法学入門としても面白いのではないか。

「ギルバート・グレイプ」(ラッセ・ハルストレム監督、1993年)

 アメリカの田舎町、何の変哲もない退屈な毎日。ギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)は、知的障害を負った弟(レオナルド・ディカプリオ)、夫の死のショックで過食症になってしまった母など、問題含みの家族を抱えている。そんな彼らの前に現われた、颯爽とした少女・ベッキー(ジュリエット・ルイス)。彼女は祖母と一緒にトレーラーで旅をしていた。

 ギルバートとベッキーが二人で夕焼けを見るシーンが好きだな。あかね色に染まった空の下、自分の家を見て「あんなに小さかったっけ」とつぶやくギルバート。「大きい、なんて言葉は、空を表わすには小さすぎてふさわしくない」というベッキーのセリフに、観ている私もうなずく。家族のしがらみと、それを大きく捉えかえすような空の広がりとの対比に色々と思いをめぐらせてしまう。若き日の、というか幼き頃のレオ君がなかなか熱演している。

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