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2008年4月13日 - 2008年4月19日

2008年4月16日 (水)

偶感、芸術について。

1.
 世間で大々的に宣伝され、評判となっている美術展に足を運んでみよう。あなたはそこで、ひしめき合う老若男女の群れを見出すことになる。
 群れ、と言っても実に秩序正しい。解説ヘッドホンを頭に装着した人々が、いわゆる“名画”の掛けられた壁の前で一列となり、係員の指示に従ってゆっくりゆっくりと歩を進める光景はどこか異様ですらある。律儀に文句も言わずに列をなす人々は、実物を目にする機会など滅多にない作品がすぐそこにあるというのに、ちらっと一瞥をくれただけで、すぐに行列の進行方向へと姿勢を転じてしまう。そして、前の人の後頭部を再びじっとみつめる。配給の順番待ちをしている途中にたまたま絵を見つけた、という感じだ。
 何しに来たのだろう? 並ぶために来たのだろうか?
 杖をついたおじいさんは、行列の進度に遅れまいと一生懸命ふらついている。
 若いカップルの男性は、仕入れてきたのであろうありったけの知識をここぞとばかりに披露する。連れの女性は「この絵って、やっぱり深いよねえ!」と明るく屈託のない声で相槌を打っていた。「青の時代」のピカソが描いた、陰鬱で痛々しい表情が印象的な女性像の前で。
 一体、どんな深さを感じ取ったのだろう?
 中でもとりわけ目立つのが、暇そうなおばさんのグループだ。静かに見入ろうとする横で騒々しいキンキン声が響き、いやでも彼女たちのしゃべくる感想が私の耳の中へと押し入ってくる。
「へえー、きれいな絵ね。まるで生きてるみたい!」
 生きているものが見たければ、わざわざ美術館まで来なくともよかろうに。色彩の美しさや、特に写実の巧みさにばかり賛嘆の声を上げる。「良い絵」なのだから、どこか褒めなければならないと義務感に駆られているようだ。誰に対して気を使っているのだろうか?
 しかし、おばさんは時々正直な感想をもらす。
「あら、ピカソにしてはきれいな絵ね。」
 思わず笑ってしまった。いや、悪意ある笑いではない。
──わけのわからぬ作品こそ素晴らしい。
──美術史家がお墨付きを出しているのだから、抗弁する奴は粗野な無教養人だ。
 美術館の中にはそんな無言の圧迫が充満している。こうしたいびつな空気に流されず、自分でも分かりそうな作品を探そうとする素直な努力がほほえましいのだ。
 出口付近でそのおばさんグループと再びすれ違ったとき、こんな会話が聞こえてきた。
「あたし、こういう絵って、よく分からないわ。」
「あら、奥様は泰西名画がお好き?」
 泰西名画! レトロな言葉の響きに、ついつい耳をそばだててしまった。
 こういう気取った、いやったらしい言葉を使う人には、ピカソは勿論のこと、ルーベンスもベラスケスもルノワールも決して分かりはしないだろう。“名画”という、他人から与えられた判断枠組みに盲従しながら絵を見ようとして、自分自身にとってどこが良いのかなど一切気にも留めないからだ。何のために絵を見るのか? 「名画の良さが分かる私って、インテリでしょ?」という倣慢な、しかし小市民的なプライドを誇示するため、自分自身の心に響く感情を見つめようとしない。他人の眼を恐れて、自らの正直な感想を出すのをためらっている。
 「ピカソ」という名前ばかりが硬直化し、虚名が暴走を始める。こうして芸術は誤解される。

「拝跪・礼賛は、知るや知らずや態のいい敬遠である。自動的な祀り上げによって、それとの峻烈な対決を回避し、消極的に己れの卑俗な世界を守るのである。神棚に鎮座した形而上学的存在はまた下界を毫も動かし得ない。つまり相互は無縁となり、ともに新しい現実に対してはまったく不毛なのだ。」(岡本太郎『青春ピカソ』) 

 ピカソなんか理解できなくとも一向に構わないではないか。
 分かるものは分かるし、分からないものは分からない。何も難しいことではない。この至極当然なことを素直に認めてこそ、いわゆる芸術の意義が現れる。おそらく、分からないからこそ、なのだろう。分からないものを格好良さそうに考えて、無理やり分かったつもりになろうとするから、倒錯した芸術観が世にはびこるのだ。
 芸術とは、ひとえに我々一人一人が自らの内なる精神の動きを凝視する営みである。他人の精神に立ち入るなんて誰にも出来るはずがない。自身の感覚にフィットするものは、他ならぬ自分の眼を使わなければ探し出すことは出来ない。作品をつくるにしても、鑑賞するにしても、どうして他人の眼を介在させる必要があるのか?
 人は、感じ取った自らの精神の深みを形に表そうと望む。しかし、それは動的であるがゆえに、決して形にまとまることはない。形にまとめたいのだが、どうしてもまとまらない、そうしたもどかしさを自覚しながらも、敢えて形として表出しようとする矛盾した情熱がある。あらゆる表現活動はここに起因する。
 ピカソは絵を描くことで何かをつかみ取った、かのように思った刹那、まさに表現しようとした感覚はスルリとどこかへ流れ出してしまう。繰り返す。絵が生み出されて行く。

「彼にとっては創りつつあるという現在的充実のみが価値なのだ。作品の完成などということを歯牙にもかけていない。だからこそ彼は芸術家なのである」(岡本、同上)。

 ピカソという虚名に眩惑される者には何も分からない。むしろ、ピカソの絵が分からないならば、はっきり分からないと言える人こそ、ピカソの精神に触れることが出来る。
 芸術とは、ただひたすら自らの精神をみつめることなのだから、描く者にとっても、見る者にとっても、絵画はそのための手段に過ぎない。自分の感性に合わない手段ならば、放り棄ててしまってどこが悪い?
 自分自身の感覚をどこか別の場所に置き去った者は、決して何ものも生み出すことは出来ない。

2.
 トリスタン・ツァラの奇妙な詩集。
 詩作を試みる諸君。良い方法を教えよう。新聞とハサミを用意すること。まず、新聞から適当に単語を切り抜く。次に、言葉の切れ端を袋の中に入れる。そして、シェイク。無作為に取り出し、並べる。はい、一丁上がり。
 脈絡のない言葉の群れが、読もうとする者の意図を一切無視してウヨウヨと勝手にうごめく。滅茶苦茶な活版の組み方は、一瞬、印刷者の不手際かと疑われる。無秩序な統一。矛盾そのもの。
 言葉そのものを受け止めよ!
 ダダイズム、それは一発芸。解釈したら、たちまち消える。

 1916年、ニューヨーク。ある美術展の会場の一隅で、小便用便器がさかさまに鎮座していた。題して、「泉」。マルセル・デュシャンの確信犯的なイタズラ。レディメイド(既製品)の芸術。創造なき創造。芸術を否定した芸術。それは、意味に対する揶揄。
 ものそのものを受け止めよ!
 前衛芸術、それは一発芸。解釈したら、たちまち消える。

 ピアニストが入ってきた。ピアノの前に座る。譜面を置いた。手はお行儀よく膝の上にそろえられている。時折、譜面をめくる。鍵盤は微動だにしない。
 ジョン・ケージの新曲「4分33秒」。聴衆はざわめく。あの男は何をしてるんだ、いやもとい、なんで何もしないんだ? 外でささつく雨音がホールの中へもかすかに響きわたる。意図せざる苛立ち声。シトシトと静かな雨音。そして、自らの胸で脈打つ心臓の鼓動。
 音そのものを受け止めよ!
 偶然音楽、それは一発芸。解釈したら、たちまち消える。

 一発芸をマネするアホウども。その滑稽さを自覚していない。彼らは“知識人”、“芸術家”というバッジを胸につけ、誇らしげな顔つきで“芸術”の素晴らしさを吹聴する。
 芸術? 何が? ただの猿マネじゃないか。
 一風変わった“芸術”作品が現れると、その奇抜さに“意味”を見出し、固定化させようとするエピゴーネンが現れる。例えば、デュシャンの「泉」以後、現代美術展はがらくた市となった。転がった丸太棒。折れた電信柱。ペンキを塗りたくった郵便箱。こんがらかった針金…。
 赤瀬川原平と南伸坊が道を歩いていた。
「あそこに電信柱があるぞ。」
「おっ、現代芸術だ!」
 こうした冗談から路上観察学会が始まった。

 私はツァラが、デュシャンが、ケージが好きだ。しかし、彼らを決して理解はしない。彼らは何かを感じ取っていたようだ。しかし、同時に、彼らは私とは違う人間だ。理解できるとか、できないとかいう以前に。ただそれだけのこと。当たり前の話だろう?
 私は、私の考えを、私の想念を、私の衝動を、ただ貫くだけ。他人の、ではない。断じてあり得ない。他に何ができる?
 世界を受け止めよ! 「事象そのものへ!」(フッサール)
 解釈したら、世界はたちまちつまらなくなる。

 ツァラを理解したい? デュシャンを? ピカソを? 岡本を? ケージを? やめときなさい。無駄なことだ。だけど、気になる? なら、仕方ない。読むとしたら『荘子』だな。あるいは仏教書だ。
 間違っても、文学や哲学や美学を講ずる大学教授の御高説など拝聴してはならない。奴らはタチの悪い仲買人だ。正直な仲買人なら、仕入れた商品をきれいなまま顧客に渡す。ところが奴らときたら、商品をズダズダに引き裂いた上に法外な値段をふっかけ、それにも飽きたらず、「売ってやるんだから感謝しろ」と得手勝手な敬意を押し売りする。なんてあつかましいんだ。
 文化の破壊者は誰か? 他ならぬ知識人だ。

~ ~ ~ ~ ~

 本棚をかき分けていたら、トリスタン・ツァラ(小海永二・鈴村和成訳)『ダダ宣言』(竹内書店新社、1970年)が出てきた。私の手元にあるのは1981年、第6刷。古本屋で入手したものだ。別の本を探していたのだが、なつかしくてパラパラめくる。あちこち書込みしたり、線を引っ張ったり。メモ書きした紙片も挟まっており、上に書き写したのがそれ。8年くらい前になるだろうか、これを書いたときのことは覚えている。定職にありつけず、イラついていた時期だ。表現は青くさいけど、基本的な考え方は今でも変わっていない。

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2008年4月13日 (日)

カール・シュミット『政治神学』

カール・シュミット(田中浩・原田武雄訳)『政治神学』(未来社、1971年)

 「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」(11ページ)

 本書冒頭に置かれた、カール・シュミットの有名なテーゼである。

 主権とは国家の最高権力であるという教科書的な説明は抽象的なトートロジー(同義反復)にすぎず、意味をなさない。「自然法的な確実さで機能し、さからうことの不可能な、最高の、すなわち最大の権力などというものは、政治的現実のなかには存在しないのである」(26ページ)。たとえば、国民主権という。しかし、これはあくまでも“民主主義”というフィクショナルな体制に正統性を仮構するための用語法であって、政治的現象のリアルなあり様を説明したことにはならない。

 既存の法体系が全く想定していない緊急事態に直面したとき、当然ながら、法の枠外からのすみやかな決定が迫られる。この時点にあって、何らかの決断を下した具体的な誰か、その者こそが主権者だと言える。「法生活の現実にとって肝要なのは、だれが決定するか、である。内容の正しさを問うのとは別に決定権の所在を問う必要がある」(23ページ)。

 粛々と物事が進む日常の中では問題の核心は自覚されず、そもそも考えるべき必要すら誰も感じない。例外状況という日常の破綻にこそ根源的な問題意識を突きつけられると喝破したところにシュミットの慧眼がある。「例外は通常の事例よりも興味深い。常態はなにひとつ説明せず、例外がすべてを説明する。例外は通例を裏づけるばかりか、通例はそもそも例外によってのみ生きる。例外においてこそ、現実生活の力が、くり返しとして硬直した習慣的なものの殻を突き破るのである」(23ページ)。

 こうした例外状況に際しての主権者による決定は、あたかも神学における神の“奇蹟”に似ているとシュミットは言う。

「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」(49ページ)。

 ところが、ハンス・ケルゼンをはじめとする規範主義的な法律学は、この“奇蹟”を排除しようとしていると彼は批判する。ケルゼンの議論は、人的な恣意性を徹底的に取り払うことによって自然科学のように純粋な統一性・整合性を持つものとして法的現象を把握しようとするところに特徴がある(純粋法学)。シュミットの見地からすると、それは、構築された体系と矛盾するものはすべて無視することでかろうじて成り立っているにすぎず、本来の難問と向き合おうとはしない安易な態度だということになる。

 「およそ政治理念はすべて、人間の「本性」についてなんらかの態度決定をするものであって、人間が「生まれつき善」なるものか、「生まれつき悪」なるものかのいずれかを前提とする」(73ページ)。

 ルソーにしても、あるいは無政府主義者たちも、性善説を前提として予定調和的な理想社会を思い描く。そうした人間の本来の性質を国家権力がゆがめているのだと批判する。他方、カトリシズムに立脚するドノソ・コルテスやドゥ・メーストルたちは、原罪を負った人間が為し得る悪に恐れおののき、それを防げるのは神の“奇蹟”だけだと考える。具体的には、無謬性を本質とされる教会的秩序における命令という形で人間の悪を抑え込むことを求める。

 しかしながら、このように人間観において対極的な両者は、秩序を生み出す契機としての決定者に何らかの権威者を想定している点で実は同じ構図をとっている。すなわち、「バブーフからはじまって、バクーニン、クロポトキン、オットー・グロースにいたる無政府主義教説はすべて「民衆は正しく、そして当局は腐敗するもの」という公理を中心に展開される。これに対し、ドゥ・メーストルは、まさに逆に、「当局は、それが存続しさえすれば、それ自体善である」と言明する」(72ページ)。つまり、前者にあっては“民衆”が、後者にあっては神の権威が絶対なのである。

 そしてまた、両者は共にブルジョワ的自由主義を否定する。なぜならば、「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同様に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論によって永遠に停滞」させてしまうからである。「討論の対極は、独裁である。いかなるばあいにも極端な事例を想定し、最後の審判を期待する、ということが、コルテスのような精神での決定主義には含まれている。それゆえ、コルテスは、一方で自由主義者を軽蔑すると同時に、他方、無政府主義的社会主義は、不倶戴天の敵としてではあるがこれを尊敬し、それに悪魔的偉大さを認めるのである」(82~83ページ)。

 例外状況という具体的にリアルな局面における決断は絶対である。果てしない議論によって問題を先送りしたり、利害対立者の条件を出し合って妥協したりする余地は一切ない。ドノソ・コルテスは神の奇蹟を願ったが、時代はすでに変わった。神の権威も、王権神授説的な君主制の持つ正統性もすでに崩れ去り、民衆の意志が王座にはい上がろうとしている。決断を正当化すべき根拠はどこにもない。どうすればいいのか? 無から作り出される絶対的決断、すなわち独裁しかない──そのようにシュミットは結論付ける。

 本書に併録されているカール・レヴィット「シュミットの機会原因論的決定主義」という論文では、シュミットは決定という形式に焦点を合わせてはいても、決定される政治的内容については無関心だと指摘されている(121ページ)。決定という作用の結果として現われる政治体制は、ファシズムでも、あるいは自由主義や民主主義でも、どちらでもあり得る。いずれであっても代替可能、すなわち価値的な優劣を剥ぎ取ったレベルでシュミットは政治現象を見つめているとも考えられる。はっきり言ってしまえば、ニヒリズムだ。私自身は別にファシストでも独裁礼賛者でも何でもないが(一応、自己規定としてはシニカルなリベラリストだと思っている)、こうしたニヒリズムには非常に興味がひかれる。

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