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2008年3月30日 - 2008年4月5日

2008年4月 5日 (土)

「リリィ・シュシュのすべて」

「リリィ・シュシュのすべて」

 ひところ、14歳という年齢に注目の集まったことがある。神戸の「酒鬼薔薇」事件の少年は14歳であった。登場人物の精神的葛藤に踏み込み社会現象ともなったアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の少年少女も14歳。池田晶子さんの大ベストセラーも『14歳からの哲学』。

 私自身、中学生の頃を振り返ると、毎日が暗かった。健康面でも生活面でも特に問題はなかったし、むしろ恵まれていたと思う。しかし、表には出さなかったが、何か足場のないもどかしさにいつもイラついていた。子供の頃の純粋な感受性、それは無邪気でもあり同時に残酷でもあるが、大人になろうと背伸びをするとき、人によっては自らのアンバランスに戸惑ってしまう。戸惑いは、幼い頭では論理化=自覚化されず、自分自身でもとらえどころのない漠然としたわだかまりに身もだえし、苛立つ。しかも、そのことを周囲には理解してもらえないという絶望感、被抑圧的意識がそうした苛立ちをいっそうつのらせてしまう。「最近の子供は理解できない」という言説が普通にまかり通る。しかし、本人にすら分からないものを、「理解できる/理解できない」という無意味な基準を立ててカテゴライズしようという発想自体が本来的におかしい。「理解できる」とカテゴライズされるものは、実はとんでもない偽善なのではないか、人間が不可避的に抱え込まざるを得ないこのわだかまった何かを汲み取ったことにはならないのではないか──あの頃の私自身の心象風景を現在の時点で振り返ってまとめるとそんな感じだったように思う。

 この映画で、いじめられっ子からいじめっ子へと立場を変える星野(忍成修吾)を観ながら、こんなややこしいことを考えていた。

 蓮見(市原隼人)は中学生になって星野と出会った。優等生で家は裕福、お母さん(稲森いずみ)は若くてきれい、そんな星野に蓮見はあこがれる。夏休み、彼らは仲間と一緒に沖縄へ行った。南国の楽園イメージとは異なり、過酷な生存競争の激しい自然の生態系に驚き、そして、親しくなったバックパッカー(大沢たかお)が交通事故で血まみれになった姿を目の当たりにする。人間はいつでも死に得る──。夏休みが終わり、二学期が始まった。性格の一変した星野の存在は、クラスの空気を変えてしまう。

 音楽に何かを感じるということは、理屈というウソが混じらないだけに純粋でリアルだ。しかし、リリィ・シュシュの歌声に魅せられた者同士、つまり互いに分かり合えたはずの者同士が、実際には傷つき、傷つけられるということがあり得る。共感し合い、かつ傷つけ合う、一見矛盾ではあるが、この残酷さも現実である。良い悪いという話ではない。

 初夏の緑、晩秋の黄昏色、いずれも鮮やかな色合いに染まった田んぼが広々とひろがる光景は胸がすくように美しい。その中で、少年少女たちが、忍成、市原、蒼井優それぞれがヘッドホンに耳を当てている姿が、とりわけ忍成が叫ぶ痛々しい姿が印象に強く残る。

 私がこの映画を観たとき、すでに二十代も半ばになっていた。私よりも少し下の世代にこの映画が好きだという人が多いように思う。いじめ、援助交際、少年犯罪など時事性を感じさせるモチーフでストーリーは進むが、そうした表面的なものではなく、映像に浮かび上がってくるもっと切なくて痛々しい感性的なものがリアルに感じられたのではないか。

【データ】
監督・脚本:岩井俊二
音楽:小林武史
出演:市原隼人、忍成修吾、蒼井優、伊藤歩、稲森いずみ、大沢たかお、市川実和子、田中要二、吉岡真由子、他
2001年/146分

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2008年4月 4日 (金)

「四月物語」

「四月物語」

 会社帰りの夜、近所の桜並木を通った。花びらがハラリと落ちるのを見て、街灯に照らされたその淡いピンク色にしんみりと感じ入る。

 岩井俊二監督作品の中で私が一番好きなのは「四月物語」かもしれない。主役の楡野卯月(松たか子)は北海道から東京の大学に進学する。引越の場面から物語は始まるのだが、桜の花が舞い落ちるシーンが印象的だ。演出は少々大げさではあるが、岩井独特の映像美学で映し出されるとやさしくおだやかに目になじむ。

 入居直前の空っぽの部屋。戸惑いを抱えつつ歩く大学のキャンパスの喧騒。自転車に乗ってめぐる、これから住む街のたたずまい。淡い光の差し込む本屋さんの風情がなかなか良い。新生活が始まるときの不安と期待の入り混じった新鮮な感覚が一つ一つのシーンから浮かび上がってきて、あたたかく感傷的な気分についついひたってしまう。

 あこがれの先輩に出会うという青春小説的なストーリーや、汚さを全く排除してあまりに整いすぎた映像構成がかえって嫌味に感じられる人もいるかもしれない。それでも、初々しさの理念型(かたい言い方だな…)みたいのが描かれているところが私は好きで、時折思い出しては観ている。

 松たか子の地味に華のある表情(矛盾しているが)はこの映画の雰囲気によくはまっている。ピアノがメインの音楽は映像と密接にリンクしてミュージック・ビデオといった趣きで、これがまた良い感じ。

【データ】
監督・脚本:岩井俊二
出演:松たか子、田辺誠一、他
1998年/68分
(2008年4月1日、DVDで)

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2008年4月 3日 (木)

「春夏秋冬そして春」

「春夏秋冬そして春」

 ゆたかに茂った木々は季節に応じて鮮やかな色合いを見せる。山あいの湖上、朝もやの中に浮かぶ堂宇。ところどころ唐突に立っている扉は俗界との境を表わしているのだろうか。

 世捨て人同然の日々を送っている老師と少年。子供らしい残酷な好奇心で魚、蛙、蛇に石をくくりつけて殺してしまうのを少年は見咎められてしまう。心に刻み込まれた罪の意識。長じては、心の病で療養に訪れた少女と過ちを犯してしまう。「愛欲は執着を生み、執着はついには殺意を生む」──老師の言葉を背に受けながら彼は少女のあとを追って山をおりていく。

 春夏秋冬、季節の移り変わりを人生の転変になぞらえながら描き出した、叙情詩とも言うべき本当に美しい映画だ。ある意味で逃れられないサイクルの中で繰り返される人間の罪と贖罪。その一切を引き受け、石を引きずるように生きるしかない。ふと、永劫回帰なんて言葉も思い浮かべた。

 キム・ギドクの映像には、清潔な緊張感がピンと張りつめた厳しさがある。それがまた哀しみ、切なさといった感情を浮かびあがらせるのにぴったりとはまるように美しい。私が初めて観たのは「魚と寝る女」(2000年)だったと思う。まだ韓流ブームのおこる前だった。グロテスクな感じもしたが、寓話的なストーリーと独特な映像構成はいまでもよく覚えている。「サマリア」(2004年)、「うつせみ」(2004年)でようやくキム・ギドクの名声が高いことを知った。とりわけ、「サマリア」の哀しい美しさに印象は深く、とても好きな映画だ。

【データ】
監督・脚本:キム・ギドク
2003年/韓国・ドイツ/102分
(2008年3月31日、ビデオにて)

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2008年4月 2日 (水)

ハプスブルク帝国について

 「太陽の雫」(1999年)という映画を観たことがある。あるユダヤ系ハンガリー人一家四代を主軸に第一次世界大戦から共産主義体制までハンガリー現代史を描き出した大河ドラマだ。初めの方、第一次世界大戦で軍医として出征する一家の長男がフランツ=ヨーゼフ1世に拝謁し、感激に打ち震えるシーンがあったのを覚えている。

 オーストリア=ハンガリー帝国は複雑な多民族国家として独特なシステムをとっていた。大津留厚『増補改訂 ハプスブルクの実験──多文化共存を目指して』(春風社、2007年)を読むと、軍事、教育、選挙、言語政策、行政システムなど各面で諸民族の危ういバランスをとろうといかに工夫を重ねていたかが分かる。

 オーストリア・マルクス主義にカウツキーやオットー・バウアーなど民族問題の理論家が多いのもこうした背景がある。ただし、多言語状況と軍隊や行政の効率性とはなかなか両立しがたい。カフカの小説に見られる迷宮構造に帝国の煩瑣な官僚制の影を指摘する論者もいたように記憶している。第一次世界大戦においてオーストリア=ハンガリー帝国の弱体な軍隊はロシア軍相手に大敗し、ドイツ軍部に依存してその言いなりにならざるを得ない立場に追い込まれてしまった。

 様々な問題をはらみつつも、多民族共存、具体的にはヨーロッパ統合の先駆的モデルとしてオーストリア=ハンガリー帝国はしばしば注目されてきた。早くにはクーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパ構想が知られているし、ハプスブルク家最後の当主オットー・ハプスブルクも戦後、欧州議会議員(ドイツ選出)としてヨーロッパ統合問題に取り組んでいた。近年はバルカン半島で再び激化した民族紛争を踏まえ(スロヴェニア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国領もしくはその勢力範囲にあった)、中東欧史研究では多民族共存が大きなトピックとなっている。

 オーストリア=ハンガリー帝国の多民族共存政策においてハプスブルク家の果した役割は極めて大きい。ハプスブルク家の皇帝はもちろんドイツ人である。ところが、マリア=テレジアはウィーンの窮屈な宮廷を嫌い、ハンガリー人の武骨さを愛したので彼らから慕われた。ヨーゼフ2世はチェコ人に好意を寄せたため、やはり彼らからの支持を得た。つまり、ドイツ人が他民族を支配するという構図ではなく、ドイツ人も含めて各民族が横並びになって、それぞれの民族が直接皇帝に忠誠を誓う。ハプスブルク家が扇の要となる形で帝国は維持されていたのである。

 19世紀、チェコ民族主義の理論的指導者であった歴史家のパラツキーは、チェコ人の民族的権利を要求すると同時に、そのためにこそハプスブルク家の存在が不可欠であり、その下でゆるやかな連合体に組み替えることを主張していた。チェコ人だけで独立すると、西のドイツ、東のロシアに呑みこまれてしまうという懸念があったからだ。実際、第一次世界大戦の結果として独立したチェコスロヴァキアはナチス・ドイツ及びソ連という強権的な帝国の餌食となってしまった。

 フランツ=ヨーゼフ1世という人物には興味がある。1848年、いわゆる三月革命の動乱の中、18歳で即位。第一次世界大戦さなかの1916年に亡くなるまで68年にもわたる在位期間。生真面目な性格で、質素な生活スタイルを貫きながら黙々と執務に専念していた。皇后エリーザベトの暗殺、ナポレオン3世にそそのかされてメキシコ皇帝となり銃殺された弟マクシミリアン、皇太子ルドルフの心中事件(『うたかたの恋』のモデルとなった)と相次ぐ家庭的な不幸。そして、皇位継承者となっていた甥のフランツ=フェルディナントは1914年にサライェヴォで暗殺され、第一次世界大戦が始まる。

 第一次世界大戦後、民族自決論に基づいて中東欧で新しい国々が生まれた。ここにおけるナショナリズムは、具体的には一民族=一国家を目指す国民国家イデオロギーを意味する。中東欧の入り組んだ民族分布状況においてこの原則を適用しようとすれば、国境線の引き方、少数派への同化圧力など様々な軋轢が激しくなるのは明らかであった。チェコ国内ズデーテン地方のドイツ人問題はナチスの膨脹主義の口実となったし、ユーゴ紛争の火種の一因もやはりこの頃にある。第一次世界大戦を契機にオーストリア=ハンガリー、ロシア、オスマンといった帝国が相次いで崩壊したが、これは時代遅れとなった古い体制がほころびたというだけでなく、19世紀以来の国民国家イデオロギー(これは国家内の均質性を求める)が持つ強烈なエネルギーが“帝国”の政治的多元性を否定したという側面があったことも無視できない。

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2008年4月 1日 (火)

「PiCNiC」

「PiCNiC」

 前時代がかった精神病院の光景がいきなり目を奪う。カラスの羽を全身にまとったココ(Chara)は、いつも本を読んでいる無口な青年ツムジ(浅野忠信)、彼を慕うサトル(橋爪浩一)と出会った。
 もらった聖書を読んでいたツムジは言う。
「おい、世界は滅亡するぜ。この本に書いてある」
「じゃあ、見に行こうよ」
「何をだよ」
「世界の終わりを見に行くの!」

 塀の上を歩いて旅をするという設定がおもしろい。この映画を観たとき、私自身がある種の行き詰まりがあってかなり暗い気分を抱えている時期だった。そうした自身の感情を投影したせいか、三人が病院の塀から外を眺めるときの街の風景に新鮮な解放感が感じられた。映画のラスト、海辺の夕景をバックにココが崩れ落ち、黒い羽が舞い上がるシーンが何とも言えず美しい。

 岩井俊二の映画を私が初めて観たのは出世作「Love Letter」ではなく、この「PiCNiC」だったと思う。暗いストーリーだが、凝りに凝った映像の美しさと叙情的なピアノのメロディーでこの映画に引き込まれ、そのまま岩井映画ファンになってしまった。観たのは確かシネセゾン渋谷、「Fried Dragon Fish」と併映されていた。「Love Letter」はその後、池袋の(昔の)文芸坐で観た。ちなみに、この「PiCNiC」がきっかけとなって浅野忠信とCharaが結婚したのではなかったか。

【データ】
監督・脚本:岩井俊二
出演:浅野忠信、Chara、橋爪浩一、伊藤かずえ、鈴木慶一、他
1994年/68分
(2008年3月30日、ビデオで)

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2008年3月31日 (月)

「犬猫」

「犬猫」

 一緒に暮らしていた古田(西島秀俊)の部屋を飛び出してしまったスズ(藤田陽子)。行くあてもなく、友人のアベチャン(小池栄子)の家に転がり込んだ。居合わせたヨーコ(榎本加奈子)はスズに視線を合わせない。気まずい二人の表情。過去に何やら訳ありな様子。アベチャンは明日から中国に留学してしまうという。スズとヨーコの、ギクシャクしながらも不思議と心を通わす共同生活が始まった。

 ロケ地は東京西郊の住宅街のようだ。その割には、二人の暮らす古びたお家のたたずまいにはなかなか風情がある。二人の日々の淡々とした時間。これといって大きな事件が起こるわけではない。だけど、些細なきっかけからわきおこる友情とも嫉妬とも割り切れない色々な感情が細やかに浮かび上がってくるところが私は好きだ。どこが良いと理屈では言えないが、全体として穏やかに流れる空気が本当に素晴らしい。

 とにかく力を抜いてナチュラルに演技させるという基本方針でつくられたそうだ。そのおかげか、榎本加奈子にはむしろ派手な印象があってあまり好感は持っていなかったのだが、この映画でのメガネをかけて内向的にふてくされた雰囲気は良い意味でアイドルらしくない。藤田陽子の天真爛漫なキャラクターとの組み合わせが生きている。こういうタイプの映画には西島秀俊がやはり欠かせないな。

 先日、「人のセックスを笑うな」を観て井口奈己監督に興味を持ち、このDVDを手に取った。噂には聞いていたのだが、この「犬猫」ももっと早くに観ておけばよかったと後悔。

【データ】
監督・脚本:井口奈己
出演:藤田陽子、榎本加奈子、西島秀俊、忍成修吾、小池栄子
2004年/94分
(2008年3月30日、DVDで)

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2008年3月30日 (日)

「4ヶ月、3週と2日」

「4ヶ月、3週と2日」

 1987年、ブカレスト。チャウシェスクの共産主義政権が崩壊する直前の時期。大学の女子寮の一室から映画は始まる。妊娠してしまったガビツァ(ローラ・バシリウ)。ルームメイトのオティリア(アナマリア・マリンカ)は、うろたえる彼女に代わって中絶の段取りを進めなければならなくなった。ところが、当時のルーマニアでは中絶は違法行為であり、彼女たちは金銭的以上の代償を負うことになってしまう。

 確かにガビツァの中絶はうまくいった。しかし、彼女の人任せの自分勝手な態度を見ていると、どうにも嫌な気分になってしまう。ラストシーン、レストランで食事するガビツァ、向き合うオティリアのすきま風が入ったようなうんざりした表情が私の目には焼きついた。ポスターやちらしでは「独裁政権が中絶を禁じた法律を敢えて破ったヒロイン」という趣旨のキャッチコピーが目につく。しかし、オティリアの表情から受ける印象がかなり違うので気になり、プログラムを買って目を通した。

 チャウシェスク政権においては労働力増強のため出産が奨励され、中絶が禁じられたばかりか、避妊させないようゴムも店頭から消えていたそうだ。捨て子が増えたことも社会問題となっていた。この映画を観ていて、なぜこの人たちはゴムもつけないで無責任なセックスをするんだと違和感があったのだが、政治的な背景があるのが分かって納得。宗教的・生命倫理的には異論もあろうが、中絶という行為そのものが当時のルーマニアでは反体制的な意味合いを持つようになったという。

 ガビツァの人任せな身勝手。中絶を行なう男性医師の欲望。口先では善意だがどこまで信頼できるか分からない恋人。結局、自分ひとりで道を切りひらくしかないと決意を固めた女性の生き方を描いた映画として、決して明るくはないが説得力がある。

 実話をもとにしているらしい。共産主義体制下の日常生活がリアルなカメラワークで映し出されるのも興味深い。日本人にとってやはり縁遠いルーマニア映画についてプログラムは簡潔にまとめてくれており、便利だった。

【データ】
監督・脚本:クリスティアン・ムンジウ
2007年/ルーマニア/113分
(2008年3月28日レイトショー、銀座テアトルシネマにて)

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