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2008年3月23日 - 2008年3月29日

2008年3月29日 (土)

君塚直隆『女王陛下の外交戦略──エリザベス二世と「三つのサークル」』

君塚直隆『女王陛下の外交戦略──エリザベス二世と「三つのサークル」』(講談社、2008年)

 1979年、ルサカ(ザンビアの首都)、コモンウェルス(イギリス連邦)諸国首脳会議でのエピソードが私には印象的だった。イギリスからは首相になったばかりのサッチャーが出席したが、南ローデシアの人種隔離政策への対応などアフリカ問題に消極的な保守党政権に対して、アフリカ諸国首脳は敵意を露わにしていた。他方、エリザベス女王については「人種的に偏見がない」(colour blind)として彼らは好意的。一人ポツンと孤立していたサッチャーをアジア・アフリカ諸国首脳たちに次々と紹介していったのが、他ならぬ女王陛下その人であった。これをきっかけに、晩餐会ではザンビアのカウンダ大統領がサッチャーにワルツを申し込んで一緒に踊り、会議に漂う空気の流れが一変。南ローデシア問題への結論はまとまり、サッチャーはアフリカ問題に積極的に取り組むようになる。

 二つの世界大戦を通して大国としての地位からすべり落ちたイギリスが戦後の国際政治の中で一定の影響力を維持するために注意を払わねばならないサークル=国家群が三つあった。アメリカ、コモンウェルス、ヨーロッパ──この三つのサークルとの信頼関係構築にイニシアティブを発揮した存在として本書はエリザベス二世に焦点を当てる。

 政治・外交の現場にあっては、一対一の生身の人間関係が意外とものを言う。政治家や外交官は任期に限りがあるし、また世論を意識して成果を焦りやすい。他方、王族にはそうした制約がないため、ゆっくりと時間をかけて政治的に中立の立場から他国の王族・国家元首たちとの人間関係を築くことができる。政府が行なう外交のハードな部分が行き詰ったとき、王室外交のソフトな部分を危機回避に役立たせることができる。

 エリザベス後の国王には誰がよいかという世論調査では、チャールズ皇太子よりもウィリアム王子の人気の方が高いらしい。しかし、長年にわたる経験と人脈の蓄積があってはじめて王室外交は成立する。また、伝統の積み重ねという点を考えても、人気投票的に国王を決めるわけにはいかない。日本の皇室について考える上でも示唆するところは大きい。

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2008年3月27日 (木)

橘孝三郎という人

 岩波書店のシンボルマークにはミレー「種まく人」があしらわれている。岩波茂雄が農家の生まれだったのでこれを選んだらしい。そういえば、『種蒔く人』というプロレタリア文学雑誌もあった。ミレーを日本で積極的に紹介したのは白樺派である。農村、勤勉、教養といった美徳を結びつけようとしたところに大正期教養主義の一つのロマンティシズムがうかがえる。ミレーはそのシンボルだったと言える。

 橘孝三郎が理想としたのもミレー「晩鐘」の世界観であった。黄昏色になずんだ夕刻、教会の鐘の音が聞こえてくる。畑作業を中断し、合掌する農民たちの敬虔な姿──。

 五・一五事件(1932年)について調べる人は、逮捕者の中に橘孝三郎と愛郷塾の門下生たちの名前を見つけ、そのミスマッチに必ず戸惑う。青年将校による犬養毅首相暗殺、クーデター未遂というキナ臭さと、トルストイの人生観に共感し、ミレーの「晩鐘」に理想社会を見出す橘の人物像とが結びつかないのだ。

 実際、橘は暴力には反対であった。青年将校たちからすすめられて北一輝『日本改造法案大綱』を読んだ時にも、軍事クーデター→憲法停止→天皇大権による国家改造という北のプランは軍部独裁につながると不快感を隠さなかった。しかし、彼らの決意は固い。クーデターが行なわれてしまうのならば、何らかの形で参加して農民側の発言権を確保しておかなければならないという計算が働いた。ただし、流血の事態は最小限に抑えたい。そこで、橘の愛郷塾は発電所襲撃という形で参加することにした。ここには、都会を真っ暗闇にすることで反都市文明、反工業文明のデモンストレーションとすることが象徴的な意味合いとして込められていた。

 橘孝三郎は1893年、水戸に生まれた。旧制水戸中学を経て一高に進むも中退。学校ではいつも図書館にこもってばかりいたという。郷里に戻って農作業に従事。近親者が集まって晴耕雨読の生活をしているうちに“兄弟村”と呼ばれるようになる。時期的には白樺派の“新しき村”とほぼ同じ頃だ。噂を聞きつけた人々が橘との交流を求めるようになり、茨城県一円で“愛郷会”として組織化されるようになった。白樺派の柳宗悦と付き合う一方で、霞ヶ浦の海軍航空隊にいた古賀清志や大洗・護国堂の井上日召とも知り合った。

 農村という自ら汗して働く現場において、自らの個性を確保しつつ、同時に他者の個性をも認め合う。そうした協働関係を通して自治的な共同体を形成、下から積み上げて国家、世界へとつなげていくというのが農本主義の基本的な社会観である。しかし、資本主義によってそうした共同体的関係が崩されつつあるというところに彼らの危機意識があった。“農本ファシスト”なんて言うとおどろおどろしいが、橘孝三郎にしても、あるいは権藤成卿(→参照)にしても、反権力主義という点でむしろアナキズムに近い。

 親戚筋にあたる立花隆は晩年の橘孝三郎に会ったことがあるというが、もの静かな老人で五・一五事件に関わったという雰囲気は全く感じさせなかったらしい(『東大と天皇』)。保阪正康『五・一五事件──橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(草思社、1974年)も五・一五事件と橘のパーソナリティーとの大きなギャップへの関心から書かれている。保阪書が五・一五事件の前後に関心対象を絞っているのに対し、松沢哲成『橘孝三郎──日本ファシズム原始回帰論派』(三一書房、1972年)は晩年の橘や関係者への聞き取りをもとにまとめられた伝記研究として橘の人物像を知る上で欠かせない。

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2008年3月26日 (水)

魚喃キリコの作品

 ミニシアターでかかるタイプの映画をよく観る。日々の生活の中でふとゆらめく感情の動きをすくい取った感じの日本映画が好きだ。最近は、マンガを原作とした作品が結構多い。

 魚喃(なななん)キリコの名前を最初に意識するようになった作品は『strawberry shortcakes』(祥伝社、2002年)だ。矢崎仁司監督による同名映画(2006年)を観たのがきっかけだった。映画版のストーリーはだいぶアレンジされていたが、キャラクターの性格付けは基本的には変わらない。イラストレーターとして売り出し中だが過食症に苦しむ塔子(岩瀬塔子=魚喃キリコ自身)、塔子とルームシェアリングをしているOLのちひろ(中越典子)、昔からの友人への想いを秘めながらデリヘル嬢の仕事をしている秋代(中村優子)、前向きに妄想癖のある里子(池脇千鶴)──四人の女性の姿を通して、気持ちのすれ違い、行き詰った息苦しさ、人と人とが関わり合う中での微妙な心の揺れを繊細かつリアルに描き出している。ちひろの抱える自分の空虚の自覚→周囲に合わせて取り繕っていることへの自己嫌悪、秋代が醸し出す死のイメージなどに私はひかれる。

 『blue』(祥伝社、復刊2007年)を安藤尋監督が映画化した作品(2002年)も以前に観たことがあったのだが、改めて原作を読み直してみた。田舎の女子高が舞台。どこか大人びた雰囲気を持つ同級生、彼女に寄せる友情とも恋愛ともつかぬ想い。進路決定を目の前にした戸惑い。互いにピュアであるがゆえに気持ちが過敏になってしまうあたり、矛盾した言い方だけど、さわやかに痛々しい。映画では市川実日子と小西真奈美が主演していた。

 魚喃キリコの絵柄は、マンガというよりも、デザイン風のカットを並べているという感じでクール。そのおかげで、ストーリーの感傷的なものを引き締めてくれるというか、ベタベタしない形で感情移入できる。

 『痛々しいラヴ』(マガジンハウス、1997年)、『Water.』(マガジンハウス、1998年)、『短編集』(飛鳥新社、2003年)、『キャンディーの色は赤』(祥伝社、2007年)はいずれも短編集。若い男女の人間模様を描く。バイトしたり、同棲したりというシチュエーションが多い。いわゆるベタな意味での恋愛ものではない。微妙な感情の動きまで拾い上げているのには本当に感心する。なかなか毒っ気もあるが、建前とは違ったところでの純情さがほの見えたりもする。

 『南瓜とマヨネーズ』(祥伝社、復刊2004年)が一番好きだ。日常となった同棲生活、互いの気持ちがぶつかったり、すれ違ったりの描写はリアルで説得的。先の見えない漠然とした不安の中、とにかく何かやらなくちゃ、という焦りがすけて見えてくるあたりに色々と感じさせられた。

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2008年3月25日 (火)

田月仙『禁じられた歌──朝鮮半島 音楽百年史』

田月仙(チョン・ウォルソン)『禁じられた歌──朝鮮半島 音楽百年史』(中公新書ラクレ、2008年)

 むかし、イム・グォンテク監督「風の丘を越えて──西便制」(1993年)という映画を観たことがある。パンソリ歌いの旅芸人父娘の愛憎を描いていた。私が「アリラン」を初めて聴いたのはこの映画だったように思う。先週観たばかりの「黒い土の少女」でも炭鉱夫たちが歌っていた。韓国文化を考える上で「恨」(ハン)というキーワードが必ず取り上げられるが、この定義しがたい言葉のイメージを、私は「アリラン」のメロディーに流れる強い感情と哀愁とから受け止めている。「アリラン」の発祥はよく分かっていないらしいが、日本の植民地支配、南北分断、軍事政権、様々な苦難の中で歌い継がれてきたことが本書からもうかがえる。

 都節とかヨナ抜きとか楽理的なことはよく分からないが、植民地時代を通して韓国には日本歌謡の影響が強く残っていた。民族主義の見地から「倭色」のある曲は禁じられたが、他方で朴正熙大統領自身は日本の歌を好んで歌っていたらしい。皮膚感覚になじんだ音楽とナショナリズムという政治的正統性との葛藤が興味深い。植民地支配時代に無理やり日本に協力させられた音楽家が、戦後になって一律に「親日派」として指弾されてしまうあたりにも歴史の悲哀を感じさせる。

 著者は日本、朝鮮半島、両方で活躍するソプラノ歌手。当事者へのインタビューを通し、音楽という側面から見る朝鮮半島現代史として興味深く読んだ。

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2008年3月24日 (月)

チベット問題について

 今月、チベットで起こった暴動は、中国における人権問題に改めて世界中の目を集めた。北京オリンピックという国威をかけたイベントを控えているため中国政府の発言は慎重だが、強硬姿勢は基本的に維持されている。共産党独裁体制というだけでなく、“中華ナショナリズム”の抱える問題も窺える。

 暴動はチベット自治区を越えて青海省、四川省、甘粛省にも広がっている。この「広がっている」という表現も本当は適切ではない。チベット人居住地域は行政区分上、分割・縮小されており、世界史地図帳などをめくってみると、かつて吐蕃の版図は中国王朝に匹敵するくらいの広さを持っていたことが分かる。

 東アジア地域におけるダライ・ラマの地位は独特で説明が難しい。モンゴル人などの遊牧民族はチベット人を通して仏教を受け容れた。モンゴル人の元朝、満洲人の清朝の皇帝たちがダライ・ラマに対して師父としての敬意を示していたこともあり、チベットは中国王朝の保護国であったとは単純には言えない。ただし、チベット内部の権力闘争や高官たちの腐敗・無策のため、国家としてのまとまりは切り崩されてしまっていた。1912年の中華民国の成立により清朝が崩壊したのを受けて翌1913年にダライ・ラマ13世が独立宣言を出したが、中華民国及び中華人民共和国は清朝の版図を基本的に受け継いだという立場をとっている。中国国内の内戦状態のためしばらくはやり過ごせたものの、1949年に共産党が国民党を台湾に追い出すと、次いでチベットへ人民解放軍を進駐した(1951年)。

 チベットの人々は抵抗したものの、組織化されておらず、人民解放軍の圧倒的な軍事力には太刀打ちできない。チベットは長らく鎖国状態にあったため、通信機など国外への発信手段がなかった。人民解放軍による進駐・占領の過程でいかにひどいことがあってもそれを世界中に知らせることはできなかった。国連からは見放され、インドは中国との緊張を避けるため黙認した。

 ジル・ヴァン・グラスドルフ(鈴木敏弘訳)『ダライ・ラマ──その知られざる真実』(河出書房新社、2004年)はダライ・ラマの伝記という形式をとってチベット現代史を描く。ピエール=アントワーヌ・ドネ(山本一郎訳)『チベット=受難と希望──「雪の国」の民族主義』(サイマル出版会、1991年)、マイケル・ダナム(山際素男訳)『中国はいかにチベットを侵略したか』(講談社インターナショナル、2006年。ちょっと際物的なタイトルだが、原題は“Buddha’s Warriors”、きちんとしたノンフィクションだ)は中国政府によるチベット人への残酷な弾圧を告発する。労働キャンプに入れられて飢餓状態に追い込まれたり、反攻する者は公開処刑されたり、とりわけひどいのは宗教弾圧だ。寺院の大半を破壊、僧侶に還俗を強要、殺戮、尼僧への性的虐待も頻繁に行なわれた。女性としてのプライドを傷つけるだけでなく、不姦淫の戒律を破らせることで身を以て宗教を否定させようということだ。いびつな唯物論イデオロギーの狂気。女性の不妊手術も行なわれたというから、もし事実ならば民族そのものの抹消を意図していたとすら言える。

 こうした迫害は文化大革命で頂点に達した。チベット人の若者にも紅衛兵として“造反有理”をやったのがいたらしい。現代ではこれほど明らさまな破壊・迫害はさすがに行なわれてはいないだろうが、ダライ・ラマの言う文化的虐殺は継続中である。

 1959年、ダライ・ラマが拉致されるという噂が流れた。徹底的な宗教弾圧を受けてきたのだから真実味はあるわけで、ラサ市内は騒然となる。人民解放軍が出動し、情勢は緊張。こうした中、ダライ・ラマはインドへの亡命を決意し、3月17日深夜に脱出。19日、人民解放軍は爆撃機まで動員して総攻撃を開始、23日にはポタラ宮殿が占領された。今月起こった暴動は、このダライ・ラマ亡命の日付が意識されている。

 中国共産党の指導者の中では唯一、胡耀邦だけがチベット人の窮状に同情を示したとドネ書は評価しているが、彼はやがて失脚する。鄧小平の改革開放では、漢人のチベット入植が奨励された。1950年代、まだ友好を装っていた頃、中国政府はチベット人のためのインフラ整備だと言って道路をつくった。ところが完成するやいなや、軍隊を送り込んだ。近年、青蔵鉄道が開通し、これは観光客誘致に役立つと宣伝されているが、実際には漢人入植者と兵隊を送り込んでいる。先日、NHKスペシャルの番組で、チベットの民俗的・宗教的伝統を見世物とするホテル経営に乗り出した漢人実業家を取り上げていた。中国政府による検閲を気にしているからだろうかこの番組での歯切れは悪かったが、民族間の経済格差と人種差別意識の結びつきが見えてきたのが印象に強かった。

 フィリップ・ブルサール、ダニエル・ラン(今枝由郎訳)『囚われのチベットの少女』(トランスビュー、2002年)は、「チベット自由万歳」と叫んで1990年に逮捕され現在も収監中の女性の苦難を描く。捕まったとき、まだ11歳だった。こうした人権抑圧状況は依然として続いている。

 ダライ・ラマはあくまでも非暴力主義を堅持しており、独立要求は取り下げて自治を求めている。中国政府の「ダライ集団による陰謀」というプロパガンダの見当違いな空回りがかえって目立つ。ただし、急進独立派の不満もくすぶっているらしい。現時点で考えられる落としどころは、チベットの自治を認めてゆるやかな連邦制に持っていくというあたりだろうが、中共はそれすらも認めない。あくまでも同化政策という、彼ら自身が常々批判している帝国主義そのものを続けるつもりだろう。この点では、漢人の民主化運動家も、領土不可分というナショナリスティックな強硬姿勢では共産党と立場が同じなので(当面は共産党独裁批判という点で共同歩調をとる可能性はあるにしても)、問題解決の方向は全く見えない。

 台湾総統選挙でもチベット問題が大きなテーマとして浮上し、中台融和派の国民党・馬英九にとって逆風と見られていたが、下馬評通り、民進党の謝長廷を大差で下した。馬もまたチベット問題で中共を厳しく批判したこと、外交問題よりも内政重視の世論があったからだろう。チベット問題が騒がれているだけに、台湾でスムーズに政権交代が行なわれたことは、韓国と同様に台湾もまた民主主義国家としてすでに成熟していることが示され、世界中に好印象を与えたのではないだろうか。

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2008年3月23日 (日)

竹内洋『大学という病──東大紛擾と教授群像』

竹内洋『大学という病──東大紛擾と教授群像』(中公文庫、2007年)

 大学や学会での人事抗争の不毛な激しさについては時折漏れ聞くことがある。本書は東京帝国大学経済学部を舞台に、“大学版忠臣蔵”とも言うべき人間模様を社会学的な分析タームを用いながら描き出す。マルクス主義の大内兵衛グループ、国家主義=革新派の土方成美グループ、自由主義の河合栄治郎グループ、それぞれの派閥が互いに足を引っ張り合う合従連衡、登場人物の思惑や葛藤も活写されて非常に面白い。立花隆『天皇と東大』(下巻)でも“経済学部三国志”としてこの騒動について3章ほど割かれており興味を持ったのだが、何のことはない、本書の引き写しであった。

 河合栄治郎の基本的な考え方は理想的人格主義にあり、反マルクス主義の立場をとっていた。大正から昭和の初めにかけての論壇はマルクス主義の全盛期で、河合の理想主義的リベラリズムは学生には物足りなかった。ところが軍国主義の風潮が強まり、マルクス主義の知識人たちが次々と崩れていく中、果敢に軍部批判を行なった河合を見て、常識的で新鮮味には欠けてはいても芯のすわっている人はやはり強いものだと見直されたらしい。このエピソードを学生の頃に何かで読んで、河合の『学生に与う』(現代教養文庫)を古本屋で探し求めたことがある。河合が大学を追われたのも、このリベラリズムが睨まれたからだと思っていた。

 もちろん、蓑田胸喜をはじめとする右翼からの攻撃が最大の原因であったのは確かだが、本書によると事情はそんなに単純ではない。国家主義の土方派と自由主義の河合派とが反マルクス主義の立場から大内派を追い落としたかと思うと、学部長となった河合が独断専行の人事を行なおうとして土方派と大内派が共闘したりと泥仕合が繰り広げられていたため、経済学部は事実上機能していなかった。感情的なしこりが尾を引いているのだから、河合を守れるわけがない。河合は休職処分となるが、大学自治という建前を取り繕うため、右翼を引っ張り込んだ土方もまた喧嘩両成敗として休職処分を受けた。昭和14年、いわゆる平賀粛学である。この時にそれぞれの子分筋が連袂辞職騒ぎを起こすが、裏切りもあって感情的なもつれをさらに深めてしまう。実は法学部の田中耕太郎、末弘厳太郎、横田喜三郎、宮沢俊義なども蓑田から猛攻撃を受けていたのだが、こちらは犠牲者を出していない。経済学部をスケープゴートにして法学部は生き残ったのではないかと著者はうがった見方を示す。この間、大学に昇格した東京高商(現在の一橋大学)から追い上げを受ける。経営学・商業学・会計学など実学経済系の学会では東大系が意外と弱いという印象を以前から持っていたのだが、遠因はこのあたりにありそうだ。

 栄華をほこった革新派は日本の敗戦と共に公職追放。河合は戦争中に病死している。昭和13年の第二次人民戦線事件で壊滅していた大内派が復帰して、東大経済学部はマルクス経済学が主流となる。

 竹内洋や立花隆と同様に、河合がもし戦後も生きていたら、というイフに私も思いをめぐらせてしまう。河合にも色々と問題はあったにせよ、軍国主義の犠牲になったという勲章をもとに、戦後の論壇で一世風靡したマルクス主義に対して着実な批判をすることができたはずだ。彼の活動力からすれば政治にも積極的に関与しただろうし、思想的には社会民主主義に近かったから社会党右派の理論的主柱として野党の現実路線化も可能だったかもしれない。浅沼稲次郎や河上丈太郎など社会党右派の指導者たちには戦争協力をしたという負い目があったため、彼らは左派の看板を使わざるを得なかった。

 学問エリートに対する大衆運動的攻撃という点で、戦前の蓑田たち右翼と戦後の全共闘と同じ構図が見えてくるのも興味深い。 

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