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2008年3月16日 - 2008年3月22日

2008年3月22日 (土)

坂本慎一『ラジオの戦争責任』

坂本慎一『ラジオの戦争責任』(PHP新書、2008年)

 日本が太平洋戦争に至る一連の戦争へと突き進んでいった原因については様々な議論が重ねられているものの、なかなか結論は出ない。本書は、なぜ国民は戦争を支持したのか?という問いを立てる。その上で、仏教講話のラジオ放送で人気上位にあった高嶋米峰と友松圓諦、ラジオ受信機の普及に熱意を注いだ松下幸之助、独特な雄弁で“大東亜共栄圏”を鼓吹した松岡洋右、そして玉音放送を仕掛けて終戦につなげた下村宏(海南)の五人を取り上げ、戦争においてラジオの果たした役割を検証する。

 欧米ではラジオは個室内でひっそりと聞くものであったのに対し、日本では家屋の構造上、音が漏れても平気、店先で流すのも普通であったため、従来考えられてきた以上にラジオによる影響は大きかったという。書き言葉に比べて、話し言葉は言葉の定義が曖昧になりやすい。ラジオという声の文化の拡大により、たとえば“大東亜共栄圏”というような曖昧な内容の言葉を国民が感情的に連呼しやすい事態が生じたと本書は指摘する。

 真空管ラジオは高音は鮮明に出るが、低音だとはっきりと聞こえない。当時、ラジオの講演者で人気のあった人々はみな声のトーンが比較的高く、またトーンを高くしようとして絶叫調になったそうだ。ヒトラーの演説を思い浮かべると納得。

 終戦工作を進める鈴木貫太郎内閣は、“一億総玉砕”を叫び続ける国民を恐れていた。阿南惟幾陸相の戦争継続論でも、国民をなだめる手段がないという理由があげられていた。ラジオが国民を熱狂させたならば、ラジオを使って国民をなだめよう──そうした発想で玉音放送というアイデアを出したのが当時の情報局総裁・下村宏であった。本書では下村が高く評価されている。軍部への非妥協的態度を貫き通した人々は、そのこと自体が戦後になって勲章となった(極端な例では、宮本顕治“獄中十二年”神話の絶対性!)。もちろん、それも一つの見識ではあるが、他方、下村のように軍部と妥協しつつも政権内に留まり続けたからこそ陰ながらも終戦に貢献できた人々のことも忘れてはなるまい。

 本書では触れられていないが、ルワンダでもラジオ放送による煽動がごく普通の人々を大虐殺に駆り立てたことを連想的に思い出した。ラジオも含め、メディアといわれるものは、それが空気のようにごく自然に享受されているからこそ大きな威力を持ち得ることを改めて思い知らされる。

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2008年3月21日 (金)

「黒い土の少女」

「黒い土の少女」

(以下、内容に触れている箇所があります。)
 雪が薄っすらと積もり、木々に葉っぱはない。韓国・江原道の炭鉱町、寒々としたボタ山の風景。いまや石炭の需要などあまりないわけで、人影のまばらな街並みは時代から取り残されたような印象を与える。

 セリフはかなり抑え気味で音楽もなく、全体的に静かなトーン。退屈して寝てしまうかもしれない、などとふと思ったりもしたのだが、この寂しげな風景や人物を捉える映像になかなか美しい情感があって最後まで見入っていた。

 ヨンリムは九歳の女の子。お父さんと知的障害を持つお兄さんとの三人家族。幼いながらも家族の面倒をせっせとみるしっかり者だ。お父さんは塵肺症で炭鉱夫をやめざるを得なくなるが、それでも転職先で前向きに頑張る。仕事用のトラックでドライブする三人の楽しげな表情──。しかし、仕事先でだまされていたことに気付き抗議したが、逆に殴られて失職、酒におぼれてしまう。住み慣れた家には再開発のための立ち退き要求が来ている。

 お金がないので仕方なく万引きをしたヨンリム、逃げ込んだ部屋で見せる思いつめた表情が印象的だ。三人とも、それぞれ限界はあっても、お互いのことを心の底から気づかっている。しかし、昔の楽しかった頃のままでは現実の壁に押しつぶされてしまう。ラストをどう捉えるか? お父さんを殺して現実から逃げるというのではなく、危険な賭けであってもお父さんを入院させるためのやむを得ない手段だったと考えたい。そうであればこそ、バスが来ても乗らず、真っ直ぐに前を向ける眼差しには、現実を直視して他ならぬ自分の手で引き受けようという覚悟が表われている、その意味で大人になる一歩を踏み出したのだと肯定的に受け止められる。

 二人の子役が本当に見事だ。一見したところ静かな映画だが、人物の表情や風景の捉え方など、言外のところで様々な感情の動きを観客に伝えてくれる。意外と掘り出し物だった。

【データ】
英題:With a Girl of Black Soil
監督・原案・脚本:チョン・スイル
2007年/韓国/89分
(2008年3月20日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて)

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2008年3月20日 (木)

松本清張『小説東京帝国大学』、立花隆『天皇と東大』、他

 久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』(岩波新書、1956年)という本があった。私は古本屋でみつけて読んだことがあるが、今でも入手できるのだろうか。いわゆる“顕教”と“密教”という比喩で戦前期天皇制の特徴を整理した指摘でよく知られている。つまり、一般国民に対しては天皇の神聖さをたたき込む(顕教)一方で、統治エリート(主に帝国大学出身者)がくぐる高等文官試験では天皇機関説を踏まえた出題がされる(密教)という二元構造があったが、顕教による密教征伐によって“天皇制ファシズム”へ突き進んだという枠組みを提示している。こうした説明が一定の説得力を持つことから窺われるように、天皇制というタブーと近代日本の諸問題との緊張感をはらんだ結節点の一つは最高学府たる帝国大学に見ることができる。

 松本清張『小説東京帝国大学』(上下、ちくま文庫、2008年)は、いわゆる哲学館事件から説き起こされる。ある生徒の書いた答案中に「弑逆」という言葉があったのを文部省の視学官がみつけ、これは不敬であるとの口実をもとに哲学館(現在の東洋大学)から中等教員無試験資格を取り消してしまう。この背景には、政府に従わない可能性のある私学を排除して、官学だけで教育システムを独占しようという思惑があったという。天皇制というタブーと、これを利用して統治の効率化を意図する官の動きとがほのめかされる。

 かつて久米邦武は「神道は祭天の古俗」という論文で帝国大学教授の地位を追われたが、教授陣で擁護する人は誰もいなかった。しかし、対露強硬論を吐いて政府批判をした戸水寛人教授及びその監督責任者の山川健次郎総長の進退問題に発展したとき、教授陣は連袂辞職の姿勢を見せて抵抗したのは天皇というタブーが絡まなかったからだという。他にも、南北朝正閏論争や大逆事件なども取り上げられる。

 小説の題材として無味乾燥になりがちな学者の世界を読み物として読みやすく仕立て上げているのは感心するが、清張現代史論にありがちな陰謀史観が鼻につくので、ここは注意して読むほうがいいだろう。

 立花隆『天皇と東大』(上下、文藝春秋、2005年)は明治における東大の設立から敗戦に至るまで、学者たちの動向に主軸を置きながら日本の近現代史を彩る諸問題を通観する。膨大な史料にあたって詳細な事実関係を積み重ねる書き方なので安心して読めるし、私のような現代史オタクには実に面白い本だ。参考文献一覧は資料集としても役に立つ。

 大きな焦点の一つはやはり天皇機関説問題だろう。よく知られているように、他ならぬ昭和天皇自身が機関説論者で、立憲君主として振舞うべく自らを厳しく律していた。二・二六事件の青年将校も天皇機関説問題で騒ぎ立てた論者も、その点で実は聖上のご意志に背いていたという根本的な矛盾があったということは現在から振り返ってみると非常に不可思議な現象である(付け加えると、青年将校たちがイデオロギー的に依拠した北一輝もまた機関説論者であったことにも奇妙な矛盾がある)。美濃部達吉への処分は、天皇機関説そのものが不敬であるということではなく、「社会の安寧秩序妨害」、つまり世の中をお騒がせした、という理由で下された。実際に機関説的な考え方で制度運用されているのだから美濃部の処分は本来的に無理だということを行政側もよく承知していたのである。

 なぜこんな辻褄合わせをしなければならなかったのか? もっと言えば、議会や行政に対して蓑田胸喜(むねき→きょうき!)の粗雑な議論がなぜあれほどの威力を発揮したのか? 理屈ではなく感情論による煽り立てにより、下から、すなわち一般国民レベルから政治を突き上げていくという構造がすでに現われていた。その意味では、没論理的=権威主義的=前近代的な“天皇制ファシズム”という旧来的な捉え方ではなく、没論理的=大衆社会的=極めて近代的な社会に当時の日本はすでに移行していたと考える方が私などには説得的に思える。アジテーターとしての役割を果したのが蓑田胸喜である。

 近年、蓑田を再検討しようという動きがあり興味を持っている。立花書でもキーパーソンの一人として大きく取り上げられているし、教育社会学の竹内洋・メディア史の佐藤卓己たちによって『蓑田胸喜全集』(柏書房)が編集されているほか、それこそ大衆社会的で没論理的なバッシングを実際に受けた経験を持つ佐藤優も蓑田に関心を寄せている(たとえば、『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社、2007年)。

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2008年3月19日 (水)

雑談、音楽

 ここのところ、通勤電車の中でサラ・ブライトマン“Symphony”をよく聴いている。彼女の音域の広い歌声にリズミカルなオーケストラや合唱、絢爛たる響きにしばし身をゆだねる。

 いくつかクラシックの名曲の聞き覚えのあるメロディーが聴こえてくる。ホルスト「惑星」のジュピターはアレンジの定番だ。平原綾香のバラード風に抑えた歌声も好きだけど、ブライトマンの華やかさも捨てがたい。

 マーラー交響曲第五番第四楽章のどこかけだるくも美しいメロディーが聴こえてくると、ヴィスコンティ監督「ヴェニスに死す」をやはり思い浮かべる。あの映画の黄昏を思わせる雰囲気にはこれ以外にはあり得ないくらいにぴったりな選曲だろう。渡辺裕『マーラーと世紀末ウィーン』(岩波現代文庫、2004年)では、そもそもヴィスコンティは最初からマーラーをイメージしていたのではないかと指摘されていたように記憶しているが、さもありなん。

 私は中学生の頃からマーラーが好きだった。一つのきっかけは、その頃放映されていたサントリーのテレビ・コマーシャル。仙人のいそうな深山幽谷が映る。李白「山中與幽人対酌」が中国語で朗読され、「一杯一杯、復一杯」(イーペイ、イーペイ、プーイーペイ)というフレーズはいまだに耳に残っている。バックに流れていたのがマーラーの交響曲「大地の歌」第三楽章「青春について」だった。映像、ナレーション、音楽の組み合わせが印象に強く、オリエンタル趣味も手伝って「大地の歌」のCDを買った。

 全六曲、連作歌曲形式。よく知られているように、マーラーは“交響曲第九番のジンクス”におびえて「大地の歌」にナンバーをふらなかった。第三楽章は穏やかだが、第六楽章「告別」など、どんよりと暗い。この曲を聴いて自殺する人がいても私は責任をもてない、とマーラーは書いていたらしい。いずれにせよ、マーラーの憂鬱な暗さもその頃の私の気分に合っていた。

 歌詞はハンス・べートゲ(Hans Bethge)の『中国の笛』から採られている。李白、杜甫、孟浩然、王維など唐代の詩人たちを自由にアレンジした詩集である。その後、大学生になって多少なりともドイツ語をかじるようになってからこの『中国の笛』を探したのだが、見つけられなかった。

 ショスタコーヴィチが若き日に作曲した「日本の詩人の詩による六つの歌曲」も、どうやらその一部はべートゲによるらしい。確か第六曲「死」は大津皇子の辞世の句だったように思う。この曲もやはり暗い。

 べートゲという人は19世紀末から20世紀にかけて東洋趣味で知られた詩人のようだが、人物像がよく分からない。今でも気になっている。

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2008年3月18日 (火)

「悲しき天使」

「悲しき天使」

 時間がたまたま合ったので何気なく映画館に飛び込んだのだが、公開初日ということで上映前に大森一樹監督と岸部一徳のあいさつがあった。去年だったか、チラシで見かけた記憶がうっすらとあってデジャヴュかと思っていたのだが、やはり再上映とのこと。

 やむを得ない事情があって義理の父親(峰岸徹)を殺してしまった女性(山本未来)が消息を絶った。彼女は昔の恋人(筒井道隆)を頼って別府温泉に行くのではないかと勘を働かせた二人の刑事(岸部一徳、高岡早紀)が張り込みをするという話。サスペンス・ドラマというよりも、事件の成り行きを通して、追う側、追われる側、かくまう人、それぞれの人間模様が浮き上がってくるという仕立て方になっている。

 私は小説でも映画でも、自分とは違う人生を垣間見て、そこに何がしかのきっかけをつかんで感情移入していければ素直に面白いと感じる。この映画も地味ではあるが、そういう点で見ごたえはあった。良い意味で古いタイプの見やすい映画だという趣旨のことを岸部さんがおっしゃっていたが、このような正攻法の映画もたまにはいいね。

【データ】
監督・脚本:大森一樹
出演:高岡早紀、岸部一徳、筒井道隆、山本未来、河合美智子、峰岸徹、他。
2005年/113分
(2008年3月15日レイトショー、渋谷、シネ・アミューズにて)

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2008年3月17日 (月)

「アメリカを売った男」

「アメリカを売った男」

 FBIで下積み中のエリック・オニール(ライアン・フィリップ)は何とか捜査官になりたい、認められたいと焦っていた。ある日曜日、上司から突然呼び出され、新設された情報管理部の責任者ロバート・ハンセン(クリス・クーパー)のアシスタントとなるよう命じられる。ハンセンには性的倒錯者としての不品行があるため、彼の言動を逐一記録してレポートせよとのこと。

 出世につながらないと不満タラタラのオニール。ハンセンのとっつきにくさに辟易しながらも、彼の生真面目な態度を見ているうちに徐々に敬意が芽生えてきた。ハンセンは誤解されている──そう思ったオニールが上司に抗議したところ、彼はソ連・ロシアに国家機密を売り渡している二重スパイなのだと知らされる。

 相手を試すように一つ一つの言動や表情を巧みに操るハンセンの複雑なパーソナリティー。演ずるクリス・クーパーの存在感が圧倒的だ。サスペンス・ドラマとしての緊張感が全編に張りつめているが、それ以上に、誰も信じることのできないスパイの孤独を浮き彫りにしているところに興味がひかれる。

 彼が国を売ったのはなぜなのか? 金のため、と言ってしまえれば話は簡単だが、そういうわけではない。仕事のモチベーションには、誰かから認められたいという側面が意外と大きい。そのためには、横の人的つながりが必要だが、スパイはそれを絶たなければならない。自己価値確認の意識が誇大妄想的に暴走して、自分が大国を手玉に取っているという全能感に一つの拠り所を求めていたと言えるだろうか。しかしながら、それも所詮は想像に過ぎず、映画中で彼自身がつぶやくように、動機など言葉でまとめても無意味なのかもしれない。

【データ】
原題:BREACH
監督・脚本:ビリー・レイ
2007年/アメリカ/110分
(2008年3月15日、日比谷、シャンテ・シネにて)

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2008年3月16日 (日)

秋庭俊『帝都東京・隠された地下網の秘密』シリーズ

 我々が何気なく暮らしている東京の街に実はもう一つ裏の顔があった──そんな設定の物語が私は結構好きだ。荒俣宏『帝都物語』シリーズは中学生の頃に読みふけった覚えがある(そういえば、『新帝都物語 維新国生み篇』(角川書店、2007年)が出るやいなや買ったけど、まだ読んでないや)。他にも、海野十三(うんの・じゅうざ、と読みます)『深夜の市長』(講談社・大衆文学館、1997年)、久生十蘭『魔都』(朝日文庫、1995年)、小野不由美『東亰異聞』(新潮文庫、1999年)…、と思いつくままに挙げ始めたらキリがない。江戸川乱歩の描く大正期の東京も、そのレトロにどことなく幻想的な雰囲気が私にとっては“もう一つの東京”として興味が尽きない。

 ところでところで──、東京には本当に裏の顔があるとしたら? 秋庭俊『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫、2006年)、『帝都東京・隠された地下網の秘密[2]──地下の誕生から「1-8」計画まで』(新潮文庫、2006年)、『新説 東京地下要塞──隠された巨大地下ネットワークの真実』(講談社+α文庫、2007年)といった“東京地下”ものは実に面白い。要するに、東京の地下鉄・地下街には公式には明かされていない軍事的・政治的思惑の痕跡が見え隠れするという話。地図上の記載の微妙な矛盾をきっかけに取材・検証を進めるプロセスそのものがスリリングでなかなか読ませる。日本の近現代史と密接に結び付いているあたりも興味深い。

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