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2008年3月2日 - 2008年3月8日

2008年3月 8日 (土)

廣瀬陽子『旧ソ連地域と紛争──石油・民族・テロをめぐる地政学』

廣瀬陽子『旧ソ連地域と紛争──石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会、2005年)

 旧ソ連解体後に成立したCIS(Commonwealth of Independent States::独立国家共同体。旧ソ連構成15共和国のうち、バルト三国及び永世中立国を宣言したトルクメニスタンを除く11ヶ国が加盟)内の情勢はなかなか複雑だ。本書は、CIS諸国における政治的パワー・バランス、カスピ海資源をめぐるエネルギー・ポリティクス、ナゴルノ・カラバフ紛争の経緯、権威主義体制と民主化の問題など、この地域をめぐる問題を整理・分析、その上で地域安定化のために行なわれている試みや提案を紹介し、その条件を検討する。ロシア以外の旧ソ連地域についての詳細な類書は少ないので興味深く読んだ。

 ロシアは旧ソ連諸国再統合の動きを強めているが、この地域には重層的な相互不信があり、様々なきしみを見せている。グルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドヴァ、一時的にウズベキスタン(頭文字をとってGUUAM)はロシアの影響力を排除しながら経済協力を進める枠組みを形成し、欧米からのバックアップも受けたが、ロシアへの対応をめぐって各国の足並みはそろわないようだ。9・11後は“テロとの戦い”を理由にロシアの積極的介入を正当化するロジックも生まれた。アゼルバイジャン内のナゴルノ・カラバフ、グルジア内のアブハジア、南オセチア、モルドヴァ内の沿ドニエストルなどの未承認国家にロシアは事実上の支援をしており、民族紛争もテコとして巧みに利用しながら影響力を着実に拡大させている。

 ナゴルノ・カラバフ紛争の背景は単純ではない。アルメニア人は301年にすでにキリスト教を国教としており(ローマ帝国によるキリスト教国教化よりも古い!)、早くから民族意識が確立していた。対して、アゼルバイジャン人のナショナリズムの歴史は浅く、そもそもこの“アゼルバイジャン”という国名が初めて用いられたのは1918年のこと。この年、アゼルバイジャンの首都バクーでアルメニア人とロシア人によるアゼルバイジャン人虐殺事件が起こっており、反アルメニア人意識としてアゼルバイジャン・ナショナリズムは形成されているという。他方、アルメニア人にはオスマン帝国による虐殺事件の記憶が強く、アゼルバイジャン人に対しては同じテュルク語族として同一視して憎しみを持っている。

 ナゴルノ・カラバフは両民族にとって歴史的・文化的シンボルとしての意味を持つ。アルメニア人には本来ならば黒海からカスピ海にいたる領土があるはずなのに不当に狭められているという思いがあり、他方、アゼルバイジャン人もアルメニア・ロシア・イランと三方から領土を奪われていると考えている。双方共に被害者意識を持っているため、妥協は難しい。

 この紛争にキリスト教vs.イスラームという宗教的対立の要素はない。たとえば、イランは国内に抱えるアゼルバイジャン人(イラン人口の約1/4)の動向に敏感になっているため、同じシーア派のアゼルバイジャンではなくアルメニアを支持している。逆に、イスラエルはアゼルバイジャンを支持。旧ソ連時代に迫害されたユダヤ人をアゼルバイジャンは優遇してくれたからだという。

 当事国でのインタビュー調査を踏まえ、アルメニア・アゼルバイジャン、相互のパーセプション・ギャップが浮き彫りにされているあたりに関心を持った。

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2008年3月 6日 (木)

最上敏樹『人道的介入──正義の武力行使はあるか』

最上敏樹『人道的介入──正義の武力行使はあるか』(岩波新書、2001年)

 私自身は別に理想主義の立場に立つわけではないが、大きな枠組みとしての戦争観は戦争を非とする趨勢にあると受け止めている。政治的・道徳的に正当であるならば戦争は認められるという考え方を、国際法や国際政治学の方では正戦論という。19世紀の帝国主義のパワーゲームが展開される中でこれは事実上崩れ、何でもありの無差別戦争観が現われて二つの世界大戦に至ったわけだが、こうした経験を踏まえて制定された国連憲章では、正・不正の判定が難しいならば戦争は正当化できないと考えられるようになった。

 ただし、それでも戦争は起こる。国連中心の安全保障体制は、これが無い状態に比べればはるかにましではあるものの、決して十分とは言えない。冷戦構造の下で大きな戦争はなかったにせよ小規模戦争は頻発したし、いまや民族紛争の激しさを目の当たりにしている。何よりも次の問題が問われる。ある国家の内部でジェノサイドなど極度の人権侵害状況が起こり、当該政府に事態を収拾する能力がない、もしくは政府自身がそうした行為を行なっているとき、国際社会はどうすればいいのか。国際慣習法としての内政不干渉の原則と国連憲章で謳われる武力不行使の原則とを厳密に守って傍観するしかないのか。実際に、ソマリア、ルワンダ、旧ユーゴスラビアなどで起こった悲劇を我々は知っている。

 こうしたアポリアの中から浮かび上がってくるテーマが人道的介入である。この場合、以下の要件が必要とされる。
①極度の人権侵害状況が見られること。
②他の平和的手段を尽くした上で、最後の手段としての武力行使であること。
③人権抑圧の停止が目的で、国益追求など他の政治目的を含めないこと。
④状況の深刻さに比例した手段を取り、期間も最小限にすること。
⑤相応の結果が期待できること。
⑥国連安全保障理事会の承認があること。
⑦個別の国よりも地域的国際機関が、地域的国際機関よりも国連が主導するものを優先させること。

 国連憲章では武力不行使が原則とされるが、例外が二つある。第一に自衛権。第二に、国連自身が強制執行する際に武力行使も含まれる。ただし、現時点において国連軍は存在しないため、加盟国に委任する形で人道的介入は行なわれることになる。

 とは言え、人道的介入の原則が確立しているわけではない。歴史的にみても他の政治目的が絡む場合が大半で、純粋な人道目的はまれである。それこそ、ヒトラーはズデーテン地方併合に際してドイツ人が迫害されているという口実をもとにしたように、人道目的・平和目的を建前としつつ国益追求の戦争をふっかける可能性は常にある。教条的な平和主義はもちろん論外であるが、他方で武力介入はじめにありきの議論も避けなければならない。

 本書では、“市民的介入”にも一章を割いている。たとえば、ビアフラ戦争を目の当たりにして結成された“国境なき医師団”のように、国家とは違う次元で活動を行なうNGOも人道的介入の一つのパターンと言える。だからといって軍事力が不要なわけではない。“国境なき医師団”がルワンダ紛争において軍事介入を求めたように(現実には行なわれなかったが)、軍事力を選ばなければさらに悲惨な事態が生じるケースも実際にある。原則のない中、武力介入も含めてあらゆるアプローチを組み合わせてケースバイケースで対応するしかないわけで、人道的介入をめぐる議論に決着をつけるのは難しい。

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2008年3月 5日 (水)

廣瀬陽子『強権と不安の超大国・ロシア──旧ソ連諸国から見た「光と影」』

廣瀬陽子『強権と不安の超大国・ロシア──旧ソ連諸国から見た「光と影」』(光文社新書、2008年)

 プーチン後継の大統領にメドヴェージェフが当選した。当面、プーチンは首相として政権中枢に居座り、その後再び大統領に立つつもりだと見込まれること、対立候補の出馬を許さず事実上の信任投票に終わったことなど、ある種の権威主義的体制が続いているところにロシアの特殊事情がうかがわれる。

 こうしたロシアの権威的性格による影響は内政問題には限らない。本書は、ソ連解体後に成立した周辺独立諸国に投げかけられているロシアからの様々な影を読み解くことで、いわば外の視点からロシアという超大国の姿を見据えていく。各国にはソ連解体後の経済的混乱を受けて昔の方がまだ良かったというノスタルジーがあるし、またかつての共通語であったロシア語使用人口が多いという点でも親ロ感情を一方には持っている。他方、言うことを聞かなければ資源供給停止という手段を取ったり、民族対立を巧みに利用して勢力圏の確保に努めたりと高圧的な態度を取るロシアへの反発もあって色々と微妙なようだ。

 旧ソ連から分離した国々には意外と親日感情が強いらしい。①非西欧国の西欧化モデルとしての明治維新、②日露戦争でロシアを破ったこと、③敗戦後の高度成長への関心が理由として挙げられるが、それ以外にも、たとえばウズベキスタンのタシュケントにソ連抑留中の日本兵が建てたナヴォイー劇場の頑丈さや、アゼルバイジャンに派遣された日本企業の技術指導に感心したことも背景にあるらしい。草の根的な交流が意外とものを言う。旧ソ連圏でも村上春樹がよく読まれているというのも面白い。

 著者の専門はコーカサス地域でアゼルバイジャンに留学した経験があるほか、とにかく各地を歩き回っており、なかなかうかがい知る機会のない旧ソ連地域事情の見聞記録として読み応えがある。トラブル続きの体験談も興味深い。モルドヴァ共和国内にある未承認国家“沿ドニエストル共和国”の内部事情など初めて知った。

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2008年3月 4日 (火)

「ライラの冒険──黄金の羅針盤」

「ライラの冒険──黄金の羅針盤」

 我々が暮らす世界と似てはいるが、どこか違うパラレル・ワールド。マジェスティー(教権)が支配する世界。人々は、動物の形を取った守護精霊“ダイモン”を連れ、彼と語り合い行動を共にしながら日々の生活を送っている。

 親友が何者かにさらわれたライラは探しに出かけるが、彼女もまた“教権”のコールター夫人(二コール・キッドマン)に追われる。導き手は黄金の羅針盤。旅の途中で出会った仲間たちと共に北の国へと向かい、ライラはそこで自分自身にまつわる秘密を知る──。

 今作は三部作中の第一部らしい。原作のことは知らないのだが、多くのエピソードがつまっているのだろう。駆け足でまとめた感じで、事態がどこまで進行しているのか、頭を追いつかせるのに精一杯。ただし、ファンタジー映画というのは世界観の広がりに魅力があるわけで、その点では十分に楽しめた。

 意味深な箇所も散りばめられている。たとえば、人々は“自由”に耐えられないから“教権”を求めているのだというコールター夫人の話などカラマーゾフの大審問官を想い起こさせるし、なぜ“教権”は“ダイモン”切り離しの人体実験をやろうとしていたのかも気にかかる。そもそも“ダイモン”なんて、ソクラテスを連想させる。

 なかなか豪華キャストで、目立たない所でも、たとえばよろいグマ・イオレクの声はイアン・マッケランがやっているし、“教権”最高首脳部の面々の中にクリストファー・リーの姿が一瞬だけ映ったり。第二部以降で重要な役回りを果すのだろうか。

【データ】
英題:The Golden Compass
監督:クリス・ワイツ
2007年/アメリカ/113分
(2008年3月2日、新宿ミラノにて)

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2008年3月 3日 (月)

「明日への遺言」

「明日への遺言」

 1945年3月、アメリカ軍による名古屋への無差別空襲で市民に多くの犠牲者が出た。撃墜された爆撃機の搭乗員が捕虜となったが、ただちに処刑された。戦後、正規の手順を踏まずに米兵を処刑したことが戦争犯罪とみなされ、東海軍司令官・岡田資(たすく)陸軍中将及び彼の部下たちが横浜のBC級戦犯裁判で法廷に立たされることになる。無差別爆撃は明らかに国際法違反であったにもかかわらず、敗戦国だからという理由で日本は一方的に責められる。岡田は、この裁判闘争を“法戦”と呼び、部下の責任はすべて自身が一身に引き受ける覚悟で臨む。

 映画冒頭でも示されるように、都市への無差別爆撃は1936年、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃、日本軍による重慶爆撃に始まり、第二次世界大戦が激化するにつれて枢軸国・連合国双方がやり合うようになって、ドレスデン空襲、東京大空襲、そして広島・長崎で極点に至る。非戦闘員を巻き込んだ無差別爆撃の責任判定はなかなか難しい。まず、指揮命令系統で誰に責任を負わせるかという問題がある。それ以上に、国際法違反という点で考えると、日本ばかりではなく米軍側の違反も明白であるものの、戦勝国が自らの戦争犯罪を裁くはずもない。結果、日本側の非ばかりがクローズアップされ、戦勝国側の問題は不問に付される。

 公平を期すために記しておくと、アメリカ人弁護人の奮闘振りはやはり敬意に価する。もちろん、“正義”を演出すること自体がアメリカ側の戦略にかなうことであったとしても、東京裁判のある被告も漏らしていたように、立場が逆だったら日本人弁護人はアメリカ人被告のためにここまで熱心に弁護をしたかどうかは分からない。

 この映画の主眼は戦争責任問題ではなく、戦後の混乱で日本人が右往左往している中、あくまでも毅然とした態度を取った一人の男の姿を静かに描くところにある。裁判に関わったアメリカ人たちも含め、それぞれに立場を超えて共感し合ったヒューマン・ドラマと捉えるべきだろう。演出はちょっと古くさい感じもするが、まあ、これはこれでよし。

【データ】
監督:小泉尭史
原作:大岡昇平『ながい旅』
出演:藤田まこと、富司純子、西村雅彦、蒼井優、他。
2007年/110分
(2008年3月2日、新宿ミラノ2にて)

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2008年3月 2日 (日)

最近読んだ小説で雑談

 最近読んだ小説の備忘録がわりに。気分が鬱屈してくると、ついつい小説に逃げてしまう。自分とは違う人生のありように思いをめぐらし、喜怒哀楽を追体験することで、振り返って自分自身を考える…こともたまにあります。

 吉村昭は丹念な資料調査と取材を通した緻密な筆致による歴史小説で知られ、たとえば山内昌之の書評集にもよく取り上げられているように、歴史家からの評価も高い。私も吉村の歴史小説はよく読んだが、実は現代小説も好きだ。人生にどこか引け目、負い目を抱えている人間の屈折した心理を描き出した作品が多く、そういったものに私は気持ちがひかれる。たとえば、出獄者の社会復帰、駆け落ちした男女、吉村自身の若い頃の心境を映し出しているのか療養生活で人に頼らざるを得ない境遇、等々。『仮出獄』(新潮文庫、H3年)、『秋の街』(文春文庫、1988年)、『蛍』(中公文庫、1989年)、『遅れた時計』(中公文庫、1990年)、『遠い幻影』(文藝春秋、1998年)、『見えない橋』(文藝春秋、2002年)、そして遺作となった『死顔』(新潮社、2006年)などを立て続けに読んだ。

 山本周五郎『深川安楽亭』(新潮文庫、1973年)を久しぶりに読み返した。初めて読んだのは確か中学生の頃だったと思うが、それ以来のこと。ところどころ、意外とストーリーは覚えていた。江戸期人情ものでも、藤沢周平の生真面目さや、最近だと山本一力の前向きなひたむきさもそれなりに良いとは思うけれど、山本周五郎のどこか哀感をもって突き刺さってくるトゲのようなものも捨てがたい。連想的にふと思ったが、池波正太郎は、食い物や散歩のエッセーは少しばかりは読んだことがあるが、小説は全く読んだことがないな。『真田太平記』とか『雲霧仁左衛門』とか、どうも手に取る気にならない。

 先日、台北に行ったとき、安呢宝貝(アニー・ベイビー)『蓮花』(台北:遠流出版、2008年)が誠品書店のベストセラー1位になっていたので買った。中国語の復習がなかなか進まず、まだ読んでませんが…(外国語で論文を読むのは面倒ではあっても苦にならないが、辞書をひきながら小説を読むとつまらなくなって途中で投げ出しちゃうんだよなあ)。大陸・台湾も含めた中国語圏で大ベストセラーとなった『さよなら、ビビアン』(泉京鹿訳、小学館、2007年)のさらりとしたタッチは嫌いじゃない。中国語復習のためにと思い、中国語原本の『告別薇安』(南海出版公司、2002年)を神保町の内山書店で買い求めたところ、売場のおばさんから「この本、最近よく売れるのよ。何かあったんですか?」ときかれた。私も思い当たるところはなかったので「さあ…」と生返事で終わってしまったのだが、ひょっとしたら日本語訳が出たから、私のように対訳的に勉強しようという人がいるのだろうか。『蓮花』の台湾版と大陸版とを比べると、前者の方が装丁も造本もきれいだ。台湾版には著者デビュー当時の近影が載っている。ちょっときつめだけど今風に清楚な美人という感じで、結構好きです。今はだいぶおばさんになってますが…。

 衛慧(ウェイ・ホェイ)『上海ベイビー』(桑島道夫訳、文春文庫、2001年)は生々しいセックスやドラッグの描写で中国では発禁処分を受けたらしい。その一方で哲学や文学からの衒学的な引用も混ぜ合わされており、理屈ではないレベルで、直接的に何かを、他ならぬ自分自身を感じ取ろうというもがきのようなものを受け止めながら読んだ。王文華『蛋白質ガール』(納村公子訳、バジリコ、2004年)は台北を舞台として現代若者風俗を描く。ブランド名を並べ立てる描写が田中康夫の『なんとなくクリスタル』みたいな感じだが、全然面白くなかった。台湾ではベストセラーになって続編も出たらしいが、今では台北の書店でも棚ざしで1、2冊あればいいという程度。映画上映に合わせてアイリーン・チャン『ラスト、コーション 色・戒』(南雲智訳、集英社文庫、2007年)が刊行された。表題作を含む短編集。通俗ラブストーリーという噂を聞いていたけれど、封建的家族制度と近代的男女関係の葛藤というテーマが見える作品もあったりして意外と読みではある。

 台北の書店を歩きまわったとき山本文緒の翻訳本を割合と見かけたので、帰国してからいくつか読んだ。『プラナリア』(文春文庫、2005年)だけは読んだことがある。人生上の戸惑いをクールに描く感じが結構嫌いじゃないという印象があった。『ブルーもしくはブルー』(角川文庫、1996年)、『ブラック・ティー』(角川文庫、1997年)の2冊を手に取ったけど、意外とシニカルな毒もあって読ませる。『群青の夜の羽毛布』は、原作は読んでいないが、映画は主演の本上まなみ目当てで観に行った覚えがある。

 明日は休みだという日の会社帰り、書店に寄って普段は読まない作家の新刊や文庫本を物色するのが大好き。帰って、布団にくるまりながらページをめくり、夜更かしするのが至福の時間である。

 打海文三『裸者と裸者』(上巻・孤児部隊の世界永久戦争、下巻・邪悪な許しがたい異端の、角川文庫、2007年)は、異民族も入り乱れて内戦状態となった日本を舞台にした少年少女たちの成長譚。と言えば聞こえはいいが、暴力もセックスも何でもありのアナーキーな世界でしぶとく戦い抜く姿がなかなか爽快。池永陽『国境のハーモニカ』(角川文庫、2007年)は在日朝鮮人や外国人労働者などエスニシティーの問題を題材としているが、意外とリリカルで嫌いじゃない。矢口敦子『償い』(幻冬舎文庫、2003年)は人の心にささった痛みをめぐって連続殺人事件がおこるというミステリ。天童荒太『永遠の仔』にしてもそうだけど、幻冬舎は心理的トラウマをテーマとした小説が多いな。売れるからだろうな。ありがちなパターンだなあと思いつつ読んじゃうんだけどね。沼田まほかる『九月が永遠に続けば』(新潮文庫、2008年)もサイコ・ミステリーという感じ。伊坂幸太郎『死神の精度』(文春文庫、2008年)は、対象者の身辺を調査する“死神”を主人公とした連作短編集。金城武主演で映画化されたらしい。伊坂幸太郎の小説はそんなに好きというわけではないんだけど、ストーリーテラーとしてはやはりうまいよね。

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