村井哲也『戦後政治体制の起源──吉田茂の「官邸主導」』
村井哲也『戦後政治体制の起源──吉田茂の「官邸主導」』(藤原書店、2008年)
明治以降、日本の政治機構が常に直面してきた問題として「官邸主導の不在」という論点が挙げられる。明治憲法体制における国務と統帥の分離、国務大臣単独輔弼(首相は横並びの国務大臣の一人にすぎない)→制度面における権力分立的性格→当初は藩閥・元老、後には政党勢力の人的ネットワークによって補われていた。
ところが、1930年代以降、元老・政党とも求心力を失い、挙国一致内閣が次々と現われたが、いずれも様々な思惑を持つ勢力の寄り合い所帯に過ぎなかった。経済危機・対外危機への対応として、行政国家化・統制経済化・戦時体制化が進む中、政治的求心力の確立が求められたが、近衛文麿をトップに据える大政翼賛会は結局骨抜きされて失敗。注目されるのが、企画院である。全体的な政策統合を目指す総合官庁として設立、軍部や官僚の中堅層、いわゆる“革新派”が中心となった。しかし、この総合的性格は明治憲法体制の権力分立的性格とは相容れないため各方面から反発が強く、また企画院自体が自律化・肥大化→かえって「官邸主導」を阻害。企画院は解体されたが、政治的多元性は克服されず、結局、戦争を終わらせるにあたって天皇の「聖断」に頼らざるを得なかったことは象徴的である。
戦後の占領前半期、GHQ内部でもGS、G2、ESSとそれぞれに思惑が異なっていたが、日本の各官庁もそれぞれと結びついていわゆる「クロス・ナショナルな連合」という形で権力分散的な状況を呈していた。こうした中、吉田茂はGHQからの矛盾に満ちた要求を受け容れていくためにも「強力な安定政権」確立の模索を始める。反吉田派牽制のため、経済安定本部内部の統制経済派やマルクス主義的な学者グループと接近して彼らを媒介とした社会党との連立を模索、これができなくなると保革二元論によって保守勢力の結集を目指す。また、当初は安本の総合政策機能に注目していたが、かつての企画院と同様に安本もまた自律化・政治化し始めたため、各方面から反発を受けて力が弱められた。その後は次官会議を掌握して、各省分立的だった「クロス・ナショナルな連合」の分断も図る。
とりわけ吉田が意をくだいたのは、外相官邸連絡会議という私的な会合における人的ネットワークであった。つまり、安定した政権運営のため政策統合的な調整が必要だが、他方で安本やかつての企画院のように総合官庁として制度化してしまうと、それ自体が自律化・政治化→「官邸主導」を阻害してしまうおそれがある。そこで、分立的な官僚機構を前提としつつ、その上に吉田が立って各省庁と個別につながる。その結節点として非制度的な人的ネットワークを活用しようとした。ここには、明治憲法体制下で秘かに力を発揮していたインフォーマルな人的関係による政治調整も想起される。
このように吉田の確立した政治スタイルは、その後吉田がいなくなってからも、官僚と政党勢力(=自民党)との非制度的な相互浸透という形で残った。「戦後政治体制」を1990年代まで続いた官僚主導、政党=自民党主導の並存した二元体制と本書は定義し、これは吉田による非制度的な運営ルールに起源を持つと指摘する。様々な政治勢力のせめぎ合いを詳細に分析、そこから一定の政治運営ルールが醸成されてくる様子を浮き上がらせていくところが興味深い。
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