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2008年12月26日 (金)

江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』

江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)

 侯孝賢監督「珈琲時光」という映画が私は好きで、江文也という名前はこの作品で初めて知った。一青窈演ずるフリーライターが取材して歩き回るシーンがあるが、東京時代の江の足跡をたどることが彼女のテーマとなっていた。

 江文也は1910年、台北北郊の三芝郷に生まれた。李登輝と同郷である。父親のつてで日本の長野県・上田中学(旧制)に留学、さらに武蔵高等工科学校(現・武蔵工業大学)を卒業してとりあえず技術者としての道を歩み始める。しかし、上田時代から西洋音楽に深い関心を示していた彼は山田耕筰や橋本國彦に師事、まずはバリトン歌手として出発した。デビュー作は「肉弾三勇士の歌」のレコーディングだったらしい。ただし、江は作曲家として身を立てたいと考えており、そうした彼をロシア人の作曲家チェレプニンが見出した。交響曲や映画音楽など幅広く作曲活動を行ない、1938年以降は日本軍占領下の北京で北京師範大学の教職につく。本書のオリジナルは北京時代の1941年に刊行された。日本敗戦後は一度“文化漢奸”として捕らえられたが、台湾工作での役割を期待されて音楽家としての活動を再開。しかし、反右派闘争や文化大革命では苛酷な運命に翻弄されたようだ。1983年、北京にて逝去。〔追記:江文也の出生地について多くの文献では三芝とされているが、顔緑芬・主編『台湾當代作曲家』(台北:玉山社、2006年)所収の劉美蓮「以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也」によると、江文也の戸籍は一族の出身地である三芝に置かれていたものの、実際には台北の大稲埕で生まれたという。〕

 『上代支那正楽考』なんて仰々しいタイトルだが、文体は躍動的で読みやすい。中国の伝統文化を音楽の素材として掘り起こそうという意図があったのだろうが、いわゆる堅苦しい“儒学者”というイメージではなく、音楽家としての孔子の姿を彼自身の視点から共感を込めて描き出そうとしているところがおもしろい。

「…美的なものは常に人間から出発するものである。それは規定された日常の道徳律や規則からではなくして、人間の心の底から流れ出た時に、始めてそこに美しいものが存在するのである。
 いま、われわれの日常生活に於ける行為を考へてみるに、それが単に礼に適ひ、道徳的に一々よく当嵌るからと言つて、それで充分だとは言へないのだ。それは単に規定されたところの機械の如き挙動であつて、ほんたうの人間そのものから出たものではないのである。そこにはその人間の個性といふものよりも、その人間によつて構成された社会そのものが、行為して居るやうに見えるのだ。しかし、よき行為といふものは、いつも社会が行ふのではなくして、その社会の一単位であるところのよき人間の個性に基づくものである。従つて単に規定された道徳律によく当嵌まる行為や、それにとどまる範囲内での行為などといふものは、実際では道徳的でもなければ、善の何ものでもないのだ。それが、われわれには一つの立場を与へてくれるには違ひないがしかしそこにはなんらの生命的発展もなく、融通のきかない固形的なものであり、なんらの進歩をも伴はないものである。孔子は、かかる種の道徳家を軽蔑し、耶蘇は、この種の徒を偽善者と罵った。そして芸術家にとつては、それは死をも意味することであるのだ。」(225-226ページ)

 読みながら、ふと、白川静『孔子伝』を思い浮かべた。孔子の言わんとした感覚的なもの、そこに後世になって詳細な註釈が施されたが、その註釈が膨大なものであればあるほど、本来的に言語化しようのない感覚的なものを固定化→規範化、かえって孔子の本来の意図からははずれていく。この言語化できない感覚に目を向けている点で、むしろ荘子の方こそ孔子の後継者だと言えるという白川の指摘が私には新鮮だった(→こちらを参照のこと)。江の文章を読みながら、社会全体を覆いつくそうとしている機械化・システム化の動向、そうした中で芸術における“個性”もまた平均化されていくというもがきが感じられ、その点では、江もまた大正モダニズムの申し子だと言える。同時に、孔子にまつわる註釈という汚れを剥ぎ取りながら白川の迫ろうとしていたところと、音楽という観点から共感されているようにも私には思えてくる。

 本書に解説として付された片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」という論文が秀逸で、とりわけチェレプニンを軸とした記述が非常に興味深い。チェレプニンの父親も有名な音楽家で、リムスキー=コルサコフの弟子、プロコフィエフの師匠にあたる。ロシア革命の動乱期、チェレプニンはグルジアの首都ティフリスの音楽学校校長となるが、ここでグルジアばかりでなくアルメニア、アゼルバイジャン、ウズベクなどコーカサス・中央アジア諸民族の音楽に触れた。西洋音楽の限界を感じていた彼はアジアの民族音楽に可能性を求め、その媒介者としてのロシア人という自己規定をしたらしい。1930年代に日本と中国を来訪、それぞれで若手音楽家の発掘に努める。日本では江文也と伊福部昭を見出した。伊福部はゴジラのテーマ曲の人と言えば分かるだろうか。台湾出身の江、日本人ではあるが北海道でアイヌ文化に触れていた伊福部。多民族融合的な音楽志向を持つこの二人を発掘したというあたりにチェレプニンの目指す方向性がよくうかがわれる。江の北京移住の動機として、台湾人=“日中の架け橋”として軍部に目を付けられたという政治的背景もあるが、彼自身の内的なものとして、チェレプニンによって中国への関心を目覚めさせられた点を忘れてはならないだろう。大きく俯瞰してみると、江自身の意図とは関係ないレベルで、広くユーラシアをまたぐ精神史的なドラマに彼もまた組み込まれているように見えてきて、そこに興味が尽きない。

 いま書店に並んでいる『諸君!』2009年2月号、片山杜秀・新保祐司の対談「昭和10年代、日本音楽の奇蹟」が当時の音楽シーンについて色々な話題が出されていて面白かった。

 なお、江文也の評伝として井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』(白水社、1999年)があるが、遺族と何かトラブルがあったらしく、絶版。この本は江文也の身辺については調べられていてその点では評価できるとは思うが、当時の社会的・文化的背景との関わりがあまり見えてこず、書きっぱなしという印象があった。斬新な視点を示せる人、それこそ片山氏にまとまった江文也論を書いて欲しいものである。

 というわけで(って、どういうわけだが我ながら分かりませんが)、27日から台北に行ってきます。

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