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2008年12月 2日 (火)

「トウキョウソナタ」

「トウキョウソナタ」

 会社をリストラされた父はそのことを家族に言えないままでいる。次男がピアノを習いたいと言うが、金銭的なことを意識してだろう、父は理由も言わずに意固地にダメだとはねつける。自分の不甲斐ない立場を強く自覚しているからこそ、父親の権威という虚構にますますすがりついてしまう悪循環。

 能力主義によるリストラと失業者の群れ、先生の権威失墜と学級崩壊、米軍に志願した長男の語る平和国家日本の対米依存という矛盾、そしてこの映画の主題となるバラバラな家族…。途中まで観ていて、おいおい、こんないかにもって感じの陳腐なモチーフの羅列がこのまま続くのかよ、あまりに空々しくて居たたまれなくなりそうだ、と不安になってしまったのだが、強盗の登場のあたりから映画のテンポは急展開する。

 強盗に拉致されたのに、自ら率先して車を爆走させる母。清掃夫姿を偶然妻に見られて、プライドの傷つきのあまりわけも分からず走り出す父。父への反発から遠くへ行こうと無賃乗車して留置所に入れられた次男。今の自分ではないあるべき何か、ここではない未知なるどこか。家族という虚構、会社に枠付けられた自分という虚構、こうした意識のことさらな自覚化によって抑えこんでいたものをすべていったんぶちまけてしまう。ところが、突っ走ってふっきれたとき、ふと思う。自分は一体どこへ行こうとしているのか? かたくなにこれは虚構だ、本来の自分はもっと別な所にある、と思い込んでいた意識が崩れる。そのとき、今ここにいる自分、そして、その自分のいる家族をあるがままに受け入れていく。翌朝、疲れきった表情でみんな家に帰ってくる。ボソボソと朝食に箸を動かしながら、次男は「お父さん、変な格好」と屈託なく言う。父親も「そうだな」と軽く受け流す。同様に失業中だった彼の学生時代の友人が、見栄っ張りな性格のため夫婦心中をしてしまったのとは対照的に。

 私は「カリスマ」(1999年)を観て衝撃を受けて以来、大の黒沢清ファン。森を滅ぼしかねないカリスマという巨木、これを枯れないよう育てるのか、それとも森を守るために切り倒すのか。一つのために全体を犠牲にするのか、全体のために一つを犠牲にするのか。そういう無理やりな二者択一の設定に、人間たちは振り回されてしまう。どこかふっきれた主人公は「両方生きればいい、あるがままだ」と言う。荒涼とした映像の冷たさも相俟って、一種異様な世界観の強烈な印象がいまだに鮮明だ。

 黒沢清の映画ははっきりとした結論などつけず、観客に投げ渡すようにプツリと終わってしまうことが多かった。今回の「トウキョウソナタ」は希望の見える結末にしたかったとのことで、珍しく大団円へと収斂していく。「カリスマ」は、二者択一的な問いの虚構性をひっぺがしたとき、あるがまま→善悪ともつかぬデモーニッシュな凄みすら感じさせる→カリスマを予期させた。この凄みが無機的な映像で描かれているところに私は何とも言えぬ魅力を感じた。対して「トウキョウソナタ」では、“虚構の家族という意識”そのものの虚構性(ええい、我ながら回りくどい言い方じゃ)を剥ぎ取ったとき、落ち着くところに落ち着く、そういう意味でのあるがままへと落着する。おとなしくなったというか、成熟したというのか。黒沢清もそういう年齢なのか。

【データ】
監督:黒沢清
脚本:Max Mannix、田中幸子、黒沢清
出演:香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、役所広司、津田寛治、井川遥、他
2008年/119分

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