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2008年12月

2008年12月26日 (金)

江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』

江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)

 侯孝賢監督「珈琲時光」という映画が私は好きで、江文也という名前はこの作品で初めて知った。一青窈演ずるフリーライターが取材して歩き回るシーンがあるが、東京時代の江の足跡をたどることが彼女のテーマとなっていた。

 江文也は1910年、台北北郊の三芝郷に生まれた。李登輝と同郷である。父親のつてで日本の長野県・上田中学(旧制)に留学、さらに武蔵高等工科学校(現・武蔵工業大学)を卒業してとりあえず技術者としての道を歩み始める。しかし、上田時代から西洋音楽に深い関心を示していた彼は山田耕筰や橋本國彦に師事、まずはバリトン歌手として出発した。デビュー作は「肉弾三勇士の歌」のレコーディングだったらしい。ただし、江は作曲家として身を立てたいと考えており、そうした彼をロシア人の作曲家チェレプニンが見出した。交響曲や映画音楽など幅広く作曲活動を行ない、1938年以降は日本軍占領下の北京で北京師範大学の教職につく。本書のオリジナルは北京時代の1941年に刊行された。日本敗戦後は一度“文化漢奸”として捕らえられたが、台湾工作での役割を期待されて音楽家としての活動を再開。しかし、反右派闘争や文化大革命では苛酷な運命に翻弄されたようだ。1983年、北京にて逝去。〔追記:江文也の出生地について多くの文献では三芝とされているが、顔緑芬・主編『台湾當代作曲家』(台北:玉山社、2006年)所収の劉美蓮「以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也」によると、江文也の戸籍は一族の出身地である三芝に置かれていたものの、実際には台北の大稲埕で生まれたという。〕

 『上代支那正楽考』なんて仰々しいタイトルだが、文体は躍動的で読みやすい。中国の伝統文化を音楽の素材として掘り起こそうという意図があったのだろうが、いわゆる堅苦しい“儒学者”というイメージではなく、音楽家としての孔子の姿を彼自身の視点から共感を込めて描き出そうとしているところがおもしろい。

「…美的なものは常に人間から出発するものである。それは規定された日常の道徳律や規則からではなくして、人間の心の底から流れ出た時に、始めてそこに美しいものが存在するのである。
 いま、われわれの日常生活に於ける行為を考へてみるに、それが単に礼に適ひ、道徳的に一々よく当嵌るからと言つて、それで充分だとは言へないのだ。それは単に規定されたところの機械の如き挙動であつて、ほんたうの人間そのものから出たものではないのである。そこにはその人間の個性といふものよりも、その人間によつて構成された社会そのものが、行為して居るやうに見えるのだ。しかし、よき行為といふものは、いつも社会が行ふのではなくして、その社会の一単位であるところのよき人間の個性に基づくものである。従つて単に規定された道徳律によく当嵌まる行為や、それにとどまる範囲内での行為などといふものは、実際では道徳的でもなければ、善の何ものでもないのだ。それが、われわれには一つの立場を与へてくれるには違ひないがしかしそこにはなんらの生命的発展もなく、融通のきかない固形的なものであり、なんらの進歩をも伴はないものである。孔子は、かかる種の道徳家を軽蔑し、耶蘇は、この種の徒を偽善者と罵った。そして芸術家にとつては、それは死をも意味することであるのだ。」(225-226ページ)

 読みながら、ふと、白川静『孔子伝』を思い浮かべた。孔子の言わんとした感覚的なもの、そこに後世になって詳細な註釈が施されたが、その註釈が膨大なものであればあるほど、本来的に言語化しようのない感覚的なものを固定化→規範化、かえって孔子の本来の意図からははずれていく。この言語化できない感覚に目を向けている点で、むしろ荘子の方こそ孔子の後継者だと言えるという白川の指摘が私には新鮮だった(→こちらを参照のこと)。江の文章を読みながら、社会全体を覆いつくそうとしている機械化・システム化の動向、そうした中で芸術における“個性”もまた平均化されていくというもがきが感じられ、その点では、江もまた大正モダニズムの申し子だと言える。同時に、孔子にまつわる註釈という汚れを剥ぎ取りながら白川の迫ろうとしていたところと、音楽という観点から共感されているようにも私には思えてくる。

 本書に解説として付された片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」という論文が秀逸で、とりわけチェレプニンを軸とした記述が非常に興味深い。チェレプニンの父親も有名な音楽家で、リムスキー=コルサコフの弟子、プロコフィエフの師匠にあたる。ロシア革命の動乱期、チェレプニンはグルジアの首都ティフリスの音楽学校校長となるが、ここでグルジアばかりでなくアルメニア、アゼルバイジャン、ウズベクなどコーカサス・中央アジア諸民族の音楽に触れた。西洋音楽の限界を感じていた彼はアジアの民族音楽に可能性を求め、その媒介者としてのロシア人という自己規定をしたらしい。1930年代に日本と中国を来訪、それぞれで若手音楽家の発掘に努める。日本では江文也と伊福部昭を見出した。伊福部はゴジラのテーマ曲の人と言えば分かるだろうか。台湾出身の江、日本人ではあるが北海道でアイヌ文化に触れていた伊福部。多民族融合的な音楽志向を持つこの二人を発掘したというあたりにチェレプニンの目指す方向性がよくうかがわれる。江の北京移住の動機として、台湾人=“日中の架け橋”として軍部に目を付けられたという政治的背景もあるが、彼自身の内的なものとして、チェレプニンによって中国への関心を目覚めさせられた点を忘れてはならないだろう。大きく俯瞰してみると、江自身の意図とは関係ないレベルで、広くユーラシアをまたぐ精神史的なドラマに彼もまた組み込まれているように見えてきて、そこに興味が尽きない。

 いま書店に並んでいる『諸君!』2009年2月号、片山杜秀・新保祐司の対談「昭和10年代、日本音楽の奇蹟」が当時の音楽シーンについて色々な話題が出されていて面白かった。

 なお、江文也の評伝として井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』(白水社、1999年)があるが、遺族と何かトラブルがあったらしく、絶版。この本は江文也の身辺については調べられていてその点では評価できるとは思うが、当時の社会的・文化的背景との関わりがあまり見えてこず、書きっぱなしという印象があった。斬新な視点を示せる人、それこそ片山氏にまとまった江文也論を書いて欲しいものである。

 というわけで(って、どういうわけだが我ながら分かりませんが)、27日から台北に行ってきます。

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2008年12月23日 (火)

東京裁判について最近の本

 今年は東京裁判判決60周年ということで、東京裁判をめぐる本が色々と出た。

 比較文化論の立場から日本と西洋という異文化接触の場として東京裁判を捉え、これをめぐる言説を検討してきた牛村圭、国際政治史というコンテクストの中から東京裁判を捉える視点を示す日暮吉延。両者とも、“勝者の裁き”か“文明の裁き”かという二項対立に押し込めて一面的な議論を進めるような愚に陥ることを避け、一次史料に即して東京裁判の実像に迫ろうという点では一致する。この二人による対談をまとめた『東京裁判を正しく読む』(文春新書、2008年)は、誤解されやすい論点を一つ一つ解きほぐしてくれて、この裁判を知るとっかかりとして良質な入門書となっている。

 日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年→以前にこちらで取り上げたことがある)は今年度サントリー学芸賞受賞。判事団、検事団、弁護団それぞれの人間関係は決して一枚岩ではなく内部で分裂抗争があった、その意味ではそれぞれが自律的なダイナミズムで動きながら裁判が展開されていたことを描き出しているのがドラマのように面白く、判決の方向性が予め決められていたわけではないことを明確に示している。本書は対米協調という政治的リアリズムから東京裁判を受け容れた吉田茂を評価する。一方で、反吉田系の保守派の否定論や左派の肯定論、双方ともに見られる反米主義は東京裁判が温床になっているのではないかという日暮の指摘も興味深い。

 戸谷由麻『東京裁判──第二次大戦後の法と正義の追求』(みすず書房、2008年)は国際人道法の確立という観点から東京裁判を検討する。

 “A級戦犯”という言葉がよく比喩的に用いられる。しかし、A級→平和に対する罪、B級→残虐行為や捕虜虐待など通例の戦争犯罪、C級→人道に対する罪、というカテゴリー分けが便宜的に並べられているだけのことで、犯罪としてのランクを示しているわけではない。

 侵略戦争開始の共同謀議(被告中、互いに一面識もなかった人もいるのに“共同謀議”とはおかしい、という疑念がよく出されるが、ある犯罪行為の実行に結果として合意したとされれば、これを“共同謀議”とみなすというのが英米法に独特な概念で、事前に密議をこらして云々というイメージとは異なるらしい)の責任を問う“平和に対する罪”が成り立つのかどうかは私にはよく分からない。実際、“平和に対する罪”の訴因で有罪となっても、これだけで死刑判決を受けた者はいないが(文官の広田弘毅は南京事件の責任を問われて死刑判決を受けた)、これは、裁判官たちの間でも事後法という批判を受けることへの懸念があって量刑が考慮されたのではないかと日暮は指摘している。

 中支那方面軍司令官であった松井石根は“平和に対する罪”(A級)では無罪、南京事件をめぐる訴因(B級)だけで死刑となった。松井に対する判決は、現在の国際刑事裁判において指揮官責任を問う先駆的な判例となっていると戸谷は指摘している。もちろん、松井個人はもともと親中派で南京事件に心を痛めており、“興亜観音”を建てて日中双方の犠牲者に哀悼を示していたことは知られているが、そうした彼個人の心情は別として、指揮官としての職責を果たせなかった点を追及されたと考えるべきだろう。

 広田弘毅の部下であった元東亜局長の石射猪太郎は、広田は日本軍による残虐行為を憂慮して陸軍省に対して注意を促したが(その趣旨のことは石射『外交官の一生』中公文庫、1986年、332-333ページにも見える)、それ以上のことは出来なかったと証言、弁護団は広田の道義心を訴える戦術をとった。しかし裁判官側には残虐行為防止の不作為と受け止められ、逆に有罪の根拠となってしまった。このあたり、心情面における法文化の違いが興味深い(私自身、城山三郎『落日燃ゆ』の印象が強すぎて、何となく広田に同情的になってしまうのだが)。しかし、それ以上に注目すべきなのは、軍の指揮系統に属さない文官であっても個人責任を問われる先例となったことである(戸谷、206ページ。多谷千賀子『戦争犯罪と法』岩波書店、2006年、118-119ページにも広田判決について言及あり)。戸谷によると、ルワンダ国際刑事裁判でもこの広田判決が援用されたという。

 ときどき誤解している人もいるが、南京事件に関する判決はあくまでも通例の戦争犯罪(B級)であって、“人道に対する罪”(C級)ではない。ナチスの行なった犯罪行為でとりわけ顕著なのはユダヤ人の大量虐殺だが、法的に言うとこのユダヤ人たちはドイツ国民である。ところが、戦争犯罪として裁けるのは交戦相手国民に対する残虐行為であって、自国民を相手にした場合は想定されていない。かと言って、ユダヤ人虐殺を見逃すわけには勿論いかない。そこで、ニュルンベルク国際軍事裁判所条例においてユダヤ人虐殺の責任を追及するため、対象が自国民であっても戦争犯罪とみなす“人道に対する罪”が初めて提起された。こうした経緯による法概念であるため、自国民を相手とした虐殺行為を行なっていない日本の戦犯裁判でC級は適用されなかった。

 なお、こうした“人道に対する罪”の成立経緯を踏まえたとしても、戦争犯罪を対象としたニュルンベルク法廷で裁けるのはドイツ軍がポーランド国境を越えて戦争を開始した時点以降のことで、それ以前に行なわれたユダヤ人に対する残虐行為は管轄範囲に入らない(Samantha Power, A Problem from Hell: America and the Age of Genocide, Harper Perennial, 2007, p.49)。そこで、ユダヤ系ポーランド人の国際法学者ラファエル・レムキン(Raphael Lemkin)はもっと包括的な法規範としてジェノサイド防止条約(レムキン法)の制定に奔走することになる。ジェノサイド(genocide)というキーワードを造語したのはレムキンである。

 東京裁判は多国籍裁判という異例の形式をとったが、当然ながら言語の問題が課題となる。武田珂代子『東京裁判における通訳』(みすず書房、2008年)は、コミュニケーションのあり方そのものが当事者の関係性に及ぼす影響を検討する通訳学という新しい知見を基に東京裁判を考える。ニュルンベルク裁判とは異なり、東京裁判では通訳の態勢が整っていなかった。連合国側に日本語のできる人材がほとんどいない以上、通訳は日本人に頼らざるを得ない。しかし、連合国側には日本人通訳への不信感がある。そこで、日本人通訳を使いながらも、日系二世のモニター(チェック役)をつけ、さらに白人士官の言語裁定官を上に置くという三層構造がとられた。異言語コミュニケーションの通訳を相手側に依存するか(他律型)、こちら側で養成するか(自律型)というモデルで考えると、日系二世モニターはこの両方を併せ持ったアンビヴァレントな立場になっていた。とりわけ、日本語が堪能なため採用された帰米二世(日本の学校で学んでアメリカに帰った日系二世)は、アメリカ国民でありながらもその忠誠心が疑われているという難しい立場にあり、通訳そのものの難しさと、彼ら自身のアイデンティティーの難しさとが二重写しになってくる。中でもデイビット・アキラ・イタミという人は山崎豊子『二つの祖国』やNHK大河ドラマ「山河燃ゆ」のモデルとなったらしい。そういえば、私は小学生のとき「山河燃ゆ」を毎回欠かさず見ていて、東京裁判に興味を持ったのはこの頃からだったように思う。

 保阪正康『東京裁判の教訓』(朝日新書、2008年)は、同時代史的な感情論ではなく、記録をもとに冷静に東京裁判を捉えるべきことを強調。その上でこの裁判から、当時の拙劣な指導者の責任、この裁判から欠落していた周辺アジア諸国への責任、裁いた側の西欧植民地主義の責任など、多面的な責任のあり方を汲み取ろうとする。

 東京裁判の全体像を知るには、児島襄『東京裁判』(上下、中公文庫、1982年)、東京裁判朝日新聞記者団『東京裁判』(上下、朝日文庫、1995年)、粟屋憲太郎『東京裁判への道』(上下、講談社選書メチエ、2006年)といったあたりに目を通すといいだろう。小林正樹監督のドキュメンタリー「東京裁判」(1983年)もよくできている。なお、パル判決については、これはこれでややこしいので、気が向いたらまた別の機会に。

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楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』

楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』(中央公論社、1997年)

 著者は日本統治期に生まれ、台湾では耳鼻咽喉科の権威となったお医者さん。大谷渡『台湾と日本』(東方出版、2008年)にも中学校で屋良朝苗に教わった人が複数出てきたが、屋良の教え方は厳しいが工夫がこらされており、進学率は抜群であったという。著者も屋良によって発奮した一人。脱線になるが、台湾には沖縄出身者が割合とたくさん来ている。『文芸台湾』の同人にも沖縄姓の人が目立ったし、そういえばノンフィクション作家の与那原恵さんのおじいさんも医師として台北で開業していた(与那原恵『美麗島まで』文藝春秋、2002年)。

 台北帝国大学付属医学専門部に入学したところ、女生徒が一人いた。汪精衛政権派遣の留学生で、康有為の孫娘・康保敏という人だったという。在学中に日本は敗戦、中途半端な時期だったが頼み込んで何とか台北帝国大学の卒業証書を繰り上げてもらったらしい。ポツダム少尉ならぬ“ポツダム証書”。国民党軍の台北入城行進を見て、そのあまりのみすぼらしさに幻滅してしまったとも語る。私の祖母もこの行進をじかに見ていて、著者と同様の感想を述べていた。

 国府接収後はただちに日本語が全面的に禁止されたため、北京語習得に苦労したらしい。しかし、医師は実力さえあればいいわけで、著者は英語・日本語文献を通して積極的に最先端の知識を摂取、宋美齢をはじめ国民党政権の要人から信頼された。ただし、著者自身は国民党をあまり快く思っていなかったようだが。

 専門は耳鼻科なのに、なぜか“産婦人科”がらみの話が多いのも著者の人徳?か。ちょっとした艶笑譚といったエピソードを淡々と、しかしユーモラスな語り口で披露するところが意外と面白かった。

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2008年12月21日 (日)

『文芸台湾』を眺めて

 先日、私の祖母が『文芸台湾』の同人であったことを初めて知って(→こちらを参照のこと)、国会図書館でバックナンバーを調べた。一応揃ってはいるものの、創刊号がない。保存状態は悪くて、第二巻を除き、複写禁止。幸い、祖母の小説の載った巻は後日複写なら可とのことでカウンターに持って行ったら、当該ページが破れかかっている。「うーん、申し訳ないですが、これはちょっと無理ですねえ…」と係の人。「えーっ、このページが一番欲しいんですよ」と哀願するような表情をしたら、何とか複写許可を出してくれた。本当にありがとうございました。「将来的にマイクロフィルム化される予定はあるんですか?」と尋ねたら、「いやあ、予算がつかない限りどうにもなりませんねえ…」とのこと。コピーはできず、覆刻版もないことだし、しばらく土曜日ごとに国会図書館に通いつめることになりそうだ。

 時間に余裕がなかったので、目次を中心にざっと眺める。目ぼしい人物を拾い上げていくと、まず西川満については以前に触れたことがある(→こちら)。
矢野峰人:台湾文芸家協会会長となっている。台北帝国大学教授で英文学者、とりわけ詩論に詳しい。『ルバイヤート』は日本ではフィッツジェラルドの自由訳を通して最初に紹介されたが、矢野の重訳によるものを見かけた覚えがある。
島田謹二:台北帝国大学助教授で比較文化論。後に『華麗島文学志』という大著を出したが、私は未読。一般的には、『ロシヤにおける広瀬武夫』『アメリカにおける秋山真之』が知られているだろう。
中村哲:台北帝国大学助教授で政治学者。柳田國男を政治思想史の観点から取り上げた論文を読んだことがあったような覚えがある。戦後、法政大学学長を務めた。
前嶋信次:この頃は台南第二中学校教諭→満鉄東亜経済調査局。彼が台湾時代に書いた「媽祖祭」(杉田英明編『〈華麗島〉台湾からの眺望 前嶋信次著作選3』平凡社・東洋文庫、2000年、所収)を読んだことがあるが、幻想的でなかなか美しい文章だった。イスラム研究の先達として慶應では井筒俊彦と双璧をなす。前嶋の自伝『アラビア学への途──わが人生のシルクロード』(NHKブックス、1982年)は以前に取り上げたことがある(→こちら)。
金関丈夫:台北帝国大学医学部教授。人類学者。『文芸台湾』では毎号、美術批評もやっている。林熊生という筆者名の小説も時々見かけるのだが、これは金関のペンネームらしい。幅広くて面白そうな人だ。池田敏雄と共に『民俗台湾』を出す。
池田敏雄:当時、黄氏鳳姿という少女の本が話題になっていたらしく、『文芸台湾』で毎号のように広告が出ている他、綴方教室で有名な豊田正子との往復書簡も見かけた。公学校(台湾人向けの小学校)の教員をしていた池田の教え子で、池田が彼女の才能を発掘したのだという。池田は台湾生まれ、いわば下町にあたる萬華に早くから馴染んでいて、民俗学的な発掘に力を注ぐようになった。日本の敗戦後、黄氏鳳姿と結婚、一緒に日本に渡ってからは平凡社に勤務(李筱峰・荘天賜編『快讀台湾歴史人物Ⅰ』台北:玉山社、2004年を参照。なお、この本は台湾史の重要人物を60人ほど取り上げているが、その中に日本人の池田についても敢えて一項目を立て、彼を皇民化運動に反対し、心の底から台湾を愛した日本人として高く評価している)。川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)は池田や金関らの『民俗台湾』は日本主導で台湾を周縁化する試みだったとするが、呉密察(台湾大学教授)「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」(藤井省三・黄英哲・垂水千恵編『台湾の「大東亜戦争」』東京大学出版会、2002年、所収)は川村に対して、池田が台湾文化の消滅を憂えていたことを正当に評価すべきだと批判している。
龍瑛宗:当時は台湾銀行員。『改造』懸賞小説で入賞したこともある。最近、『憤れる白い鳩 二〇世紀台湾を生きて──六人の女性のオーラルヒストリー』(明石書店、2008年→こちら)という本を読んだばかりで、これに龍瑛宗の妻が彼との葛藤を語る章があった。今回、祖母の小説を彼が論評する記事を見かけ、妙なつながり方をしたものだと感慨深い。
張文環:肩書きは台湾映画株式会社文芸部長となっていた。彼は後に西川と袂を分かち、『台湾文学』を創刊。西川の耽美的傾向とは異なり、こちらはリアリズム路線をとる。
・他に、周金波黄得時楊雲萍邱炳南〔追記:若き日の邱永漢のペンネーム〕、濱田隼雄といった名前はどこかしらで見た覚えがあった。装丁をしている立石鉄臣というのは何者なのだろう? 所属が台北帝国大学となっていた。

 当時、台北帝国大学医学部教授だった森於菟(森鴎外の長男)のもとを訪れる記事も見かけた。西川を軸として、台湾における文化人サークルが広がっていた様子がうかがえて興味深い。どうでもいいが、画家たちの絵の間に挟まって何やら子供落書きのような狐?の絵を見かけた。作者名は、潤・5歳~ヶ月となっている。西川満の子息で、現在は早稲田大学名誉教授(開発経済学)西川潤氏の幼少時の絵。いやはや、親ばかというかなんというか。

 台湾愛書会の『愛書』という雑誌の広告も毎号のように見かけた。広告掲載の執筆者名で私が何らかの形で見た覚えのある人を適当に拾い上げると、上掲の西川・島田・前嶋の他、移川子之蔵(台北帝国大学教授・民族学)、浅井惠倫(台北帝国大学教授・言語学)、神田喜一郎(台北帝国大学教授・東洋史学。なお、私は中央アジア史に興味を持っていた時期があって、神田の名前を見ると『敦煌学五十年』という本を思い出す)、尾崎秀眞(尾崎秀実・秀樹たち兄弟の父親)といったあたりか。それから、田大熊という人が気になった。私の祖父が台北第二中学校に勤務していて、その時の校長が田健治郎(元台湾総督)の息子で田英夫(元社民党参院議員)の父親だったと間接的に聞いているのだが、手掛かりがつかめなかった。ひょっとしてこの田大熊という人がその人だろうか。あくまでも推測に過ぎないが。〔追記:今月刊行されたばかりの『田健治郎日記1』(芙蓉書房出版)を見たところ、田家の家系図が載っていて、英夫の父親は誠という人でした。田大熊氏は関係ないようです。〕

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2008年12月19日 (金)

Philip H. Gordon and Omer Taspinar, Winning Turkey: How America, Europe, and Turkey Can Revive a Fading Partnership

Philip H. Gordon and Omer Taspinar, Winning Turkey: How America, Europe, and Turkey Can Revive a Fading Partnership(Brookings Institution Press, 2008)

 トルコ共和国建国の父、ケマル・アタチュルクの考え方は三本柱から成り立っている。第一に、世俗主義。フランスにおけるライシテがモデルとなっており、イスラムはアンシャン・レジームの象徴として徹底的な政教分離が図られた。第二に、同化主義的なナショナリズム。言語、領土などアナトリア大の同質的な民族=国民が目指され(この点でもフランス的だ)、かつてのオスマン帝国を特徴付けていた多元性は否定された。マイノリティーへの同化政策→クルド人問題が生じていることは周知の通り。第三に、近代主義。第一次世界大戦における勝者としての西欧国民国家がアタチュルクの求めるモデルとなり、その後もEU加盟への熱望としても表われている。とりわけ軍部がこの近代化の推進役となったが、冷戦期、トルコは反共の砦として重視されたため、軍部の政治干渉は黙認されてきた。

 イスラム政党とされる公正発展党(AKP)の位置付けに興味を持った。以上のケマリズム(Kemalism)に立つ世俗主義的な法曹界や軍部の干渉によって彼らは何度もつぶされかけたにもかかわらず、福祉党→美徳党→公正発展党と名称を変えながら勢力をのばして着実な政権担当能力を示し、2007年の総選挙でも現エルドアン政権は勝利した。彼らは一度、軍部によるクーデターで政権を追われたことから、世俗主義的なエスタブリッシュメントに対抗することの難しさを教訓として得ており、それ以降、宗教色はできるだけ抑えて具体的な政策による支持獲得を目指してきた。選挙で勝って政治的正統性を得るために広範な票を取り込まなければならないという思惑もあっただろう。出発は宗教政党であっても、現在は実質的に中道政党となっている。彼らは西欧を敵視などしていない。現政権もEU加盟を意識して人権問題の改善に努め、不十分ながらもクルド問題は従来に比べれば改善された。キプロス問題でも妥協、EU加盟の阻害要因であった仇敵・ギリシアとも関係改善が進んだ。

 しかし、ヨーロッパ側の事情でEU加盟が難しそうな情勢にあること、またイラク戦争による中東情勢不安定化などから欧米に対する不信感がトルコ国内にくすぶっており、それはイスラム勢力ばかりでなく、世俗主義的な軍部に顕著なようだ。イラク戦争に際してアメリカ軍のトルコ進駐を求められた際、イスラム政党の現政権側が対米関係を意識して渋々ながらも支持を求めたのに対して、本来は親米派であった世俗主義勢力が反対したという逆転現象が興味深い。

 世俗主義勢力は、欧米がイスラム穏健派やクルド人問題に対して甘いという不満を強く抱いているらしい。もし現AKP政権に対するクーデターがおこったら、権威主義的な軍部は西欧との関係を絶って、ロシア、中国、イラン、シリア、中央アジア諸国などの権威主義的政権との関係緊密化に動くのではないかという懸念を本書は示す。クルド問題、キプロス問題、アルメニアとの歴史的和解などトルコの果たすべき課題はたくさんあるが、何よりもそれらの解決の前提条件として、民主主義の原則が後退しないよう欧米は働きかける必要があるとされる。

 私などは中東情勢についてまったくの素人なので、トルコでイスラム政党が政権獲得→いわゆる“イスラム原理主義”の動向の表われかなどと勘繰り、これに対して世俗主義勢力→近代化→民主主義勢力という一面的な把握をしてしまいかねないところがあった。本書によると、実際には、選挙のダイナミズムによってAKPは穏健化・中道化しており、逆に世俗主義勢力の方がかえって権威主義化の危険があるという逆転現象がおこっている。知らない世界について、たとえば“イスラム原理主義”というような流行語に結びつけて分かったつもりになってしまうことがあるが、対外関係を考えるときには安易に一般論に還元してしまわず、個別の内在的事情をきちんと理解する必要があることを改めて痛感した。

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2008年12月18日 (木)

マイケル・イグナティエフがカナダ自由党党首になったらしい

 マイケル・イグナティエフがカナダの野党・自由党の党首に決まったそうだ。辞任したディラン党首は他の野党・新民主党やケベック連合と共に少数与党の保守党・ハーパー政権に対して不信任案を出すつもりだったようだが、イグナティエフは消極的らしい。前回の選挙で敗北した痛手を立て直す必要があるし、そもそも経済運営が難しい現在、敢えて火中の栗を拾うわけにもいかないのだろう。

 イグナティエフは人権問題の専門家として知られる。もともとジャーナリストとして出発、世界の紛争の現場に立った経験をもとに彼の著わした『軽い帝国──ボスニア・コソボ・アフガニスタンにおける国家建設』(中山俊宏訳、風行社、2003年)は以前にこのブログでも取り上げたことがある(→こちらを参照のこと)。現実問題として、ジェノサイド等の残虐行為を抑止するためには軍事力が必要な事態が考えられるし、また戦火で混乱した社会を再建するには外部の力を借りねばならないこともある。そのためにアメリカの覇権も場合によっては助けとなる。イラク戦争に際して彼は人道目的の武力介入という観点からブッシュ政権を支持、リベラル派からは批判を受けた。ただし、それはあくまでも人道目的であって、国益目的の保守派とは全く異なる。こうした彼のスタンスはリベラル・ホーク(リベラルなタカ派)と呼ばれた。

 たしか自由党政権時代のクレティエン首相はイラク戦争への参加を拒んだはずだが、イグナティエフはその点でどのように受け入れられたんだろう?

 戦後日本において“非武装中立”という夢物語で自衛隊の存在すら否定してきたいわゆる進歩派、彼らの主張には国境外の悲惨事については無視するという独善的な逆説がはらまれていた。それにもかかわらず、“平和”“人権”という言葉を使えばもっともらしいが、実はこれらの“正しい”言葉への呪術的信仰は、彼らの知的欺瞞を糊塗する道具に使われていたに過ぎなかった。私自身は必ずしもイラク戦争を是認するわけではない。ただし、結論への賛否はともかく、理想主義と現実主義との架橋しがたい矛盾を直視して、その矛盾そのものの中から考えていこうという点では、イグナティエフのようなリベラル・ホークの方がよほど誠実だと思っている。

 そういえば、ロメオ・ダレールも自由党の上院議員を務めているはずだ。国連平和維持軍司令官としてルワンダに赴任し、あの大虐殺を目の当たりにしながら何も出来なかった後悔から現在は人道問題に取り組んでいる。彼の著わしたShake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda(悪魔との握手:ルワンダにおける人道の失敗、Carroll &Graf Publishers, 2005)も以前に取り上げたことがあるが(→こちらを参照のこと)、人道問題や国際貢献というテーマを考える上で必読だと私は思っている。残念ながら邦訳はまだない。以前、エージェンシーに確認したら、どこかの出版社が翻訳権を取得しているらしいんだけどね。ダレールと伊勢﨑賢治の対談『戦禍なき時代を築く』(NHK出版、2007年)という本があるので(これも以前に取り上げたことがあります→こちら)、ダレールの発言を知りたい場合にはとりあえずこの本をどうぞ。

 カナダはPKO活動に積極的な国として知られている。日本の自衛隊のPKO派遣についてすぐ軍国主義云々という議論が沸き起こるが、まったくアホらしい。日本の大国志向なんて捉え方はただの妄想に過ぎない。むしろアメリカのような大国が見落としがちなところで、カナダと同様のミドルパワーとして国際貢献できることがあるはずだという点でダレールと伊勢﨑の見解は一致しているし、また、これが外交路線として現実的であることについては添谷芳秀『日本の「ミドルパワー」外交──戦後日本の選択と構想』(ちくま新書、2005年)が論じている(→こちらを参照のこと)。

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2008年12月17日 (水)

タイの政治情勢のこと

 タクシン元首相の汚職疑惑への反発から2006年にクーデターがおこって以来混乱続きのタイ情勢。ようやくアピシット新首相が選出されて反タクシン派の連立政権が発足。いったんは落ち着いたものの、タクシン支持派と反タクシン派の確執は収まっておらず、まだまだ波乱含みらしい。

 だいぶ以前だが、岡崎久彦・横田順子・藤井昭彦『クーデターの政治学──政治の天才の国タイ』(中公新書、1993年)という本を読んだことがあった。タイは割合と安定した国というイメージがあるが、意外とクーデターが頻発している。政治家が腐敗して軍部がクーデターをおこし、議会指導者が拘束されると、ギリギリのタイミングで国王が出てきて「いや、殺してはいけない」と押しとどめる。軍部が強権化して民主化デモがわきおこるとやはりギリギリのタイミングで国王が登場して「もうお前は辞めなさい」といなし、できるだけ穏便に政権交代させる。1992年の騒乱の際、民主化運動指導者チャムロンと軍政のスチンダ将軍とがプミポン国王の前で並んでひざまずいている姿が印象的だった。つまり、国王というバランサーを媒介として議会と軍部という二つの政治アクターが政権交代を繰り返すのがタイの政治システムなのだという。政権交代による緊張感→権力独占を防ぎ、政治を活性化させるのが民主政治の一つの長所とするなら、西欧モデルの議会主義とは違ったシステムもあり得る、そうした比較政治論的な視点を示した議論として面白く読んだ覚えがある。

 非政治的な権威として議会・軍部の両者から超越した存在であるからこそ、いざという時に仲介役を果たし国政を安定させることができる、そうしたキーマンとしてプミポン国王には私なども割合と好印象を持っていた。ところが、The Economist(2008.12.6)掲載の“Thailand’s king and its crisis : A right royal mess”という記事を読んでいたら、タイ王室のあり方に疑問を投げかけており、興味を引いた。

 そもそもタイでは現在でも不敬罪がある。王室への批判は罰せられるため、うかつに話題にはできないらしい。タイ王室の権威というのは相当なもので、あらゆる奇跡も王室の恩恵に帰せられる。学生の頃、岩波ホールで上映されるアジア映画なんかをさして面白くもないのに無理して観ていた時期があるのだが、「ムアンとリット」というタイ映画も観たことがあった。封建的な因習の中で女性が奮闘する話だったような気がするが、最後に象徴的なシーンとして雨が降る。文字通りの「慈雨」で、これは国王陛下の恩恵だ、みたいなナレーションがあって違和感があったのを覚えている。

 それはともかく。The Economistの記事によると、ヴェトナム戦争を背景とした時代、アメリカは反共の同盟者としてタイ王室に目をつけ、その権威を高めるキャンペーンにふんだんに資金をつぎ込んだという。不敬罪は1970年に強化された。また、国王は必ずしも非政治的というわけでもない。国王自身は直接的なことは言わなくても、彼のメッセージからその意図を臣下は読み取って忖度しながら政治行動を行なっているらしい。

 タクシンは配分的政策、具体的には低廉な医療制度やマイクロファイナンスの普及によって、とりわけ農村部での支持が厚い。そのため、ポピュリスティックな政治家だとよく言われる。反タクシンの王党派には、彼の政治行動が既得権益を侵すというだけでなく、配分的政策→庶民の支持→国王の恩恵に対する挑戦、と受け止められ、一時はタクシン派がタイ史上初めて議会過半数を握ったこともあわせて、脅威と考えられているようだ。タクシン派政党の解党命令やソムチャイ前首相の失職理由にしても、新聞で読んでもその根拠が私にはいまいちピンとこなかったのだが、タクシンの存在感そのものが王室のタブーに踏み込みかねないからこそ軍部も司法も躍起になってタクシンつぶしにかかっていると考えていいのだろうか?

 プミポン国王は今年81歳。先は決して長くはない。ところが、皇太子の評判はかなり悪い。不敬罪があるため、おおっぴらには語られないが。下手すると、ネパール王家と同じ末路をたどりかねない。実際、チャクリ朝は9代までしか続かないという予言があったらしい。プミポン国王は別称ラーマ9世である。ある宮廷関係者は、「Long live the king(国王万歳)と言う時、王には文字通り永遠に生きて欲しいと思っている、次がどうなるかなんて考えたくもない」と語っている。

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2008年12月16日 (火)

村井哲也『戦後政治体制の起源──吉田茂の「官邸主導」』

村井哲也『戦後政治体制の起源──吉田茂の「官邸主導」』(藤原書店、2008年)

 明治以降、日本の政治機構が常に直面してきた問題として「官邸主導の不在」という論点が挙げられる。明治憲法体制における国務と統帥の分離、国務大臣単独輔弼(首相は横並びの国務大臣の一人にすぎない)→制度面における権力分立的性格→当初は藩閥・元老、後には政党勢力の人的ネットワークによって補われていた。

 ところが、1930年代以降、元老・政党とも求心力を失い、挙国一致内閣が次々と現われたが、いずれも様々な思惑を持つ勢力の寄り合い所帯に過ぎなかった。経済危機・対外危機への対応として、行政国家化・統制経済化・戦時体制化が進む中、政治的求心力の確立が求められたが、近衛文麿をトップに据える大政翼賛会は結局骨抜きされて失敗。注目されるのが、企画院である。全体的な政策統合を目指す総合官庁として設立、軍部や官僚の中堅層、いわゆる“革新派”が中心となった。しかし、この総合的性格は明治憲法体制の権力分立的性格とは相容れないため各方面から反発が強く、また企画院自体が自律化・肥大化→かえって「官邸主導」を阻害。企画院は解体されたが、政治的多元性は克服されず、結局、戦争を終わらせるにあたって天皇の「聖断」に頼らざるを得なかったことは象徴的である。

 戦後の占領前半期、GHQ内部でもGS、G2、ESSとそれぞれに思惑が異なっていたが、日本の各官庁もそれぞれと結びついていわゆる「クロス・ナショナルな連合」という形で権力分散的な状況を呈していた。こうした中、吉田茂はGHQからの矛盾に満ちた要求を受け容れていくためにも「強力な安定政権」確立の模索を始める。反吉田派牽制のため、経済安定本部内部の統制経済派やマルクス主義的な学者グループと接近して彼らを媒介とした社会党との連立を模索、これができなくなると保革二元論によって保守勢力の結集を目指す。また、当初は安本の総合政策機能に注目していたが、かつての企画院と同様に安本もまた自律化・政治化し始めたため、各方面から反発を受けて力が弱められた。その後は次官会議を掌握して、各省分立的だった「クロス・ナショナルな連合」の分断も図る。

 とりわけ吉田が意をくだいたのは、外相官邸連絡会議という私的な会合における人的ネットワークであった。つまり、安定した政権運営のため政策統合的な調整が必要だが、他方で安本やかつての企画院のように総合官庁として制度化してしまうと、それ自体が自律化・政治化→「官邸主導」を阻害してしまうおそれがある。そこで、分立的な官僚機構を前提としつつ、その上に吉田が立って各省庁と個別につながる。その結節点として非制度的な人的ネットワークを活用しようとした。ここには、明治憲法体制下で秘かに力を発揮していたインフォーマルな人的関係による政治調整も想起される。

 このように吉田の確立した政治スタイルは、その後吉田がいなくなってからも、官僚と政党勢力(=自民党)との非制度的な相互浸透という形で残った。「戦後政治体制」を1990年代まで続いた官僚主導、政党=自民党主導の並存した二元体制と本書は定義し、これは吉田による非制度的な運営ルールに起源を持つと指摘する。様々な政治勢力のせめぎ合いを詳細に分析、そこから一定の政治運営ルールが醸成されてくる様子を浮き上がらせていくところが興味深い。

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2008年12月15日 (月)

台湾にいた祖母の話(2)

 祖父は台北第二中学校で教員をしていた。台北一中は日本人中心、二中は台湾人生徒が半分くらいいたという。日本の敗戦直後、台湾人生徒を差別して嫌われていた先生が夜道で殴られたりということもあったらしい。幸いなことに祖父は台湾人生徒たちからも慕われており、戦後になっても当時の生徒たちから台湾に招待されたり、日本にいる元の教え子が訪ねてきたりしたそうだ。祖父宛に送られてきた、台湾にいる教え子たちの同窓会の集合写真もきちんととってあった。

 祖父が徴兵されて戦車部隊に配属されていたと聞いたことはあったのだが、今回写真を見ていて、それがノモンハン事件のことだったと初めて知って驚いた。1939年に祖父は20歳で入営、旧満州へ。何枚かある集合写真の横には牡丹江省、吉林省と記されている。厚手の防寒具、足元には雪が降り積もっていた。ある写真の余白には、「操縦、通信、工術 しごかれどおしの毎日だった」と書き込まれている。戦友たち一人ひとりの写真も残されているのだが、ひょっとしたらいつ死ぬか分からないという緊張感の中で交換し合ったものだろうか。戦車の写真も多いが、私は軍事関係には疎いので何式かまではすぐには分からない。向こうからソ連兵が白い布を振りながら近づき、こちら側では日本兵が握手をしようと手を前に出している写真があった。おそらく停戦協定が結ばれた時だろう。ノモンハン事件では日本の戦車部隊は壊滅的な打撃を受けたはずだ。祖父もよく生き残ったものだと思う。機械化の進んだソ連軍を過小評価した作戦参謀・辻政信らの独断専行で日本軍は大敗を喫し、それでも彼らは勝ったと強弁してそのように日本国内でも喧伝された。なぜこの大敗北から日本は教訓を引き出そうとしなかったのかという点に昭和期日本の決定的な誤謬を見出し、そこに至るまでの近代日本のあり様を探ろうとしたのが司馬遼太郎の日本論の動機だったことは周知の通りだろう。

 祖父は除隊してから教員になり、2年ばかり日本内地で勤務してから台湾に渡った。結婚してからたった二ヶ月で祖父は応召されたが、配属先は台湾東岸の守備隊だった。当時、大本営は対米決戦に向けての作戦立案においてアメリカ軍はまず台湾に上陸すると想定しており、台湾における兵力増強を進めていた。実際には、台湾を素通りして沖縄に上陸したわけだが。祖父は学徒動員された中学生たちを指揮して塹壕掘りに明け暮れていたらしく、日本の敗戦後、時をおかずに祖母のもとへ帰ってきたという。

 1945年8月、敗戦の一週間前に台北は空襲を受け、祖母の家も半壊した。すぐ近くの家では防空壕に爆弾が直撃して、死体の散らばっているのを目の当たりにしたようだ。8月15日、いわゆる玉音放送が流れ、10月25日には降伏調印式が行なわれた。台湾における「終戦記念日」=「光復節」はこの日である(川島真「台湾の光復と中華民国」、佐藤卓己・孫安石編『東アジアの終戦記念日──敗北と勝利のあいだ』ちくま新書、2007年)。祖母は日本敗戦の話が広まるとすぐに「祝大戦勝」の横断幕が翻っているのを見かけたという。中国軍が台北市に入城するとのことで祖母も見に行ったらしいが、「どんな感じだったと思う?」と私に問いかけてくる。いや、分からない、と答えると、「それがねえ、みんな裸足なのよ。靴を履くと磨り減るでしょ、だから肩にぶら下げて。服装も何だかみすぼらしくてね。担架みたいのに所帯道具一式を乗せてかついで、軍隊というよりも、お引越しって感じだったわねえ。それが次の日の新聞には「威風堂々と入城す」なんてでっかく書いてあるのよ。新聞なんて話半分でみるものだってつくづく思うわ」。

 祖母は続けて「日本は中国に負けたんじゃなくて、アメリカに負けたのよねえ」とも語る。もちろん反論したくなる人もいるかもしれないが、ここで汲み取るべきなのは、こうした素朴な実感を当時台湾にいた日本人が抱いたことだろう。日本に進駐したアメリカ軍の豊かさを目の当たりにして、これなら負けたのも仕方ないと日本人は納得した。対して台湾にやって来たのは、制服すら整っていない装備の貧弱なみすぼらしい軍隊であった(もちろん、共産党の勢力伸張に備えて蒋介石は精鋭を大陸にとっておいたという事情もあるのだが)。それこそ電灯も水道も見るのは初めて、蛇口をひねって水が出るのに驚いて蛇口を買い求め、壁につけたが出ないぞ!と文句を言ったなんて笑い話もあるほどだ。中国軍を見て「みすぼらしい」と感じた実感は、その後、台湾社会に深刻な暗い影を落とすことになる。

 日本の植民地支配下ではあっても、台湾人は経済的・社会的に高度な生活システムに適応し、台湾人自身のテクノクラート層も十分に育っていた。日本人がいなくなって、ようやく彼ら自身で自分たちの社会を運営できると思ったら、大陸から来た国民党は「台湾人は日本の奴隷教育を受けてきた」と考えて、台湾人の上に大陸出身者が居座る。管理的ポジションについてふんぞりかえるのだが、近代的な技術や社会システムを理解していない者が多かった。知識のない者が指示を出したところで現場は混乱するばかりだが、それにも拘わらず彼らは偉そうに台湾人を見下す。当然、台湾人の不満は募る。彼らと自分たちは違うという意識が芽生え、当初は国民党軍を歓迎していた気運は冷めてしまった。この当時における大陸とは違った台湾の経済的・社会的先進性は、台湾独立派の主張というばかりでなく、大陸に渡って共産党との共闘を目指した台湾民主自治同盟が台湾の高度な自治を求める根拠にもなっていた(ただし、反右派闘争以降、この主張は退けられてしまうのだが)。

 日本人の引き揚げにあたり、手荷物以外の資産の持ち帰りは許されず、家財道具の大半は置いていかざるを得なかった。道端でゴザの上に並べて売ろうともしたらしいが、どうせ置いていくしかない、ほっとおけばタダになる、と足元を見られていて台湾人はあまり買ってくれなかったと祖母は言う。日本人に対する報復のようなことは一切なく、その点では平穏であった。夜、見回り中の台湾人警官が、戸が開いているからちゃんとカギをかけなさい、と親切に声をかけてくれたことなども思い出していた。

 日本人が日本へ引き揚げようにも船がなかった。祖母は1946年3月に基隆から日本へと渡る。アメリカの貨物船にすし詰めにされたらしい。祖父は勤務先の中学校に大陸から新任の教員たちが来るまで留用され、4ヶ月ほど帰国が遅れた。

 今回、色々と話を聞きながら、祖母が戦時中の香港にもいたこと、『文芸台湾』に関わっていたこと、祖父がノモンハン事件に行っていたことなど、初めて知ることが次々と出てきて本当に驚いた。以前にも漠然と台湾時代の話を聞いたような気もするのだが、やはり聞き方というか、こちらの持っている背景知識によって引き出されてくる内容が格段に違ってくる。実は、私の母方の祖父は北京で華北交通(満鉄の子会社)に勤務していて、現地応召された。母方の祖母は短期間ではあったが奉天にいた。祖母の父親(私の曽祖父)が旧満州国で事業をやっており、伊達順之介ともつるんでいたらしいのでおそらく大陸浪人タイプ、だいぶきな臭い感じもするのだが、このことは以前に書いたことがある(→こちらを参照)。いずれにせよ、私の祖父母が4人とも日本の外にいたということが感慨深いし、なおさらもっときちんと話を聞いておけばよかったという後悔も感じている。

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台湾にいた祖母の話(1)

 祖母はそろそろ米寿を迎える。しばらくご無沙汰していて気が咎めていたのだが、祖父母とも台湾にいたので(祖父はすでに亡くなっている)、その頃のお話を伺おうと久しぶりに訪問した。耳は遠いが頭はしっかりしており、当時の写真を見ながら話すと記憶も鮮明に浮かび上がってくるようだった。

 台北の北郊、淡水で祖母は生まれた。台湾総督府勤務の父親(つまり私の曽祖父)が淡水に赴任していた時のことで、官舎で育つ。淡水街字(あざ)烽火、かつてスペイン人の築いた紅毛城(セント・ドミニカ城)跡を高みに望む、そのふもとのあたり。とても広い家だったという。父親の転勤に従って蘇澳、台北、基隆と移り住んだ。台北第一高等女学校補習科を卒業して教員免許を取得し、台北郊外の公学校に勤務。公学校というのは台湾人子弟向けの学校のこと。7歳~12歳までと年齢はまちまち、一クラスに70人もの生徒がいて束ねきれず、性に合わなかったようで一年でやめたという。台湾語の使用は禁止、日本語を押し付ける教育をしていたわけだが、子供たちは家庭では台湾語を使っているわけでついついそれが出てしまう。注意したところ、ある子から反論を受け、「あの子は頭がよかったなあ」と懐かしげに思い出していた。その子の名前もはっきり覚えていた。なお、台北一女は総督府(現在の総統府)のすぐ斜め向かいにあり、現在の台湾でもエリート校である。

 1941年12月8日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。12月25日までに日本軍は香港を占領し、香港占領地総督部が設置された。陸軍直轄で、総督は磯谷廉介。行政運営上の人員不足のためか台湾でも募集が行なわれ、祖母も応募して書記生として採用が決まり、1942年4月に香港へと渡る。上海香港銀行の本社ビルが接収されて、総督部も職員の宿舎もすべてこの中にあったという。14階に勤務、ここからレパルス・ベイを撮影した写真があった。また、和装した西洋人女性の写真もあり、これは誰かと尋ねると、英文タイピストとして雇われたポルトガル人女性とのこと。日本軍占領下、イギリス人は民間人も含めてみな収容所に入れられたが、マカオから来たポルトガル人は自由に出歩けたという。当時、ポルトガルのサラザール政権、およびスペインのフランコ政権は、同様のファッショ独裁国家としてヒトラーから枢軸同盟に加わるよう働きかけを受けていたが、のらりくらりとかわして中立政策をとっていた。

 日本軍の占領という形で治安は維持されているうちは戦跡めぐりの観光をする余裕もあったようだが、香港も連合軍の爆撃を受けるなど徐々に情勢は悪化してきた。総督部の屋上から突然砲声が響き渡り、自分の部屋のベランダに薬莢がバラバラと落ちてきて、初めて高射砲が設置されていたのを知ったらしい。危ないから婦女子は帰れ、ということで、1943年2月に台北に戻る。香港に来るときは快適だったが、帰りは潜水艦の魚雷攻撃で撃沈される危険があり、乗船の際にいざという時の脱出方法などの心構えを聞かされてゾッとしたという。

 台北に戻ってからは台湾総督官房情報課に勤務。職員の集合写真があって、撮影場所は総督府の裏玄関前。裏玄関といっても大きくて風格もあるのだが、以前、私も総統府見学をした時、まさにここから入った覚えがある。何とも感慨深い。情報課では月刊誌のようなものを出していたらしい(要調査)。原稿を取りに行ったり、編集部の上役がインタビューに行くのについていって、横でかたくなって聞いたりしていたという。台北市長や台北帝国大学教授などのところへも行ったそうだ。

 「当時の台湾の文化人でしたら、たとえば『文芸台湾』の西川満なんて有名ですけど、やはり会ったことあるんですか?」と話をふってみたら、「あら、西川さんだったら知ってるわよ。だって、私も『文芸台湾』の同人だったんだから」との返答。さらに張文環、黄得時、濱田隼雄といった名前が祖母の口からスラスラ出てきた。予想もしていなかったので、正直、面食らった。近年、この時代の日本語作家たちを“台湾アイデンティティー”の揺らぎという観点から読み直し、再評価しようという研究動向が現われつつある(たとえば、垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』五柳書院、1995年。フェイ・阮・クリーマン(林ゆう子訳)『大日本帝国のクレオール──植民地期台湾の日本語文学』慶應義塾大学出版会、2007年)という趣旨の話をしても祖母にはピンとこなくて当然なのだが、むしろ私が彼らの名前を知っていることが意外だったようだ。祖母はそそくさとスクラップ・ファイルを持ってきてくれた。そこには『文芸台湾』や同様に西川の出した雑誌『華麗島』に掲載された、祖母の小説や詩の切り抜きがあった。ある号の編集後記(おそらく西川の筆になるはずだ)も切り抜かれており、そこでは祖母の名前を指して、これから良い作家になるだろう、という趣旨のことが書いてある。その箇所を祖母は読み返しながら嬉しそうに相好を崩した。女性の同人は2人しかいなかったらしい。年齢的にいうと、祖母が同人になったのはまだ女学校を出たばかり、18、19歳くらいの頃だろうか。

 1944年に祖父とお見合いで結婚。初めて会う日、空襲警報が鳴って灯火管制が敷かれ、ロウソク1本を灯しただけの部屋で会ったという。「当時は男の人が少なかったからね、誰でもよかったのよ。顔がよく見えなかったから、かえって良かったのかもしれないわね」なんて笑って話すが、ふと真顔に返り、「あの時のロウソクの明かりはよく覚えているわ」としみじみとつぶやいた。聞いていて、何となくロマンチックな感じもした。

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2008年12月12日 (金)

佐原徹哉『ボスニア内戦──グローバリゼーションとカオスの民族化』

佐原徹哉『ボスニア内戦──グローバリゼーションとカオスの民族化』(有志舎、2008年)

 ボスニア人、セルビア人、クロアチア人。宗教を異にし、方言的な差異があるにしても基本的には文化的同質性が高い。しかし、第二次世界大戦でのナチス・ドイツ軍の進出をきっかけに民族的暴力の波が全土に広がり、クロアチア人のウスタシャ、セルビア人のチェトニクの応酬で血みどろの殺し合いが繰り広げられた。こうした民族対立に唯一反対したのがチトーのパルチザンであった。彼らにも必ずしも問題がなかったわけではないが、戦後のユーゴスラヴィアはパルチザン神話に基づき、国民的連帯感の損なわれるのを恐れてかつての記憶を封印することで成り立った。

 戦後ユーゴは、第一に非同盟主義をとって東西双方とほどほどの関係を保ちつつ、第二に経済的意思決定を下へと分権化・ローカル化して経済を活性化させていた。このため、共和国・自治州は実質的には独立していたが、チトーの権威と古参党員たちの横の連帯意識によって、とりわけ民族共存という理念がイデオロギーとして作用することで体制は維持されていた。ところが、1980年代後半以降、経済のグローバル化が波及し始めてユーゴ国内にも変革圧力が強まり、政治構造が流動化する。旧来的なチトー主義者はこうした情勢に対応できず、その間隙をつく形でスロヴェニアのクチャンやセルビアのミロシェヴィッチなどのような新世代エリートが台頭、彼らは政治権力掌握の手段として民族主義者と手を組んだ。各共和国の分離要求が高まり、とりわけ三民族がモザイク状に入り混じったボスニア-ヘルツェゴビナは無秩序な混乱状態に陥ってしまう。

 本書はボスニア内戦の進展をたどる中で、セルビア人、クロアチア人、ボスニア人、三者それぞれが行なった残虐行為が詳細に分析される。民族紛争というと、価値観の折り合いがつかないところに問題点を見出したくなる。また、“悪い”セルビア人が“かわいそうな”ボスニア人に対してジェノサイドを行なったという図式的な見方が一時マスメディアを中心にはびこっていたが、その一面的な誤謬はすでに指摘されている(たとえば、高木徹『戦争広告代理店』→こちらを参照のこと)。本書によると、残虐行為の動機にしても行動様式にしても、三民族とも実は全く同様のロジックをとっている、つまり、三民族とも同じ価値観を共有していたところに問題の本質があると指摘されている。

 旧ユーゴの体制が機能不全に陥ってしまった混乱状況の中、各地で様々な地域エゴが噴出し始めたのがそもそもの発端である。ただし地域ごとに事情は様々で、民族や宗教はあくまでも諸要因の一つにすぎず、本来的には民族紛争として一般化できる性質のものではなかった。しかし、人々の不満をたくみに吸い上げるべく一部の政治指導者が民族主義的な言説を利用し、民族紛争・宗教紛争という外被がかぶせられることになった。すなわち、第二次世界大戦における「ジェノサイドの記憶」を覚醒させ、情報操作によって「集団的記憶」=民族意識に高めていく。三民族とも、「自分たちこそがジェノサイドの被害者だ」という被害者意識を宣伝していた点では全く共通している。住民の不安はかきたてられ、「ジェノサイド」の恐怖から逃れようと結束、自衛のためという名目の下で「敵」とみなした相手への残虐行為も含めて政治動員される。いったん社会が無秩序状態に陥ってしまうとそれまで抑えられていた様々な不満や、時には私的な残虐な欲望までもが暴力として表出する。こうした暴力が自衛のためという大義名分の下で正当化されてしまい、政治指導者はそれを利用して自らの権力基盤強化を図る。デイトン合意では三民族の領域を分割することで棲み分けが期待されたが、しかしこうした枠組みを固定化してしまうことでむしろ民族主義者の権力を温存するメカニズムになってしまったと著者は指摘する。依然として「ジェノサイドの脅威」を口実とするアイデンティティ・ポリティクスは継続されているという。

 “民族”なるものの本質に排外主義や暴力性が潜んでいると単純化できるのではなく、複雑な要因の絡み合いの中から人間集団の差異化→相互反目の負のスパイラル→それが“民族紛争”“宗教紛争”という衣をまとう、こうしたプロセスが明瞭に描き出されている。“民族”概念の流動性、時には恣意的な操作対象となりかねない危険性はよく指摘されるところだが、その具体的なケース分析として説得力のある研究だと思う。

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2008年12月11日 (木)

金野純『中国社会と大衆動員──毛沢東時代の政治権力と民衆』

金野純『中国社会と大衆動員──毛沢東時代の政治権力と民衆』(御茶の水書房、2008年)

 文化大革命の捉え方にも色々とあるようだが、本書は、政治構造という外部条件だけでなく、一般の人々が歴史的過程の中で内面化した価値観、身体化された行為様式などの内在要因も視野に入れながらトータルで考えなければならないという問題意識に従って分析を進める。大衆動員に向けては、①組織インフラ、②個人を統合していく強力なシンボル(=毛沢東)、③社会変革を正当化するイデオロギー、といった条件が必要となるが、これらは文革に先立って、建国前後の反革命分子摘発から三反五反運動、反右派闘争、大躍進運動、社会主義教育運動と続く中で醸成されていたという。

 ここで注意すべきなのは、大衆動員には強制→黙従という抑圧的側面だけでなく、人々からの自発性も無視し得ないこと。その点で、社会主義イデオロギーの道義的生活規範化という論点に興味を持った。社会主義の難解な議論なんて一般庶民には分からない。むしろ、集団と個人、質素と贅沢、勤勉と怠惰、謙虚と自惚れ、こうした二項対立によって前者を肯定、後者を否定するロジックとして受け容れられた。批判集会での身内の動員、社会全体の軍事化(国民皆兵)、とりわけ階級闘争の重視→中道は許されない(小康思想の批判)→政治から距離を置くこと自体が許されない。自分の身を守るため、「革命」の大義の下、他人を暴力的に批判するモラリティーが定着した。こうして、一般の日常生活全体が政治舞台化された。

 党中央における路線対立→毛沢東が権力保持するための政治粛清が文革のきっかけではあっても、いったんインプットが入ってしまうと増幅的に作動する土壌が出来上がっていた。そもそも「反革命」「右派」といったレッテル自体が曖昧かつ恣意的なもので、その時々の状況に応じて政治的立場は流動的となる。批判・被批判の関係がクルクル逆転、身を守るため、自らの“革命性”を誇示するアピール競争が激化し、社会全体を巻き込んだ政治運動はますます急進化、党中央でもコントロールが難しい多重動員状態を呈することになる。ただし、国家が社会を完全に掌握したわけでも、私的領域が消滅したわけでもない。こうした政治運動は波状的で、それは将来の予想のつかない不安定さを意味したが、他方で社会に周期的な緩みももたらし、一つのガス抜きになっていたとも指摘される。

 本書で分析された事例は都市社会が中心で、農村も含めた検討はこれからの課題とのこと。大衆動員というキーワードを軸として政治と一般の人々の生活レベルとの相互作用を分析した政治社会学的研究として、建国期から文革期まで一貫したストーリーが組み立てられており、興味深く読んだ。

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小林秀雄「様々なる意匠」

 こないだ、川上未映子を読んでたら小林秀雄の名前が出てきて、そういえば池田のあっこちゃんも小林秀雄びいきだったなあと思い出して、全く別の関心でカール・マンハイム『保守主義的思考』を読んでたら、何やら頭ん中で化学反応おこして、小林秀雄「様々なる意匠」を不意に読みたくなった。それぞれのイデオロギーっていうか、ある思想枠組みの内在的連関や志向性を描写してみて、それを社会的事象との関わりの中で位置付けていく。そういう方法論としてマンハイムの知識社会学を理解したとして、小林秀雄の、マルクス主義やら芸術至上主義やら象徴主義やら何やらって当時の文壇を騒がせてた色んな“主義”を俎上に載せて、一つ一つの裏側意識を解剖していくやり方と何となく似てるなあって思った次第。何でこんな連想が働いたのかを強いて説明するとこういう次第ってだけで、別にマンハイムと小林の比較論をやろうとかアホなことは考えてません、あしからず。なお、以下の引用は小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』(新潮文庫、1962年)から。

 言葉は第一にコミュニケーションの道具。しかし、多少なりとも頭を使ったことのある人なら、価値中立的な言葉なんてあり得ないこと、言葉そのものが自律的な運動性を持っていて、うかうかしていると我々の思考そのものが言葉によって引きずりまわされてしまっていることに気付いていることでしょう。人間は「その各自の内面論理を捨てて、言葉本来のすばらしい社会的実践性の海に投身して了った。人々はこの報酬として生き生きした社会関係を獲得したが、又、罰として、言葉はさまざまなる意匠として、彼等の法則をもって、彼等の魔術をもって人々を支配するに至ったのである。そこで言葉の魔術を行わんとする詩人は、先ず言葉の魔術の構造を自覚する事から始めるのである。」(103ページ)

 批評家は、この作家は~主義、あの人は~主義、って感じに、主義というフィルターを通して、意匠の組み合わせによって評価したがる。人は形を通してしか何かを表現し得ない。だから、それを一つのパターンに類型化して把握することもできる。でも、仮に特定の意匠を通して表現されたものであっても、それを表現しようとした人にとっては、その人だけにしか語れない何かを語ろうという葛藤がある。

「人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。この事実を還元すれば、人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作る様に、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された事実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といい又異ったものを指すのではないのである。この人間存在の厳然たる真実は、あらゆる最上芸術家は身を以って制作するという単純な強力な一理由によって、彼の作品に移入され、彼の作品の性格を拵えている。」(96ページ)

 意匠は一般化できる。パターン化して把握できる。商品として流通することもできる。しかし、一人の作者にとっては絶対に一般化され得ない何か。それはのっぴきならない、宿命的なものだ。そしてこれは、単に芸術家という特殊な人種のことというのではなく、誰しも一人ひとりが自分の抱える何かと向き合うとき、すべてそうだとしか言いようがない。

 先日、川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎、2006年)を読んで、随分と舞い上がった書き込みをしてしまったけど(→こちら)、読み返してちょっと気恥ずかしく感じつつも、それでもやっぱり「私はゴッホにゆうたりたい」ってあの詩がすごく好きなんですね。ゴッホという人がどんなにつらくても宿命的に絵を描かざるを得ない何か、そこに呼びかけていくやわらかい語り口にしみじみと感じ入ります。未映子嬢はこのあたりがよく分かってるんですね。この詩一つあるだけで、私は川上未映子びいきなのです。

 ゴッホについてはもう一つ、すごく好きな文章があります。岡本太郎です。『美の呪力』(新潮文庫、2004年)に収録された「夜──透明な渾沌」。未映子嬢にしても、太郎にしても、ゴッホの絵から感じ取るもの以上に、ゴッホという一人の人間が自分自身の宿命と向き合って、どうしようもなく絶望的なまでに生きようとした哀しさに誠実なものを見出している。そこに共感できるのです。

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2008年12月10日 (水)

カール・マンハイム『保守主義的思考』

カール・マンハイム(森博訳)『保守主義的思考』(ちくま学芸文庫、1997年)

・伝統主義的生活態度→進歩主義という契機→保守主義の成立(「この原初的保守主義的体験は、それが存在している生活空間のうちにすでに異種の生活態度と思考方法とが出現し、それに対するイデオロギー的防御において自己をはっきりとうち出さなければならないというときに、反省的となり、その特性を意識するようになる」[87-88ページ])

・進歩主義は可能的なものを求め、保守主義は具体的なものに固執する。歴史体験のあり方も含めた世界観が、各社会層の根本志向として凝集核→階級的に成層化した社会でのみ、伝統主義は保守主義に転化し得る(「具体的なものと抽象的なものとのこの対立は、そもそも体験の、環境の対立であって、思考の対立はただ第二次的なものであり、しかもこの論理的対立の近代的形態のなかには、ひとつの政治的根本体験が付着しているということを証示することによって、二つの体験典型がいかに鋭く社会的に機能化されているかという重要な点が明らかになる。近代世界の形成には、現存の組織を解体しようと努めるもろもろの社会層が存在することが必要である。彼らの思考は必然的に抽象的であり、可能的なものによって生きる。これに反して、保持と停滞化とに努める者の思考と体験とは具体的であり、既存の生活組織を踏み越えない」[50-51ページ]。「歴史体験の二つの仕方が次第に分極化し、社会的に異なった(潮流の異なった場所に立つ)層によって彼らの体験志向のなかに取り上げられたという独特の現象が問題なのである」[55-56ページ])

・進歩主義の平等主義に保守主義は反発、個人の自由と公のものとがぶつかる可能性→質的な自由、つまり立場的に異なる個人それぞれの内面的なものとして自由を捉え、外的関係としては秩序原理へ服すべきと考える→有機的共同体(民族精神)の中の個人という考え方

・質的自由としての内面性→生き生きとしたものを求める→ロマン主義→生の哲学
・歴史的な古い思考や体験の厚みにロマン主義は意味を求める→保守主義は、ロマン主義と結びつくことで生気を取り戻し、近代的基礎付けの次元へと高められた。
・「一度書き上げられたらそれっきりの形式」としての概念、しかし現実の存在や思考過程は流動的という矛盾→ロマン主義的保守主義者は、啓蒙主義的な思考パターンを固定したものとして捉え、これへの批判として、自分たちの思考パターンを動的なものとして提示しようとする。ただし、これによって「啓蒙主義の理性信仰が破壊されるのではなく、変容されるにすぎない」。「理性の活動、思索的活動に対する信仰は放棄されてない。思考のひとつのタイプ、すなわち、ひとつの原理から演繹する、固定した概念要素を単純に組み合わせる啓蒙主義思考だけが拒否されるのであって、ただこの啓蒙主義的思考に対して、できるだけ可能的な思考の平面が拡大されるのである。またその場合に、ロマン主義は(実際は無意識的に)、すでに啓蒙主義的世界意欲が完成しようと企てた、世界の首尾一貫した徹底的合理化という、かの路線を、よりラディカルに、そして新しい手段をもって、継承し先へ進める。」「なにが合理的であり、なにが非合理的であるかは、そもそも相対的である。あるいは、より正しくは──われわれはまずそれを明らかにしなければならないのであるが──両概念は相関的である。啓蒙主義的に一般化し、そして固定した体系化的な思考の支配する段階では、合理的なものの限界がこの〔合理的〕思考の限界と同一視され、これからはみだす一切のものは非合理的なものとして、生として、また啓蒙主義の立場からすれば、克服できない残滓として解釈されたが、「動的思考」の思想によって合理的なものの限界は一段と押し広げられ──そして、それによって啓蒙主義自体がみずからの手段をもってしてはそもそも解決しえなかったであろう、啓蒙主義的課題をロマン主義的思考は解決した」とされる(186-187ページ)。

・「世界を認識適合的な洞察する立場としては、生の哲学は、絶対化された合理性に魅せられている思考潮流に対する対抗者として、すべての隠蔽され合理化されている外被をとりはらい、しかも意識はただ単に理論的見地の模範だけを指向するものではないということをたえずわれわれに教える点で、含蓄の多いものである。それは「理性に適合的なもの」、「客観化されたもの」をたえず相対化し、部分化する」(211ページ)。

・マルクス主義もヘーゲル弁証法哲学の流れをくむ点で動的である。ただし、「内面化された「生の哲学」にとっては、この動的基盤が純粋「持続」、「純粋体験」などのごとき前理論的なものであるのに反して、ヘーゲルが「一般的」「抽象的」思考を相対化する基盤は、ある精神的なもの(高次の合理性)であり、プロレタリア的思考にあっては階級闘争および経済に中心がおかれた社会過程である。この方向をとってヘーゲルの流れはここで客観性に転位したのであった。」→「ブルジョワ的・自然法的思考に対する両面からの反対の現実概念でさえも、この思考に対する反対において形成されたものであり、運動性と動学とをその正確とした生概念がここに出現しそしてこの〔反ブルジョワ合理主義という〕起源とはっきりしたつながりをもちつつ、二重の形態をとって、生の哲学とマルクス主義との両現実概念が展開したということ」を指摘(216-217ページ)

 私は知識社会学についてきちんと勉強したことはないのですが、
・所与の生活環境に対してそれまで無自覚だった伝統主義的生活態度が、進歩主義的理念の登場によって、それとの対照によって自覚化され、一つの思想的立場を取るようになったときに保守主義が成立した。
・両者の思想的相違は、各自の置かれた環境的体験と結びついており、社会階層分化と連動している。
・保守主義はロマン主義と結びつき、概念的論理重視の進歩主義に対して、動態的な生き生きとしたものを求めた。これは、理論偏重傾向を常に相対化できる点では有益な視点をもたらす。
・この動的思考意欲という点では、形態は違えどもマルクス主義と共通しており、両者ともに20世紀においてブルジョワ的自由主義を挟撃する形になった。
取りあえず、マンハイムの議論からは以上の点を押えておけばいいのでしょうか。特定の思想的立場にコミットするというのではなく、それぞれの思考枠組みの因って来たるところをトータルで理解して、俯瞰できる立場にいったん自分を置いてみることで、議論の不毛なこわばりを解きほぐしていこうというところに知識社会学の勘所がありそうです。

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2008年12月 7日 (日)

池内恵『イスラーム世界の論じ方』

池内恵『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2008年)

 第Ⅰ部はイスラーム政治思想をめぐる論文が中心、第Ⅱ部以降は時事評論的な文章を集めている。興味を持った論点をいくつか拾い上げてみると、

・イスラーム世界における政教関係をどう捉えるか? 啓示法=宗教、世俗法=国家とを2つの円で示し、従来の「イスラーム=政教一致」論はこの両者の重なる部分だけに局限した議論にすぎず、イスラーム世界の政治現象を総体として把握する視野とはなり得ていないと指摘。神→啓示法→ウンマという垂直的なイスラーム教徒自身としてあるべき心象風景を前提としつつ、現実におけるこの2つの円の重なり合った3つの領域をどのように画定し、どのように関係付けるのか、そうしたダイナミズムに宗教政治を捉える論点を合わせる。
・主流派の政治思想:政教の重なっている部分に着目→宗教的規範を拡大解釈して、理想と現実とのズレを最小限に縮めるよう読み替えながら現状肯定→各国政府の統治を正統化
・対して、現状批判的な政治思想:イスラーム原理主義の3形態
①2つの円を内包する全体社会から離脱して共同生活→自分たちだけの孤立的なウンマを目指す
②宗教の領域から政治の領域へと攻撃→少数の政治支配者が悪いとして、例えばサーダート暗殺
③宗教の領域以外のすべて(非イスラーム世界の含めて)を消滅させて国家=宗教=社会の状態を目指す→背教者とみなされた人々の暗殺、外国人観光客への襲撃、さらには九・一一事件
・以上は、理想的秩序についての宗教的規範を前提として、理念→現実の乖離というベクトルで考える方向性。対して、社会的・歴史的存在としての現実を前提として宗教的規範を相対化できた思想家としてイブン・ハルドゥーンを高く評価(以上、「イスラーム的宗教政治の構造」)

・デンマークのムハンマド風刺画問題をどう考えるか? 著者はイスラーム世界に触れてきた人間としてムハンマドの顔を描くことがいかにイスラーム教徒にとって深刻なことであるかよく認識しているし、他方で、世俗主義・自由主義の原則に基づく西欧社会にとって納得しがたいところも理解できるという。これは宗教対立ではなく、双方の価値原理のズレの表面化。「他者に寛容であれ、イスラームを理解しよう」とよく言われる。こうした言説には、近代的な自由主義の理念と相通ずるものが彼らにもあるはず、本来なら分かり合えるはず、問題をおこすのは一部の狂信者だけだ、という希望的観測が含意されている。しかしこうした楽観論は、たとえばテロなどで期待が裏切られるにつれて、ますます相手への偏見を強めかねない。むしろ、根本的な価値規範が両立しがたいという現実を直視するところから始めるべき。直視→敵対関係不可避というのではなく、だからこそ衝突を避けるための方策を考え続けなければならない。いまのところ、結論はない。

 自衛隊のイラク派遣、日本人人質殺害事件と続いたとき、これを中東の問題として捉えるのではなく、自衛隊派遣是か非か、とか、自己責任云々、という日本国内における議論枠組みに収斂してしまった時期があった。アメリカ批判、日本政府批判が初めにありきで、「イスラーム=犠牲者」と位置づけ、彼らになりかわって体制批判の議論を行なう日本の進歩的知識人。そうしたあり方を問題視するコメントを著者が示していたのをみて感心した覚えがある(この時の論考も本書に収録されている)。

 左にせよ、右にせよ、何でも内向きに矮小化してしまうような議論は本当にウンザリ。右は右で、中国批判初めにありきで、フリー・チベット、フリー・ウイグルとやっている輩がいるし。議論の枠組みそのものが対米依存、対中依存になってしまって、現地の事情が頭越しにされている。地に足のついた議論をするためにこそ、現地の事情を熟知した専門家の意見に耳を傾ける必要があるだろう。

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2008年12月 6日 (土)

吉田徹『ミッテラン社会党の転換──社会主義から欧州統合へ』

吉田徹『ミッテラン社会党の転換──社会主義から欧州統合へ』(法政大学出版局、2008年)

 リーダーシップ、というと、“カリスマ”的・属人的な性質に還元して権力関係を一方向的に捉えてしまう向きもある。だが、本書で言うリーダーシップとは、リーダーとフォロワーとの相互作用の中で一定のヘゲモニーが確保されていく双方向的な関係概念として用いられている。フランス社会党の政策転換においてミッテランの果たした役割を明らかにすることが本書の目的だが、こうしたリーダーシップ概念に基づくため、彼自身のパーソナルな資質は捨象され、党内政治力学の機能的な分析に焦点が合わされている。

 第五共和制におけるドゴール派優位の下、様々な思想的背景を持った勢力の寄り合い所帯として出発した野党・社会党。ミッテランは、「社会主義プロジェ」という共有原理に基づきながら政権交代という目標に向けて各派閥の均衡点に自らの立ち位置をおくことで求心力を発揮した(「取引的リーダーシップ」)。しかし、政権獲得の後、経済情勢の悪化に直面する。政権幹部は緊縮策をとるのに対して、一国社会主義的な政策志向を持つ党内の“古代人”は反発。すでに大統領という制度的な権力の座にあったミッテランはEMS(欧州通貨制度)離脱という新しい政策価値を提示して、双方の対立関係を別の次元に向けて解消しようとするが(「変革的リーダーシップ」)、現実的な政策知識を持つドロールやモーロワなどのフォロワーはついてこず、失敗。経済的要因を重視するアプローチからは、この時のEMS残留という決断は経済情勢の悪化に押されてのこととされるが、対して著者は、それでは1981~83年までグズグズしていたことの説明がつかない、むしろ従来型の「取引的リーダーシップ」の非決断によって遅れていたのだと指摘する。

 いずれにせよ、ミッテランは「取引的」「変革的」、二つのリーダーシップで失敗した。彼はこれ以降、特定のフォロワーをあてにはせず、状況に応じて政治的リソースを流動的に組み替えながらさまよう「選択操作的リーダーシップ」に切り替えたのだという。その際の理念的な道具として浮上したのが欧州統合というテーマである。ミッテランは欧州統合の立役者として評価される。しかし、それは政治的求心力確保のための手段なのであって、彼自身が当初から欧州統合という理念を持っていたわけではない。その意味ではあくまでも結果論に過ぎないと著者は指摘する。

 リーダーシップという一つの関係性概念を軸にすえた政治分析モデルを駆使した研究としてとてもおもしろい。日本の野党(旧社会党や現在の民主党)についても同様の分析視角を通したらどんな議論ができるのだろうか? フランスと日本とでは政治風土が違うと言ってしまえばそれまでだけど、むしろその政治風土的相違が浮き彫りになればいいわけだし、比較政治論としてちょっと興味ある。

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2008年12月 5日 (金)

池谷薫『蟻の兵隊──日本兵2600人山西省残留の真相』『人間を撮る──ドキュメンタリーがうまれる瞬間』

 池谷薫『蟻の兵隊──日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮社、2007年)は、軍人恩給の支給を求めて国を提訴する元日本兵たちから説き起こされる。日本の敗戦後も現地にそのまま部隊が残留したケースがいくつかあったことは知られているが、山西省残留部隊もその一つ。将官たちの間で戦後日本復興のための戦力温存、資源確保を目的として部隊残留を画策する動きがあり、他方、中国側の軍閥・閻錫山には八路軍と戦うため日本の精鋭部隊を手元に置いておきたいという思惑があった。閻は日本の陸軍士官学校出身であり、反共主義という点でも利害は一致。だが、全日本軍には帰国命令が出ているし、何よりも戦い疲れた兵士たちは一刻も早く故郷へ帰りたい。それにも拘わらず、上意下達の組織文化を利用して、有無を言わさず“自発的に残留”させた。

 共産党との内戦に駆り出された彼らのうち500名以上が戦死、その他は捕虜となって帰国できたのは昭和30年代になってから。すでに高度経済成長が始まっている時期だ。日本にようやく帰国してから驚く。“自発的”に除隊して“勝手に”残留した→民間人である→従って、元軍人としての恩典はない。シベリア抑留者は帰任するまで軍人としての身分が認められていたのに。戦争が終わったのに、好きこのんで戦い続けたわけではない。国家の論理に人生を振り回された彼らの憤懣はどこにぶつけたらいいのか?

 なお、この部隊の司令官は閻錫山の取り計らいで戦犯指名を逃れて帰国、きちんと特別恩給ももらっている。閻自身も台湾に逃げた後、国民党政権の行政院長も務めた。

 池谷薫『人間を撮る──ドキュメンタリーがうまれる瞬間』(平凡社、2008年)は、「蟻の兵隊」も含め、著者自身がドキュメンタリーを製作した背景を語る。一人っ子政策の矛盾や国境地帯の担ぎ屋たちのバイタリティーなどのテーマも目を引くが、興味を持ったのは、第一に「蟻の兵隊」の奥村和一が、かつて自らの手で中国人を殺害した現場を訪れたときのこと。加害の体験を思い返すのはそれ自体苦しいことだろうが、“日本兵”に戻ってしまうシーンが印象的だった(適切なたとえかどうか分からないが、スティーヴン・キング『ゴールデンボーイ』を思い浮かべた。好奇心旺盛な少年が、いやがる元ナチの老人に「人を殺すってどんな感じ?」と問い詰めているうちに、それまで怯えていた老人が昔の記憶を思い出すにつれて徐々にナチ時代の身のこなしを取り戻し、支配関係が逆転してしまうというサイコホラー)。それから、「延安の娘」で、捨てられた農村の娘が、北京に暮らす親に会ったときのぎこちなさも忘れがたい。

 語りづらそうなシーン、一触即発になりそうなシーン。常識的にはそこでカメラをとめるだろうところでも、むしろそこにこそドキュメンタリーを撮る緊張感を見出している。ひょっとしたら、残酷なことなのかもしれない。『人間を撮る』というタイトルを見たとき、なんか芸がないなあ、と思った。しかし、単にこんなひどいことがあったという報告に終わらせるのではなく、被写体となったその人自身の抱えた思いの機微を深く汲み取ろうとしている点で、まさに人間を撮ろうとしている。「蟻の兵隊」「延安の娘」とも評判は知っていたのだが未見。今度、探して観てみよう。

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2008年12月 4日 (木)

番線!

…と聞いてピンとくる方、ギョーカイの方ですね。今の職場に入ったばかりのとき、「書店さんから注文があったらバンセンをメモしといてね」と言われ、そのバンセンなるものの正体も知らず、取りあえず言われた通りにしてました。久世番子『本棚からぼた餅』(新書館、2008年、非売品)でバンセンという呼び名の由来を初めて知った次第。

 著者→出版社→取次→書店・図書館、という本の動くサイクルを一通り知る上でとっかりとなる本としては次の2点がおすすめ。まず、佐野眞一『誰が本を殺すのか』(上下、新潮文庫、2004年)。出版・書店関係者で読んでない人はまずいないでしょう。もうひとつは、久世番子『暴れん坊本屋さん』(全3巻、新書館、2005~2006年)、『番線──本にまつわるエトセトラ』(新書館、2008年。ちなみに、『本棚からぼた餅』はこれを買った人だけ応募して入手できる。私は知人に借りて読みました)。“番線”なんてタイトル、この時点で読者を限定してます。内輪ネタ満載。マンガだからと言って侮れません。たとえば、取次のめんどくさいシステムとか面白おかしく説明してくれて勉強になります。本好きのみなさんも是非読んで、書店さんの苦労に感謝しましょう。

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楊威理『ある台湾知識人の悲劇──中国と日本のはざまで 葉盛吉伝』『豚と対話ができたころ──文革から天安門事件へ』

楊威理『ある台湾知識人の悲劇──中国と日本のはざまで 葉盛吉伝』(岩波書店・同時代ライブラリー、1993年)

 葉盛吉は台湾出身、旧制二高、東京帝国大学医学部を経て、1945年の日本敗戦を機に台湾に戻るが、国民党の白色テロによって逮捕、1950年、処刑された。旧制高校時代からの友人であった著者が、彼の遺した日記をもとに、ある台湾知識青年の揺れる思索のあとをたどる。

 皇民化政策によって葉も当初は日本人になりきりたいという思いがあったようだが、東京に留学し、中国人留学生との出会いから中国人意識に目覚める(台湾出身の留学生は高円寺に多く住んでいたらしい。そういえば、侯孝賢監督「珈琲時光」で、主人公のフリーライターが台湾出身の音楽家・江文也の名残りを訪ね歩くシーンで高円寺が出てきた記憶があるのだが、そういう背景があるのか)。ただし、葉の心理的機微は複雑だ。彼は日本人であることと、台湾人=中国人であることとを両立できないかと自問する。真に台湾人であるためには“大東亜戦争”に協力すべきだとまで記しているが、これを現在の価値観から非難しても意味がない。戦時下、日本人たれと周囲からも内面的にも強迫観念に駆られ、それでもなりきれない自身のアイデンティティをいかに定位するのか、そうした真摯な精神的せめぎ合いをこそ汲み取るべきだろう。

 1946年4月になって彼は台湾に戻る。ようやく中国人として生きていけるようになったと思うのも束の間、国民党による腐敗した社会状況に愕然とする。彼は共産党に接近するが、理論ではなく、現実の問題から左傾したのだと著者は指摘する。いわゆる親日的な気分にしても、共産党へのシンパシーにしても、いずれも当時の国民党の腐敗・苛酷な政治弾圧への反発→国民党ではないものを求める感情という点で実は同じ根を持っていたことがうかがえる。

楊威理『豚と対話ができたころ──文革から天安門事件へ』(岩波書店・同時代ライブラリー、1994年)

 葉盛吉の評伝を書いた著者・楊威理自身の自伝。彼もやはり台湾出身で、二高で葉と出会って以来の親友だが、日本の敗戦後、楊は大陸へ渡り、謝雪紅たちの台湾民主自治同盟に参加する。彼らは、台湾は大陸から切り離されていた時期が長く、かつ社会的・経済的に大陸よりも先進的であるという特殊性を踏まえ(現在のアナロジーで言うと香港のような位置付けだ)、共産党の指導を前提としつつも、その枠内での台湾の高度な自治を求めていた。

 しかし、大陸に渡った台湾人にもまた苦難の道が待っていた。反右派闘争、そして文化大革命と続く中、楊の場合には、①日本への留学経験あり→日本のスパイ、②台湾出身→国民党のスパイ、③台湾民主自治同盟に参加→祖国分裂主義者(謝雪紅はすでに失脚)、④図書館長→走資派、と難癖をつけようと思えばいくらでも糾弾される材料はあった。そうした中、楊はそれなりに賢く立ち回って、一時は“革命幹部”ともなったようだが、人間関係としての上下も、政治的立場としての右左も頻々と逆転する文革の混乱の中、彼も労働改造に送られる。文革が終わって名誉回復はされたものの、今度は天安門事件。旧制高校時代の親友たちのネットワークで楊は中国を脱出して日本に落ち着く。本書には、文革中に槍玉に挙げられた他の台湾出身者のこともちらほら出てくる。台湾に残っても、大陸に行っても、いずれにしても政治の闇から逃れられなかった難しさ。

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2008年12月 3日 (水)

「帝国オーケストラ」

「帝国オーケストラ ディレクターズカット版」

 事実上、ナチスの宣伝部隊と海外からは受け止められるようになってしまった栄光のベルリン・フィル。当時を知る高齢の元楽団員や遺族へのインタビューに記録映像をまじえて構成されたドキュメンタリーである。音楽は政治に対して純粋に中立を保てるのか、音楽家自身の主観としては良心的たろうとしても、その無邪気な楽観こそが政治利用されるスキになりかねない危うさ、そうした問題を問いかけてくる。

 ベルリン・フィルはフルトヴェングラーの下で歴史上一番の黄金期を迎えていた。しかし、独立採算の楽団運営へのプライドとは裏腹に、国内経済の低迷状況の中、経営難に陥っていた。宣伝相ゲッベルスは財政支援を決定、“第三帝国”に買収されることになる。

 楽団内でブイブイいわすナチ党員に他の楽団員は眉をひそめていたが、かといって、ユダヤ人の同僚4人が追放されるにあたり彼らは何も言えなかった。いまの地位を失い、音楽が続けられなくなることが恐かったからだ。むしろ、早めに国外脱出できた点ではまだ良かったのかもしれない。両親のいずれかにユダヤの系統があって立場的に曖昧だがフルトヴェングラーの尽力で何とか楽団に残れた人がいるのだが、いつ強制収容所に送られるかと毎日怯えながら暮らし、この恐怖感は人格形成にも深刻な影響を与えて一生ついてまわったという。なお、このときに追放されたうちの一人、シモン・ゴールドベルクは日本で天寿を全うしている。

 フルトヴェングラーはユダヤ人演奏家を守ろうとナチスに抵抗したし、ヒンデミット事件ではナチスから非難もされている。それなのに、なぜ国外に亡命しなかったのか? 中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書、2007年)は、この二人の確執を描くにあたりナチスの時代から説き起こすが、ヒトラーお気に入りというフルトヴェングラーの立場がますます泥沼にはまってしまう様子が興味深い。彼はナチスとは距離を取りながらドイツに残って音楽を続けるつもりだった。帝国音楽局副総裁(総裁はリヒャルト・シュトラウス)は辞任したものの、ドイツ国内にいるかぎり政治的に狡猾な彼らの手から逃げ出すことなどできなかった。なぜ残ったのか。彼はカラヤンの若き才能に嫉妬しており、自分がいなくなったらカラヤンがベルリン・フィルの後釜に居座ってしまうと恐れたのではないかと中川氏は推測している。

 フルトヴェングラーはともかく、楽団員たちに他にどんな選択肢があり得たのか。彼らを責めても意味がない。自分たちの置かれた立場の難しさ、それを振り返りながら捉え返していく語り口に興味を持った。

【データ】
原題:Reichsorchester
監督:エンリケ・サンチェス=ランチ
2008年/ドイツ/97分
(2008年12月1日レイトショー、渋谷・ユーロスペースにて)

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2008年12月 2日 (火)

「トウキョウソナタ」

「トウキョウソナタ」

 会社をリストラされた父はそのことを家族に言えないままでいる。次男がピアノを習いたいと言うが、金銭的なことを意識してだろう、父は理由も言わずに意固地にダメだとはねつける。自分の不甲斐ない立場を強く自覚しているからこそ、父親の権威という虚構にますますすがりついてしまう悪循環。

 能力主義によるリストラと失業者の群れ、先生の権威失墜と学級崩壊、米軍に志願した長男の語る平和国家日本の対米依存という矛盾、そしてこの映画の主題となるバラバラな家族…。途中まで観ていて、おいおい、こんないかにもって感じの陳腐なモチーフの羅列がこのまま続くのかよ、あまりに空々しくて居たたまれなくなりそうだ、と不安になってしまったのだが、強盗の登場のあたりから映画のテンポは急展開する。

 強盗に拉致されたのに、自ら率先して車を爆走させる母。清掃夫姿を偶然妻に見られて、プライドの傷つきのあまりわけも分からず走り出す父。父への反発から遠くへ行こうと無賃乗車して留置所に入れられた次男。今の自分ではないあるべき何か、ここではない未知なるどこか。家族という虚構、会社に枠付けられた自分という虚構、こうした意識のことさらな自覚化によって抑えこんでいたものをすべていったんぶちまけてしまう。ところが、突っ走ってふっきれたとき、ふと思う。自分は一体どこへ行こうとしているのか? かたくなにこれは虚構だ、本来の自分はもっと別な所にある、と思い込んでいた意識が崩れる。そのとき、今ここにいる自分、そして、その自分のいる家族をあるがままに受け入れていく。翌朝、疲れきった表情でみんな家に帰ってくる。ボソボソと朝食に箸を動かしながら、次男は「お父さん、変な格好」と屈託なく言う。父親も「そうだな」と軽く受け流す。同様に失業中だった彼の学生時代の友人が、見栄っ張りな性格のため夫婦心中をしてしまったのとは対照的に。

 私は「カリスマ」(1999年)を観て衝撃を受けて以来、大の黒沢清ファン。森を滅ぼしかねないカリスマという巨木、これを枯れないよう育てるのか、それとも森を守るために切り倒すのか。一つのために全体を犠牲にするのか、全体のために一つを犠牲にするのか。そういう無理やりな二者択一の設定に、人間たちは振り回されてしまう。どこかふっきれた主人公は「両方生きればいい、あるがままだ」と言う。荒涼とした映像の冷たさも相俟って、一種異様な世界観の強烈な印象がいまだに鮮明だ。

 黒沢清の映画ははっきりとした結論などつけず、観客に投げ渡すようにプツリと終わってしまうことが多かった。今回の「トウキョウソナタ」は希望の見える結末にしたかったとのことで、珍しく大団円へと収斂していく。「カリスマ」は、二者択一的な問いの虚構性をひっぺがしたとき、あるがまま→善悪ともつかぬデモーニッシュな凄みすら感じさせる→カリスマを予期させた。この凄みが無機的な映像で描かれているところに私は何とも言えぬ魅力を感じた。対して「トウキョウソナタ」では、“虚構の家族という意識”そのものの虚構性(ええい、我ながら回りくどい言い方じゃ)を剥ぎ取ったとき、落ち着くところに落ち着く、そういう意味でのあるがままへと落着する。おとなしくなったというか、成熟したというのか。黒沢清もそういう年齢なのか。

【データ】
監督:黒沢清
脚本:Max Mannix、田中幸子、黒沢清
出演:香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、役所広司、津田寛治、井川遥、他
2008年/119分

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2008年12月 1日 (月)

国立西洋美術館「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」

国立西洋美術館「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」

 ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864~1916)はデンマークの画家。日本で紹介されるのは今回が初めてだそうで、私も今まで知らなかった。通勤電車内の広告ポスターで「背を向けた若い女性のいる室内」を見かけた。薄暗い青というかグレーのような色彩は一見地味なんだけど、不思議と透明感のある静けさに何とも言えず引付けられて、国立西洋美術館まで足を運んだ。

 北欧のフェルメールとよくたとえられるらしい。ハンマースホイ自身、フェルメールをだいぶ意識していたようだし、室内画の構図、窓から射し込む光の描き方など確かにフェルメールを彷彿とさせる。ただし、フェルメールの描く人物には豊かな表情が見られるのに対して、ハンマースホイの場合、人物はオブジェとして突き放すように配置されている。彼は自宅に引きこもって室内画ばかり描いていたそうだが、登場するのは妻のイーダ。どの絵を見ても、後ろ向きだったり、視線が違う方向に向いていたり。ベタベタした感傷を描き方として持ち込まず、適度な距離を取った緊張感。どこか、冷たい。だけど、その冷たさに、家具調度類など余計なものを取り除けた簡潔な構図、モノトーンの色彩感覚が相俟った静けさが、私にはこの上なく心地よい。

 国立西洋美術館での会期は12月7日(日)までなので、興味のある方はお急ぎを。

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