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2008年12月15日 (月)

台湾にいた祖母の話(2)

 祖父は台北第二中学校で教員をしていた。台北一中は日本人中心、二中は台湾人生徒が半分くらいいたという。日本の敗戦直後、台湾人生徒を差別して嫌われていた先生が夜道で殴られたりということもあったらしい。幸いなことに祖父は台湾人生徒たちからも慕われており、戦後になっても当時の生徒たちから台湾に招待されたり、日本にいる元の教え子が訪ねてきたりしたそうだ。祖父宛に送られてきた、台湾にいる教え子たちの同窓会の集合写真もきちんととってあった。

 祖父が徴兵されて戦車部隊に配属されていたと聞いたことはあったのだが、今回写真を見ていて、それがノモンハン事件のことだったと初めて知って驚いた。1939年に祖父は20歳で入営、旧満州へ。何枚かある集合写真の横には牡丹江省、吉林省と記されている。厚手の防寒具、足元には雪が降り積もっていた。ある写真の余白には、「操縦、通信、工術 しごかれどおしの毎日だった」と書き込まれている。戦友たち一人ひとりの写真も残されているのだが、ひょっとしたらいつ死ぬか分からないという緊張感の中で交換し合ったものだろうか。戦車の写真も多いが、私は軍事関係には疎いので何式かまではすぐには分からない。向こうからソ連兵が白い布を振りながら近づき、こちら側では日本兵が握手をしようと手を前に出している写真があった。おそらく停戦協定が結ばれた時だろう。ノモンハン事件では日本の戦車部隊は壊滅的な打撃を受けたはずだ。祖父もよく生き残ったものだと思う。機械化の進んだソ連軍を過小評価した作戦参謀・辻政信らの独断専行で日本軍は大敗を喫し、それでも彼らは勝ったと強弁してそのように日本国内でも喧伝された。なぜこの大敗北から日本は教訓を引き出そうとしなかったのかという点に昭和期日本の決定的な誤謬を見出し、そこに至るまでの近代日本のあり様を探ろうとしたのが司馬遼太郎の日本論の動機だったことは周知の通りだろう。

 祖父は除隊してから教員になり、2年ばかり日本内地で勤務してから台湾に渡った。結婚してからたった二ヶ月で祖父は応召されたが、配属先は台湾東岸の守備隊だった。当時、大本営は対米決戦に向けての作戦立案においてアメリカ軍はまず台湾に上陸すると想定しており、台湾における兵力増強を進めていた。実際には、台湾を素通りして沖縄に上陸したわけだが。祖父は学徒動員された中学生たちを指揮して塹壕掘りに明け暮れていたらしく、日本の敗戦後、時をおかずに祖母のもとへ帰ってきたという。

 1945年8月、敗戦の一週間前に台北は空襲を受け、祖母の家も半壊した。すぐ近くの家では防空壕に爆弾が直撃して、死体の散らばっているのを目の当たりにしたようだ。8月15日、いわゆる玉音放送が流れ、10月25日には降伏調印式が行なわれた。台湾における「終戦記念日」=「光復節」はこの日である(川島真「台湾の光復と中華民国」、佐藤卓己・孫安石編『東アジアの終戦記念日──敗北と勝利のあいだ』ちくま新書、2007年)。祖母は日本敗戦の話が広まるとすぐに「祝大戦勝」の横断幕が翻っているのを見かけたという。中国軍が台北市に入城するとのことで祖母も見に行ったらしいが、「どんな感じだったと思う?」と私に問いかけてくる。いや、分からない、と答えると、「それがねえ、みんな裸足なのよ。靴を履くと磨り減るでしょ、だから肩にぶら下げて。服装も何だかみすぼらしくてね。担架みたいのに所帯道具一式を乗せてかついで、軍隊というよりも、お引越しって感じだったわねえ。それが次の日の新聞には「威風堂々と入城す」なんてでっかく書いてあるのよ。新聞なんて話半分でみるものだってつくづく思うわ」。

 祖母は続けて「日本は中国に負けたんじゃなくて、アメリカに負けたのよねえ」とも語る。もちろん反論したくなる人もいるかもしれないが、ここで汲み取るべきなのは、こうした素朴な実感を当時台湾にいた日本人が抱いたことだろう。日本に進駐したアメリカ軍の豊かさを目の当たりにして、これなら負けたのも仕方ないと日本人は納得した。対して台湾にやって来たのは、制服すら整っていない装備の貧弱なみすぼらしい軍隊であった(もちろん、共産党の勢力伸張に備えて蒋介石は精鋭を大陸にとっておいたという事情もあるのだが)。それこそ電灯も水道も見るのは初めて、蛇口をひねって水が出るのに驚いて蛇口を買い求め、壁につけたが出ないぞ!と文句を言ったなんて笑い話もあるほどだ。中国軍を見て「みすぼらしい」と感じた実感は、その後、台湾社会に深刻な暗い影を落とすことになる。

 日本の植民地支配下ではあっても、台湾人は経済的・社会的に高度な生活システムに適応し、台湾人自身のテクノクラート層も十分に育っていた。日本人がいなくなって、ようやく彼ら自身で自分たちの社会を運営できると思ったら、大陸から来た国民党は「台湾人は日本の奴隷教育を受けてきた」と考えて、台湾人の上に大陸出身者が居座る。管理的ポジションについてふんぞりかえるのだが、近代的な技術や社会システムを理解していない者が多かった。知識のない者が指示を出したところで現場は混乱するばかりだが、それにも拘わらず彼らは偉そうに台湾人を見下す。当然、台湾人の不満は募る。彼らと自分たちは違うという意識が芽生え、当初は国民党軍を歓迎していた気運は冷めてしまった。この当時における大陸とは違った台湾の経済的・社会的先進性は、台湾独立派の主張というばかりでなく、大陸に渡って共産党との共闘を目指した台湾民主自治同盟が台湾の高度な自治を求める根拠にもなっていた(ただし、反右派闘争以降、この主張は退けられてしまうのだが)。

 日本人の引き揚げにあたり、手荷物以外の資産の持ち帰りは許されず、家財道具の大半は置いていかざるを得なかった。道端でゴザの上に並べて売ろうともしたらしいが、どうせ置いていくしかない、ほっとおけばタダになる、と足元を見られていて台湾人はあまり買ってくれなかったと祖母は言う。日本人に対する報復のようなことは一切なく、その点では平穏であった。夜、見回り中の台湾人警官が、戸が開いているからちゃんとカギをかけなさい、と親切に声をかけてくれたことなども思い出していた。

 日本人が日本へ引き揚げようにも船がなかった。祖母は1946年3月に基隆から日本へと渡る。アメリカの貨物船にすし詰めにされたらしい。祖父は勤務先の中学校に大陸から新任の教員たちが来るまで留用され、4ヶ月ほど帰国が遅れた。

 今回、色々と話を聞きながら、祖母が戦時中の香港にもいたこと、『文芸台湾』に関わっていたこと、祖父がノモンハン事件に行っていたことなど、初めて知ることが次々と出てきて本当に驚いた。以前にも漠然と台湾時代の話を聞いたような気もするのだが、やはり聞き方というか、こちらの持っている背景知識によって引き出されてくる内容が格段に違ってくる。実は、私の母方の祖父は北京で華北交通(満鉄の子会社)に勤務していて、現地応召された。母方の祖母は短期間ではあったが奉天にいた。祖母の父親(私の曽祖父)が旧満州国で事業をやっており、伊達順之介ともつるんでいたらしいのでおそらく大陸浪人タイプ、だいぶきな臭い感じもするのだが、このことは以前に書いたことがある(→こちらを参照)。いずれにせよ、私の祖父母が4人とも日本の外にいたということが感慨深いし、なおさらもっときちんと話を聞いておけばよかったという後悔も感じている。

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