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2008年12月15日 (月)

台湾にいた祖母の話(1)

 祖母はそろそろ米寿を迎える。しばらくご無沙汰していて気が咎めていたのだが、祖父母とも台湾にいたので(祖父はすでに亡くなっている)、その頃のお話を伺おうと久しぶりに訪問した。耳は遠いが頭はしっかりしており、当時の写真を見ながら話すと記憶も鮮明に浮かび上がってくるようだった。

 台北の北郊、淡水で祖母は生まれた。台湾総督府勤務の父親(つまり私の曽祖父)が淡水に赴任していた時のことで、官舎で育つ。淡水街字(あざ)烽火、かつてスペイン人の築いた紅毛城(セント・ドミニカ城)跡を高みに望む、そのふもとのあたり。とても広い家だったという。父親の転勤に従って蘇澳、台北、基隆と移り住んだ。台北第一高等女学校補習科を卒業して教員免許を取得し、台北郊外の公学校に勤務。公学校というのは台湾人子弟向けの学校のこと。7歳~12歳までと年齢はまちまち、一クラスに70人もの生徒がいて束ねきれず、性に合わなかったようで一年でやめたという。台湾語の使用は禁止、日本語を押し付ける教育をしていたわけだが、子供たちは家庭では台湾語を使っているわけでついついそれが出てしまう。注意したところ、ある子から反論を受け、「あの子は頭がよかったなあ」と懐かしげに思い出していた。その子の名前もはっきり覚えていた。なお、台北一女は総督府(現在の総統府)のすぐ斜め向かいにあり、現在の台湾でもエリート校である。

 1941年12月8日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。12月25日までに日本軍は香港を占領し、香港占領地総督部が設置された。陸軍直轄で、総督は磯谷廉介。行政運営上の人員不足のためか台湾でも募集が行なわれ、祖母も応募して書記生として採用が決まり、1942年4月に香港へと渡る。上海香港銀行の本社ビルが接収されて、総督部も職員の宿舎もすべてこの中にあったという。14階に勤務、ここからレパルス・ベイを撮影した写真があった。また、和装した西洋人女性の写真もあり、これは誰かと尋ねると、英文タイピストとして雇われたポルトガル人女性とのこと。日本軍占領下、イギリス人は民間人も含めてみな収容所に入れられたが、マカオから来たポルトガル人は自由に出歩けたという。当時、ポルトガルのサラザール政権、およびスペインのフランコ政権は、同様のファッショ独裁国家としてヒトラーから枢軸同盟に加わるよう働きかけを受けていたが、のらりくらりとかわして中立政策をとっていた。

 日本軍の占領という形で治安は維持されているうちは戦跡めぐりの観光をする余裕もあったようだが、香港も連合軍の爆撃を受けるなど徐々に情勢は悪化してきた。総督部の屋上から突然砲声が響き渡り、自分の部屋のベランダに薬莢がバラバラと落ちてきて、初めて高射砲が設置されていたのを知ったらしい。危ないから婦女子は帰れ、ということで、1943年2月に台北に戻る。香港に来るときは快適だったが、帰りは潜水艦の魚雷攻撃で撃沈される危険があり、乗船の際にいざという時の脱出方法などの心構えを聞かされてゾッとしたという。

 台北に戻ってからは台湾総督官房情報課に勤務。職員の集合写真があって、撮影場所は総督府の裏玄関前。裏玄関といっても大きくて風格もあるのだが、以前、私も総統府見学をした時、まさにここから入った覚えがある。何とも感慨深い。情報課では月刊誌のようなものを出していたらしい(要調査)。原稿を取りに行ったり、編集部の上役がインタビューに行くのについていって、横でかたくなって聞いたりしていたという。台北市長や台北帝国大学教授などのところへも行ったそうだ。

 「当時の台湾の文化人でしたら、たとえば『文芸台湾』の西川満なんて有名ですけど、やはり会ったことあるんですか?」と話をふってみたら、「あら、西川さんだったら知ってるわよ。だって、私も『文芸台湾』の同人だったんだから」との返答。さらに張文環、黄得時、濱田隼雄といった名前が祖母の口からスラスラ出てきた。予想もしていなかったので、正直、面食らった。近年、この時代の日本語作家たちを“台湾アイデンティティー”の揺らぎという観点から読み直し、再評価しようという研究動向が現われつつある(たとえば、垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』五柳書院、1995年。フェイ・阮・クリーマン(林ゆう子訳)『大日本帝国のクレオール──植民地期台湾の日本語文学』慶應義塾大学出版会、2007年)という趣旨の話をしても祖母にはピンとこなくて当然なのだが、むしろ私が彼らの名前を知っていることが意外だったようだ。祖母はそそくさとスクラップ・ファイルを持ってきてくれた。そこには『文芸台湾』や同様に西川の出した雑誌『華麗島』に掲載された、祖母の小説や詩の切り抜きがあった。ある号の編集後記(おそらく西川の筆になるはずだ)も切り抜かれており、そこでは祖母の名前を指して、これから良い作家になるだろう、という趣旨のことが書いてある。その箇所を祖母は読み返しながら嬉しそうに相好を崩した。女性の同人は2人しかいなかったらしい。年齢的にいうと、祖母が同人になったのはまだ女学校を出たばかり、18、19歳くらいの頃だろうか。

 1944年に祖父とお見合いで結婚。初めて会う日、空襲警報が鳴って灯火管制が敷かれ、ロウソク1本を灯しただけの部屋で会ったという。「当時は男の人が少なかったからね、誰でもよかったのよ。顔がよく見えなかったから、かえって良かったのかもしれないわね」なんて笑って話すが、ふと真顔に返り、「あの時のロウソクの明かりはよく覚えているわ」としみじみとつぶやいた。聞いていて、何となくロマンチックな感じもした。

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コメント

はじめまして。ブログの友に台湾愛書会の話題を振られ、ちょうど西川満の自伝などを読んだところだったので貴ブログに西川氏の話がでてきてびっくりです。自伝を読む限りずいぶんと度を越した愛書家だったようで… わたし的には西川氏が文学だけでなくほかの方面でもいろいろ画期的なことをやっていたことがわかり大収穫でした。

投稿: 書物奉行 | 2008年12月17日 (水) 00時24分

書物奉行さん、はじめまして。コメントをいただきましてありがとうござます。私自身、つい最近、西川の『ちょぷらん島漂流記』(中公文庫)なる本を古書店でみつけて読んだばかりだったので、まさか祖母が西川を直接知っていたとは驚いてしまいました。西川は自分で出版社を経営して、造本にも相当凝っていたらしいですね。西川の自伝は未読なので、今度探して読んでみます。

投稿: トゥルバドゥール | 2008年12月17日 (水) 09時37分

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