赤坂憲雄他『民俗学と歴史学──網野善彦、アラン・コルバンとの対話』『歴史と記憶──場所・身体・時間』
赤坂憲雄『民俗学と歴史学──網野善彦、アラン・コルバンとの対話』(藤原書店、2007年)
・支配者=悪玉、民衆=善玉というかつての左翼的な図式的な枠組みが、天皇制の問題も含め、かえっても問題の本質を捉えられなかったのではないかという赤坂の問いかけ。天皇制が生活に根ざしたものからあるということを認め、そこから批判的に捉えなおさなければならないと網野は応答。
・柳田國男の一国民俗学は、日本の庶民の姿を、実際の差異にもかかわらず均質なものとして描こうとした。これは現在、国民国家批判の文脈において頻繁に取り上げられているし、赤坂自身、「いくつもの日本」をキーワードに東北学という形で国境という枠組みには捉えられない地域の多様性、その積み重ねとして日本→東アジアという見方をしようとしている。他方で、柳田の一国民俗学は日本という枠組みから外には出ない→侵略の契機はなかった、とも赤坂は指摘。
赤坂憲雄・玉野井麻利子・三砂ちづる『歴史と記憶──場所・身体・時間』(藤原書店、2008年)
・「抜け落ちた記憶」をどのように捉えるか。一つには加害体験の引け目がある。そればかりでなく、たとえば旧満州からの「引き揚げもの」の記録について、自分の子供を捨てざるを得なかった、集団自決で子供を殺したのに自分だけ生き残ってしまった、あるいはレイプされた、そういった本当に深刻な体験をした人が自ら語ることができるのか?
・世間の風潮を敏感に感じ取って、自分の記憶を微妙に修正したり、他人に置き換えて語ったりということもあるだろう。様々なレベルで、自らの体験を語れないことがたくさんある。しかし、語りやすいこと、語られたことだけが記録されて“史実”に組み込まれていく難しさ。
・最近、沖縄での集団自決の軍の関与を教科書の記述から落とされたことについて沖縄の人々が強く反発したということがあった。沖縄の人々には、自分のおじい、おばあの記憶を否定されたことへの反発があった、という指摘に興味を持った。感情的というレベルのことではなく、身近な人間関係における語り口が皮膚感覚レベルで受け継がれ、世代を超えて共有される記憶。記憶の語りの持つ重層的な複雑さ、そして豊かさ。
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