« 溥儀とその周辺のこと | トップページ | 炭鉱がらみで色々と »

2008年11月 2日 (日)

国立ハンセン病資料館

 国立ハンセン病資料館へ行ってきた。西武新宿線・久米川駅からバスで20分くらいか、畑や分譲住宅が交互に現れるよくある東京郊外の風景の中、武蔵野の雑木林もそこかしこに見え隠れする。下車したものの、資料館がどこにあるのか分からなかったので、取りあえず目の前にある多磨全生園の敷地内に入り込んだ。

 正門を入ったところに“史跡”の位置を示す案内地図があったので、無断で申し訳ないが園内を散策させてもらう。正門とはまた別に、外に通ずる脇道があるのが目に入った。そこにあった説明板によると、患者は正門を使えず、消毒室のあるこちらから入らされたらしい。北條民雄『いのちの初夜』で、まさにここを通るときの戸惑いが描かれていたのを思い出す。近くには“監獄”跡というのもあった。園内のあちこちにあるスピーカーからは「チチチ…」と鳥の鳴き声を模した電子音が流れている。交差点ごとに、目の見えない人の手掛かりとなるよう設置されている。昔は鈴を鳴らしていたそうで、資料館内に展示してあった。

 企画展示は「ちぎられた心を抱いて──隔離の中で生きる子どもたち」。写真や展示品と共に、入所した子供たちが文集に寄せた文章や手紙、後になってからの回想などをパネルで示している。強制的に家族から切り離されてしまった寂しさ、消毒される自分に、そういう人間になってしまったんだとスティグマをおされる悲しみ、もう社会には戻れないという絶望、そういったことが幼い文章でつづられているだけにいっそう切なく感じられてくる。

 ハンセン病の感染力が極めて低いのは周知の通りである(はずだ)。個人的免疫力・栄養状態・衛生環境などの条件はあるが、幼少時に多量のらい菌を吸い込まない限り感染はしないし、仮に発症したとしても特効薬が開発されているので現在では完治する(日本での発症例は年間1桁台)。ただし、特効薬開発以前に病が進行したことによる身体上の障害、容貌にまつわる社会的偏見、長期入所していたことによる社会復帰の困難などの理由で現在も入所している方々がいる。

 明治以来、隔離がハンセン病対策の基本方針とされていた。当初は故郷を追い出されて放浪する人々の収容に重点が置かれていたが(資料館の前には四国遍路に出た親子の像があった)、1920年代後半から全国各地で“無癩県運動”がおこされ、1931年成立の癩予防法によって警察力も動員した患者の強制隔離が進められた。園内だけで通用する金券が資料館に展示されていたが、これも現金を持たせないことで脱走を防ぐという意味合いがあったようだ。所長には懲戒検束権、つまり言うことを聞かない患者を処罰する権限が与えられた。監禁室が各療養所に設けられ、とりわけ草津にあった栗生楽泉園の重監房は二十数名の死者を出したことで悪名高い(詳細は宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書、2006年)を参照のこと。資料館にも楽泉園の重監房が模型で復元されている)。当時におけるハンセン病の権威・光田健輔の方針で、所内で患者が結婚する際には断種が条件とされたが、反抗的な患者に対する懲罰として断種が行なわれたケースもあったという。療養所は世間から隔絶されているため、不法行為が行われやすかった。また、療養のためには本来、安静が必要なのだが、所内の人手不足から患者も作業に動員され、ますます病状を悪化させてしまった。

 “らい予防法”は1996年に廃止された。厚生省内部からこの法律の廃止に尽力してきた大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』(勁草書房、1996年)は、国のハンセン病政策について資料をふんだんに示しながら廃止に至るまでの経緯をまとめている。沖浦和光・徳永進編『ハンセン病──排除・差別・隔離の歴史』(岩波書店、2001年)は歴史や宗教から現代の問題まで多面的な論考を集めており、入門的に読みやすいのではないか。強制隔離は植民地でも徹底されたが、韓国南部の離島・小鹿島(ソロクト)にあった療養所については滝尾英二『朝鮮ハンセン病史──日本植民地下の小鹿島』(未来社、2001年)を参照のこと。台北近郊にも楽生院という療養所があった。本橋成一監督「ナミイと唄えば」で、ナミイおばあが台湾を再訪してここの患者さんたちと交流するシーンがあったのを思い出した。

 強制隔離の方針を示してきたいわゆる“らい予防法”に科学的根拠が乏しいことは早くから言われていた。大谷藤郎はその例として自ら私淑していた小笠原登の名前を挙げる。小笠原は京都帝国大学に勤務する医者だが、実家は浄土真宗のお寺で、祖父の代からハンセン病患者の治療に携わっており、その感染性の低いことは経験則から知っていた。そうしたことを戦争中に学会で発言したところ、大バッシングを受け、結局沈黙せざるを得なくなってしまったらしい(小笠原登については八木康敞『小笠原秀実・登──尾張本草学の系譜』リブロポート、1988年を参照)。

 強制隔離を推進した光田健輔は、断種手術を進めたことから分かるように当時流行の優生学思想の持ち主であり、癩者の存在は文明国の恥である、という彼の物言いが私は以前から気にかかっていた。外づらを気にして、あるべき理想像に向けて対内的な“民族浄化”を進めることが、結果として排除の論理につながってしまう。

 戦前・戦中期日本において優生学思想が制度化されるにあたっての犯人として彼を糾弾する議論は多い(たとえば、藤野豊『日本ファシズムと医療──ハンセン病をめぐる実証的研究』岩波書店、1993年)。他方、たとえば神谷美恵子は長島愛生園で会った光田の旺盛な仕事ぶりに尊敬を示しているし(「光田健輔の横顔」『神谷美恵子著作集2 人間をみつめて』みすず書房、1980年)、患者一人ひとりへの向き合い方は熱心だったので一部には光田を慕う患者もいたという。徳永進は光田の負の側面を踏まえつつ、時代的制約の中でもヒューマニスティックな熱意も共存していたことにある種の困難を感じ取っている(「隔離の中の医療」沖浦和光・徳永進編『ハンセン病──排除・差別・隔離の歴史』岩波書店、2001年)。武田徹『「隔離」という病い──近代日本の医療空間』(中公文庫、2005年)が指摘するように、彼個人の問題に帰してしまうのではなく、その両義性も含めてもっと大きな枠組みから捉え返す視点が必要となるのだろう。

 蛇足ながら、“文明国の恥”という表現がナイーブに語られてしまうところには、西洋という外の視線を気にする明治以来の妙なコンプレックスを感じてしまう。先日、いわゆる“からゆきさん”について触れたときも、外交当局が取り締まる姿勢に同様なものを感じた(→参照)。私は相互扶助の情緒的根拠としてナショナリズムを一概には否定してはいないのだが、こういう冷たいナショナリズムは嫌いだ。

|

« 溥儀とその周辺のこと | トップページ | 炭鉱がらみで色々と »

近現代史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/42990486

この記事へのトラックバック一覧です: 国立ハンセン病資料館:

« 溥儀とその周辺のこと | トップページ | 炭鉱がらみで色々と »